第8話 泣けない夫人(アーデルハイト視点)
その夜、アーデルハイトは、夫の書斎で眠った。
眠ったというより、泣き疲れて、長椅子の上で気を失ったのだった。
十年間、一度も開けなかった引き出しを、全部開けた。夫の書きかけの手紙。夫が読みさしにして、栞を挟んだままの詩集。夫が若いころに描いた、下手な馬の絵。
一つ見つけるたびに、泣いた。
自分の体のどこに、こんなに水がしまわれていたのだろうと思うほど、泣いた。
夜明けに目を覚ますと、肩に毛布がかけてあった。侍女頭のマリアンネが、扉の脇の椅子で、腕を組んで眠っていた。
「……マリアンネ」
侍女頭は、はっと目を開けた。それから、主人の顔を見て、くしゃりと顔を歪めた。
「奥様。おはようございます」
「ひどい顔でしょう」
「はい。たいへん」
マリアンネは、目元を袖で拭った。
「十年ぶりに、奥様のお顔を見ました」
*
朝食のあと、アーデルハイトは、義兄のローゼンタール侯爵を訪ねた。
夫の兄。夫が亡くなったあと、爵位を継いだ人だ。十年前、葬儀の三日後に、泣き続ける義妹の腕を取って、画廊へ連れていった人。
義兄は、書斎で書類に目を通していた。アーデルハイトの赤い目を見ると、眉をひそめた。
「どうした。風邪か」
「いいえ。泣いておりましたの」
義兄の手が、止まった。
「昨日、画廊で、あの方の悲しみを返していただきました。十年前に、お義兄様がわたくしに置かせたものを」
義兄は、長いこと、何も言わなかった。
それから、書類を置いて、窓のほうを向いた。
「……あのときは、ああするしかなかった。弟が死んで、家は混乱していた。女主人が床に伏せっていては、使用人も、領地も、立ちゆかない」
「ええ。分かっておりますわ」
「分かっているなら」
「分かっています。お義兄様が、家のためになさったことだということも。わたくしが、あのとき泣いてばかりで、何もできなかったことも」
アーデルハイトは、黒い手袋をはめた手を、膝の上で重ねた。
「でも、お義兄様が置かせたのは、わたくしの悲しみだけではなかったの」
「……何だと言うのだ」
「わたくしの、夫への気持ちですわ」
義兄が、振り向いた。
「悲しいということは、あの人を大切に思っていたということでしょう。それを置いてきたから、わたくしはこの十年、あの人の命日にも、何も感じなかった。花を手向けても、空っぽだった」
アーデルハイトは、少しだけ笑った。
「昨日、十年ぶりに、あの人を愛していたことを思い出しましたの。だから、今朝はひどい顔なのよ」
義兄は、しばらく義妹の顔を見つめていた。
それから、低い声で言った。
「……私も、預けている」
「存じておりますわ」
「弟が死んだ夜の分を。弟を看取れなかった後ろめたさを」
義兄は、窓枠を握りしめた。
「返してもらうべきだと、思うか」
「それは、お義兄様がお決めになることですわ」
アーデルハイトは、立ち上がった。
「わたくしは、返していただいて、よかった。それだけです」
*
その日の午後、アーデルハイトは、焼き菓子の籠を提げて、王立画廊の北の工房を訪ねた。
夫が好きだった、干し葡萄を練りこんだ固い焼き菓子だ。侯爵家の料理番が、十年ぶりに焼いたものだった。
「まあ、ローゼンタール様」
扉を開けたのは、丸い体の家政婦だった。
「お嬢様は、いま奥の部屋で帳面を……あら、目が」
「ええ。昨夜、ずっと泣いていましたの」
「それは、ようございました」
家政婦は、何のためらいもなく、そう言った。
アーデルハイトは、思わず笑ってしまった。
十年間、誰もが「お気の毒に」と言った。「お強いですね」と言った。泣いてよかったと言ってくれたのは、この家政婦が初めてだった。
*
工房の作業台で、三人で茶を飲んだ。
イルゼ・グラウベルクは、焼き菓子をひと口かじって、少し驚いたような顔をした。
「固いですね」
「ええ。夫は、これを紅茶に浸して食べるのが好きだったの。行儀が悪いと、わたくしはいつも叱っていたわ」
イルゼは、焼き菓子を紅茶に浸して、もう一度かじった。
「……おいしいです」
「でしょう」
アーデルハイトは、少女の手袋に目をやった。
昨日、手袋の上から握ったとき、指が細くて、冷たかった。
「グラウベルク様。わたくし、決めましたの」
「何を、でございますか」
「宮廷のご婦人方に、話しますわ。返していただくのは、怖いことではなかった、と」
イルゼは、まばたきをした。
「皆さま、怯えていらっしゃるでしょう。自分が何を預けたのか分からなくて。返されたら、何が戻ってくるのか分からなくて。だから、返さないでくれ、と言いに来る」
「はい。五十二名様、いらっしゃいました」
「数えていらしたのね」
アーデルハイトは、思わず笑った。
「中には、わたくしのように、本当は返してほしいのに、怖くて言えない方もいるはずよ。そういう方に、伝えたいの。戻ってきたのは、自分の顔だった、と」
*
帰り際、家政婦が、戸口まで見送りに出た。
アーデルハイトは、ふと思い出して、尋ねた。
「お嬢様の、お母様のことを、伺ってもいいかしら。十年前、わたくしの写し絵を描いてくださった方」
「マルガレーテ奥様ですね」
家政婦の顔が、少しだけ曇った。
「お優しい方でした。預けに来られる方の顔を、いつもよくご覧になって。お顔に迷いのある方には、本当によろしいのですか、と、必ず一度はお聞きになっていました」
「わたくしにも、聞いてくださったのかしら」
「さあ、それは……ローゼンタール様は、泣いておられたそうですから」
家政婦は、言葉を濁した。それから、ぽつりと言った。
「奥様は、亡くなる少し前まで、ずっと奥の間にこもっておられました。いちばん奥の、先王陛下の絵の前に。何か月も」
「何をしていらしたの」
「描き直しておられたんです。あの絵を」
そこまで言って、家政婦は、はっとしたように口を押さえた。
「……いけない。お嬢様には、内緒にと言われていたのに」
アーデルハイトは、工房の中を振り返った。
作業台の向こうで、イルゼが、焼き菓子の籠を片づけていた。
こちらの話は、聞こえていないようだった。
少なくとも、少女はそう見えるように、背中を向けていた。
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