28. 寒雷の陣中と、狂おしき熱
越中の空は、重く垂れこめる鉛色の雲に覆われていた。
絶え間なく降り続く冷雨が、ぬかるんだ本陣の陣幕を濡らし、寒雷の重い音が遠くの山々を揺らしていた。
長引く一向一揆との死闘。頑強に抵抗を続けていた一揆勢の拠点も、上杉軍の圧倒的な武威の前にようやく落ち、降伏の使者が本陣へとやってきていた。ようやく収束を見せ始めた戦況――本来であれば、将兵たちが勝利の勝ちどきを上げ、胸をなでおろす瞬間である。だが、本陣幕舎の中を支配していたのは、息が詰まるほどの重苦しい「沈黙」であった。
床几に腰を下ろした上杉謙信は、漆黒の甲冑を纏ったまま、石のように動かなかず、その手には、一枚の和紙が握られていた。それは、春日山城から早馬によって届けられた、葵の小間使い・梅からの、悲痛な叫びのような書状であった。
『…青龍寺で伊勢姫様のお話を聞いた姫様は大変落ち込まれ、悲しまれたご様子で、城へ戻る道中『もうここにいたくない、消えてしまいたい』とお泣きになり……そのまま、光包まれ、まるで掻き消えるように姿を消してしまわれました。城下を、山狩りを尽くしましたが、どこにも……どこにも葵様のお姿はございません……』
「……消えた……とな?」
低く、かすれた声が、謙信の唇から漏れ出た。
その場に平伏していた重臣たち――直江景綱、千坂景親、柿崎景家、甘粕景持、そして宇佐美定満の間に、激しい動揺の波が走った。
「御実城様! それは……それは誠にございますか!?」
柿崎景家が、弾かれたように顔を上げた。その鋭い目には信じられないという驚愕が走っている。
「葵殿が消えたなど……! 隠密の仕業ではござらんのか!? 武田の残党か、北条の軒猿が葵殿を浚ったのでは――!」
「柿崎殿、静まれ!」
千坂景親が苦痛に満ちた表情で制した。
「……梅からの文によれば、引き留める間もなく、目の前で身体が光に包まれ、そのまま消え去ったと……。怪しい者の影など、どこにもなかったそうだ。」
「そんな馬鹿なことが……っ!」
甘粕景持が口元を絞り、拳を固く握り締める。
「葵様が……あの優しく、我らに温もりにを与えてくださった葵様が……なぜ……!?」
重臣たちの悲痛な声が飛び交う中、謙信だけが一切の微動だにせず、ただ手中の書状を見つめていた。
その透き通るような白い肌から、すっと血の気が引いていく。神に使える冷静な「軍神」として戦場に立ち続けた男の眼差しに、今まで誰も見たことのない、底知れぬ漆黒の闇と、狂おしいほどの動揺が広がっていた。
消えた……? 葵が……天へ、還られたというのか……?
脳裏に蘇るのは、春日山城を去る前、あの寒雷の鳴り響く大広間での出来事だ。
「お主は、春日山に残れ。」
冷ややかに言い放った、自らの声。
その瞬間、葵の瞳に広がった、今にも崩れ落ちそうなほどの絶望と悲しみ。
……私は……何をしていたのだ……!
謙信の胸の奥で、何かがメリメリと鋭い音を立てて砕け散った。
葵は、ただの女子などではなかったはずだ。
殺戮と欲望が渦巻くこの戦国の泥沼に、飢えと寒さに震える越後の民に「暖」と「慈愛」をもたらすため、毘沙門天様が遣わしてくださった『吉祥天女』であったのだ。
春日山城に現れて以来、彼女がもたらした奇跡の数々。土を耕し、豊穣の稲穂を実らせ、三河の綿で凍える民を包み込む柔らかな布団を作り、疲れ切った将兵たちに温かな笑みと甘味を与えてくれた。それらはすべて、天女がこの地に授けてくれた神の慈悲そのものであった。
それなのに――。
…私は……己の浅はかな『煩悩』に怯え、あのお方を傷つけたのだ……。
ぐっと、絶望に満ちた呼気が謙信の喉を焼いた。
あの午後の資料室での、不意の出来事。
倒れ込んだ拍子に重なり合い、触れてしまった、葵の唇の温もり。一瞬の静寂の中で、謙信の身体を駆け巡ったのは、神仏への信仰すら吹き飛ばすほどの、恐ろしい「熱」であった。
男として、一人の女人を抱きしめたい。
その柔らかな肌を、その愛おしい髪を、己の腕の中に閉じ込め、二度と放したくない。
『不犯』の誓いも、上杉の家名も、毘沙門天への信仰も、すべてを投げ打ってでも、あの女人を己のものにしたいという――狂おしいほどの、泥臭く激しい欲望。その己の中に芽生えた「業」の深さに、謙信は恐怖したのだ。
神仏に身を捧げし私が、あのような醜い煩悩を抱くなど……。これ以上あのお方に触れれば、私は軍神ではなく、ただのケダモノになり下がってしまう。あのお方を、私の不徳と濁った欲望に巻き込んで傷つけてはならぬ……。
だからこそ、距離を置いた。
『不犯』の不器用な自己犠牲の裏に隠れ、彼女からの眼差しを避け、沈黙を守り、ついには「春日山に残れ」と冷たく突き放したのだ。…自らの汚らわしい欲望から葵を守るため、という無体な言い訳を掲げて。
……だが、違った……!
謙信は固く目を閉じ、深く天を仰いだ。
葵を護るためなどと格好をつけながら、その実、私は己の心が乱れるのを恐れて逃げ出していただけだったのだ。己の覚悟の無さ、男としての至らなさによって、葵の純粋な心を、言葉にできぬほど深く切り裂いてしまったのだ。
『もうここにいたくない、消えてしまいたい』
その悲痛な叫びが、謙信の耳奥で、激しい雷鳴のように何度も何度も繰り返していた。
…葵は悲しんだのだ。
私が己の煩悩から逃げ惑い、拒絶したことで、あのお方は傷つき、この汚れた現世に絶望されたのだ。
毘沙門天様……! これが、あなたの御心か……!?
謙信の胸の中で、怒りと悲痛、そして激しい自責の念がぐしゃぐしゃに渦を巻いた。
自らの不徳を隠し、天女を泣かせ、傷つけた不信心な私に対し……あなたは怒りを買い、葵を天へと連れ戻されたというのか……!?
「――くっ……あ、あああ……っ!」
謙信の口から、掠れた叫びが漏れた。
甲冑を纏った大きな身体が、激しい戦場でも一度として揺らがなかった背中が、まるで凍える子供のように小さく震え始めた。
「御実城様……!?」
直江景綱が目を見開き、膝で前へと進み出た。
「御実城様、落ち着き召されよ! 葵殿の身に何が起きたかは定かではございませぬ! だが……だが、決して御実城様をお恨みになって消えられたわけでは――」
「黙れっ!!」
謙信の一声が、陣幕の空気をごうっと揺らした。
その瞳には、血のような赤さと、狂気にも似た深い切なさが宿っていた。
「……黙れ、直江。……お主に何が分かる。……あのお方を傷つけたのは、他でもない、この私なのだぞ……!」
謙信は指先を強く握り締め、己の胸元――甲冑の隙間に隠してあった、葵の残していった小さな手ぬぐいをきつくきつく握り潰した。
「あのお方は……葵は、ただ私に寄り添おうとしてくださっていた。……私が越後を守るため、民を守るために背負ってきた孤独を、葵は……温かな笑顔で包み込もうとしてくださったのだ……。」
震える声で、謙信は吐き出すように語り始めた。
「……それなのに、私は……葵に触れたあの一瞬の『熱』に怯えたのだ。己の中に芽生えた、あのお方を力ずくで抱き寄せたいという醜い『欲』に怯え、神仏への誓いを盾にして逃げ出したのだ……!」
「御実城様……。」
老将・宇佐美定満が、深い悲しみを湛えた瞳で、静かに謙信を見つめた。
「……葵を護るためだと自分に言い聞かせ、冷たく突き放し、傷つけた。……天女の温もりにすがりながら、その手を払い落としたのは私なのだ! ……毘沙門天様が怒られるのも当然だ! 私は……私は天女を愛する資格すら……一人の男としてあのお方の側に立つ資格すら……最初から無かったのだ……っ!!」
ガツンッ!!
謙信はそのまま床几から崩れ落ちるように膝をつき、畳まれた陣幕の敷物へと拳を打ち付けた。
漆黒の頭巾が大きく乱れ、そこから覗く美しい顔が、苦痛と絶望によって激しく歪んでいる。
神仏の化身として、生涯を義に捧げると誓った男。一度も女人の肌を知らず、世俗の愛憎を遠ざけ、高潔な孤高を守り続けてきた「軍神・上杉謙信」。
その男が今、一人の女人を失った絶望の前に、なりふり構わず打ちひしがれ、涙を零さんばかりに慟哭しているのだ。
「……神仏の加護など……誓いなど……!」
謙信は掠れた声で、血を吐くように喘いだ。
「……あのお方のいない越後など……あのお方の微笑まぬ世界など……私にとって何の意味があるのだ……!? 毘沙門天様……! 奪うというのなら、私の命を奪えばよかったではないか! なぜあのお方を……葵を……葵を連れ去られたのだ……っ!!」
胸の奥で煮えて沸き立つ、狂おしいほどの「熱」。
触れたい。抱きしめたい。もう一度、あの上品で柔らかい肌をこの手で包み込み、赦しを乞い、心よりお前を慕っていると声の限り叫びたい。
神仏への誓いという「聖」と、葵という一人の女人へ向けられた「世俗の激しい愛」。
二つの情念が謙信の魂を両側から引き裂き、その内側を苛烈な炎で焼き尽くしていく。
「御実城様……っ!」
柿崎景家がたまらず立ち上がり、謙信の肩を掴もうとした。
「お気を確かに! 御実城様がそのようなお姿では、上杉家は……越後はどうなりますのだ! 今は一刻も早く春日山へ戻り、我ら全員で越後中を捜索いたしましょう! 葵殿がどこにおられようと、この柿崎、地の底まで探し出して見せまする!」
「左様ですぞ!御実城様!」
甘粕景持も叫んだ。
「葵様はきっと、どこかでお帰りを待っておられます! 我らの知らぬ場所で、泣いておられるかもしれませぬ!」
だが、謙信は首を横に振るばかりだった。
「……無駄だ。……葵は、現世の者ではない。天へ還られたのだ……。私という不徳な男に絶望し、この地を見捨てられたのだ……。」
生きる希望そのものを失ったかのような、虚ろな眼差しが地に落ちた、その時――。
「――お戯れを言われるな、御実城様。」
静かな、けれど地響きのように重い声が、幕舎の中に響き渡った。
声を上げたのは、老軍師・宇佐美定満であった。宇沙美はゆっくりと歩み寄ると、膝をつき、絶望に沈む謙信の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「……宇佐美……。」
「御実城様。あなたはご自分を『不徳』とお責めになる。己の煩悩が天女を追いやったと、神仏の罰だとお嘆きになる。……だが、誠にそうでございましょうか?」
宇佐美の瞳には、厳しい、けれど父親のような深い慈愛が宿っていた。
「葵殿は……あのお方は、神の罰などで消えられたのではございませぬ。……ただ、一人の女子として、あなた様のお心が見えなくなり、傷つき、悲しまれたのでございます。」
「……何だと……?」
「御実城様。あなたは『不犯の誓い』という重い甲冑を纏い、葵殿への想いから逃げられた。しかし、葵殿が欲しかったのは、神仏としてのあなた様ではございませぬ。……一人の男として、己を案じ、必要としてくれるあなた様の『お心』そのものだったのです。」
宇佐美の言葉が、謙信の胸を鋭く突き穿った。
「葵殿は、あなた様が己の誓いや過去の傷に縛られ、ご自身を遠ざけるお姿に耐えかねて……行き場を失われたのです。それこそ、葵殿があなた様を心からお慕いしている証。……それを『天に還った』と諦め、ここで泣き崩れることが、あのお方への誠でございましょうか!?」
「……う……宇佐美……。」
「神仏への誓いなど、どうでもよい!」
そこに直江景綱が、感極まったように声を張り上げた。
「御実城様! 我ら臣下は、あなたが神仏の化身だから従っているのではございませぬ! あなたというお方の『義』と『誠』に惚れ抜いているからこそ、命を預けているのです! 例えあなたが『不犯の誓い』を破り、一人の女人を愛したとしても……我らの忠義は、何一つ揺らぎはいたしませぬ!」
「直江殿の言う通りだ!」
千坂景親も涙を浮かべて叫んだ。
「葵殿は、上杉家にとってもなくてはならないお方! あなた様がなりふり構わずその手を伸ばさねば、葵殿は二度とお戻りになりませぬぞ!」
重臣たちの、血の通った激しい叫に、謙信は目を見開き、臣下たちの顔を一人一人見つめた。――全員が、己の「軍神」が神の座から降り、一人の男として苦悩している姿を、嘲笑うどころか、全力で受け止め、背中を押そうとしてくれている。
臣下たちも……みな、分かっていたのだ……。私が葵をどれほど愛おしく思っていたか……。そして、葵がどれほど大切な存在であったかを……!
謙信の胸の中で、凍りついていたものが、ゆっくりと熱を帯びて溶け始めていく。
「……だが……葵はどこに……。消えてしまった葵を、私はどうやって探せばよいのだ……。」
謙信が呟いた、その時だった。
「――御中心!! 早馬にございます! 岐阜の織田弾正忠様より、緊急の密書が届きましたぞ!!」
幕舎の外から、血相を変えた使者が飛び込んできた。
岐阜――織田信長からの密書。
直江景綱がひったくるように書状を受け取り、素早く目を通すと、その顔に激しい衝撃が走った。
「な……何と……!?」
「直江殿、どうした!? 何と書いてある!?」
柿崎が詰め寄ると直江は震える手で書状を握りしめ、謙信に向かって叫んだ。
「御実城様! 葵殿は……葵殿は、生きておられます!」
「――なっ!?」
謙信の身体が、雷に打たれたように跳ね起きた。
「葵が……生きている……!? 誠か、直江! 誠なのか!?」
「は、ははっ! 織田弾正様からの書状によれば……数週間前、岐阜城の庭園に突如として光が走り、雨に濡れた葵殿が倒れておられたと! 今は岐阜城の奥にて、無事に保護されておられると記されております!」
「岐阜に……信長の元に……!?」
その場の全員が息を呑んだ。
天に還ったのではなかった。あの雨の日、『ここにいたくない』と願った葵は、時空を超えて、かつて自分に手を差し伸べようとした織田信長のもとへと落ちていったのだ。
「……葵が……生きている……!」
謙信の瞳に、ポロポロと大きな涙が溢れ落ちた。
生きていた。あの優しさと温かい微笑みをくれる葵が、この世のどこかで、息をして生きている。
……だが、安堵の直後、謙信の胸を襲ったのは――かつてない激しい「危機感」と「嫉妬」であった。
信長。
かつて岐阜城にて、葵の知恵と瞳に惹かれ、『何故お主が落ちたのが尾張ではなく越後であったのか』と切ない想いを文ためてきた、あの圧倒的な男。葵が傷つき、絶望して落ちてきた場所が、よりにもよってあの男の元なのだ。…信長が葵を放っておくはずがない。奥というのは信長の大奥の事…。傷ついた葵を抱きしめ、手厚く護り、己の女にしようと情熱を傾けているのだろう。
……奪われてたまるか……! あの男に……葵を……私の大切な天女を奪わせてなるものか……!
謙信の胸の中で、これまで抑え込んできた「一人の男としての執着」が、爆発的な劫火となって吹き荒れた。
『不犯』の誓いなど、どうでもいい。
神仏の怒りなど、知ったことか。
葵を信長に穢されるくらいなら、彼奴の手から取り戻せるのなら、私は喜んで鬼にでも悪魔にでもなってみせる!
「……直江。」
謙信の声から、悲嘆の色が完全に消え去っていた。
そこに宿っていたのは、静かな、けれど全世界を焼き尽くすほどの、凄絶な決意であった。
「はっ!」
「……越中の処理を、急ぎ完了させよ。一揆衆の降伏条件を受け入れ、即座に兵を引き揚げる。」
「御実城様……!?」
謙信は立ち上がると、甲冑の胸元を強く締め直し、床に落ちていた頭巾を拾い上げて力強く結んだ。
「……これより、岐阜へ向かう。」
「ぎ……岐阜へ!? 織田の領地へでございますか!?」
千坂景親が叫んだ。
「しかし御実城様! 織田とは同盟関係にあるとはいえ、他国の本拠へ乗り込むなど、あまりにも危険! 政治的な大紛争になりかねませぬ!」
「構わぬ!」
謙信の一声が、幕舎全体を圧した。
謙信は振り返り、重臣たちをまっすぐに見据えた。その透き通るような瞳には、もう一切の迷いも、逃避もなかった。
「……政治の引き裂きも、織田との同盟破棄も、全て私が背負う。……私は、葵を取り戻しに行く。」
「御実城様……!」
宇佐美定満が、満足そうに口元を緩めた。
「……一度は己の至らなさで手放し、傷つけてしまった。……だが、今度こそ逃げはせぬ。神仏への誓いも、過去の悲しい面影も……全てを飲み込んで、あのお方に私の全てを打ち明ける。……謝罪し、膝をつき……あのお方が許してくださるまで、愛を乞う。」
謙信は腰の太刀(姫鶴一文字)の柄を、砕けんばかりの力で握り締めた。
「葵は……私の魂の寄る辺なのだ。……信長になど、絶対に渡さん!」
軍神・上杉謙信の口から出た、圧倒的な独占欲と愛の告白に直江、千坂、柿崎、甘粕、宇佐美の五人は、顔を見合わせると、一斉に不敵な笑みを浮かべ、その場に力強く平伏した。
「ははっ!! 我ら重臣一同、どこまでもお供いたしますぞ!!」
柿崎景家が豪快に叫んだ。
「越後の一番の宝を取り戻しに……岐阜へ殴り込みでございますな!!」
「ふふ、織田弾正も驚くでしょうな。我が軍神・越後の龍が、一人の女子のために成りふり構わず駆けつけてくるのですから!」
直江景綱が涙を拭いながら微笑んだ。
冷たい雨が降り続く越中の空。
だが、上杉謙信の胸の中には、一度は消えかけた「誇りと愛の炎」が、どんな嵐にも負けぬほど激しく、熱く燃え上がっていたのだった。




