21.山道の邂逅と不識の影
織田信長様をはじめとする織田家の面々に盛大に見送られ、岐阜城を後にした私たちは、着々と越後への帰路をたどっていた。
三河の徳川家康様から贈られた極上の綿と綿花の種、そして織田家との「濃越同盟」の揺るぎない絆。使節団としての最大の使命を果たした達成感に包まれながらも、数日間にわたる長旅は、確実に私の体力を削り取っていた。
「……はぁ。さすがに歩き疲れた……。」
美濃と信濃の国境に近い、うっすらと木漏れ日が差す寂れた街道沿い。私は思わず溜息を漏らし、信長さんから半ば強引に押し付けられた旅装束の笠を取った。
現代なら新幹線や車であっという間の距離も、戦国時代では一歩一歩、己の足で稼ぐしかない。25歳、元・現代日本のOL。いくら最近農作業をして体力をつけたからといえこの峠越えはなかなか骨が折れる。
「葵様。もう、一息でございます。ほれ、茶屋がございます。そこで休憩しましょう。」
山崎さんが私を気遣って声をかけてくれる。
すると、前方で何やら尋常ではない怒号と、場違いに呑気な声が聞こえてきた。
「これ! 銭が足りぬとはどういうことだ! 一杯の茶とダンゴでこの金額、喰い逃げのつもりか!?」
「いやいや、茶屋の親父殿、そう怒られな。当方に生憎と手持ちの銭はないが、この美しい歌を一詠み進呈しよう。京でも評判の風流な一首ゆえ、これで手を打ってはくれぬか?」
「歌で腹が膨れるか! えぇい、身ぐるみ剥ぎ取って売り飛ばしてやる!」
街道の脇にある小さな茶屋の前で、体格のいい店主が、身なりの良い一人の男の胸ぐらを掴んで揺さぶっていた。
巻き込まれている男は、やたらと顔立ちの整った端正なイケメンだ。上質な着物を着ているというのに、懐は完全に空っぽらしい。
……歌で茶代を払おうとするなんて、どんな風流すぎる無一文かしら……?
見過ごすわけにもいかず、私は苦笑しながら駆け寄った。打掛の襟の合わせ(懐)に手を入れると、小さな巾着から文銭を数枚取り出し、憤慨する店主に手渡した。
「親父さん、落ちついてください。この方のお代は私が代わりに払いますから、どうか勘弁してあげてくださいな。」
「む……? おや、お嬢さん。かたじけない、助かったよ!」
銭を受け取った店主が忌々しそうに奥へ引っ込むと、助けられた男は扇子をパッと開いて、優雅に微笑んで見せた。
「いやぁ、助かったよ、可愛らしいお嬢さん。世を忍ぶ旅とは言え、一腹の空腹には勝てぬものだねぇ。私は近衛前久と申す。見ての通り、ただの風流な旅人さ。」
「近衛……前久……様?」
聞き覚えのある名前に、私は一瞬首を傾げた。
近衛って…なんか現代でも偉い人の名前の様な…?
胸の前で懐からスマートフォンを滑り出させ、液晶画面を素早くフリックする。
タッピー、近衛前久について教えて。
頼れる相棒・タッピーが、瞬時に画面へ回答を弾き出した。
『回答します。近衛前久。元・関白。朝廷の最高権力者でありながら、自ら馬を駆り、弓を射て全国を巡る型破りな公卿です。上杉謙信とは旧知の仲であり、のちに深交を結ぶ重要人物です。』
ええっ……!? 元・関白様!? 朝廷のトップ中のトップじゃないの……!?
歴史にあまり詳しくない私でも、「関白」という役職の重みくらいは理解できる。そんな貴族の最高峰が、なぜこんな山道の茶屋で無一文でお団子を食べて揉めているのか。
後ろから追いついてきた使節団の長・山崎秀仙さんが、その顔を見るなり「ひっ……!?」と白目を剥いてひっくり返りそうになっていた。
「か……関白殿下!? な、なぜこのような場所に……!?」
前久さんは「ハハハ、お堅い肩書きは言いっこなしだよ」と軽やかに笑い、私の顔を興味深そうに覗き込んできた。
「君、お名前は? どこから来たのかな?」
「あ……私は越後から参りました、葵と申します。」
「越後! 越後と言えば、あの生真面目な毘沙門天・上杉謙信の国じゃないか。いやぁ、君、なんだかとても面白い空気を纏っているね?」
前久さんは公卿の最高峰という重々しい立場でありながら、驚くほどフランクで型破りだった。茶屋の丸太ベンチに腰掛け、私がタッピーの検索データをカンニングしながら「京で今流行っているという新しいお茶の嗜み方」や「現代的な業務効率化の考え方(要するにサボらず賢く働く方法)」を噛み砕いて話すと、前久さんは目を輝かせて膝を打った。
「素晴らしい! 君のその話、実に知的で合理的だねぇ! 謙信も、こんな魅力的なお嬢さんを越後に囲い込んでいたとは、何とも羨ましい限りだ。」
「前久様も、朝廷の複雑な人間関係でお疲れでしょう。たまには肩の力を抜いて息抜きをなさらないと、お体が持ちませんよね。」
「フフ、君にそう言われると、本当に気が楽になるよ。いやぁ、君とは良い酒が飲めそうだ。」
「酒といえば、私、越後で新しいお酒を作ったのです。濁りがなく透明なお酒です。ぜひ、ご賞味いただきたいです。」
たった数時間の会話で、私と前久さんはすっかり波長が合い、まるで気の置けない旧知の仲のように意気投合してしまったのだった。
――だが。
その和やかな時間を打ち破るように、山林の奥から不穏な羽音のような地鳴りが近づいてきていた。
ザザザザザッ!!
「囲めぇぇぇっ!! 織田と上杉の同盟の使者どもを逃すな!!」
突如として、竹槍や太刀を手にした数百人の竹束・武装集団が、山道を取り囲んだ!
その額には、「進者往生極楽、退者無量地獄」の文字が記された異様な情熱を宿す鉢巻が巻かれている。
「ひぃぃぃっ!? い、一向一揆の残党――っ!?」
山崎さんが悲鳴を上げる。
千坂さんが教えてくれた信長様の一向一揆弾圧の話。たぶん、織田と上杉が手を組んだ「濃越同盟」の成立を快く思わない過激派の残党が、使節団の隙を狙って待ち伏せしていたのだろう。
「お嬢をお守りしろっ!!」
伴次郎くんと弥三郎くんが素早く刀を抜き、使節団の馬廻衆(護衛兵)たちが即座に円陣を組む!
「お嬢、俺たちの後ろへ!」
伴次郎くんが叫び、迫る竹槍を刀の柄で弾き飛ばす!
「一歩もお下がり召さるな!」
弥三郎くんが鋭い踏み込みで敵の刃を往なす!
驚いたことに、公卿であるはずの近衛前久さんまでが、懐から小太刀を抜き放つと「いやぁ、旅の途中で戦とは風流じゃないねぇ!」と、見事な身こなしで敵の攻撃を交わし、鮮やかに牽制してみせた。
タッピーが教えてくれた史実通りの実に弓馬と武術に長けた武闘派公卿である。
だが――相手の数が圧倒的すぎた。
「ぐわぁっ!」「無念……っ!」
一揆勢の圧倒的な数の暴力の前に、護衛兵が次々と倒れ、伴次郎くんや弥三郎くんも肩や足に傷を負って追い詰められていく。
「くっ……多勢に無勢……かっ!」
弥三郎くんが肩で息をし、膝をつく。
「ハハハ! 観念しろ! その豪奢な衣服の女を引っ立てろ! 織田と上杉への見せしめにしてやる!」
数人の男たちが、血走った目で私へ向かって手を伸ばしてきた――!
……しまっ……!
足が竦み、逃げ場がない。私が死を覚悟して目を瞑った、その瞬間――!
――ガキンッッッ!!!!!
空を切り裂くような重厚な金属音が響き渡り、私に伸びていた男の太刀が、一瞬で粉々に砕け散った!
「がはっ……!? な、なんだ……!?」
次の瞬間、笠を被り僧衣を纏った人影が、太陽を背にして舞い降りた。
「何やつ!?」
「葵様から離れろ!!」
しかし、その僧侶の手元を見た瞬間、伴次郎くんと弥三郎くんの目が見開かれる。その手に握られているのは、清廉なる光を放つ名刀・姫鶴一文字!
「なんだテメェ!?」
「死ねーーー!」
シュババババッ!
一閃。
目にも留まらぬ速さで繰り出された刃の前に、私に迫っていた一揆勢が、手応えすら残さず薙ぎ払われた。
「な……なんだ奴はぁぁぁっ!?」
動揺する敵群。
漆黒の僧衣を纏った男は、静かに刀の血を払うと、ゆっくりと私の方を振り返った。そして、ゆっくりと被っていた笠を落とす。透き通るように白い肌、凛々しく切れ上がった涼やかな双眸。そこには、圧倒的な威厳と、静かな神威が宿っていた。
「ま、さ……まさか……っ!?」
山崎さんが、伴次郎くんが、弥三郎くんが、開いた口が塞がらない顔で絶叫した。
「「「「お、御実城様ぁぁぁぁぁっっ!?!?!?」」」」
「謙信……様……!?」
私も思わず息を呑んだ。
そこに立っていたのは、越後の春日山城にいるはずの、我が上杉家総大将――上杉謙信様本人であった。
だが、謙信様は至極真面目な顔のまま、静かに首を横に振った。
「……違う。私は謙信などという大名ではない。」
「え……?」
謙信様は背筋をすっと伸ばし、堂々たる佇まいで静かに言い放った。
「……私は、修行の身である旅の僧……『不識庵』だ。……義を重んじる我が心が、危険に晒された尊き使節と、……我が天女を放っておけず、迎えに来ただけの……ただの修行僧に過ぎぬ。」
「「「「!!!???」」」」
全員が理解に苦しむ中、物陰から二十名近いの軒猿たちが現れた。
「う、嘘でしょ?」
思わず言葉が溢れる。
不識庵って! 確かに、謙信様は出家されているからお坊さんだけれども!
わざわざ僧侶の変装をして、軒猿(忍び)を引き連れて国境まで迎えにきてくれたと言うの?
「葵。」
謙信様は周りの混乱など意にも介さず、私へと一歩歩み寄った。その大きな手で私の肩を優しく、けれど絶対に解けない強固な力で引き寄せた。
「……無事か。……怪我はないな?」
その静かな声の奥に、かすかな震えが混ざっていた。
義と信仰に生きる「毘沙門天の化身」が、一人の人間として、私を本気で心配し、居ても立っても居られずにここまで駆けつけてくれたのだ。
その時――。
「……フフッ、ハハハハハっ!!」
一揆勢を背後から軒猿たちが速やかに制圧していく中、その光景を見ていた近衛前久さんが、優雅な扇子で口元を覆いながら大爆笑を始めた!
「いやぁぁぁっ! 素晴らしい! 実に素晴らしいものを見せてもらったよ!」
前久さんは楽しそうに目を細め、謙信様を指さした。
「あの『越後の冷徹な軍神』と呼ばれた上杉謙信が! 一人の女子のために僧侶の変装をして国境まで駆けつけ、『我が天女を迎えに来た不識庵だ』だと!? ハハハハ! 謙信、君も随分と人間臭くなったなぁ!」
「……近衛前久殿?」
謙信様はほんのわずかに目を見開くと、凛とした声で言葉を返した。
「……前久様。当家の至宝であり、大切な存在である葵の身に万一があれば、上杉の義がすたるゆえ。武将として当然の勤めを果たしたまでにございます。」
「フフ、相変わらず言い訳まで堅いねぇ。だが、その瞳を見れば分かるよ。」
前久さんはパチンと扇子を叩くと、実に愉快そうな笑みを浮かべた。
「決めたよ! 私はこのまま越後へついて行く! 謙信がこれほどまでに心を揺さぶられ、この葵ちゃんという素晴らしい天女がいる越後……見に行かない手はないじゃないか!それに、葵ちゃんの作った透明な酒ものんでみたいしな。」
「えっ……関白様が越後に……!?」
山崎さんがまたしても泡を吹きそうになる。
「……好きにされるがいい。」
謙信様は静かに息を吐くと、固まったままの私に向かって手を差し伸べた。
「行くぞ、葵。近くに馬が停めてある。……二度と我がそばを離れるな。」
「……はい、謙信様。」
その毅然とした立ち姿と、不器用ながらも深い誠実さに胸に熱がこみあげる。
前久さんの大爆笑と使節団の安堵の声が混ざり合う中、私たちは最高の成果と、まさかの最高幹部(近衛前久)を携えて、凛とした謙信様と共に、夕焼けに染まる越後へと帰還するのだった。




