29.泡沫の夢と不敵なる背中
「葵、余について参れ。今日は供も連れず、お忍びだ!」
その日の午後、信長様にそう告げられた私は、目を見開くことになった。
「えっ……お忍び……ですか!?」
「左様だ。お主が創り変えた岐阜の城下を、一度二人でゆっくりと見て回りたくてな。」
信長様はそう言うと、いつもの豪華な南蛮羽織ではなく、市井の富裕な商人風の着流しに身を包んでニヤリと笑った。私にも地味だが仕立ての良い小袖が用意され、私たちは城の裏手から静かに城下へと繰り出したのだった。
夕刻に向かう岐阜の楽市楽座は、耳が痛くなるほどの熱気と活気に満ちていた。
整然と並んだ露店、遠くからでも見やすい大きな看板、そして何より香ばしい匂いと人々の笑顔。
「ほう……! たしかに以前とは見違えるようだな。」
人混みの中、信長様は周囲を感心したように見回した。
「試食販売を導入して、お店のジャンルごとに通りを分けたんです。買い物がしやすくなって、商人さんもお客さんも大助かりなんですよ。」
私が少し誇らしく答えると、信長様は楽しそうに目を細めた。
「ふはは、まったくお主の頭の中はどうなっておるのだ。……ほれ、あそこに人集まりができておるぞ。」
見れば、私と濃姫様が考案した「お濃と葵の甘味処」の前に、長蛇の列ができていた。
「よし、並ぶぞ。」
「えっ、信長様自ら並ぶんですか!?」
「当たり前だ、余の城下だぞ。」
天下を狙う織田信長が、町人に混ざって甘味を買うために並んでいる。そのあまりにもシュールで微笑ましい光景に、私は思わずクスクスと笑ってしまった。
買い求めた焼き立てのカステラ風菓子を、城下の小高い丘にある小さな社の境内にて、二人並んで腰掛けて食べる。
「……うん、美味いな。美濃の蜂蜜と米粉の甘みが絶妙だ。」
「良かったです! 毎日売れ行きがすごくて、濃姫様も『美濃の女たちの手仕事が増えた』って喜んでくださっているんですよ。」
「そうか……。」
信長様はカステラを味わうと、ふっと遠くの城下町を見下ろした。沈みかけた夕陽が、賑わう街並みを黄金色に染め上げている。
「葵。」
「はい?」
「……余はな、この国から『戦』を失くしたいのだ。」
静かな、けれど地響きのように重い言葉だった。普段の「魔王」としての激しさとは違う、一人の男としての切実な響き。
「関所を壊し、誰もが自由に商いをし、腹いっぱいに飯を食い、子らが笑って暮らせる国。そのためなら余は、いくらでも鬼になり、魔王となろう。……今日のお主の創った街を見て、余の描く未来が間違いではなかったと確信できた。」
信長様は私の方を振り返り、優しく目を細めた。
「ありがとうな、葵。お主がここに来てくれて、真に良かった。」
「信長様……。」
胸の奥が、温かいもので満たされていく。
冷酷無比な暴君などではない。誰よりも平和を望み、誰よりも民の幸せを願う、不器用で孤独な大将軍。
この人は……本当に素敵な人だ……。
私はこの圧倒的で優しい男性に、癒され心から憧れていた。
混雑する人混みの中で「はぐれるな」と自然に手を引いてくれた時の、大きな手。自分の知恵を心から尊重し、対等なパートナーとして認めてくれた包容力がくすぐったい。信長様との距離が、ほんの少し、けれど確かに縮まったのを感じていた。
その夜。
岐阜城の最上階、夜風が吹き抜ける楼閣で私は信長様に呼ばれ、二人きりで月を見上げていた。下には、提灯の光がちらつく美しい城下が広がっている。
「……信長様、今夜は風が冷えますね。温かいお茶でも淹れましょうか?」
「いや、構わん。それより葵……座れ。」
信長様は手にした盃を傾けながら、静かに佇んでいた。その佇まいは、昼間の穏やかな雰囲気とは一変し、覇者としての厳粛な空気を纏っている。
私は静かに信長様の隣に腰を下ろした。
「葵。お主にひとつ、報せがある。」
「報せ……ですか?」
「……越中の案件だ。」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓がドクンッと大きく跳ね上がった。
「一向一揆の制圧は、急速に収束に向かっておる。……いや、強引に終わらせたと言うべきか。」
「え……?」
信長様は盃を置き、月を見上げたまま、低い声で言葉を続けた。
「あの越後の堅物――上杉謙信が、一揆衆の降伏条件を丸呑みし、全軍を引き揚げさせた。……そして今、手勢を率いて、この岐阜へ向かって爆進しておるぞ。」
「―――っ!?」
息が止まった。
頭の中が、真っ白な光で塗りつぶされる。
謙信様が……私を突き放し、冷たく『春日山に残れ』と言い放ったあの人が……こちらへ向かってきている……!?
「お主が城から消え、天に還ったと絶望しておったらしいが……余の送った密書で『岐阜にいる』と知るや、なりふり構わず走り出したそうだ。……同盟関係など知ったことかと言わんばかりの狂気でな。」
「そんな……謙信様が……どうして……!?」
身体が、ガタガタと震え始める。
また拒絶されたら、怖い…!
……どうしたらいいの?
ハプニングで触れ合ったあの唇。
冷たく避けられ、遠ざけられ、拒絶されたあの日々。
そして、尼僧様から聞かされた「伊勢姫」という、謙信様が愛し、失ったという特別な女性の影。
会いに来てくれたって……どうするの……? 私なんて、ただの邪魔な存在だったのに。不犯の誓いを破らせそうになる、不徳な女子だったのに……。またあの冷たい目で私を見るの……!?
「嫌……っ!」
思わず、小さな悲鳴が漏れた。
私は膝の上で固く拳を握り締め、体を小さく丸めた。涙が、ポロポロと畳の上にこぼれ落ちる。
「嫌です……。会いたくない……っ! 私、あの人に冷たくされて……すごく傷ついて……っ! 私なんて、ただの、ただの…!…伊勢姫様みたいな特別な人になれるわけもないのに……っ!」
パニックになり、子供のように泣きじゃくる私。
せっかく信長様や濃姫様に優しくされ、傷が癒えかけていたのに、謙信様の名を聞いただけで、胸の傷口が激しく血を流し始める。
そんな私を、信長様は黙って見つめていたがやがて、深く溜息を吐くと、ゆっくりと立ち上がった。
そして――。
バシッ!!
「――痛っ!?」
信長様の手が、私の背中を力強く叩いた。
痛みに驚いて顔を上げると、そこには――夜月を背に受け、漆黒の小袖をなびかせた織田信長様が立っていた。その顔には、いつもの恐ろしいほどの、不敵で豪快な「魔王」の笑みが浮かんでいた。
「フハハハハ! 戯けたことをぬかすな、葵!!」
腹から響くような大爆笑。
「の……信長様……!?」
「たかが男一人の元へ戻るのに、何をそう図に乗り、怯えておるのだ! 25にもなった大人の女子が、シクシクと泣いて逃げ回るなど、片腹痛いわ!」
信長様はそう言い捨てると、ドカリと私の前に屈み込み、私の両肩をガシッと力強く掴んだ。その大きな手の温もりと圧力が、私の中のパニックを強引に押し静めていく。
「葵。お主は余の城で、見事な知恵を絞り、民を富ませ、我が家臣どもを唸らせてみせた! あの柴田やサルですら平伏するほどの、堂々たる天女ではないか!」
信長様の鋭い黒瞳が、まっすぐに私の瞳の奥を射抜く。
「あの越後の堅物が何だ! 己の不器用さで一度はお主を手放し、傷つけた愚か者だ! あやつが頭を下げにここへ来るのなら、堂々と胸を張って待ち構えていればよい!」
「で、でも……私は……」
「『でも』も『それ』もないわ!」
信長様は豪快に鼻を鳴らすと、私の涙を、大きな親指で乱暴に、けれど愛おしそうに拭い去った。
「……お主の心はな、最初から決まっておるのだ。」
「え……?」
「余のお忍びの手を握りながらも、余の豪華な小袖を着ながらも……お主の心は、ずっとあの北の冷たい男の元にあった。……余がどれほど求めても、お主の誠の笑顔はあやつにしか向けられんのだ。」
信長様の声に、かすかな、けれど圧倒的に美しい「切なさ」が混ざる。
一人の男として、葵を愛していた。
己の側におき、天下の傍らで抱きしめていたかった。
けれど――覇者・織田信長は、己の欲望のために、この愛しい女の心を偽らせるような真似は絶対にしない。
「葵。……惚れた男の元へ戻るのに、臆するな。」
信長様は私の肩をトンと叩き、立ち上がった。
「あやつが不犯の誓いに縛られておろうが、過去の柵に囚われておろうが、そんなものは知ったことか! 『私を傷つけた分、一生かけて愛し抜きなさい』と、あやつの胸ぐらを掴んで怒鳴りつけてやればよいのだ!」
「の、信長様……っ」
「ふはは! あの上杉謙信が、一人の女子のために成りふり構わず他国へ殴り込んでくるのだぞ? 最高に愉快な見ものではないか! 余が特等席を用意してやるゆえ、お主はそこで、あやつの無様な謝罪と告白を聞いてやるがよい!」
不敵に、どこまでも豪快に笑う信長様。
その言葉は、私の胸の奥に渦巻いていた「迷い」と「恐怖」を、一瞬で吹き飛ばしてくれた。
そうだ。私は、逃げていたのだ。
傷つくのが怖くて、謙信様の本当の気持ちを聞くのが怖くて、過去の影に怯えていただけだった。
けれど――謙信様は、すべてを投げ打って、私を取り戻すためにここへ向かってきてくれている。
謙信様……。
私は袖で涙をしっかりと拭うと、信長様に向かって、深く、深く頭を下げた。
「……信長様。ありがとうございます。……私、逃げずに、謙信様と向き合います。」
「フン、最初からそう言え。」
信長様は満足そうに口元を歪めると、背を向けて月を見上げた。
「……行け。濃のところへ戻って、明日への仕度をいたせ。……あの堅物が来たら、余が一番に絞り上げてやるからな。」
「はい……! 信長様……本当に、本当にありがとうございました。」
「フンッ…。もし、あの男がお前をいらぬと申した時は…お前を力づくでも余のものにする。…そうなれば…二度とはなさぬぞ。」
「…ふふ、ありがとうございます。」
私はもう一度深々と一礼し、楼閣をあとにした。
背中で受けた信長様の「最高の男気」。
その温かなエールを胸に抱きながら、私は静かに、明日やってくる「越後の龍」との再会のときを待つのだった。




