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婚約破棄されたので、お預かりしていた肖像画をすべてお返しします【連載版】  作者: 年商1億
第一部 二百十二個ございます

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第9話 看取りの返却

「ベルタ。母は、先王陛下の絵を、描き直していたの?」


 その夜、夕食の皿を下げているベルタの背中に、わたしは聞いた。


 ベルタの手から、木の匙が落ちた。


「……お聞きになって、いたんですね」


「聞こえるように、話していたのではなかったの?」


「とんでもない」


 ベルタは、匙を拾って、前掛けで拭いた。何度も、何度も。もう十分きれいなのに。


「奥様に、口止めされていたんです。お嬢様には言うな、と。言えば、お嬢様はきっと、あの絵の布を外してしまうから、と」


「母は、何を描き直していたの」


「存じません。わたしは、絵のことは分かりませんから。ただ、奥様が、毎日あの部屋にこもって、筆を握っていらしたことだけです。亡くなる前の秋から、冬まで」


 ベルタは、竈の火を見つめた。


「最後の頃には、もう、手首まで灰色で。筆を持つのもやっとで。それでも、奥の間へ行くと言ってきかなかった」


「…………」


「お嬢様。あの絵の布だけは、どうか」


「外さないわ」


 わたしは言った。


「今は、まだ」


*


 次の日、わたしは、工房の奥の書棚の前に座った。


 グラウベルク家の帳面は、初代から全部残っている。四一〇年から、母が死んだ六一〇年まで。二百年分。革の背表紙が、書棚の三段を埋めている。


 母が何をしていたのか、知りたかった。


 知るためには、まず、母が何を知っていたのかを知らなければならない。


 いちばん古い一冊を取り出した。


 表紙の革は黒ずんで、角がすり切れている。中の紙は黄ばんで、ところどころ、虫が食っていた。


 最初のページに、細い、角ばった字で、一行だけ書いてあった。


『国難の間に限り、これを預かる』


 初代ヘルミーネの字だった。


*


 初代の帳面は、今の帳面と、書き方が違っていた。


 今は、預かった日と、預けた人と、預かったものしか書かない。初代は、その下に必ず、もう一行書いていた。


『いつ返すか』


 そして、その欄が、埋まっているものが多かった。


『四一二年、春。騎士ヨハン。戦場の恐怖。――四三〇年冬、老いて床に伏したるとき、返す』


『四一五年、夏。商人の妻エルナ。子を亡くしし悲しみ。――四一九年、次の子を授かりし日、本人の願いにて返す』


『四二一年、秋。グレゴール侯。弟を陥れし罪。――侯の死の床にて、返す』


 ページをめくるたびに、同じ言葉が続く。返す。返す。返す。


 初代の頃、預かりは、ずっと持っておくためのものではなかったのだ。


 つらい時を越えるために、少しのあいだ、預かる。そして、本人が受け止められるようになったら、返す。最後に返すのは、死の床だった。


 四三二年冬の記録に、こう書いてあった。


『グレゴール侯、死の床にて引き取らる。侯、泣きて曰く。これでやっと、わが顔で死ねる』


*


 二代目、三代目、四代目の帳面にも、同じ欄があった。


 四代目の帳面の終わりのほうに、こう書いてあった。


『五二一年、春。われ七十九にして、なお筆を握る』


 七十九歳。


 わたしは、ページを持つ手を止めた。


 グラウベルク家の画家は、誰も三十五を越えずに死ぬ。そう聞いて育った。母も、祖母も、曾祖母も。


 けれど、初代から四代目までは、違ったのだ。


 初代ヘルミーネは、六十八で死んだと書いてある。二代目は七十一。三代目は六十五。四代目は八十二。


 皆、白髪になるまで、生きていた。


*


 五代目の帳面を開いて、わたしは、あることに気づいた。


『いつ返すか』の欄が、なくなっていた。


 四九七年の春から。


 その年の最初のページに、別の紙が貼りつけてあった。王家の紋の入った、勅令の写しだった。


『看取りの返却は、預け主の尊厳を損なうゆえ、これを廃す。預かりし影は、預かり役が永く持つべし』


 看取りの返却。死の床で、本人が預けたものを引き取る作法。


 それが、廃止されていた。


 死に際に、自分の罪や後ろめたさを思い出して苦しむのは、貴族の尊厳にかかわる。だから、預けたものは、預けたまま死ぬのがよい。


 そういう理屈だった。


*


 勅令の写しの、次の行に、五代目の字で、何か書いてあった。


 けれど、その行は、刃物で削り取られていた。紙の表面が薄く剥がれて、文字の形がほとんど残っていない。


 わたしは、帳面を窓辺へ持っていった。


 午後の光を、紙に斜めに当てる。削られた跡に、ほんのわずかな凹凸が浮かび上がった。ペン先が紙を押した跡だ。


 ゆっくりと、指でなぞった。


『看取りの返却なくば、預かりし影は』


 次の数文字は、読めなかった。


 その先に、もう一語だけ、かすかに残っていた。


『いずこへ』


*


 五代目ローザは、三十一で死んだ。


 五代目の帳面の最後のページに、六代目の字で、そう書き添えてあった。


 六代目クララは、二十八。


 七代目エルザは、三十三。


 八代目マルガレーテ、わたしの母は、二十九。


 四九七年に看取りの返却がなくなってから、グラウベルク家の画家は、急に、早く死ぬようになった。


 鉛白の毒のせいだと、皆が言った。わたしも、そう信じていた。


 でも、鉛白なら、初代も四代目も、同じように使っていたはずだ。


 わたしは、自分の右手を見た。


 人差し指だけ、第一関節まで。中指と薬指は、第二関節まで。夜明け前の空を、灰で薄めたような色。


 どの顔料にもない色。


 看取りの返却がなければ、預かった影は、どこへ行くのか。


*


 夕方、帳面の山を片づけていると、ベルタが戸口から顔を出した。


「お嬢様。修復師の方が、お見えです」


「ノアさんが?」


 ノアは、工房の戸口に立ったまま、中に入ろうとしなかった。腕に、古い帳面を一冊、抱えていた。わたしの家のものではない。王立画廊の修復記録だ。


「聞きたいことがある」


 ノアは、前置きもなく言った。


「君の家の帳面に、歴代の預かり役の、死んだ年は書いてあるか」


 わたしは、作業台の上に広げたままの、五代目から八代目までの帳面を見た。


「……ちょうど、今、それを見ていたところです」


 ノアは、少しだけ眉を上げた。


 それから、抱えていた修復記録を、作業台の上に置いた。


「画廊の記録にも、書いてある。修復師は、絵の傷みを記録する。描いた画家の名前も。画家が死ねば、それも」


 ノアは、記録のあるページを開いた。


 五九四年の欄の、余白。古いインクで、走り書きのような字があった。


『預かり役エルザ殿、染み、手首に至る。翌月、逝去。何もできず』


「当時の修復師の書き込みだ」


 ノアは、わたしの右手を見た。手袋の上から。


「君の母上のときも、手首までだったと聞いた」


「……はい」


「鉛は、手首まで這い上がらない」


 ノアの声は、平らだった。けれど、修復記録を押さえる指に、力が入っていた。


「少し、時間をくれ。調べたいことがある」


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