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31. 越後の龍と吉祥天女

越後の空には、初春の厳しさが嘘のように穏やかな、どこまでも高く澄み切った満月が浮かんでいた。


馬蹄の音が春日山城の大手門をくぐり、石畳に響き渡る。待ちわびていた城内は、我が君・上杉謙信の無事の帰還、そして何よりも――失踪したはずの葵の奇跡的な「生還」に、割れんばかりの歓喜に包まれていた。


「……姫様、姫様ぁ…!」

「お嬢!!」

「葵様ッッ!!」


本丸の庭先で、袂を揺らしながら泣きながら走ってきたのは、小間使いの梅ちゃんだった。その背後からは、馬廻衆の若手である伴次郎と弥三郎も、目を真っ赤に腫らして駆けつけてくる。


「梅ちゃん! 伴次郎くん、弥三郎くん!」


私が馬から降り立った瞬間、梅ちゃんは私の体に飛び込んできゅうっとしがみついた。


「姫様……! ご、ご無事のご帰還……お待ち申し上げておりました! お城から突然消えてしまわれて、もう二度とお会いできないかと……梅は…梅は……!」

「お嬢…! 無事で本当によかった!」

「次は……私たちもどうぞお連れください!葵様を深く傷つけてしまった事はお詫び申し上げまする。しかしながら、私も伴次郎もあなた様の側に置いていただきたいのです!」


梅ちゃんを抱きしめる私の前に、伴次郎くんと弥三郎くんが膝をつく。その目は、強い意志に溢れ、涙に滲んでいた。


「…ありがとう。伴次郎くん、弥三郎くん。…あの時はごめん…なさい。次は、勝手にいなくなったりしないよ。…梅ちゃんも…。約束する。」


私の言葉に何度も頷く3人。そして、次々と駆け寄ってくる城の皆の温かい涙と笑顔に、私の胸は一気に熱くなった。


あの日、「消えたい」と願って自ら姿を消した私を、誰も責めない。ただ「おかえりなさい」と家族のように迎え入れてくれる。私は梅ちゃんたちの背中を優しく撫でながら、「ただいま、みんな。心配かけてごめんね」と心からの笑顔を咲かせた。

その様子を、少し離れた場所から――愛おしそうに、嬉しそうに見守る謙信様の姿があった。



月が天高く昇り、城内が静寂に包まれた深夜。

本丸の奥、謙信様の私室へと続く縁側に、私たちは並んで腰掛けていた。

澄んだ夜空に浮かぶ満月が、春日山城の雪解けの屋根と、私たちの影を美しく照り映している。


「……寒くはないか、葵。」

謙信様が、自らの羽織をそっと白い寝衣姿の私の肩にかけてくれた。その指先が触れるたび、胸の奥が甘く疼く。尾張の岐阜城から長い道のりを経て越後へ戻り、城のみんなと再会を喜び、そして、ようやく二人きりになれた夜だった。


「……ありがとうございます、謙信様。」


私が微笑むと、謙信様は夜空の月に視線を向けたまま、静かに息をついた。


「……岐阜での一件以来、ずっと考えていた。」

「何をですか?」

「お前が……あの雨の日、『消えてしまいたい』と願ってしまった理由だ。」


謙信様の声には、深い自責の念が滲んでいた。


「私は、『不犯の誓い』や『神仏への仕え』を盾にして、お前を拒絶した。葵への醜い熱情と情念に怯え、傷つけ、追いつめた。……もし、あの時お前が本当にこの世界から消えてしまっていたら……私は一生、己の愚かさを呪い、狂っていただろう。」


謙信様はそっと私の手を包み込み、自らの胸元へと引き寄せた。ドクンと力強い心臓の音が、私の手のひらに直接伝わってくる。


「葵。……私はもう、何者でもない。軍神でも、毘沙門天の化身でもなく、ただの一人の男だ。……お前を愛し、お前のすべてを我が物にし、この熱を与えたいと願う、ただの浅ましくも卑しい男だ。」

「謙信様……。」


私は胸が締め付けられる思いで、まっすぐに謙信様の瞳を見つめた。


「私……怖かったんです。」


ぽつりぽつりと、私は自分の心の奥底にあった弱音を零し始めた。


「謙信様があまりにも高潔で、神様みたいに遠い存在に思えて……。ハプニングでキスしちゃった時も、『嫌われたんだ』『私のせいで謙信様の誓いを汚しちゃったんだ』って、頭が真っ白になって……。城の人たちにも迷惑をかけて、自分の居場所なんてどこにもないって、本当に消えてしまいたいって思いましたた。」


声がかすかに震え、涙がこぼれそうになる。

それを、謙信様は大きな両手で優しく包み込み、私の額にそっと自分の額を寄せた。


「……すまなかった。私の不器用さが、おたをそこまで追い詰めた。」

「……ですが、信長様のところで過ごして、みんなに優しくされて……自分がどれだけ謙信様のことを想っているかに気づきました。遠ざけられても、過去の伊勢姫様のことを知っても……私、やっぱり謙信様のそばにいたかった。あなたの温もりを、もう一度感じたいと強く思っていました。」


私の言葉を聞いた瞬間、謙信様の瞳が大きく揺らぎ、次の瞬間――彼は堪えきれなくなったように、私を強く、力強く抱き寄せた。


「葵……っ!」


壊れてしまうのではないかと思うほどの、けれど愛おしさに満ちた抱擁に白檀の香煙と、夜風の冷たさと、謙信様の体温が一つに溶け合う。


「もう二度と、お前を泣かせはしない。もう二度と、お前を一人にはしない。……愛している、葵。」

「私も……愛しています、謙信様……。」


月の光が見守る中、私たちは互いの体温と鼓動を確かめ合うように、長い長い口づけを交わした。


過去の迷いも、身分の違いも、すれ違いの痛みもすべてが溶けていき、二人の全てが一つに結ばれた夜だった。


翌朝。

春日山城の天守にほど近い、静寂に包まれた毘沙門堂では厳かな香の匂いが漂うお堂の中には、赤く燃え盛る炎のような「毘沙門天像」が、鋭い眼光で私たちを見下ろしていた。

謙信様と私は、並んで畳の上に正座し、静かに両手を合わせた。謙信様はゆっくりと瞼を開けると、真っ直ぐに毘沙門天像を見上げ、決意に満ちた声で心の中の誓いを告げた。


「――我が武神、毘沙門天よ。……私はこれまで、あなたへの信仰と『不犯の誓い』を絶対のものとして生きてまいりました。だが、その誓いは時として、大切な者を守るどころか、傷つける刃となっておりました。」


謙信様の横顔は、かつての「冷徹な軍神」のそれではなく、一人の人間として、そして一国の主として、愛する者を守り抜く覚悟を決めた男の美しい顔をしていた。


「……私はここに新たな誓いを立てます。これより先、私が背負うすべての義と、すべての武運は、この国と民のため……そして、我が傍らにある愛しき女人と共にある。どうか、この不器用な男の命が尽きるまで、彼女を我が腕の中に留め置くことをお許しください。」


隣でその祈りを聞いていた私の胸に、熱いものがこみ上げてきた。


「毘沙門天様……。私をこの戦国の世に導いてくださり、そして、こんなにも不器用で、こんなにも温かい謙信様と巡り合わせてくださって……本当に、本当にありがとうございました。」


私は心の中で深く、深く感謝を捧げた。

現代から遠く離れたこの時代に飛ばされ、絶望しかけたこともあったけれど、今、この人の隣にいられるなら、どんな未来も乗り越えていける。


祈りを終えた私たちは、ゆっくりと立ち上がり、毘沙門堂を後にした。そのまま、私たちは春日山城の最も高い場所――天守閣を訪れる。

城のてっぺんから見下ろす越後の景色。

どこまでも広がる雄大な山々と、城下の麓に広がる家々の屋根から、朝の炊煙がふんわりと立ち上っていた。


あの冬の厳しかった雪景色が嘘のように、春日山の山肌には鮮やかな新緑と桜の蕾が風に揺れている。


「見てみろ、葵。」


謙信様が、城下の街並みを指し示す。

その横顔には、穏やかで、満ち足りた光が宿っていた。


「お前がもたらしてくれた食と生活の知恵のおかげで、民の顔に笑顔が戻り、春日山はかつてないほど豊かになった。……感謝している。」


私は微笑みながら、謙信様の大きな手にそっと自分の手を重ね合わせた。


謙信様は少し驚いたように目を丸くした後、優しく微笑み返し、私の手をしっかりと握り締めてくれた。


「…これからも、共に越後を盛り立てていこう。最早、葵なしでは、この越後も…私も、生きることは難しい。」

「ふふふ。はい……!ずっと、ずっと側にいます。…謙信様。」


二人の指がしっかりと絡み合い、離れなかった。


遠くから聞こえてくる、城下の人々の賑やかな笑い声を運んだ穏やかな春風が、私たちの髪を優しく撫でていく。


もう迷わない。

どんな困難が待ち受けていようとも、私たちはこの手を取り合い、共に歩んでいくのだ。


毘沙門天が見守るこの越後の地で、私と謙信様の新しい物語が、今、本当の意味で始まりを告げたのだった。



終わり

最後までお読みいただきありがとうございました。

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