第6話 急に丁寧になる人々
「まあ、グラウベルク様! お待ちしておりましたのよ」
表の回廊に出たとたん、ベルクハイム伯爵夫人が、両腕を広げて駆け寄ってきた。
腕には、わたしの顔が隠れるほど大きな百合の花束を抱えていた。
去年の冬の夜会で、扇の陰からわたしの手袋を見て、「あら、何か匂いますわね」とおっしゃった方だ。
「昨夜の夜会、本当にご立派でしたわ。わたくし、前々から、あなたのような落ち着いたお嬢様こそ王子妃にふさわしいと思っておりましたのよ」
「ありがとうございます」
花束を受け取ると、後ろから次々に人が押し寄せてきた。
「グラウベルク嬢、これはほんの気持ちだ。南方の茶葉でね」
「わたくしの娘が、ぜひお友達にと」
「グラウベルク嬢は、甘いものはお好きかな。王都でいちばんの菓子屋の焼き菓子を」
表の回廊が、香水と、花と、焼き菓子の匂いでいっぱいになった。
画廊の館長が、壁際で額の汗を拭いている。名画の前に人垣ができ、王家の狩りの絵が、誰の目にも入っていなかった。
わたしは、両腕いっぱいの贈り物を抱えたまま、立ち尽くした。
六年間、この方々の誰ひとり、わたしに話しかけたことはなかった。
*
「それで、その……つかぬことを伺うのだが」
焼き菓子の箱を差し出した老伯爵が、声を落とした。
「わしの絵は、何番目かね」
回廊が、しんと静かになった。
皆、それを聞きに来たのだ。
わたしは、花束を館長に預けて、皆様のほうへ向き直った。
「ご安心くださいませ。お返しするのは、殿下と、殿下のお口添えで預けられた方の分だけです」
「お口添え、というのは……」
「預かりには、縁が要ります。皆様のお預かり物は、国王陛下とわたくしの家の縁でお受けしたものです。その縁は、切れておりません」
回廊のあちこちで、安堵のため息がもれた。
伯爵夫人が、胸に手を当てて、よろけるように壁にもたれた。
「まあ……よかった。わたくし、昨夜は一睡もできませんでしたのよ」
「それは、お預けにならずにいらしたのですね」
「え?」
「いえ。何でもございません」
*
安堵の空気の中で、三人だけ、顔色の悪い若い方々がいた。
侯爵家のディートハルト様、子爵家のフェリクス様、伯爵家のオットマー様。殿下のご学友だ。
ディートハルト様が、意を決したように前へ出た。
「グラウベルク嬢。俺たちは……その、殿下のお口添えで、何度か」
「はい。存じております」
帳面を開くまでもなかった。殿下の写し絵の隣に、この方々の写し絵が並んでいる。
「殿下のお口添えで預けられた方は、十九名いらっしゃいます。皆様の絵の印にも、昨夜、ひびが入りました」
「じゃ、じゃあ、俺たちのも、全部」
「ひびの入った印からは、少しずつ、お戻りになります。何か月もかけて」
三人の顔が、そろって青くなった。
「削る、のか。殿下のときみたいに、一晩で」
「お返しするなら、きちんと、ひとつ残らず。それが、わたくしの家の作法です」
「や、やめてくれ!」
フェリクス様が、悲鳴のような声を上げた。
「一度に戻ってきたら、俺は……試験の、あれが……」
「おい、フェリクス」
オットマー様が、肘でつついた。フェリクス様は、慌てて口を押さえた。
わたしは、少し考えた。
「……では、削らずにおきます。ゆっくりとお戻りになるのを、お待ちくださいませ」
三人は、ほっとした顔をして、それから、またすぐに青くなった。
一晩で戻るのも、何か月もかけて戻るのも、戻ってくることに変わりはないのだと、気づいたのだろう。
*
人垣が引いていったあと、回廊の隅に、宰相ホーエンベルク閣下が残っていた。
六十を過ぎて、四十にしか見えない方。昨夜、グラスを落とした方だ。
「グラウベルク嬢。少し、よろしいかな」
閣下は、人払いをするように、奥の間の扉の前まで歩いた。
「最奥の一枚のことだ」
わたしは、扉の向こうの、重たい布のことを思った。
「先王陛下の写し絵でございますね」
「あれは……あれも、返るのかね。陛下のお口添えで、ではないから、大丈夫だとは思うのだが」
「先王陛下は、お亡くなりになっています。お返しする方が、いらっしゃいません」
「そ、そうだな。そうだとも」
閣下は、ほっとしたように頷いた。それから、探るような目で、わたしを見た。
「中に何が預けられているか、君は知っているのかね」
「いいえ。母の帳面の、その年のページは、白いままでございます」
閣下の喉が、小さく動いた。
「……そうか。白いままか」
閣下は、それ以上、何も聞かなかった。
ただ、帰り際に、振り向いて言った。
「私がこれを尋ねたことは、陛下には、内密に」
*
夕方、工房に戻ろうとしたとき、表の回廊の、殿下の写し絵が掛けられていた奥の間の入口に、背の高い方が立っていた。
王太子エーリヒ殿下だった。
二十二歳のはずなのに、三十過ぎに見える。目の下に、深い隈。こめかみに、白いものが混じっている。昨夜の弟君と、少し似た顔だった。
違うのは、それが昨夜からではなく、ずっと前からだということだ。
「グラウベルク嬢」
殿下は、わたしに気づくと、小さく頭を下げた。王太子が、画家の娘に。
「弟が、すまなかった」
「殿下が謝られることでは、ございません」
「兄だからな。それくらいはさせてくれ」
殿下は、開いた扉の奥を、ちらりと見た。七番目の、布の外れた額縁を。
「あれが、ヴィンの本当の顔か」
「はい」
「……悪くない顔だな」
殿下は、少しだけ笑った。
わたしは、ふと気づいた。
奥の間の三百二十九枚の中に、エーリヒ殿下の写し絵は、一枚もない。王家の方々は、皆、子どもの頃に一枚ずつ描かれる。殿下だけが、描かれていないのだ。
「殿下は、一度も、お預けになりませんでしたね」
「ああ」
「なぜ、でございますか」
殿下は、しばらく黙っていた。
「そのうち、話す」
それだけ言って、殿下は回廊を去っていった。
*
その夜、工房の作業台の上は、贈り物の山で埋まっていた。
百合の花束。南方の茶葉。焼き菓子。刺繍のハンカチ。誰かの娘の、お茶会の招待状。
ベルタが、焼き菓子を一つかじって、顔をしかめた。
「甘すぎますね。王都いちばんが聞いてあきれる」
「ベルタ」
「はい」
「今日いらした方々は、わたくしに、優しくしてくださいました」
「ええ。たいそう」
「でも、皆様が大切なのは、わたくしではありませんでした」
ベルタは、焼き菓子を置いた。
「わたくしが、預かっているものです」
ベルタは何も言わずに、わたしの手袋を外して、右手を両手で包んだ。
人差し指の、一節ぶんだけ白い肌を、親指で、そっと撫でた。
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