22.梅錦の杯と軍神の誓いと綿の温もり
春日山城に、静かで穏やかな秋の風が吹き抜けていた。
尾張・三河からの無事の帰還、そして「三河の綿花の種」の獲得と「濃越同盟の強固な維持」という大偉業を成し遂げた報告は、上杉家中に大きな安堵と歓喜をもたらしていた。
本丸の奥、庭園を望む静寂に包まれた書院。
そこには、越後に入国した公卿の頂点・近衛前久を迎えた、格式高い宴が静かに催されていた。
上座に座すのは、背筋をすっと伸ばした上杉謙信である。その透き通るような白い肌、凛々しく切れ上がった涼やかな双眸、そして一切の隙を見せぬ気品と神威。まさに「毘沙門天の化身」と称されるにふさわしい、静謐で美しい軍神の姿がそこにあった。
「……いやぁ、驚いたよ、謙信。まさか君が自ら姿を変えて国境まで葵ちゃんを迎えに行くとは思わなかったが……その凛とした佇まいは、相変わらず絵になるねぇ。」
前久が扇子を優雅にパチリと閉じ、杯を傾けながら微笑む。謙信は表情ひとつ崩さず、静かに静謐な声を返した。
「……前久様。当家の至宝であり、大切な客人でもある葵の身に万一があれば、上杉の義がすたるゆえ。武将として当然の勤めを果たしたまでにございます。」
「ふふ、相変わらず堅いことを言う。……だが、その『至宝』が持ち帰ったこの酒は、実に見事だねぇ。」
前久が感心したように口に含んだのは、葵が春日山城の酒蔵で杜氏たちと共に仕込んでいた、越後の新酒――『梅錦』であった。
現代の清酒醸造に近い、米の雑味を極限まで削ぎ落とした澄み切ったフルーティな大吟醸仕込みの酒。
元々、越後の極上の酒をこよなく愛する謙信にとっても、この『梅錦』は魂を揺さぶるほどの絶品であった。
謙信は冷やされた薄手に削られた盃を手に取り、静かに一口含んだ。
「……澄んでおる。雪解け水の如く清らかで、米の旨味が極限まで高められておる。……素晴らしい酒だ、葵」
「ありがとうございます、謙信様!」
私は打ち掛けを整えて謙信様の少し離れた横に座り嬉しそう嬉しさのあまり微笑んだ。
「越後のお米とお水が本当に素晴らしいから出来たんです。謙信様や近衛様においしいって言っていただけて、頑張って仕込んだ甲斐がありました。」
謙信様の美しい唇が、ほんの僅かに、だが心からの温かみを帯びて緩む。
ああ……やっぱり謙信様は、凛としていて綺麗だな……。佇まいだけで絵になるっていうか、本当に神様みたいだ……。
しかし――。
謙信様が満足そうに、三杯目の盃に手を伸ばそうとした、その瞬間。
「――謙信様。駄目ですよ。」
私がすっと前に出ると、謙信様の盃を両手で優しく、だが断固とした態度で押し戻した。
「今夜のお酒は、これで『三杯目』です。今夜はもう終わりですよ。」
「……む?」
謙信様が、驚いたように綺麗な眉を少しひそめた。
「葵……。前久様をお迎えした祝宴だ。この『梅錦』は誠に味わい深く……もう少し嗜みたいのだが。」
凛とした軍神が、真面目な顔で静かに酒を求めてくる。だが、私は絶対に首を縦に振らなかった。
ダメ! 絶対にここで負けちゃダメなのよ……!
私の脳裏には、懐の中のスマホ(タッピー)から得た、歴史の過酷な事実が刻まれていた。
『補足データ:上杉謙信の史実における勝因および死因。諸説あるが、天正6年(1578年)、49歳の若さで急死。主な原因は、過度な飲酒(酒の肴としての高塩分な梅干しや塩の摂りすぎ)による脳卒中・高血圧とされる』
49歳なんて早すぎる……! 謙信様はこんなに優しくて、一生懸命で、義に生きてる人なのに……。 お酒と塩分の摂りすぎで倒れる未来なんて、私が絶対に阻止してみせる。
私は真剣な目をして、謙信様の美しい瞳を真っ直ぐに見つめた。
「謙信様。美味しいお酒を長く楽しむためには、お体を大切にすることが一番なんです。謙信様が倒れたら、越後の皆さんも、私も……どれほど悲しむかお分かりですか? お酒は一日三杯まで。塩辛い梅干しを肴に飲むのも禁止です!」
「……塩漬けの梅まで禁止とするのか……?」
謙信様は大真面目な顔で、どこか悲しそうに盃を見つめた。
静寂が漂う書院。
武将としての威厳を保ちつつも、葵の切実なお説教の前に黙って盃を置く謙信様の姿。それを見ていた近衛様が――。
「……フフッ、ハハハハハっ!!」
優雅に扇子で口元を覆いながら、腹を抱えて可笑しそうに笑い出した。
「いやぁ、素晴らしい! 誠に素晴らしい光景だねぇ!」
「……前久様。何が可笑しいのでしょうか?」
謙信が少しだけ頬をかすかに赤く染め、凛とした声で問い正す。前久は楽しそうに目を細めた。
「いやなにね。あの天下無双の『越後の龍』、神仏の化身と恐れられる上杉謙信が……一人の可憐な娘の『お体を大切に』という一言に、ぐうの音も出ずに盃を引く。……これほどの見物はないよ。信長に見せてやりたいくらいだ。」
「前久様……。私はただ、葵の申す『理』に従っておるだけです。……健康を害しては、武田や織田との大事に臨めませぬゆえ。」
謙信様はどこまでも生真面目に、筋の通った弁明を口にした。だが、その耳の先端がわずかに朱に染まっているのを、私は見逃さなかった。
謙信様……真面目すぎて可愛い……。ううん、可愛いなんて失礼だけど、本当にお義理堅くて素直な人なんだな……。
私は温かいお茶を入れると、謙信様の前にそっと置いた。
「謙信様。お酒の代わりに、この温かいお茶をどうぞ。また明日、元気なお姿でいてくだされば、私はそれが一番嬉しいです。」
謙信様は静かに私を見つめると、その大きくて温かな手でお茶の茶碗を受け取った。
「……うむ。葵……配慮、かたじけない。」
その静かで澄んだ声と、誠実な瞳。不器用で、どこまでも愚直で、美しく凛とした一人の武将としての姿。
前久は盃を傾けながら、しみじみと呟いた。
「……良い国だねぇ、越後は。冷たい雪の国だと思っておったが……ここにいると、胸が温かくなる。……雪が深くなる前に今日に帰ろうと思っていたが、帰る気持ちが弱くなってしまうな。」
秋の月光が、春日山城の書院を優しく照らしていく。
織田信長との「濃越同盟」の絆を強め、三河の「綿の種」を持ち帰り、公卿の最高峰である「近衛前久」という強力な理解者を得た上杉家。
春日山城は温かく、賑やかな秋の夜長を迎えていた。
越後に、三度目の秋が巡ってきた。
澄み渡る青空の下、春日山城の城下に広がる新田には、地平線まで届くかのような黄金色の穂波が風に揺れていた。
「――葵様、今年も見事でございますな!」
鋸鎌を手に、汗を拭いながら笑いかけてくれたのは、村の農民たちだ。
私がが越後にやって来てから持ち込んだ土壌改善や水路の整頓、そして肥料の工夫が実を結び、収穫量は初年度の倍近くにまで増加していた。
もう、三回目の稲刈りか……。
黄金色の稲穂を手際よく刈り取りながら、私はふっと感慨に耽っていた。
現代日本でOLをしていた頃は、米と言えばスーパーで買う5キロの袋か、コンビニのおにぎりくらいしか意識したことがなかった。だが、この世界で土に触れ、汗を流し、民と共に季節を越えるうちに、25歳の私の身体にはすっかり「越後の秋」が染み付いていた。
「葵、無理を致すな。」
静かな声とともに、頭上から優しい影が落ちた。
振り返ると、作業着として着物の袖をたすき掛けにした、凛々しい佇まいの謙信様が立っていた。
今年は手には自ら鎌を持ち、私と同じように汗を流して稲を刈っていたのだ。領主でありながら、収穫の時期には自ら田に入り、民と共に汗を流す。その生真面目さと義の深さは、出会った頃から何一つ変わっていない。
「大丈夫です、謙信様! 私ももう三回目ですから、手つきも様になってきたでしょう?」
「ふ……確かにな。手慣れたものだ。だが、お主の肌は繊細ゆえ、稲穂で傷をつけるな。」
そう言って、謙信様は懐から手ぬぐいを取り出すと、私の額に浮かんだ汗を優しく拭ってくれた。
その手つきがあまりに丁寧で、そして眼差しがあまりに温かく、私は胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じた。
「おや、相変わらず睦まじいことで。見ているこちらが照れてしまうねぇ。」
田んぼの畦道から、扇子を優しく仰ぎながら声をかけてきたのは、越後に居座っている近衛前久様だ。公卿の最高峰でありながら、すっかり越後の風土が気に入った様子の前久さんは、楽しそうに私たちを眺めている。
「前久様、冷やかしはおやめください。」
謙信様はすっと表情を引き締め、いつもの凛とした軍神の顔に戻るが、耳の先端がほんのり赤いのは隠せていない。
「ハハ、冷やかしてなどいないよ。……しかし見事な稲穂だ。越後の豊かさは、君たちの試みが結実したものだね。」
「はい! でも、今年のみどころは、お米だけじゃないんですよ!」
私は刈り取った稲穂を束ねながら、自信満々に笑ってみせた。
稲刈りが無事に終わり、秋の深まりとともに越後に冷たい風が吹き始める頃。
私は城の一角にある作業場で、三河から持ち帰った「綿の種」から育て、無事に収穫・精製を終えた白くフワフワの綿を前にしていた。
「さあ……いよいよ本番よ!」
この時代、越後をはじめとする北国の防寒着や寝具と言えば、藁や麻布の中に葛の繊維や麻くずを詰めたものが主流だった。ゴワゴワとして固く、隙間風を通しやすいため、越後の厳しい冬を乗り越えるのは本当に命がけなのだ。
そこで私が思い立ったのが、「現代風の綿布団(敷布団と掛け布団)」の製作だった。
タッピーで【綿布団 仕立て方 打ち綿】の工程を確認しつつ、越後の優秀な針子さんたちや職人さんたちに協力してもらった。
職人さんに作ってもらった道具で綿を打ち、ふっくらと空気を含ませる。それを丈夫に織られた布の上に均等に敷き詰め、何層にも重ねてから、しっかりと針で縫い留めていく。
「……できた……っ!」
数日間の試行錯誤の末、ついに完成したのは、ふっくらと分厚く、吸い込まれるように柔らかい「敷布団」と、軽く包み込むような「掛け布団」のセットだった。手で押し込むと、吸い付くような弾力とともに、ふわっと元に戻る。
うわぁ……! 現代の高級羽毛布団とまではいかなくても、この時代の藁床とは比べものにならない……! これなら絶対に暖かい!
その日の夜。
仕事を終え、本丸の奥にある自室で書状に目を通していた謙信様のもとへ、私は出来上がったばかりの布団を抱えて向かった。
「謙信様、失礼いたします!」
「葵か。夜遅くにどうした……ん?」
謙信様が文机から顔を上げ、私が大事そうに抱えてきた大きな大きな布の塊を見て、美しくも凛々しい眉をひそめた。
「それは……何だ? 膨らんだ布のようだが?」
「フフフ、これぞ三河の綿を使って作った、私の特製『綿布団』です! 謙信様、ぜひ一度、この上になってみてください!」
私は畳の上に敷布団をふんわりと広げ、その上に掛け布団をセットした。
謙信様は不思議そうに私と布団を見比べながら、意を決したように静かに立ち上がると、敷布団の上へと腰を下ろした。
その瞬間――。
「……っ!?」
謙信様の綺麗な双眸が、驚きで大きく見開かれた。
身体の重みを優しく受け止め、包み込むような沈み込み。固い畳の感触が一切消え去り、まるで雲の上に浮いているかのような柔らかさが身体を包む。
「な……何だ、この柔らかさは……。まるで包み込まれるような……。」
「どうぞ、横になって掛け布団も掛けてみてください。」
言われるままに謙信様が身を横たえ、私が上からふんわりと掛け布団を掛けると、謙信様はしばらくの間、声も出せずに絶句していた。
体温が逃げず、綿の中に閉じ込められた暖かい空気が、じわじわと謙信様の身体を包み込んでいく。
「……暖かい……。藁や麻とは、まるで違う。……重みを感じぬのに、ぬくもりが全身を巡るようだ……。」
謙信様は静かに感嘆の息を漏らすと、寝返りを打ち、自分の手で布団の端をぎゅっと握りしめた。
普段は一切の隙を見せず、背筋を伸ばして甲冑や法衣を纏っている謙信様が、ふかふかの布団の中でどこか肩の力を抜き、心地よさそうに目を細めている。
その無防備で穏やかな表情に、私の胸の中に温かい愛おしさがこみ上げてきた。
良かった……。
茣蓙で寝るのはしんどいから布団が欲しかったけど、私だけじゃなくて、謙信様にも……少しでも温かく、ぐっすり眠ってほしかったんだ。
私は布団の脇にひざづくと、溢れる気持ちを抑えながら、静かに語りかけた。
「謙信様。越後の冬はとても厳しくて冷え込みます。謙信様には、少しでも温かいお布団で体を休めて、明日への英気を養っていただきたかったんです。……お気に召していただけましたか?」
謙信様はゆっくりと目を開けると、布団の中から私をじっと見つめた。
その瞳には、いつも家臣の前で見せる軍神の影はなく、深い感謝と、そして言葉に尽くせぬ誠実な情愛が揺れていた。謙信様は布団からそっと手を伸ばすと、私の手を包み込むように握りしめた。
「……葵。」
「はい。」
「お主は……どこまで私の心を揺さぶるのだ。……このぬくもりは、ただの綿の暖かさではない。私を案じる、お主の心がこもっておるゆえに……これほどまでに温かいのだな。」
「謙信様……。」
「……かたじけない。この感謝を、言葉だけで表すことはできぬ。」
謙信様は私の手を握ったまま、愛おしそうに額を私の手にそっと寄せた。
妻を娶らず、生涯不犯の誓いを抱えて生きてきた武将の「愛情表現」。欲望や世俗の愛憎ではない。己の命よりも大切な存在として私を尊重し、寄り添ってくれるその温かさに、私の目にもじわりと涙が浮かんだ。
もう……本当に、ずるい人なんだから……。
報われない想いならば…と、固く閉ざし蓋をして鍵をかけたのに…いつも簡単にそれを解き開いてしまう。謙信様のこの素直で不器用な誠実さに触れるたび、私の胸は甘く締め付けられてしまうのだった。
「……ふふ、謙信様。今夜はこのお布団で、ゆっくりお休みくださいね。」
「うむ。……葵、今夜は良い夢が見られそうだ。」
ふんわりとした綿のぬくもりに包まれながら、謙信様は穏やかな微笑みを浮かべて目を閉じた。
三度目の秋が過ぎ、厳しい冬が訪れようとしている越後。
だが、この城には、黄金の穂波がもたらした豊かな実りと、私たちが育てた綿が織りなす優しい温もりが、確かに満ちていたのだった。




