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26. 岐阜の鳳凰と、落ちてきた天女

雨の中、「もう帰りたくない。どこにも行きたくない……いなくなりたい」と強く願った次の瞬間。

視界が真っ白な光に包まれ、体がふっと浮き立つような浮遊感を覚えた後の私の記憶は、途切れていた。


「……葵。……葵、おい、しっかりせよ!」


耳元で響く、焦燥を含んだ重厚な声。

ゆっくりと瞼を開けると、そこは越後の湿った山道ではなく、豪華な金碧障壁画が描かれた見知らぬ大広間だった。


私を抱きかかえていたのは――漆黒の南蛮羽織を羽織り、信じられないものを見るような目で見つめてくる男。


「のぶ……なが……さん……?」

「左様だ、余だ! ……一体どうしたというのだ。庭の楼閣から突如として光が走り、そこにお主が倒れておった……! 雨に濡れ、氷のように冷たくなっておるではないか!」


信長様は私を力強く腕の中に抱き締めると、廊下に向かって雷のような大声で叫んだ。


「誰か! すぐに湯と羽織を持て! 濃(のう)を呼べ! 急ぎ迎えの仕度をいたせ!」


――こうして、越後の春日山城から姿を消した私は、不思議な巡り合わせによって、尾張・美濃を治める織田信長様の居城・岐阜城へと流れ着いたのだった。

岐阜城の「奥」――後宮と呼ばれる女性たちの居所の一角に、私は引き取られることになった。



信長様は私をただの「側室」や「捕虜」として扱うような真似は一切しなかった。雨に濡れて熱を出した私を自ら介抱しようとするほどの執着を見せながらも、私が心身ともに深く傷ついていることを察すると、そっと距離を置き、正室である濃姫(帰蝶)様に私の身の回りの世話を託してくれたのだ。


「――まあ、ずいぶんと小さくなって。……かわいそうに、越後の寒さに凍えてしまったのですね。」


湯あみを終え、上質な絹の着物を着せてもらった私に、温かい生姜湯を差し出してくれたのは、濃姫様だった。

美濃の蝮(マムシ)と呼ばれた斎藤道三の娘。凛とした気品と、どこか全てを見透かすような聡明さを湛えた美しい女性だ。


「濃姫様……。私のような身元も知れない者を、手厚く迎えてくださって……本当に申し訳ありません。」


私が畳に手をついて頭を下げると、濃姫様はクスクスと鈴を転がすように笑い、私の手を優しく包み込んでくれた。


「頭をお上げなさい、葵殿。殿(信長)から噂は聞いておりましたよ。『尾張に落とされるはずだった、天の下さった宝だ』とね。……あの殿が、これほどまでに一人の女子(おなご)の身体を心配し、取り乱す姿など、何年ぶりに見ただろうか。」

「信長様が……?」

「ええ。殿は乱暴なお方に見えて、その心は誰よりも繊細で孤独。……そして葵殿、あなたもまた、とても深い傷を負っておられる。」


濃姫様の優しくも鋭い眼差しに、胸の奥がキュッと痛んだ。


岐阜城の奥には、濃姫様だけでなく、信長様の側室である吉乃様や鍋様、そしてまだ幼い奇妙丸(のちの織田信忠)くんたちが暮らしていた。


「越後で評判の『天女の布団』を作られたのは、葵様なのですか!?」

「三河の綿を使って、そんなに温かいものを……! ぜひ私どもにも作り方を教えてくださいませ!」


側室や侍女たちも、私を邪険にするどころか、珍しい越後の話や現代的な生活の知恵に目を輝かせて大歓迎してくれた。居場所を与えてもらった私は、いつまでも落ち込んでいるわけにもいかず、25歳元コンサルタントの性分を発揮して、岐阜城の「生活改善」に乗り出した。

タッピーの検索データをカンニングしながら、岐阜の特産品を使った簡単なお菓子(カステラ風の焼き菓子)を焼いて子供たちに振る舞ったり、後宮の衛生管理や効率的な整理整頓術を側室たちに教えたりする日々。濃姫様たちとお茶を飲みながら笑い合う時間は、すり減っていた私の心を、少しずつ、けれど確実に癒やしてくれた。


だが――どれほど賑やかに過ごしていても、岐阜城の夕暮れどき、ふと一人になると、私の視線はいつも北の空――越後の方向へと向いてしまっていた。 


謙信様……。今頃、越中で戦っておられるのかな……。

一向一揆の激しい制圧戦。

「女子を連れて行く余裕などない」「お主は春日山に残れ」と言い放った、あの冷たい横顔。

そして、尼僧様から聞いた、かつて謙信様が命をかけて愛し、そして失ったという「伊勢姫」という女性の影。


やっぱり私なんて、最初からただの迷子だったんだ……。謙信様の『不犯の誓い』を乱す、邪魔な存在だったんだ……。

考えまいとしても、冷たい涙が頬を伝ってしまう。


「……何故、泣いておる?」


不意に、背後から低い声が響いた。

振り返ると、南蛮の小袖を纏った信長様が、静かな足取りで部屋に入ってくるところだった。


「信長様……。」 


私は慌てて袖で涙を拭い、畳に座り直した。


「失礼いたしました。せっかくお部屋を貸していただいているのに、しんみりしてしまって……。」


信長様は何も言わず、私の目の前にドカリと腰を下ろした。その鋭い眼差しが、私の真っ赤になった目元をじっと見つめる。


「……上杉の堅物か?」

「え……?」

「お主が泣いておるのは、あの越後の龍のせいであろう。」


信長様は鼻で嘲笑うように息を吐くと、腕を組んで窓の外を見上げた。


「……軒猿(忍び)からの報せが入っておる。越中の案件は相当に根が深い。一向宗の残党どもが頑強に抵抗しており、あの謙信とて、容易には引き上げられまい。当面は越中から動けぬはずだ。」

「謙信様が……越中で……。」

「フン。あやつは義だの信仰だのと綺麗な言葉を並べ立てるが、結局はお主一人を守りきれず、傷つけ、手放したのだ。……余の手元に引き取られたとも知らずに、泥に塗れて戦っておるわ。」


信長様はそう吐き捨てると、そっと手を伸ばし、私の頬に残った涙の痕を、大きな指先で優しく拭った。

その手つきは驚くほど繊細で、温かかった。


「葵。」


信長様の声が、いつになく低く、熱を帯びる。


「……何故、あの時、余の元に落ちてこなかった。……何故、越後だったのだ?」


あの岐阜城での夜。手紙にも書かれていた、信長様の切ない問いかけ。


「……あの堅物はお主を遠ざけた。お主を傷つけた。そして、お前は余の元に落ちて来た。……ならば、もう越後へ戻る必要などなかろう。余の側におれ。余ならば、お主をそのような悲しませ方はさせぬ。天下の傍らに置き、二人で誰も見たことのない新しき世を作ってやる。」


信長様の瞳には、覇者としての圧倒的な熱量と、一人の女性を本気で愛おしむ情熱が宿っていた。

現代でOLをしていた私なら、こんな歴史上の大ヒーローにここまで求められたら、舞い上がっていたかもしれない。信長様の包容力と優しさは、傷ついた私の心に痛いほど染み渡っていた。 


けれど――。


ごめんなさい、信長さん……。 


信長様の温かい手に触れられながらも、私の胸の奥で渦巻いているのは、やはりあの越後の風景だった。

あの不器用で、生真面目で、神仏の加護を纏いながらも、私の前でだけ静かな情熱を覗かせてくれた、上杉謙信様という一人の男の姿だった。

遠ざけられても、傷つけられても、伊勢姫という過去の存在を知ってしまっても――私の心は、どこまでも謙信様のものだったのだ。

私は静かに目を閉じ、信長様の手からすっと顔を引いた。


「……信長様。私を助けてくださり、こうして温かく守ってくださること……心から感謝しています。ですが……。」

「……言うな。」


信長様は私の言葉を遮るように、静かに手を引っ込めた。その顔には、苦いような、どこかす寂しげな笑みが浮かんでいた。


「……言わんでも分かる。お主の瞳は……余を見ておるようで、その実、はるか北の空を見ておるわ。」

「信長様……。」

「……フン、つまらん女だ。あれほど冷たくあしらわれておきながら、未だにあの堅物を忘れられぬとはな。」


信長様は立ち上がると、南蛮羽織を翻して背を向けた。 


「……好きにするがよい。当分、越後からは誰も来られぬ。心が癒えるまで、岐阜の城で大人しくしておれ。」


そう言って部屋を出ていく信長様の背中は、圧倒的な覇者でありながら、どこか切ない孤独を纏っているように見えたのだった。



その頃――。

ぬかるんだ雨が降り続く、越中の陣中。


「――御実城様! 一揆勢の砦を一つ落としましたぞ!」


柿崎景家が血煙を上げて報告に走ってくる中、本陣の陣幕の中で、上杉謙信は一人、甲冑姿のまま静かに座していた。その手に握られているのは、葵が春日山城に残していった、小さな手ぬぐいだった。


越中の戦況は苛烈を極めていた。一向宗の抵抗は根深く、鎮圧にはまだかなりの時間を要する。だが、謙信の胸を支配していたのは、目の前の敵への憎しみではなく、己の不器用さと過ちに対する、狂おしいほどの後悔であった。


……私は、何をしていたのだ……。

予期せぬ事故で触れ合った唇。

己の中に芽生えた恐ろしいほどの執着と欲望に怯え、「葵を己の不徳から守らねば」「過去の伊勢姫のように、私の業に巻き込んで傷つけてはならぬ」と焦るあまり、彼女を遠ざけ、冷たい言葉で突き放してしまった。


「ただの女子」「春日山に残れ」――。

あの時、葵が浮かべていた、今にも泣き出しそうな、絶望に満ちた瞳が頭から離れない。自分の不器用な自己犠牲が、どれほど深く彼女の心を切り裂いてしまったか。


……許せぬ。葵を傷つけた……私自身が許せぬ……!



葵の護衛を申しつけていた軒猿からの定期報せはまだ届かない戦場で春日山城で葵が「姿を消した」ことすら、戦線の渦中にいる謙信は知らなかった。


己の失策と葵への切ない想いに胸を焦がしながら、謙信は雨の降る空を見上げ、深く、深く刀の柄を握り締めるのだった。


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