25. 寒雷の出陣と、面影の寺
あの午後の資料室での出来事以来、春日山城の空気は静かに、けれど確実に凍りついていた。
「……あ、謙信様……。」
本丸の廊下。
私とすれ違いそうになった謙信様は、一瞬だけ足を止め、私の顔を見つめた。だが、その涼やかな双眸には、いつもの温かな光も、私を気遣う優しさも宿っていない。
「……うむ。」
短くそれだけを口にすると、謙信様は私の脇をすっと通り抜けて行った。一度も振り返ることなく、黒の法衣の裾をなびかせて。
……また、避けられた……。
私は打掛の袖をぎゅっと握りしめ、その背中を見送ることしかできなかった。
あの日、体勢を崩して重なり合い、触れてしまった唇。あんなのはただの不可抗力の事故だった。25歳の大人の女性として、「お気になさらないでください」と笑い飛ばして日常に戻るべきだったのだ。なのに――あのハプニング以降、謙信様は私との接触を露骨に断つようになった。
甘味の差し入れも「不要だ」と固辞され、以前なら私のお喋りに静かに耳を傾けてくれていた晩酌の席も、姿を現さなくなってしまった。
嫌われちゃったんだ……。あんな事故で触れ合っちゃって……気味悪がられてるのかな。『不犯』を誓った神聖な場所に、私が踏み込みすぎちゃったんだ……。
胸の奥が、冷たい針で突かれたようにチクチクと痛む。自分の中でどれほど謙信様の存在が大きくなっていたか、遠ざけられて初めて思い知らされた。
――そんな重苦しい空気の中、城内を激震させる報せが届いた。
越中(富山県)にて、大規模な一向一揆が勃発。一揆勢が城郭を脅かし、上杉の領国を揺るがしているという。
「……越中へ出陣する。」
大広間に重臣たちが集う中、謙信様は甲冑を身に纏い、凛とした軍神の顔で言い放った。
「一揆勢の勢いは激しい。千坂、甘粕、我ら自ら兵を率いて打ち払う!」
重臣たちが息を呑み、即座に「ははっ!」と平伏する。
私は息を詰まらせ、謙信様を見つめた。
武田の時は勝利の女神「吉祥天女として」。岐阜への使節の時も、無理やりに潜り込んではいたが、三河との交渉の時も、私は知識と知恵を頼りにされ、同行を許されてきた。今回も、私にできる手伝いがあるはずだ。
「謙信様……っ。私も、もしや……。」
私が小さく声を上げた、その瞬間。
「……葵。」
謙信様の冷たい声が、私の言葉を遮った。
「お主は、春日山に残れ。」
「え……?」
頭を殴られたような衝撃だった。
謙信様は私と目を合わせようともせず、ただ淡々と、拒絶の壁を築くように言い捨てた。
「今回は合戦だ。遊山ではない。女子を連れて行く余裕など、我が軍にはない。……大人しく城で留守居をしておれ。」
なにそれ。
武田信玄との合戦の時は、無理やりに近い形で連れて行ったのに…!勝利の女神としての「吉祥天女」も「ただの女子の私」も要らないの?謙信様の冷ややかな響きが、私の心を容赦なく打ち砕いた。
これまで「当家の至宝」とまで言って守ってくれた人が、私を完全に突き放している。自分の中に芽生えた恋心を一生懸命隠してきたつもりだったけれど、それがすべて打ち砕かれた瞬間だった。
翌朝、謙信様は一隊を率いて、寒雷の轟く越後から越中へと出陣していった。
私と言葉を交わすこともなく…。
一度も私の方を振り返ることなく。
謙信様が去って数日。私は自室に引きこもり、すっかり塞ぎ込んでいた。
「姫様……。そんなに落ち込まないでください……。」
心配そうにお茶を淹れてくれたのは、梅ちゃんだ。
「お食事も喉を通らないなんて、お体に毒です。……そうだわ! 姫様、今日はお天気も良いですし、少し城下の寺社へお参りに行きませんか? お城の中にずっと閉じこもっていては、気が滅入ってしまいます!」
「梅ちゃん……ううん、私なんかが外に出ても……」
「ダメです! 参りましょう!」
梅ちゃんに半ば強引に手を引かれ、私は着物を整えて、馬廻衆の2人と共に城下へと連れ出された。
春日山城の城下に広がる、静かな山麓の小径。
雪解け水が小川をサラサラと流れ、かすかに春の匂いが漂っている。けれど、私の心は冬の冷たさから抜け出せずにいた。
歩くこと小一時間。梅ちゃんが案内してくれたのは、山懐にひっそりと佇む古刹・青龍寺であった。静寂に包まれた境内に、線香の煙が静かに立ち上っている。
「ここ、とっても心が落ち着くお寺なんです。お参りしていきましょう、葵様。」
本堂の前に向かい、二人で静かに手を合わせる。
謙信様が、どうかご無事で戻られますように……。
遠ざけられても、傷つけられても、結局祈ってしまうのはあの人の無事ばかりだった。自分の切なさが嫌になる。
「……おや。見慣れぬ可愛らしいお嬢さん方ですね。」
静かな声に振り返ると、そこには黒の衣を纏った、おだやかな顔立ちの年配の尼僧様が立っていた。
「あ、失礼いたしました。お邪魔しております。」
私が慌てて頭を下げると、尼僧様は優しく微笑み、私をじっと見つめた。
「いいえ。……ですが、お嬢さん。お顔に深い悲しみが影を落としておられますね。何か、心に重いものを抱えておられるのでは?」
その温かな眼差しに、私は思わず目頭が熱くなった。
見ず知らずの私に、尼僧様は「どうぞ、こちらでお茶でも」と境内の小さな庵へ通してくれた。
温かい煎茶をいただきながら、私はぽつりぽつりと、自分の生い立ち(遠い異国から迷い込んできたこと)や、城での葛藤を、言葉を選びながら打ち明けた。もちろん、タイムスリップや現代の知識のことは伏せながら。
「……大切なお方に、急に遠ざけられてしまって。私、何か失礼なことをしてしまったのだと思うんです。私なんて、ただの余計な存在だったのかなって……。」
苦く笑う私を、尼僧様は静かに見つめていた。
「お相手は……春日山の御実城様でございますね?」
「え……!? な、なぜそれを……!?」
私が驚いて目を見開くと、尼僧様は寂しげに目を細め、遠い目をした。
「このお寺は……かつて、若き日の御実城様――長尾景虎様と、深いお縁があった場所なのです。」
「景虎様……?」
「ええ。……お嬢さん。『伊勢姫』様の名を、聞き及んだことはございますか?」
伊勢姫。その名を聞いた瞬間、知らない名前のはずなのに私の背中にツンと冷たい風が吹き抜けた。
「伊勢姫様は……かつて御実城様が、まだお若い頃に……ただ一人、心からお慕いされたお方でした。」
尼僧様の静かな声が、庵の中に響く。
「お二人は固い絆で結ばれておられました。ですが……乱世の過酷な運命と、家臣たちの反対によって、引き裂かれてしまったのです。伊勢姫様はこのお寺に出家され……そして、御実城様の御身と武運を祈りながら、若くしてその短い生涯を閉じられました。」
「そんな……!」
私は言葉を失った。
「…ここからは、私の考えですが…。御実城様が『生涯不犯』を誓い、妻を娶らず、神仏に身を捧げるとお決めになったのは……伊勢姫様を失われた時の、胸を裂くようなお心傷があったからこそ。あのお方にとって、人を愛することは……あまりにも重く、悲しい業なのでしょう。」
尼僧様は私の手を優しく包み込んだ。
「お嬢さん。御実城様は神仏のごときお方。……だが、それゆえにあのお方の心に深く入ろうとする女人は、激しい乱世の傷を負ってしまう。……伊勢姫様もまた、あのお方の幸せを祈りながら、静かに身を引かれました。」
「身を……引いた……__?」
「御実城様があなた様を遠ざけられるのは……ご自身の過酷な運命に、あなた様を巻き込みたくないからやもしれません。ですが……あのお方のお心には、いまも過去の深い傷と誓いが刻まれているのです。」
――過去の深い傷。
――ただ一人、心から慕った特別な女性、伊勢姫。
尼僧様の言葉が、私の胸に重く重くのしかかった。
そうだったんだ……。謙信様には、命をかけて愛した人がいたんだ……。
ハプニングで唇が触れ合った時の、あの謙信様の沈黙。あれは、私を嫌っていたからではないのかもしれない。けれど――私という存在が、謙信様にとって「不犯の誓い」や「過去の悲しい思い出」を乱す、不徳な存在だったのだ。
私なんかが、彼の高潔な心に入り込めるわけがない。
私なんて、天女などと言われているけど、本当は未来から来たただの迷子。伊勢姫様のような、彼の魂に刻まれた存在になれるはずもないのに。自分勝手に恋をして、一人で浮かれて、勝手に傷ついて……。
…バカみたいだ…。
「……ありがとうございます。教えていただいて……。」
私は尼僧様に深々と頭を下げた。
自分の愚かさと、謙信様の背負う過去の重さに、心が押し潰されそうだった。
帰りの山道。
梅ちゃんが「大丈夫ですか、姫様……?」と心配そうに顔を覗き込んできたけれど、私はうまく笑うことができなかった。
「あの、尼僧様の言われたことはお気になさることはありません。…御実城様にとって、姫様は特別なお方です。」
励ますように言葉を続ける梅ちゃんに、頷く事もできず、曖昧に笑って返した。
曇り始めた空からは、私の心を表すかの様に冷たい雨が降り始めていた。
冷たい雨に打たれながら、私は春日山城を見上げた。
届くはずのない恋心を胸の奥底に封じ込めようとすればするほど、苦しくて、胸が痛くて…息ができなくなる。
「…帰りたくない。」
気がつけば、意図せず口から溢れていた。
私の言葉に、梅ちゃんと伴次郎くん、弥三郎くんの足が止まる。
「…姫様…?」
降り頻る雨の中、私の足はぬかるみに縫い付けられたかの様に動かなかった。
私が帰ったところで…戦から戻った謙信様はきっとまた、私を避ける。こんな気持ちのまま、そんなふうにされたら…きっと、耐えられない。
「…ごめん。先に帰っててもらえる?…少し1人になりたいの。」
「姫様…。」
私の言葉に梅ちゃんがハッとした様に口元を押さえた。しかし、伴次郎くんと弥三郎くんは雨に打たれながら、泥の中に膝をつく。
「申し訳ありませんが、その命令は聞けませぬ。」
「私たちは葵様を守るための馬廻衆でございます。その任を申しつけられたのは、御実城様。…申し訳ありません…葵様のご命令よりも御実城の命が…優先で…ございます。」
伴次郎くんに次いで、弥三郎くんが絞り出す様に私に告げる。雨に打たれた2人の顔が苦しげに歪んでいた。
…そう、そうだよね。
2人が私に付いてくれるのは…謙信様の命令だから。2人の主人は私じゃ無くて、謙信様…。
……じゃぁ…私は、1人になることもできないの……?
ザァーーー!
強まる雨足。その中で私は立ち尽くしていた。
「さ、さあ、雨も強くなってきましたし、参りましょう?姫様。」
梅ちゃんの声が遠く感じる。
帰りたくない。
ここからいなくなりたい。
「…消えてしまいたい……。」
そう、ここらから願った瞬間、私の体は降り頻る雨の中、跡形もなく消え去った。




