第5話 どの顔料にもない色
「お嬢様。一昨日の晩は夜会から戻らずに朝まで蝋を削って、昨日は殿下に怒鳴り込まれて、夕方には男爵家のお嬢さん。お嫁入り前の娘の暮らしじゃありません」
その翌朝、ベルタは湯を張った盥を、どんと作業台に置いた。
「……もう、お嫁入りもなくなったんでしたね」
「ええ。なくなりました」
「それを、そんな落ち着いた声で言うんじゃありません」
ベルタは鼻をすすり、わたしの右手を取って湯に浸けた。
毎朝の決まりだった。湯に薬草を落として、指を一本ずつ洗う。染みが落ちたことは一度もないけれど、母の代から、ベルタはずっとこれを続けている。
指を洗っていく手が、ふと止まった。
「あら。この指」
わたしは、湯の中の自分の右手を見た。
人差し指の染みが、引いていた。
いつもなら第二関節まである灰色が、第一関節のあたりで止まっている。中指と薬指はそのままなのに、人差し指だけ、霧が晴れたように薄くなっていた。
「鉛の毒が、抜けたのかしら」
ベルタが首をかしげる。
わたしも、首をかしげた。
鉛の毒が、そんなに急に抜けるものだろうか。
「お嬢様、昨日は何か、変わったものを召し上がりましたか」
「ベルタの作った麦粥と、ロジーナ嬢と一緒にいただいた、蜂蜜多めのお茶だけです」
「蜂蜜かしら」
「蜂蜜だとしたら、母はとうに治っていたと思います」
ベルタは、それもそうだ、という顔をして、黙った。
*
昼前、殿下の写し絵に布をかけ直そうと、奥の間へ向かった。
もう隠すものはないけれど、一枚だけ顔をさらしているのは、どうにも落ち着かない。
扉を開けると、先客がいた。
いちばん奥の、ほかのどれよりも大きな額縁の前に脚立を立てて、背の高い男が、額縁の彫刻を小さな刷毛で払っていた。
短い黒髪。首から下げた真鍮の拡大鏡。シャツの袖に、溶剤の染みが点々とついている。
「修復師の、ベックさん」
「ノアでいい」
男は、脚立の上から振り向きもせずに言った。
三年前に来た、王立画廊の修復師だ。奥の間に入れるのは、預かり役のわたしと、額縁の手入れを任されたこの人だけだった。
この人がいつも手入れしているのは、最奥の一枚だ。
先王陛下の写し絵。母から受け継いだまま、わたしも一度も布を外したことがない。ほかのどれよりも、重い布がかかっている。中に何が預けられているのか、帳面にも書いていない。母の帳面の、その年のページだけが、白いままなのだ。
「七番目の布が、外れていた」
ノアが言った。
「かけ直そうかと思ったが、やめておいた。君が外したんだろう」
「ええ。一昨日の夜、お返しいたしましたので」
「あの晩は、一晩じゅう、蝋を削る音がしていた」
わたしは、扉の外の茶碗のことを思い出した。
「……お耳障りでしたか」
「いや」
ノアは、少しだけ間を置いた。
「二百十二個を、一晩でか」
「はい」
「手は、痛まないのか」
「慣れております」
「慣れるものじゃない」
ぶっきらぼうな言い方だった。けれど、責められている気はしなかった。
「あの、ベックさん。いえ、ノアさん。一昨日の夜、扉の外に」
「茶碗なら、湯沸かし場に戻っていた」
ノアは、彫刻の溝に刷毛を差しこんだまま言った。
「洗ってあった。几帳面だな」
それ以上、何も言わなかった。わたしも、それ以上、何も聞かなかった。
*
ノアは脚立を降り、刷毛を腰の袋にしまった。それから、わたしの右手に目を留めた。
手袋をしていなかった。盥から上がったまま、ここへ来てしまったのだ。
ノアは首から拡大鏡を持ち上げ、わたしの手から一歩離れたところで、片目に当てた。
「その色は」
低い声だった。
「どの顔料にもない」
*
わたしは、思わず手を引いた。
「鉛白の毒ですわ。画家の家の者は、皆こうなります」
「鉛の毒は、そういう色にはならない」
ノアは、拡大鏡を下ろした。
「鉛は、歯茎に青黒い線を作る。指先なら、くすんだ灰色だ。そんなふうに、夜明け前の空を灰で薄めたような色にはならない」
わたしは、自分の指を見た。
生まれたときからあった染みではない。母が死んだ冬、九つのとき、ある朝ふと気づいたら、指先に浮かんでいた。それからずっと、少しずつ、上へ。
「……では、何の色なのでしょう」
「分からない」
ノアは、あっさりと言った。
「分からない色には、分かるまで名前をつけない。修復師の決まりだ」
「修復師の方は、顔料にお詳しいのですね」
「それしか取り柄がない」
ノアは脚立をたたみ、肩にかついだ。
「それから、その人差し指」
「はい」
「先月見たときは、第二関節まであった」
わたしは、顔を上げた。
「先月、ご覧になったのですか」
「表の回廊ですれ違った。手袋を外していた」
ノアはそれだけ言って、奥の間を出ていった。扉が閉まる直前に、もう一言だけ聞こえた。
「俺は、絵の表面しか見ない。気にするな」
*
ひとりになった奥の間で、わたしは、窓から差す光に右手をかざした。
人差し指の、第一関節。その上の、何もない、ただの肌の色。
どの顔料にもない。
では、この色は何なのだろう。
なぜ、引いたのだろう。
あの夜、わたしがしたことは、ひとつだけだ。
殿下に、お返しした。
わたしは、最奥の一枚を見上げた。重たい布の裾に、ノアが払った埃が、まだ少し舞っていた。
表の回廊のほうから、ざわざわと人の声が近づいてきた。
画廊の館長が、息を切らして扉から顔を出した。
「グラウベルク嬢! 大変だ、表に、ご婦人方と、ご令息方が……」
「何事でしょう」
「皆さま、君に会わせろと。自分の絵は、何番目の額かと」
館長は、額の汗を拭った。
「宰相閣下まで、お見えになっている」
奥の間には、まだ三百二十八枚の絵が眠っている。宮廷じゅうの人々が、何年も、何十年もかけて預けていったものが。
わたしの指は、いつも汚れている。
けれど今朝は、人差し指の一節ぶんだけ、汚れていなかった。
その理由を、わたしはまだ知らない。




