第13話 王の夜(国王視点)
夜更けの王立画廊に、国王オスヴァルトは、一人で入った。
夜の鍵は、王も持っている。誰にも知られずに、ここへ来るために。
燭台の火が、表の回廊の名画を、次々に照らしては闇に戻していく。父王が描かせた戦の勝利。祖父王の狩り。建国王の騎馬像。
突き当たりの扉を開けると、ひやりとした空気が頬に触れた。
奥の間。
七番目の額縁だけが、布を外されていた。燭台を向けると、金色の髪の少年が、澄んだ目でこちらを見ていた。
ヴィンフリート。十三歳。
オスヴァルトは、しばらくその顔を見つめていた。
あの子は、こんな目をしていたのか。
知らなかった。六年間、この絵の顔がどう崩れていたのかも、知らなかった。見に来たことがなかったのだ。
*
オスヴァルトは、奥へ進んだ。
最奥の一枚の前で、足を止める。
ほかのどれよりも大きな額縁。ほかのどれよりも重い布。
父王ルートヴィヒの写し絵だった。
布には、触れなかった。触れなくても、中に何があるのかは知っていた。
王国暦五九九年、秋。
オスヴァルトは、三十歳だった。王太子として、父王の隣にいた。
東部の町エーデルフルトから、早馬が来た夜のことを、覚えている。
そこから先は、思い出さないようにしてきた。十九年間。
*
最奥から三枚目の額縁の前で、オスヴァルトは、立ち止まった。
自分の写し絵だった。
王家の者は、子どもの頃に一枚ずつ描かれる。オスヴァルトの写し絵は、十歳の少年の顔をしているはずだった。
布をめくる勇気は、なかった。
代わりに、額縁に、片手を置いた。
冷たい木の感触。
この中に、自分が何を預けたのか、オスヴァルトは覚えていない。覚えていないことになっている。
けれど、いつ預けたのかは、覚えていた。
六一〇年、冬。
*
あの冬、グラウベルク家の八代目、マルガレーテから、一通の書き付けが届いた。
封蝋は、灰色の山に一本の筆。
中には、条項が三つ書かれていた。
一つ、娘イルゼに、継承の儀を行わせぬこと。
一つ、預かり物は継ぎ手に移さず、絵に留め置き、預け主が自ら引き取ること。
そして三つ目。
オスヴァルトは、額縁から手を離した。
三つ目に何が書いてあったのか、思い出そうとすると、胸の奥が、ぎしりと軋む。思い出せないのではない。思い出したくないのでもない。
ただ、その一行を読んだあとの自分が、何をしたのかだけは、覚えている。
書き付けを、暖炉にくべた。
*
そして、その翌日、ここへ来た。
九歳の、母を亡くしたばかりの少女が、筆を握って、震えながら、王の前に立っていた。
少女の母は、半月前に死んだ。手首まで灰色にして。
オスヴァルトは、額縁に両手を置いて、願った。
この重さを、預かってくれ、と。
少女は、何を預かるのかも聞かされずに、筆を写し絵に当てた。
それからのことは、覚えていない。
*
預けたものは、記憶ごと消える。
だから、オスヴァルトが今、胸に抱えているのは、預けたもの自体ではない。預けたという事実と、預けたものの形の、ぼんやりとした輪郭だけだ。
穴の形だけが、分かる。
自分の胸の中に、何かがあった場所が、ぽっかりと空いている。その穴の縁を指でなぞると、それが、どれくらいの大きさだったのかが分かる。
十九年間、王は、その穴を、穏やかな顔で覆い隠して生きてきた。
*
「父上」
背後から、声がした。
オスヴァルトは、振り向かなかった。
エーリヒだった。燭台も持たずに、奥の間の入口に立っている。
「なぜ、ここにいる」
「父上の後を、つけました」
エーリヒは、最奥の一枚のほうへ、ゆっくりと歩いてきた。
「グラウベルク嬢の手の染みのことを、ご存じでしたか」
オスヴァルトは、答えなかった。
「修復師のベックが、調べました。あれは鉛白の毒ではない。預かった影が、預かり役の体に溜まったものだと。看取りの返却が廃止されてから、預かり役は皆、手首まで染まって死んでいる。このままでは、彼女は二十歳を越えられない」
「……知っていたら、どうだと言うのだ」
「父上」
「この国は、預かりで回っている。宮廷の者たちが、夜に眠れるのは、昼に怯えずにいられるのは、預けているからだ。それを今さら止めれば、宮廷は崩れる」
「では、彼女に死ねと」
「死ねとは言っていない」
オスヴァルトは、ようやく振り向いた。
燭台の火に照らされた息子の顔は、二十二歳とは思えないほど、疲れていた。
この子は、一度も預けたことがない。
「十日後に、ヴァルカ帝国の使節が来る」
オスヴァルトは言った。
「帝国は、我が国の弱みを探しに来る。今の宮廷を見せるわけにはいかん。返されたものに怯え、夜も眠れず、互いの顔色ばかりうかがっている、今の宮廷を」
「何を、なさるおつもりですか」
「使節が来る前に、宮廷じゅうの者に、預けさせる。不安も、疲れも、怯えも、全部。王命で」
*
エーリヒの顔から、血の気が引いた。
「それを、全部、彼女に」
「グラウベルクには、王家との縁がある。断れぬ」
「断れます」
エーリヒの声が、奥の間に響いた。
「彼女は、断っていい。私は、そう言いました」
「お前が言っても、あの娘は断らぬ」
オスヴァルトは、静かに言った。
「グラウベルクの娘は、断り方を知らぬ。母親も、そうだった」
エーリヒは、拳を握りしめたまま、父を見つめていた。
長い沈黙のあとで、息子は、背を向けた。
「父上の写し絵には、何が預けてあるのですか」
奥の間の入口で、エーリヒは、立ち止まらずに言った。
「父上は、いつも、穏やかすぎる顔をしておられる」
足音が、遠ざかっていった。
*
オスヴァルトは、一人で、最奥から三枚目の額縁の前に立ち尽くしていた。
穏やかすぎる顔。
燭台の火が、わずかに揺れた。
王は、自分の写し絵の布に、指をかけた。
めくらなかった。
指を離して、燭台を持ち、奥の間を出た。
翌朝、宮廷じゅうに、王命が下った。
ヴァルカ帝国使節の来訪に先立ち、すべての貴族は、王立画廊にて、心身の憂いを預けるべし。




