第9話 看取りの返却
「ベルタ。母は、先王陛下の絵を、描き直していたの?」
その夜、夕食の皿を下げているベルタの背中に、わたしは聞いた。
ベルタの手から、木の匙が落ちた。
「……お聞きになって、いたんですね」
「聞こえるように、話していたのではなかったの?」
「とんでもない」
ベルタは、匙を拾って、前掛けで拭いた。何度も、何度も。もう十分きれいなのに。
「奥様に、口止めされていたんです。お嬢様には言うな、と。言えば、お嬢様はきっと、あの絵の布を外してしまうから、と」
「母は、何を描き直していたの」
「存じません。わたしは、絵のことは分かりませんから。ただ、奥様が、毎日あの部屋にこもって、筆を握っていらしたことだけです。亡くなる前の秋から、冬まで」
ベルタは、竈の火を見つめた。
「最後の頃には、もう、手首まで灰色で。筆を持つのもやっとで。それでも、奥の間へ行くと言ってきかなかった」
「…………」
「お嬢様。あの絵の布だけは、どうか」
「外さないわ」
わたしは言った。
「今は、まだ」
*
次の日、わたしは、工房の奥の書棚の前に座った。
グラウベルク家の帳面は、初代から全部残っている。四一〇年から、母が死んだ六一〇年まで。二百年分。革の背表紙が、書棚の三段を埋めている。
母が何をしていたのか、知りたかった。
知るためには、まず、母が何を知っていたのかを知らなければならない。
いちばん古い一冊を取り出した。
表紙の革は黒ずんで、角がすり切れている。中の紙は黄ばんで、ところどころ、虫が食っていた。
最初のページに、細い、角ばった字で、一行だけ書いてあった。
『国難の間に限り、これを預かる』
初代ヘルミーネの字だった。
*
初代の帳面は、今の帳面と、書き方が違っていた。
今は、預かった日と、預けた人と、預かったものしか書かない。初代は、その下に必ず、もう一行書いていた。
『いつ返すか』
そして、その欄が、埋まっているものが多かった。
『四一二年、春。騎士ヨハン。戦場の恐怖。――四三〇年冬、老いて床に伏したるとき、返す』
『四一五年、夏。商人の妻エルナ。子を亡くしし悲しみ。――四一九年、次の子を授かりし日、本人の願いにて返す』
『四二一年、秋。グレゴール侯。弟を陥れし罪。――侯の死の床にて、返す』
ページをめくるたびに、同じ言葉が続く。返す。返す。返す。
初代の頃、預かりは、ずっと持っておくためのものではなかったのだ。
つらい時を越えるために、少しのあいだ、預かる。そして、本人が受け止められるようになったら、返す。最後に返すのは、死の床だった。
四三二年冬の記録に、こう書いてあった。
『グレゴール侯、死の床にて引き取らる。侯、泣きて曰く。これでやっと、わが顔で死ねる』
*
二代目、三代目、四代目の帳面にも、同じ欄があった。
四代目の帳面の終わりのほうに、こう書いてあった。
『五二一年、春。われ七十九にして、なお筆を握る』
七十九歳。
わたしは、ページを持つ手を止めた。
グラウベルク家の画家は、誰も三十五を越えずに死ぬ。そう聞いて育った。母も、祖母も、曾祖母も。
けれど、初代から四代目までは、違ったのだ。
初代ヘルミーネは、六十八で死んだと書いてある。二代目は七十一。三代目は六十五。四代目は八十二。
皆、白髪になるまで、生きていた。
*
五代目の帳面を開いて、わたしは、あることに気づいた。
『いつ返すか』の欄が、なくなっていた。
四九七年の春から。
その年の最初のページに、別の紙が貼りつけてあった。王家の紋の入った、勅令の写しだった。
『看取りの返却は、預け主の尊厳を損なうゆえ、これを廃す。預かりし影は、預かり役が永く持つべし』
看取りの返却。死の床で、本人が預けたものを引き取る作法。
それが、廃止されていた。
死に際に、自分の罪や後ろめたさを思い出して苦しむのは、貴族の尊厳にかかわる。だから、預けたものは、預けたまま死ぬのがよい。
そういう理屈だった。
*
勅令の写しの、次の行に、五代目の字で、何か書いてあった。
けれど、その行は、刃物で削り取られていた。紙の表面が薄く剥がれて、文字の形がほとんど残っていない。
わたしは、帳面を窓辺へ持っていった。
午後の光を、紙に斜めに当てる。削られた跡に、ほんのわずかな凹凸が浮かび上がった。ペン先が紙を押した跡だ。
ゆっくりと、指でなぞった。
『看取りの返却なくば、預かりし影は』
次の数文字は、読めなかった。
その先に、もう一語だけ、かすかに残っていた。
『いずこへ』
*
五代目ローザは、三十一で死んだ。
五代目の帳面の最後のページに、六代目の字で、そう書き添えてあった。
六代目クララは、二十八。
七代目エルザは、三十三。
八代目マルガレーテ、わたしの母は、二十九。
四九七年に看取りの返却がなくなってから、グラウベルク家の画家は、急に、早く死ぬようになった。
鉛白の毒のせいだと、皆が言った。わたしも、そう信じていた。
でも、鉛白なら、初代も四代目も、同じように使っていたはずだ。
わたしは、自分の右手を見た。
人差し指だけ、第一関節まで。中指と薬指は、第二関節まで。夜明け前の空を、灰で薄めたような色。
どの顔料にもない色。
看取りの返却がなければ、預かった影は、どこへ行くのか。
*
夕方、帳面の山を片づけていると、ベルタが戸口から顔を出した。
「お嬢様。修復師の方が、お見えです」
「ノアさんが?」
ノアは、工房の戸口に立ったまま、中に入ろうとしなかった。腕に、古い帳面を一冊、抱えていた。わたしの家のものではない。王立画廊の修復記録だ。
「聞きたいことがある」
ノアは、前置きもなく言った。
「君の家の帳面に、歴代の預かり役の、死んだ年は書いてあるか」
わたしは、作業台の上に広げたままの、五代目から八代目までの帳面を見た。
「……ちょうど、今、それを見ていたところです」
ノアは、少しだけ眉を上げた。
それから、抱えていた修復記録を、作業台の上に置いた。
「画廊の記録にも、書いてある。修復師は、絵の傷みを記録する。描いた画家の名前も。画家が死ねば、それも」
ノアは、記録のあるページを開いた。
五九四年の欄の、余白。古いインクで、走り書きのような字があった。
『預かり役エルザ殿、染み、手首に至る。翌月、逝去。何もできず』
「当時の修復師の書き込みだ」
ノアは、わたしの右手を見た。手袋の上から。
「君の母上のときも、手首までだったと聞いた」
「……はい」
「鉛は、手首まで這い上がらない」
ノアの声は、平らだった。けれど、修復記録を押さえる指に、力が入っていた。
「少し、時間をくれ。調べたいことがある」




