第10話 修復記録(ノア視点)
王立画廊の記録庫は、地下にある。
ノア・ベックは、燭台を片手に、石の階段を下りた。湿った紙と、黴と、古い膠の匂い。修復師になってから、何百回と嗅いできた匂いだ。
「ハンス爺さん。また借りるぞ」
記録庫番のハンス老人は、八十を過ぎている。耳が遠く、机に突っ伏して眠っていることが多い。ノアの声に、片手だけ上げて応えた。起きてはいるらしい。
ノアは、四一〇年からの購入記録の棚の前に立った。
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知りたいことは、三つあった。
一つ目。グラウベルク家の画家が、本当に鉛白を使っていたのか。
二つ目。歴代の預かり役が、いつ、どんな死に方をしたのか。
三つ目。あの染みが、何なのか。
一つ目は、すぐに分かった。
四一〇年から毎年、同じ行がある。
『鉛白 二斤 グラウベルク工房へ』
二百年間、一年も欠かさずに。初代の頃から、量は変わらない。
つまり、初代も、四代目も、母上も、同じ量の鉛白を使っていた。
それなのに、初代から四代目は白髪まで生き、五代目からは三十前後で死んでいる。
鉛のせいではない。
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二つ目は、修復記録の余白にあった。
王立画廊の修復師は、代々、仕事の記録をつける。どの絵の、どこが、どう傷んだか。何で直したか。そして、余白には、記録に書くほどでもない、けれど書き残したいことを書く。
ノアは、四九七年以降の記録を、一冊ずつ開いていった。
五三六年。
『預かり役ローザ殿、近ごろ右の手のひらまで灰色に染まる。筆を持つ手、震える』
同じ年の冬。
『ローザ殿逝去。三十一。手首まで灰色』
五六三年。
『預かり役クララ殿、手首に染み。顔色悪し』
『クララ殿逝去。二十八』
五九四年。
『預かり役エルザ殿、染み、手首に至る。翌月、逝去。何もできず』
六一〇年の記録は、ノアの師匠の、さらに前の代の修復師の字だった。
『預かり役マルガレーテ殿、晩秋より最奥の間にこもる。修復を手伝わせてほしいと申し出たが、断られる』
『冬、マルガレーテ殿逝去。二十九。手首まで』
その下に、小さく、一行。
『その手で、何かを描き直していた。何を描いたのかは、教えてくれなかった』
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ノアは、燭台を机に置いて、帳面を閉じた。
皆、手首までだった。
手のひらまで染まると、筆を持つ手が震えはじめ、手首に届くと、ひと月かふた月で死ぬ。
そして、四九七年より前の修復記録には、預かり役の手の色についての書き込みが、一つもなかった。
看取りの返却が廃止された年から、染みが記録されはじめている。
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三つ目は、記録の中にはなかった。
ノアは、地下から上がって、自分の修復室に戻った。画廊の西の端の、北向きの小さな部屋だ。顔料の瓶が、壁一面の棚に並んでいる。
鉛白。胡粉。骨炭。群青。藍銅鉱。灰色を作る顔料は、全部ここにある。
あの日、奥の間で見た、彼女の指の色を、思い出す。
夜明け前の空を、灰で薄めたような色。
ノアは、白い陶板の上に、顔料を少しずつ溶いた。鉛白に骨炭を一滴。群青を針の先ほど。胡粉で薄めて。
近づく。
けれど、同じにはならない。
何を混ぜても、あの色にはならなかった。あの色には、奥行きがあった。表面の色ではなく、皮膚の下から、霧が透けて見えるような。
顔料ではない。
では、何か。
ノアは、陶板を置いて、窓の外を見た。
画廊の北に、グラウベルク家の工房の屋根が見える。煙突から、細い煙が上がっていた。
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ノアは、机の引き出しから、もう一冊の帳面を取り出した。
自分の帳面だ。三年前、この画廊に来てから、ずっとつけている。
開くと、最初のページから、同じ欄が並んでいた。
『六一五年、秋。預かり役の右手。人差し指、中指、薬指。第二関節の手前まで』
『六一六年、春。第二関節に届く』
『六一六年、冬。第二関節を少し越える』
『六一七年、夏。同じく』
回廊ですれ違うたびに、目で測った。彼女が手袋を外しているのは、ほんのわずかな時間だけだったが、修復師の目は、絵の傷の広がりを、一目で測るように鍛えてある。
一年に、指の一節の三分の一ほど。
ノアは、計算した。
この速さで染みが伸びれば、手のひらに届くのは、三年後。手首に届くのは、さらに二年後。
彼女は、今、十七歳だ。
二十二。いや、預かりが増えれば、もっと早い。
王命で大きな預かりでもあれば。
二十歳を、越えられない。
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ノアは、帳面の最新のページを開いて、ペンを取った。
『六一八年、春。叙任の夜会の翌々日。人差し指のみ、第一関節まで引く。中指、薬指は変わらず』
書きながら、手が止まった。
引いた。
二百年の記録の中で、染みが引いたという書き込みは、一つもなかった。
ただ、一か所だけ、ノアには気になる書き込みがあった。
五四〇年代の、画廊の小火の記録だ。
『奥の間の写し絵、半ば焼ける』
その翌週の余白。
『預かり役の手、一節ぶん晴る。不思議なり』
写し絵が焼けた。中の影が、どこかへ行った。そして、預かり役の手の染みが、一節ぶん晴れた。
あの夜、彼女は、王子の写し絵の印を二百十二個削った。中の影は、持ち主に返った。
そして、人差し指の染みが、一節ぶん晴れた。
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ノアは、ペンを置いた。
窓の外で、工房の煙突の煙が、風に流されて消えていった。
あの染みは、毒ではない。
預かったものだ。
預かり役は、筆で影を受けるとき、指を伝って冷たいものが上ってくると言う。それは、比喩ではなかったのだ。預かった影の一部は、絵に入りきらずに、預かり役の体に溜まっていく。
看取りの返却があった頃は、預け主が死ぬ前に引き取っていったから、溜まらなかった。
廃止されてからは、誰も引き取らない。影は、預けた本人が死んでも、絵の中と、預かり役の手の中に残り続ける。代を重ねるごとに。
そして、手首まで満ちたとき、預かり役は死ぬ。
*
ノアは、帳面を閉じて、立ち上がった。
これを、彼女に見せるべきか。
知れば、彼女はどうするだろう。王宮の誰かに話すだろうか。誰も信じないだろう。鉛白の毒だと、二百年言われてきたのだ。
それとも、何も変わらないだろうか。お役目は名誉なこと、と言って。
ノアは、首を振った。
修復師は、絵の表面しか見ない。中に何が預けられているかは、預かり役の領分だ。三年間、そうやって線を引いてきた。
それでも、表面の傷は、記録しなければならない。
傷の広がりを見て見ぬふりをする修復師は、修復師ではない。
ノアは、帳面を外套の内側にしまった。
机の上の陶板には、近づけようとして近づけなかった灰色が、乾きかけていた。
どの顔料にもない色。
名前は、まだつけない。
けれど、それが何なのかは、もう分かってしまった。




