第11話 二通目の縁組
王宮からの使いが来たのは、夜会から十日目の朝だった。
「国王陛下が、お召しでございます」
金の縁取りの封書を受け取ると、ベルタが後ろで、鍋を落とした。
「お、お嬢様。陛下、って、あの陛下ですか」
「この国に、陛下は一人しかいらっしゃいません」
「そういうことを言ってるんじゃありません! 何を着ていくんです。夜会のドレスは蝋の粉だらけで、普段着はあれで、あれは絵の具の染みが」
ベルタは、わたしの衣装箪笥を開けて、頭を抱えた。
結局、母の形見の、紺色の地味なドレスを着た。袖丈が少し短かった。手袋で隠れるから、と言ったら、ベルタに、そういう問題じゃありません、と叱られた。
*
通されたのは、謁見の間ではなく、王の私室に近い、小さな応接の間だった。
国王オスヴァルト陛下は、窓辺の椅子に座っておられた。
五十に近いはずだが、三十五ほどにしか見えない。金色の髪に、白いものは一本もない。ヴィンフリート殿下によく似た顔立ちで、けれど殿下よりずっと穏やかな目をしていた。
穏やかすぎる目だった。
部屋には、ほかに二人いた。宰相ホーエンベルク閣下と、王太子エーリヒ殿下。
「グラウベルク。よく来てくれた」
陛下が、手招きをなさった。わたしは膝を折った。
「まずは、詫びねばならんな。愚息が、たいへんな無礼を働いた」
「もったいないお言葉でございます」
「ヴィンフリートは、しばらく離宮で頭を冷やさせる。それで、だ」
陛下は、宰相閣下に目をやった。閣下が、一歩前に出た。
「グラウベルク嬢。この十日、宮廷は、たいへん落ち着かない」
「存じております」
「殿下のお口添えで預けた者たちは、少しずつ戻ってくるものに怯えている。そうでない者も、いつ自分の縁が切れるかと怯えている。夜も眠れぬ、と申す者が、日に日に増えている」
閣下は、目の下を指でこすった。閣下ご自身も、眠れていないのだろう。
「それで、陛下は、お考えになった。グラウベルク家と王家の縁を、改めて、確かなものにしておくべきだと」
*
陛下が、ゆっくりとおっしゃった。
「グラウベルク。エーリヒと婚約してはくれぬか」
わたしは、顔を上げた。
窓辺の陛下は、穏やかに微笑んでおられた。宰相閣下は、汗を拭いておられた。
そして、部屋の隅で、エーリヒ殿下が、眉をひそめておられた。
「王太子との縁であれば、ヴィンフリートのときよりも、ずっと重い。宮廷の者たちも、安心するだろう。何より、そなたの家は、未来の王妃の家になる」
陛下は、身を乗り出された。
「悪い話ではあるまい」
*
悪い話ではない、のだと思う。
爵位も領地もない画家の娘が、王太子妃になる。母が聞いたら、何と言っただろう。名誉なことよ、と言っただろうか。
わたしは、膝の上で、手袋の手を重ねた。
十一歳のとき、同じ部屋で、同じように言われたことを思い出した。グラウベルク家を王家に結びつけておけば、宮廷はいっそう安らかになる。
あのときも、わたしは、はい、と答えた。
断るという言葉を、知らなかったから。
「お受けいたしま――」
「父上」
低い声が、わたしの返事を遮った。
エーリヒ殿下が、部屋の隅から、窓辺へ歩み出ておられた。
「私は、お断りします」
*
陛下の穏やかな目が、すっと細くなった。
「エーリヒ」
「グラウベルク嬢を、宮廷の鎖に使うのはごめんだ、と申し上げております」
宰相閣下が、ひっ、と小さく息をのんだ。
「ヴィンとの婚約も、そうだった。グラウベルク家を王家につなぎとめておくための鎖。今度は私が、その鎖になれとおっしゃる。宮廷の皆が、安心して預け続けられるように」
殿下の声は、静かだった。けれど、拳が白くなるほど握られていた。
「彼女の家が、何を預かっているのか。預かったものが、どこへ行くのか。父上は、ご存じのはずです」
陛下は、何もおっしゃらなかった。
窓の外で、鳥が鳴いた。
「……下がってよい、グラウベルク」
陛下は、わたしではなく、窓の外を見ながらおっしゃった。
「返事は、急がぬ」
*
応接の間を出て、回廊を歩いていると、後ろから足音が追ってきた。
「グラウベルク嬢」
エーリヒ殿下だった。
殿下は、わたしの隣に並んで、しばらく黙って歩いた。王宮の中庭に面した回廊。噴水の水音が聞こえる。
「すまない。勝手なことをした」
「いいえ」
「君は、受けるつもりだっただろう」
「……はい」
「なぜだ」
わたしは、少し考えた。
「陛下が、そうお望みでしたので」
殿下は、足を止めた。
それから、わたしの顔を、まっすぐに見た。弟君は六年間一度も見なかった、わたしの顔を。
「君は、断っていい」
「…………」
「父上の頼みでも、宮廷の皆の頼みでも、君が嫌なら、断っていい。預かりも、縁組も」
わたしは、まばたきをした。
断っていい。
その言葉を、誰かから言われたのは、生まれて初めてだった。
「でも、殿下。預かり役は、断らないものです」
「誰が、そう決めた」
「…………」
わたしは、答えられなかった。
母がそうだった。祖母も、そうだったと聞いている。グラウベルク家の誰も、断ってこなかった。だから、断らないものだと思っていた。
けれど、誰がそう決めたのかは、知らなかった。
*
「私は、預けない」
殿下は、また歩き出した。
「子どもの頃から、一度も。父上には、王太子がそれでは困ると、何度も言われた。疲れた顔をしていると、臣下が不安がる、と」
「なぜ、お預けにならないのですか」
「前にも、聞かれたな」
殿下は、少しだけ笑った。疲れた、三十過ぎに見える顔で。
「そのうち、話すと言った。まだ、そのうちだ」
回廊の終わりで、殿下は、わたしに小さく頭を下げた。
「父上の話は、断ってくれていい。私のほうから、もう一度断っておく。……それから」
殿下は、言いにくそうに、少し間を置いた。
「君の手のことで、修復師のベックが、君に話したいことがあると言っていた。昨日、私のところへも来た。王家の文書庫を見せてほしいと」
「ノアさんが?」
「真剣な顔をしていた。聞いてやってくれ」
*
工房に戻ると、ベルタが、待ちかねたように戸口に飛んできた。
「どうでした。陛下は、何と」
「王太子殿下との縁組を、とおっしゃいました」
ベルタは、目を丸くした。
「王太子殿下と! まあ、まあ、まあ」
「王太子殿下が、断ってくださいました」
ベルタは、目を丸くしたまま、固まった。
「……それは、喜んでいいんですか。怒っていいんですか」
「分かりません」
わたしは、手袋を外した。
「でも、ベルタ。わたくし、生まれて初めて、断っていい、と言われました」
ベルタは、しばらく、わたしの顔を見ていた。
それから、ふん、と鼻を鳴らして、竈のほうへ戻っていった。
「当たり前のことを言われて驚くなんて、お嬢様は、まったく」
竈の前で、ベルタが、前掛けで目元を拭くのが見えた。
戸口のほうで、控えめに扉を叩く音がした。
ノアだった。外套の内側に、帳面を一冊、抱えていた。




