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婚約破棄されたので、お預かりしていた肖像画をすべてお返しします【連載版】  作者: 年商1億
第一部 二百十二個ございます

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第5話 どの顔料にもない色

「お嬢様。一昨日の晩は夜会から戻らずに朝まで蝋を削って、昨日は殿下に怒鳴り込まれて、夕方には男爵家のお嬢さん。お嫁入り前の娘の暮らしじゃありません」


 その翌朝、ベルタは湯を張った盥(たらい)を、どんと作業台に置いた。


「……もう、お嫁入りもなくなったんでしたね」


「ええ。なくなりました」


「それを、そんな落ち着いた声で言うんじゃありません」


 ベルタは鼻をすすり、わたしの右手を取って湯に浸けた。


 毎朝の決まりだった。湯に薬草を落として、指を一本ずつ洗う。染みが落ちたことは一度もないけれど、母の代から、ベルタはずっとこれを続けている。


 指を洗っていく手が、ふと止まった。


「あら。この指」


 わたしは、湯の中の自分の右手を見た。


 人差し指の染みが、引いていた。


 いつもなら第二関節まである灰色が、第一関節のあたりで止まっている。中指と薬指はそのままなのに、人差し指だけ、霧が晴れたように薄くなっていた。


「鉛の毒が、抜けたのかしら」


 ベルタが首をかしげる。


 わたしも、首をかしげた。


 鉛の毒が、そんなに急に抜けるものだろうか。


「お嬢様、昨日は何か、変わったものを召し上がりましたか」


「ベルタの作った麦粥と、ロジーナ嬢と一緒にいただいた、蜂蜜多めのお茶だけです」


「蜂蜜かしら」


「蜂蜜だとしたら、母はとうに治っていたと思います」


 ベルタは、それもそうだ、という顔をして、黙った。


*


 昼前、殿下の写し絵に布をかけ直そうと、奥の間へ向かった。


 もう隠すものはないけれど、一枚だけ顔をさらしているのは、どうにも落ち着かない。


 扉を開けると、先客がいた。


 いちばん奥の、ほかのどれよりも大きな額縁の前に脚立を立てて、背の高い男が、額縁の彫刻を小さな刷毛で払っていた。


 短い黒髪。首から下げた真鍮の拡大鏡。シャツの袖に、溶剤の染みが点々とついている。


「修復師の、ベックさん」


「ノアでいい」


 男は、脚立の上から振り向きもせずに言った。


 三年前に来た、王立画廊の修復師だ。奥の間に入れるのは、預かり役のわたしと、額縁の手入れを任されたこの人だけだった。


 この人がいつも手入れしているのは、最奥の一枚だ。


 先王陛下の写し絵。母から受け継いだまま、わたしも一度も布を外したことがない。ほかのどれよりも、重い布がかかっている。中に何が預けられているのか、帳面にも書いていない。母の帳面の、その年のページだけが、白いままなのだ。


「七番目の布が、外れていた」


 ノアが言った。


「かけ直そうかと思ったが、やめておいた。君が外したんだろう」


「ええ。一昨日の夜、お返しいたしましたので」


「あの晩は、一晩じゅう、蝋を削る音がしていた」


 わたしは、扉の外の茶碗のことを思い出した。


「……お耳障りでしたか」


「いや」


 ノアは、少しだけ間を置いた。


「二百十二個を、一晩でか」


「はい」


「手は、痛まないのか」


「慣れております」


「慣れるものじゃない」


 ぶっきらぼうな言い方だった。けれど、責められている気はしなかった。


「あの、ベックさん。いえ、ノアさん。一昨日の夜、扉の外に」


「茶碗なら、湯沸かし場に戻っていた」


 ノアは、彫刻の溝に刷毛を差しこんだまま言った。


「洗ってあった。几帳面だな」


 それ以上、何も言わなかった。わたしも、それ以上、何も聞かなかった。


*


 ノアは脚立を降り、刷毛を腰の袋にしまった。それから、わたしの右手に目を留めた。


 手袋をしていなかった。盥から上がったまま、ここへ来てしまったのだ。


 ノアは首から拡大鏡を持ち上げ、わたしの手から一歩離れたところで、片目に当てた。


「その色は」


 低い声だった。


「どの顔料にもない」


*


 わたしは、思わず手を引いた。


「鉛白の毒ですわ。画家の家の者は、皆こうなります」


「鉛の毒は、そういう色にはならない」


 ノアは、拡大鏡を下ろした。


「鉛は、歯茎に青黒い線を作る。指先なら、くすんだ灰色だ。そんなふうに、夜明け前の空を灰で薄めたような色にはならない」


 わたしは、自分の指を見た。


 生まれたときからあった染みではない。母が死んだ冬、九つのとき、ある朝ふと気づいたら、指先に浮かんでいた。それからずっと、少しずつ、上へ。


「……では、何の色なのでしょう」


「分からない」


 ノアは、あっさりと言った。


「分からない色には、分かるまで名前をつけない。修復師の決まりだ」


「修復師の方は、顔料にお詳しいのですね」


「それしか取り柄がない」


 ノアは脚立をたたみ、肩にかついだ。


「それから、その人差し指」


「はい」


「先月見たときは、第二関節まであった」


 わたしは、顔を上げた。


「先月、ご覧になったのですか」


「表の回廊ですれ違った。手袋を外していた」


 ノアはそれだけ言って、奥の間を出ていった。扉が閉まる直前に、もう一言だけ聞こえた。


「俺は、絵の表面しか見ない。気にするな」


*


 ひとりになった奥の間で、わたしは、窓から差す光に右手をかざした。


 人差し指の、第一関節。その上の、何もない、ただの肌の色。


 どの顔料にもない。


 では、この色は何なのだろう。


 なぜ、引いたのだろう。


 あの夜、わたしがしたことは、ひとつだけだ。


 殿下に、お返しした。


 わたしは、最奥の一枚を見上げた。重たい布の裾に、ノアが払った埃が、まだ少し舞っていた。


 表の回廊のほうから、ざわざわと人の声が近づいてきた。


 画廊の館長が、息を切らして扉から顔を出した。


「グラウベルク嬢! 大変だ、表に、ご婦人方と、ご令息方が……」


「何事でしょう」


「皆さま、君に会わせろと。自分の絵は、何番目の額かと」


 館長は、額の汗を拭った。


「宰相閣下まで、お見えになっている」


 奥の間には、まだ三百二十八枚の絵が眠っている。宮廷じゅうの人々が、何年も、何十年もかけて預けていったものが。


 わたしの指は、いつも汚れている。


 けれど今朝は、人差し指の一節ぶんだけ、汚れていなかった。


 その理由を、わたしはまだ知らない。


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