30. 龍と鳳凰、そして誓いの還る場所
岐阜城、大広間。
静寂が、部屋の空気を重く張り詰めさせていた。
上座には、漆黒の小袖を纏った信長様。そして、そのすぐ隣には――濃姫様が「天下の織田の面目」をかけて見事に仕立て上げてくださった、息を呑むほど華やかな尾張仕立ての金糸の着物に身を包んだ私の姿があった。幾重にも重ねられた美しい絹地、華やかに結い上げられた髪。自分でも見違えるほどの装いに、胸の動揺を隠しながら、私は固く膝の上で拳を握り締めていた。
その時――。
重厚な足音とともに、大広間の障子が一斉に開かれ、
越後の甲冑を纏った上杉の重臣たち――直江景綱さん、千坂景親さん、柿崎景家さん、甘粕景持さん、そして宇佐美定満さんらがやって来る。大軍を率いての侵攻ではない。信頼する最高幹部と数名の精鋭のみを連れ、同盟破棄や政治的リスクのすべてを背負って乗り込んできた、まさに決死の面々であった。
そして――その中央を、静かに、けれど圧倒的な覇気を纏って歩み出てくる一人の男。
黒の法衣を翻し、白頭巾から覗く透き通るような白肌と、凛とした双眸。上杉家総大将――上杉謙信様であった。
……謙信様……っ!
息が、止まるかと思った。
最後に会ったあの寒雷の日より、少し頬がこけ、その深く澄んだ瞳には、隠しきれない疲労と、それ以上に激しい熱が宿っていた。
謙信様の視線が、上座に座る私を捉えた――その瞬間。
「―――ッ!」
謙信様の綺麗な眉が、大きく跳ね上がった。
信長様の城で、信長様の隣に座り、これまで見たこともないほど美しく華やかに着飾っている私をじっと見つめている。私はその視線の強さに耐えきれず、逃げる様に膝に視線を落とした。そのせいか、謙信様の表情を一瞬だけ引き攣らせる。
「ほう……?」
静寂を破ったのは、信長様の余裕たっぷりの笑い声だった。
「越後の龍ともあろう者が、大軍も率いずによくぞ単身我が岐阜城へ入ってきたものだな。……葵を奪いにきたか? だが、これほど美しく咲き誇る天女を、そう易々と手放す余と思うか?」
信長様はわざと私の方へ肩を寄せるようにし、不敵にニヤリと笑ってみせた。後ろに控える柿崎さんや甘粕さんが「ぐ……っ」と拳を握り締め、直江さんと千坂さんが冷や汗を流す。
だが――謙信様は違った。
信長様の挑発など、最初から目に入っていないかのように、謙信様は信長様から視線を外し、まっすぐに、ただ愚直なまでにまっすぐに、私だけを見つめ続けていた。
そして――。
静かに畳の上に腰を下ろすと、背筋をすっと天地に貫くように伸ばし、凛とした正座の姿勢をとった。神仏の加護を受けし軍神としての矜持を保ったまま、けれど、その瞳に宿る熱は、一人の男としての誠そのものであった。
「……葵。」
静かな、けれど大広間全体に渡る、低く透き通った声にビクッと肩が跳ねる。
「……お主に、詫びねばならぬ。」
「………。」
心臓の音がうるさい。背中にブワリと嫌な汗が吹き出た気がした。カタカタと震え出した手を押さえる様にギュッと、強く膝の上で手を握る。…その手に大きな手が重なった。見上げた先にあったのは信長様の強い視線。
『臆するな。』
放たれる視線が、静かに私に語りかける。それに、小さく頷いて、息を吐き、ゆっくりと視線を上げた。
信長様が私に手を重ねたことに、重臣たちが息を呑む中、謙信様は一切言葉を濁さず、私の瞳から視線をそらさずに語り始めた。
「私は……愚かであった。……不意の出来事でお主に触れ、己の中に芽生えた恐ろしいほどの情念に怯えた。お主を愛おしいと思う『熱』から逃げるため……『不犯の誓い』や『過去』という盾の陰に隠れ、お主を傷つけ、遠ざけた。」
「……ッ。」
広間に集う全員の前で、己の弱さと、過去の傷、そして私への情念を包み隠さず口にする謙信様。
「『春日山に残れ』と冷たく突き放したのは……お主を護るためなどではない。己の心が乱れるのを恐れた、私の身勝手な逃避であった。……愚かにも、私はお主の、葵の悲しむ顔を見たくなくて、逃げ出したのだ。」
謙信様の細く綺麗な指先が、膝の上でかすかに震えていた。その姿にキュッと胸がきつく締まる。
「葵が消えたと知った時……世界が暗転した。……毘沙門天様のお叱りかとも思った。……だが、違ったのだ。葵を傷つけ、絶望させたのは、他ならぬこの私なのだと……遅まきながら気づいた。」
謙信様は深く息を吸い込むと、さらに前へとなだれ込むように姿勢を正した。
「葵。お主のいない越後など……お主の微笑まぬ世界など、私には何の価値もない。」
「……謙信様……ッ!」
「『不犯の誓い』も、神仏への誓約も……お主を失う絶望に比べれば、何の意味もなさない! 過去の思い出も、すべて過去のことだ。今の私に必要なのは……これから私が愛し、護り抜きたいのは……葵、お主一人なのだ。」
軍神の口から出た、真っ直ぐで、熱い求愛と心から謝罪に、後ろで見守る宇佐美さんが優しく目を細め、柿崎さんが「御実城様……!」と涙ぐみ、直江さんと千坂さんが深く深く頷いている。
謙信様を移していた視界がぼやけて、鼻の奥がツンッと熱くなる。瞼に溜まったものを感じながら、それでも謙信様から目を逸らすことはできなかった。その時、謙信様の透き通るような瞳から、一筋の美しい涙が頬を伝って零れ落ちた。
「……身勝手な頼みであることは重々承知している。一度はお主を切り捨てた私だ。許してくれとは言わぬ。……だが、頼む。……私のもとへ、越後へ帰ってきてはくれまいか……!」
不器用で、生真面目で、けれど誰よりも真っ直ぐな、謙信様の言葉。それに、私の胸の奥で、これまで溜め込んでいた悲しみや恐怖が、温かな涙となって一気に溢れ出した。
あぁ、やっぱり……この人なんだ……。
この人じゃなきゃ…ダメなんだ。
信長様の圧倒的な優しさも、尾張の華やかな暮らしも、この人の一言には敵わない。
私を遠ざけたのは、私を嫌ったからではなく、彼自身が私への愛に戸惑い、苦しんでいたからなのだと知った今、私の心は謙信様への想いで溢れていた。
そんな私を察したのか、そっと、信長様の手が離れる。それを合図に私はゆっくりと立ち上がると、金糸の打掛の裾を静かにさばき、上座から下りて謙信様の方へと歩み寄った。
「……葵殿!?」
直江さんたちが息を呑む音が聞こえる。後ろで、信長様が笑った様な気配がする。でも、そんなのどうでもいい。私は謙信様の目の前で膝をつき、泣き笑いのような表情で謙信様を見つめた。
「……謙信様。私、すごく悲しかったです。辛くて……息ができなくなるくらい……苦しかった…!」
「……ッ……すまぬ……ッ!」
「……伊勢姫様のことだって、尼僧様から聞かせていただいて……私なんて、過去の特別な人には勝てないんだって…。私は、あなたの高潔な精神を汚してしまったって……この想いは……消さなきゃいけないって……惨めで、虚しくて…消えたくなった。」
「……あのお方は過去の人だ。私の心には今、お主しかおらぬ……。」
謙信様が必死に言葉を重ねる。
「…消えたいなどと、言うな。葵が私を慕ってくれているのなら…どんなに嬉しいことか…!」
その切ない表情に、私の胸は愛しさで胸がいっぱいにる。
「葵が消えたら……私の心も消えてしまう…。もう、軍神でも毘沙門天の化身でもない……。ここにいるのは葵を愛する1人の情けない男だ。」
謙信様の手が迷う様に彷徨ってから、ゆっくりと私の手に重なった。大きな手がかすかに震えている。それに、どうしようもなく愛おしさが募った。
「…そんな男でも…そばに、いてくれまいか?私には…お主が…葵が必要なのだ。」
もう、それ以上押されることなんてできなかった。
私は手のひらを返して、重ねられた謙信様の手をギュッと握る。
「……はい。……ずっと、謙信様のおそばにいます。だから……もう……離さないで……ッ!」
震える声で告げれば、謙信様は息を呑み、震える手で私の手を固く、壊れ物を扱うように優しく包み込んだ。
「……誓う。二度とお主を離さぬ。……我が命の尽きるまで……っ!」
そして、グッと強い力で謙信様の胸に抱き寄せられた。
あぁ…、謙信様の匂いだ。
白檀の香と爽やかだけど深い…越後の風を感じる、私の大好きな匂い…。
…ここが、私の…帰る場所……。
謙信様と抱きしめあって、互いの熱を分け合っていたその時___。
「――ハハハハハ! いやはや、実に見事な茶番であったな!」
台無しにするような豪快な大笑いが、上座から響き渡った。見れば、信長様が満足そうに胸を張り、大股でこちらへ歩み寄ってくるところだった。
「信長様……。」
信長様は謙信様を見下ろすと、不敵にニヤリと笑った。
「堅物め。一人の女子のために成りふり構わず乗り込んできた度胸だけは褒めてやる。……葵は返してやるゆえ、せいぜいその命をかけて幸せにするがいい。」
「……織田弾正。感謝する。この恩、生涯忘れぬ。」
謙信様が深く一礼しようとした――まさに、その時である。信長様はフッと意地悪な笑みを浮かべると、私と謙信様の間へとすっと割り込んだ。
そして、私の手をするりと掬い上げると――。
――チュッ。
「―――っ!?」
甲高い唇の音が、静かな大広間に響き渡った。
信長様が、私の手の甲に、滑らかで西洋風な、極めて優雅な「キッス」を贈ったのだ!
「な……!?」
「………!?」
突然のことに言葉を失った私。そして、謙信様の表情が、一瞬で凍りついた。そして、みるみるうちに謙信様の綺麗な双眸がこれ以上ないほど見開かれ、激しい怒りと殺気が溢れ出す。
「……織田……弾正……! 貴様……葵に…何と不徳な真似を……ッ!」
思わず刀の柄に手をかけそうになる謙信様。
それを見た信長様は、お腹を抱えて「ハーッハハハ!」と大爆笑した。
「ふははは! 西洋では愛しき女子への挨拶に過ぎん! どうだ越後の龍、羨ましかろう?余の手元におる間、葵にはもっと甘美な思いをさせてやったぞ。…それこそ、人には言えん様な事もな。…のう、葵?」
「……! …葵、正直に答えよ。…誠にこの男に何かされたのか……?」
鋭い視線と恐ろしいさっきを纏ったまま私に詰め寄る謙信様。その恐ろしさに、うまく言葉が出ない。
「け、謙信様!?い、いえ、その…!その様なことは……っ!」
どんどん険しくなっていく謙信様の表情に歯切れが悪くなってしまった私を冷えた目が鋭く射抜いた。
「…動揺しておるのか?…誠に……何かされたのか…?」
「え!?いえ、何も…ありません!」
私が焦って手を振ると、後ろで見守っていた信長様が吹き出した。
「フハハハハ! 越後の龍も案外、嫉妬深い男だった様だな!」
「の、信長様!!」
濃姫様も扇子で口元を隠しながら、「ふふ、殿も悪戯が過ぎますよ」と優しく微笑んでいた。しかし、信長様のからかいが気に入らなかったのか、あたふたとする私を謙信様は有無を言わさず抱き寄せた。
「…葵が他の男に触れられるなど…考えただけで気が狂いそうだ…。」
私にしか聞こえない様に、耳元に落とされた声。それが嬉しくて、恥ずかしくて…。答える様に、謙信様の背中に手を回して、精一杯抱きしめ返した。
「……帰りましょう、謙信様。私たちの越後へ。」
私がそっと囁くと、謙信様は少しだけ体を離して私を覗き込む。その顔の美しさに、照れながら微笑めば、謙信様は蕩けるような柔らかく優しい笑みを返してくれた。
「……うむ。……帰ろう、葵。我が春日山城へ。」
尾張の温かな風が吹き抜ける中、私と謙信様は2人で越後へと新たな一歩を踏み出した。




