第7話 返さないでくださいませ
「返さないでくださいませ」
次の日も、その次の日も、工房には人が来た。
皆、同じことを言った。
「わたくしの分は、どうか、そのままに」
「陛下とのご縁が続く限り、返さないと約束してくれたまえ」
「もし陛下とあなたのお家の間に何かあっても、私の分だけは」
わたしは、そのたびに同じことを答えた。
「縁が続く限り、お預かりいたします」
そして、そのたびに、帳面の端に小さく印をつけた。訪ねてきた方の名前の横に、一つずつ。
三日で、印は五十二になった。
「お嬢様、それ、何の印です」
ベルタが、帳面をのぞきこんだ。
「返さないでほしい、とおっしゃった方の印です」
「何のために数えるんです」
「分かりません。……ただ、数えておきたくて」
*
四日目の朝、工房の扉を叩いたのは、黒い喪服の女性だった。
「突然ごめんなさい。アーデルハイト・フォン・ローゼンタールと申します」
四十代の半ばくらいだろうか。灰色がかった金髪をきっちりと結い上げ、背筋がまっすぐに伸びている。顔立ちは美しいのに、どこか、彫像のように動かない顔だった。
ローゼンタール侯爵の未亡人。十年前に、侯爵が亡くなったと聞いている。
「どうぞ、お入りくださいませ」
夫人は、作業台の前の椅子に、浅く腰かけた。ベルタが茶を出すと、夫人は、丁寧に礼を言った。
それから、まっすぐに、わたしを見た。
「返していただきたいの」
わたしは、一瞬、聞き違えたのかと思った。
「……返して、ほしい、と」
「ええ。わたくしの分を」
台所の戸口で、ベルタが手を止めた。
この四日間、返さないでほしいと言いに来た人は五十二人いた。返してほしいと言いに来たのは、この方が初めてだった。
*
「お預けになったものを、覚えていらっしゃるのですか」
「いいえ。何も」
夫人は、膝の上で両手を重ねた。黒い手袋をはめた指が、きちんとそろっている。
「でも、何を預けたのかは、分かるのです」
「分かる、と申しますと」
「十年前に夫が亡くなってから、わたくし、一度も泣いていないの」
夫人の声は、とても静かだった。
「葬儀でも、泣かなかった。一周忌でも。夫の書斎を片づけたときも、夫の筆跡の手紙を見つけたときも。周りの方々は、侯爵夫人は気丈だとおっしゃいました。わたくし自身も、そうなのだと思っていました」
夫人は、窓の外を見た。
「でも、あの夜会で、あなたが『お返しいたします』とおっしゃったとき、わたくし、とても怖くなったの。どうして怖いのか分からなくて、家に帰って、侍女頭に聞きました。わたくし、十年前に、画廊へ行きましたか、と」
「侍女頭の方は」
「泣き出しました」
夫人は、少しだけ目を伏せた。
「十年前、葬儀の三日後に、亡くなった夫の兄が、わたくしを画廊へ連れていったそうです。侯爵家の女主人が、いつまでも泣き暮らしていては家が回らない、と言って。わたくしは、泣きながら額縁に手を置いて、そして、泣きやんだ」
「…………」
「わたくしは、夫の死を、悲しんでいないのではなかったの。悲しみを、どこかへ置いてきてしまっていたのね」
*
わたしは、帳面の棚から、十年前の一冊を取り出した。
母の字だった。六〇八年。母が死ぬ二年前。
ページをめくる。
『六〇八年、晩秋。ローゼンタール侯爵夫人アーデルハイト様。ご夫君ご逝去の悲しみ。義兄君のお連れ添い。夫人、泣きながら額縁に手を置かる』
その下に、母の字で、小さく書き添えてあった。
『夫人のご意思か、確かめられず。悔いが残る』
わたしは、その一行を、しばらく見つめていた。
母は、預かり役として、預けに来た人を断ることはしなかった。グラウベルク家の誰も、そうしてこなかった。
それでも、母は、悔いが残ると書いていた。
「夫人」
「はい」
「お返しすることは、できます」
夫人の目が、わずかに揺れた。
「預かるには、縁が要ります。けれど、お返しするのに、縁は要りません。持ち主の方が引き取りたいとおっしゃれば、いつでも、お返しできます」
「……そうなの」
「ただ」
わたしは、言葉を選んだ。
「十年分の悲しみが、一度に戻ります。夫人がお忘れになっていた十年が、全部」
夫人は、しばらく黙っていた。
それから、黒い手袋の指を、ほどくように、ゆっくりと膝の上から持ち上げた。
「それは、わたくしのものでしょう」
「はい」
「では、返してちょうだい」
夫人は、ほんの少しだけ、笑った。彫像のような顔が、初めて動いた。
「わたくしは、夫のために、泣きたいの。十年遅れでも」
*
その日の午後、わたしは夫人と二人で、奥の間へ向かった。
夫人の写し絵は、入口から百十三番目にあった。
布を外すと、夫人が小さく息をのむ音がした。
十年前の夫人が、そこにいた。黒い喪服を着て、背筋をまっすぐに伸ばして。けれど、その顔は、涙でぐしゃぐしゃに崩れていた。
頬を伝う涙の筋が、絵の具の上に、何本も、何本も、溝のように刻まれている。十年間、絵の中の夫人は、ずっと泣き続けていたのだ。
「……わたくし、こんな顔をしていたのね」
「いいえ」
わたしは、首を振った。
「夫人が、なさるはずだった顔です」
*
額縁の裏に回ると、印は一つだけだった。
灰色の蝋の、小さな印。十年前に、母が押したものだ。
わたしは、パレットナイフを当てた。
「六〇八年、晩秋。ご夫君ご逝去の悲しみ」
読み上げる声が、少しだけ震えた。
「お返しいたします」
かり。
表で、夫人が、短く声を上げた。
額縁の陰から出ると、夫人が、写し絵の前で、膝をついていた。
両手で顔を覆って、肩を震わせて。声を殺そうとして、殺せずに。
十年分の涙だった。
わたしは、少し離れたところで、立っていた。何かを言うのは、違う気がした。
写し絵の中の夫人は、もう泣いていなかった。涙の溝が消えて、静かな、少し寂しそうな、けれど穏やかな顔で、こちらを見ていた。
長い時間がたってから、夫人は、ハンカチで顔を拭って、立ち上がった。
目が真っ赤だった。鼻も。彫像のようだった顔は、どこにもなかった。
「……ひどい顔でしょう」
「いいえ」
「グラウベルク様」
夫人は、わたしの手を取った。手袋の上から、両手で、しっかりと。
「返してくださって、ありがとう」
お返しして、お礼を言われたのは、二度目だった。
一度目と同じように、何と答えればいいのか、わたしにはまだ分からなかった。
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