24. 春日山のさざめきと、秘めやかな微熱
越後の厳しい冬が終わりを告げ、春日山城の山肌にもほんのりと桜の蕾が膨らみ始めていた。
「姫様〜! 大変です、伴次郎様と弥三郎様がまた稽古場で『葵様の特製のお餅をどっちが多く食べるか』で勝負を始めてしまいました〜!」
本丸の廊下を、袂をひらひらと揺らしながら走ってきたのは、侍女の梅ちゃんだ。
「ちょっと、梅ちゃん! 廊下は走っちゃダメっていつも言ってるでしょ。……それにしても、あの子たちはまたそんなバカな勝負をしてるの……?」
私は思わず額を押さえて溜息を漏らした。元・社畜時代は後輩たちのドタバタをなだめる役目だったけれど、ここ春日山城でもやっていることは大して変わらない気がする。
「だって姫様! 今日の『あんこバター風の焼き餅』、本当にほっぺたが落ちるほど美味しいんですもの! 私も伴次郎様たちの気持ち、ちょっと分かっちゃいます!」
梅ちゃんが目を輝かせて頬を染める。
三河の綿布団事業が大成功を収め、生活インフラが格段に向上した今、私はすっかり「春日山城のお料理&生活改善アドバイザー」のような立ち位置になっていた。今日作ったのは、越後特産の米粉で作ったお餅に、小豆のあんこと、隠し味に自家製の無塩バター(牛乳から手作りしたもの)を添えた現代風の甘味だ。
「もう……分かったわよ。冷めないうちに止めに行きましょう。」
私が苦笑しながら中庭の稽古場へ向かうと、そこには案の定、汗だくになった馬廻衆の若手たちと、それを取り囲む上杉家の重臣たちの姿があった。
「おいおい伴次郎、弥三郎! 剣の稽古で勝負ならまだしも、食い意地で勝負とは情けないぞ!」
豪快な大笑いとともに二人の背中をバシバシ叩いているのは、猛将として知られる柿崎景家さんだ。
「柿崎殿、そう言うな。葵殿の作られる甘味は、疲れた身体に誠にしみわたるからの。若者が夢中になるのも無理はない。」
そう言って穏やかに微笑むのは、重鎮の直江景綱さん。その横では、政務を取り仕切る千坂景親さんが帳面を手に苦笑している。
「まったく、葵様の手を煩わせるでない。……と言いつつ、直江殿、我らの分の甘味も残っておるのだろうな?」
「ふふ、千坂殿も目が笑っておらぬぞ。……おや、噂をすれば葵殿が来られた。」
重臣の方々の視線が一斉にこちらに向けられ、私は少し照れくさくなりながらお辞儀をした。
「皆様、お稽古お疲れ様です。伴次郎くんも弥三郎くんも、ケンカしないで順番に食べてね。皆様の分もちゃんとお部屋に用意してありますから。」
「「誠ですか!? 葵様、ありがとうございます!」」
伴次郎くんたちが歓声を上げる中、静かに腕を組んで佇んでいた甘粕景持さんが、ふっと口元を緩めた。
「葵様のご配慮、かたじけない。……甘粕隊の者たちも、葵様の甘味を楽しみに日々励んでおりますゆえ。」
さらには、少し離れた日陰で軍略の巻物を広げていた老将・宇佐美定満さんまでが、白い髭を撫でながら優しく目を細めた。
「ほっほ……葵殿のおかげで、この春日山城にも誠に良い風が吹くようになった。御実城様のお顔も、昔に比べて実に穏やかになられたからのう。」
重臣たちの温かい言葉に胸が熱くなる。皆さんが私を単なる居候ではなく、上杉家になくてはならない家族のように温かく迎えてくれているのが伝わってきた。
その時――。
ざっ、ざっ、と乱れのない静かな足取りとともに、廊下の奥から粛々とした気が近づいてきた。
黒の法衣を纏い、背筋をすっと伸ばした我が上杉家総大将――上杉謙信様である。
「……何の騒ぎだ?」
凛とした透き通るような声。その一言で、ワチャワチャしていた稽古場の気が一瞬で引き締まり、柿崎さんたち重臣も含めて全員がビシッと頭を下げた。
「御実城様!」
「柿崎、甘粕。臣下を集めて何を興じておる?」
謙信様が冷徹な軍神の鋭い眼差しを向けると、柿崎さんたちが「いやぁ、これは失礼!」と頭をかく。だが、謙信様の視線が私の方へ向いた瞬間、その厳格な瞳に静かな温もりが宿った。
「……葵。また皆のために甘味を作ってくれたのか。」
「あ、はい。謙信様。皆様が毎日のお稽古を頑張っていらっしゃるので……。もちろん謙信様の分も、後でお部屋にお持ちしますね。」
私が微笑んで答えると、謙信様は静かに一つ頷いた。
「……うむ。いつも配慮、かたじけない。」
その落ち着いた佇まいの奥にある深い信頼を感じ取り、宇佐美さんが「ほっほ」と意味深に微笑み、直江さんと千坂さんも静かに目を細めて頷き合っている。謙信様は背筋をすっと伸ばしたまま、静かに「……皆、持ち場へ戻れ」と告げて去っていった。そのどこまでもブレない凛とした佇まいが、美しく、そして頼もしかった。
午後。賑やかな試食会も落ち着き、城内が静かな午後の光に包まれる頃。
私は本丸の奥にある資料室(特産品や薬草などの記録が保管されている部屋)で、一人棚の整理をしていた。
えーっと、三河から届いた綿の品質記録と、次の春に植えるお野菜の種子のリストは……どこだっけ?
現代の書類整理ならクリアファイルで一発だけど、この時代は巻物と和紙の山だ。社会人の整理整頓魂が燃える。
「……あった。あの上の棚ね。」
つま先立ちになり、一番上の棚に置かれた木箱に手を伸ばす。だが、あと数センチが届かない。
うーん、もう少し……っ!
ぐっと背伸びをした、その時だった。
カサッ、と重ねて置いてあった古い文箱のバランスが崩れ、グラリと傾いた!
「わっ……!? きゃあっ!?」
足元が滑り、体勢を崩した私は、そのまま後ろへと倒れ込んだ。頭の上から重い木箱が落ちてくる気配に、私は思わずギュッと目を瞑った――。
「――危ないっ!!」
ガタァンッ!!
背後から強い力で抱きすくめられると同時に、頭上で木箱が弾け飛ぶ大きな音が響いた。ドサリと畳の上に倒れ込む衝撃。だが、私の背中や頭には一切の痛みがなかった。代わりに感じたのは私を覆うようにしてかばってくれた、大きくて温かい身体と、ほんのりと香る白檀の香煙の匂い。
「……くっ……!」
頭上で聞こえた、低く掠れた声。
「け、謙信様……!?」
目を開けると、そこには私を押しつぶさないように両腕を畳につき、私を見下ろす謙信様の姿があった。
倒れ込んだ拍子に頭巾が少しずれ、透き通るような白肌と、乱れた黒髪が落ちてきている。
「も、申し訳ありません!」
「葵……! 怪我はないか……!?」
息を整え、深く澄んだ瞳で私を覗き込む謙信様。その顔の距離が――吐息がかかるほどに近かった。
「は、はい……謙信様がかばってくださったので、私は平気です……っ。謙信様こそ、お怪我は!?」
「私は平気だ。お主が無事で……。」
謙信様が安堵の息を吐き、身体を起こそうとした――まさにその瞬間。散らばった巻物の一つに謙信様の膝が引っかかり、体勢が再びぐらりと崩れた!
「――!?」
「ッ――!」
突如として降ってきた重力。
回避する間も、身を引く隙さえもなかった。謙信様と重なり合う体勢のまま、私の唇の上に――柔らかく、温かいものが、しっかりと重なった。
「―――。」
静寂が、資料室を完全に支配した。
触れ合ったのは、謙信様の綺麗な唇だった。
ほんのりと温かく、ほんのりとお茶の香りがする、熱を帯びた感触。目の前にある、一瞬固まったように動かない謙信様の美しい双眸。私の心臓が、ドクンッ!! と大きな音を立てて跳ね上がった。
えっ……ええええええええええっ!?!?!?
脳内の思考回路が、一瞬で完全に焼き切れた。
触れ合ったままの数秒間。
謙信様は叫ぶことも、取り乱すこともなかった。ただ、深い吸気とともに、時間が止まったかのような絶大なる「沈黙」が二人を包み込んだ。
やがて、謙信様は静かに体勢を立て直すと、ゆっくりと正座の姿勢に戻る。その表情は、驚くほど冷静に見えた。慌てて弁明することも、言葉を乱すこともない。だが、その透き通るような美しい肌の下で、顎のラインがかすかに固く引き結ばれ、深く見開かれた瞳の奥には、濃密な波紋が広がっているのが分かった。
「……すまぬ。」
落ち通った、けれど低く深く響く声。
「足を滑らせ、不覚を取った。お主の身体に触れるような無礼を働き……重ねて詫びる。」
取り乱さないその姿。しかし強く握られた拳を見て、かえって彼がどれほどの衝撃を内側に押し込め、懸命に制御しているかが伝わってきて、私の胸は甘く絞めつけられた。
「い、いいえっ……! 謙信様が私を助けようとしてくださったのですから……! 事故ですから、どうぞお気になさらないでください!」
私は必死に声を振り絞り、冷静さを装ってお辞儀をした。その時、障子の外から「失礼いたします」と直江景綱さんと千坂景親さんが声をかけてきた。
「葵様、少々確認たいことが……おや? 御実城様もこちらに?」
散らばった資料と、倒れていた木箱を見た二人は、瞬時に状況を察したように深く一礼した。
「失礼いたしました。資料の整理のお手伝いを呼びに参ります。」
直江さんは何事もなかったかのように静かに障子を閉め、千坂さんも穏やかに頭を下げて下がっていった。私は重臣たちの配慮の行き届いた辞去に、助けられた心地がするが、なんとなく気まずい。
「……葵。」
「はいっ!?」
謙信様はゆっくりと立ち上がると、乱れた法衣の裾を正し、私をまっすぐに見つめた。
「怪我がないなら、何よりだ。……今日はもう部屋に戻り、身体を休めるがよい。」
「……はい。謙信様、本当にありがとうございました。」
私は真っ赤になりそうな顔をどうにか隠し、深く頭を下げて資料室を辞した。
葵が立ち去り、一人静まり返った資料室。
夕刻の薄紅色の光が、格子窓から静かに差し込んでいる中で、上杉謙信は一人佇んでいる。その静寂の中、彼はそっと己の細く美しい指先を唇へと添えた。
触れ合った瞬間の、柔らかく温かな感触。
葵の髪から匂い立つ、甘く清らかな香気。
そして――己の胸の奥底で、ドクドクと恐ろしいほどの脈動を打ち始めた、圧倒的な「熱」。
「…………。」
謙信は静かに目を閉じ、深く息を吐き出した。
生涯不犯を誓い、神仏に身を捧げて生きてきた。女人に心を乱されることなど、これまでの人生で一度としてなかったはずだ。
それなのに――。
……この熱は……何だ……?
葵が立ち去ったあとも、唇に残る痺れるような残像と、胸の奥で煮えて沸き立つような情念が、消えるどころかいっそう激しく渦を巻いていく。
慌てて言葉を飾ることも、取り乱すことも、軍神としての矜持が許さなかった。だからこそ葵の前では沈黙を守り通した。だが、一人きりになったこの空間で、謙信は初めて己の胸の内に芽生えた「一人の男としての、恐ろしいほどの欲望と切なさ」に打ち震えていた。
抱きしめたい。
神仏の加護も、生涯の誓いもすべて薙ぎ払って、愛しい女人を己の腕の中に閉じ込め、二度と放したくない――。
葵の全てを暴き…その肌に触れ…。
私の熱を……………___!
そこまで考えて、謙信は深く息を吐いた。
過去に一度だけ、若かりし頃、ある方を恋慕った時の様な穏やかで甘やかな想いとは違う。己の中で暴れ狂う激情と湧き上がる昂揚。しかし、全力でそれを無理矢理にでも謙信は押さえ込もうとした。
「…私は…また、不幸にしてしまうだろうか……伊勢姫よ……。」
謙信は静かに刀の柄に手を置き、深く息を吐きながら自らの内に激しく滾る「熱」を抑えつけるように、強く、強く拳を握り締めた。
夕闇が迫る春日山城。
一撃で敵を薙ぎ払う軍神の胸には、一人の女人によって灯された、生涯消えることのない切なく激しい炎が、深く、深く残り続けるのだった。




