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婚約破棄されたので、お預かりしていた肖像画をすべてお返しします【連載版】  作者: 年商1億
第一部 二百十二個ございます

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7/12

第7話 返さないでくださいませ

「返さないでくださいませ」


 次の日も、その次の日も、工房には人が来た。


 皆、同じことを言った。


「わたくしの分は、どうか、そのままに」


「陛下とのご縁が続く限り、返さないと約束してくれたまえ」


「もし陛下とあなたのお家の間に何かあっても、私の分だけは」


 わたしは、そのたびに同じことを答えた。


「縁が続く限り、お預かりいたします」


 そして、そのたびに、帳面の端に小さく印をつけた。訪ねてきた方の名前の横に、一つずつ。


 三日で、印は五十二になった。


「お嬢様、それ、何の印です」


 ベルタが、帳面をのぞきこんだ。


「返さないでほしい、とおっしゃった方の印です」


「何のために数えるんです」


「分かりません。……ただ、数えておきたくて」


*


 四日目の朝、工房の扉を叩いたのは、黒い喪服の女性だった。


「突然ごめんなさい。アーデルハイト・フォン・ローゼンタールと申します」


 四十代の半ばくらいだろうか。灰色がかった金髪をきっちりと結い上げ、背筋がまっすぐに伸びている。顔立ちは美しいのに、どこか、彫像のように動かない顔だった。


 ローゼンタール侯爵の未亡人。十年前に、侯爵が亡くなったと聞いている。


「どうぞ、お入りくださいませ」


 夫人は、作業台の前の椅子に、浅く腰かけた。ベルタが茶を出すと、夫人は、丁寧に礼を言った。


 それから、まっすぐに、わたしを見た。


「返していただきたいの」


 わたしは、一瞬、聞き違えたのかと思った。


「……返して、ほしい、と」


「ええ。わたくしの分を」


 台所の戸口で、ベルタが手を止めた。


 この四日間、返さないでほしいと言いに来た人は五十二人いた。返してほしいと言いに来たのは、この方が初めてだった。


*


「お預けになったものを、覚えていらっしゃるのですか」


「いいえ。何も」


 夫人は、膝の上で両手を重ねた。黒い手袋をはめた指が、きちんとそろっている。


「でも、何を預けたのかは、分かるのです」


「分かる、と申しますと」


「十年前に夫が亡くなってから、わたくし、一度も泣いていないの」


 夫人の声は、とても静かだった。


「葬儀でも、泣かなかった。一周忌でも。夫の書斎を片づけたときも、夫の筆跡の手紙を見つけたときも。周りの方々は、侯爵夫人は気丈だとおっしゃいました。わたくし自身も、そうなのだと思っていました」


 夫人は、窓の外を見た。


「でも、あの夜会で、あなたが『お返しいたします』とおっしゃったとき、わたくし、とても怖くなったの。どうして怖いのか分からなくて、家に帰って、侍女頭に聞きました。わたくし、十年前に、画廊へ行きましたか、と」


「侍女頭の方は」


「泣き出しました」


 夫人は、少しだけ目を伏せた。


「十年前、葬儀の三日後に、亡くなった夫の兄が、わたくしを画廊へ連れていったそうです。侯爵家の女主人が、いつまでも泣き暮らしていては家が回らない、と言って。わたくしは、泣きながら額縁に手を置いて、そして、泣きやんだ」


「…………」


「わたくしは、夫の死を、悲しんでいないのではなかったの。悲しみを、どこかへ置いてきてしまっていたのね」


*


 わたしは、帳面の棚から、十年前の一冊を取り出した。


 母の字だった。六〇八年。母が死ぬ二年前。


 ページをめくる。


『六〇八年、晩秋。ローゼンタール侯爵夫人アーデルハイト様。ご夫君ご逝去の悲しみ。義兄君のお連れ添い。夫人、泣きながら額縁に手を置かる』


 その下に、母の字で、小さく書き添えてあった。


『夫人のご意思か、確かめられず。悔いが残る』


 わたしは、その一行を、しばらく見つめていた。


 母は、預かり役として、預けに来た人を断ることはしなかった。グラウベルク家の誰も、そうしてこなかった。


 それでも、母は、悔いが残ると書いていた。


「夫人」


「はい」


「お返しすることは、できます」


 夫人の目が、わずかに揺れた。


「預かるには、縁が要ります。けれど、お返しするのに、縁は要りません。持ち主の方が引き取りたいとおっしゃれば、いつでも、お返しできます」


「……そうなの」


「ただ」


 わたしは、言葉を選んだ。


「十年分の悲しみが、一度に戻ります。夫人がお忘れになっていた十年が、全部」


 夫人は、しばらく黙っていた。


 それから、黒い手袋の指を、ほどくように、ゆっくりと膝の上から持ち上げた。


「それは、わたくしのものでしょう」


「はい」


「では、返してちょうだい」


 夫人は、ほんの少しだけ、笑った。彫像のような顔が、初めて動いた。


「わたくしは、夫のために、泣きたいの。十年遅れでも」


*


 その日の午後、わたしは夫人と二人で、奥の間へ向かった。


 夫人の写し絵は、入口から百十三番目にあった。


 布を外すと、夫人が小さく息をのむ音がした。


 十年前の夫人が、そこにいた。黒い喪服を着て、背筋をまっすぐに伸ばして。けれど、その顔は、涙でぐしゃぐしゃに崩れていた。


 頬を伝う涙の筋が、絵の具の上に、何本も、何本も、溝のように刻まれている。十年間、絵の中の夫人は、ずっと泣き続けていたのだ。


「……わたくし、こんな顔をしていたのね」


「いいえ」


 わたしは、首を振った。


「夫人が、なさるはずだった顔です」


*


 額縁の裏に回ると、印は一つだけだった。


 灰色の蝋の、小さな印。十年前に、母が押したものだ。


 わたしは、パレットナイフを当てた。


「六〇八年、晩秋。ご夫君ご逝去の悲しみ」


 読み上げる声が、少しだけ震えた。


「お返しいたします」


 かり。


 表で、夫人が、短く声を上げた。


 額縁の陰から出ると、夫人が、写し絵の前で、膝をついていた。


 両手で顔を覆って、肩を震わせて。声を殺そうとして、殺せずに。


 十年分の涙だった。


 わたしは、少し離れたところで、立っていた。何かを言うのは、違う気がした。


 写し絵の中の夫人は、もう泣いていなかった。涙の溝が消えて、静かな、少し寂しそうな、けれど穏やかな顔で、こちらを見ていた。


 長い時間がたってから、夫人は、ハンカチで顔を拭って、立ち上がった。


 目が真っ赤だった。鼻も。彫像のようだった顔は、どこにもなかった。


「……ひどい顔でしょう」


「いいえ」


「グラウベルク様」


 夫人は、わたしの手を取った。手袋の上から、両手で、しっかりと。


「返してくださって、ありがとう」


 お返しして、お礼を言われたのは、二度目だった。


 一度目と同じように、何と答えればいいのか、わたしにはまだ分からなかった。


毎時投稿しております☺

見逃さないように、忘れないようによければブックマークしてお待ちくださいね。

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