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婚約破棄されたので、お預かりしていた肖像画をすべてお返しします【連載版】  作者: 年商1億
第一部 二百十二個ございます

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第12話 二十歳を越えられない

 ノアは、作業台の前の椅子に座らなかった。


 戸口から二歩入ったところに立ったまま、外套の内側から帳面を取り出して、作業台の上に置いた。


「読んでくれ。俺の帳面だ」


 革表紙の、使いこまれた帳面だった。


 開くと、細い几帳面な字で、ページいっぱいに記録が並んでいた。絵の傷み、顔料の名前、修復に使った膠の量。


 そして、ところどころに、別の欄があった。


『六一五年、秋。預かり役の右手。人差し指、中指、薬指。第二関節の手前まで』


 わたしは、顔を上げた。


「わたくしの、手ですか」


「回廊ですれ違うたびに、測った」


 ノアは、悪びれもせずに言った。


「三年分ある。最後まで読んでくれ」


*


 ページをめくった。


『六一六年、春。第二関節に届く』


『六一六年、冬。第二関節を少し越える』


『六一七年、夏。同じく』


 その次のページに、画廊の購入記録の写しがあった。四一〇年から毎年、鉛白二斤。


 その次のページに、修復記録の余白の写し。ローザ、三十一。手首まで。クララ、二十八。手首。エルザ、三十三。手首に至る、翌月逝去、何もできず。


 マルガレーテ、二十九。手首まで。


 その次のページに、画廊の小火の記録。写し絵が半ば焼けた翌週、預かり役の手、一節ぶん晴る。


 そして、最後のページに、ノアの字で、計算が書いてあった。


『一年に、指の一節の三分の一。手のひらまで、約三年。手首まで、約五年。預かりが増えれば、早まる』


 その下に、一行。


『二十歳を、越えられない』


*


 工房が、静かになった。


 竈の火が、ぱちりと鳴った。台所のベルタは、今は市場に出ている。


 わたしは、最後のページを、長いこと見つめていた。


「……鉛白では、ないのですね」


「鉛白なら、初代も同じ量を使っていた。初代は六十八まで生きた」


「この染みは」


「預かったものだ」


 ノアは、作業台の端に手をついた。


「君たちは、筆で影を受けるとき、冷たいものが指を伝って上ってくると言う。あれは、そのままの意味だった。絵に入りきらない影が、預かり役の体に溜まる」


「看取りの返却が、あった頃は」


「預けた本人が、死ぬ前に引き取っていった。だから、溜まらなかった。四九七年に廃止されてから、誰も引き取らなくなった。代を重ねるごとに、溜まる量が増えた。だから、代を重ねるごとに、早く死ぬ」


 ノアは、帳面の、小火の記録のページを指で叩いた。


「そして、影が絵から出ていけば、染みは引く」


 わたしは、右手を見た。


 手袋を外したままの、人差し指。第一関節まで。


「あの夜、殿下にお返ししたから」


「そうだ」


*


 わたしは、帳面を閉じた。


 それから、自分でも思いがけないことに、口元が少しだけ、ゆるんだ。


「……では、わたくしは、殿下に、命を救っていただいたのですね」


 ノアが、眉をひそめた。


「笑うところか」


「笑っておりません」


「口元が動いた」


「修復師の方は、そんなところまで測るのですか」


「修復師の癖だ」


「嘘ですわね」


 ノアは、少しだけ黙った。


「……嘘だ」


*


 自分でも、なぜ口元がゆるんだのか、分からなかった。


 二十歳を越えられない。


 そう書かれた一行を見て、怖いと思うべきだったのだと思う。悲しいと思うべきだったのかもしれない。


 でも、わたしが最初に思ったのは、そうではなかった。


 母のことだった。


 母は、二十九で死んだ。最期の冬、手首まで灰色に染まった手で、それでも筆を握って、奥の間へ通っていた。


 お役目は、名誉なことよ。


 そう言っていた母の手を、わたしは、ずっと誇らしいと思っていた。灰色の手は、預かり役の勲章のようなものだと。


 違ったのだ。


 あれは、勲章ではなかった。誰かが引き取るべきものを、母が、代わりに抱えて死んでいった跡だった。


 そして、それに気づかずに、わたしは、殿下が婚約を破棄してくださらなければ、母と同じ道を、何も知らずに歩いていた。


 だから、おかしかったのだ。


 六年間わたしを見なかった殿下が、わたしの命を救ってくださったことが。


*


「誰かに、話すべきだと思う」


 ノアが言った。


「王太子殿下には、少しだけ話した。文書庫を見たいと頼んだときに。殿下は、黙って聞いていた」


「陛下には」


「信じないだろう。二百年、鉛白の毒だと言われてきた。それに」


 ノアは、言葉を切った。


「宮廷の連中は、自分たちが預けたものが、君の手の中に溜まっていると知っても、たぶん、預けるのをやめない」


 わたしは、ベルクハイム伯爵夫人の百合の花束を思い出した。返さないでくださいませ、と言いに来た、五十二人の顔を。


 ノアの言うとおりだと思った。


「わたくしは、どうすればいいのでしょう」


「分からない」


 ノアは、あっさりと言った。分からない色に名前をつけないときと、同じ声で。


「ただ、俺は、これ以上、君の手の染みを、帳面に書き足したくない」


*


 ノアが帰ったあと、わたしは、一人で奥の間へ行った。


 夕暮れの光が、高い窓から差しこんでいた。三百二十八枚の、灰色の布。その一枚一枚の奥に、誰かの何かが預けられている。


 そして、その一部は、わたしの手の中にもある。


 わたしは、手袋を外して、右手を光にかざした。


 中指と薬指の、第二関節までの灰色。人差し指の、第一関節までの灰色。


 この中に、誰の何が入っているのだろう。


 伯爵夫人の夜会の疲れだろうか。老侯爵の白髪だろうか。殿下のご学友の、試験の替え玉だろうか。


 分からない。


 預けた本人たちは、何も覚えていない。帳面には、預かったものの名前しか書いていない。


 わたしの手の中にあるものの名前を、わたしは知らない。


*


 工房に戻ると、ベルタが市場から帰っていて、夕食の支度をしていた。


「お嬢様、遅かったですね。修復師の方は?」


「お帰りになりました」


「何のお話だったんです」


 わたしは、少し迷った。


「ベルタ。わたくしが二十歳になったら、何をお祝いしてくれる?」


「何です、急に」


 ベルタは、鍋をかき回しながら、首をかしげた。


「そうですねえ。奥様がお好きだった、杏のタルトでも焼きましょうか。奥様は、二十歳のお祝いに、それを丸ごと一人で召し上がったんですよ。旦那様に呆れられて」


「父に?」


「ええ。旦那様は、お嬢様がお生まれになる前に亡くなりましたけどね。それはそれは、仲の良いお二人で」


 ベルタは、懐かしそうに笑った。


「お嬢様の二十歳も、きっと、あっという間ですよ」


 わたしは、手袋をはめた右手を、左手で、そっと包んだ。


 三年後。


 杏のタルトを、丸ごと一人で食べてみたいと思った。


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