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婚約破棄されたので、お預かりしていた肖像画をすべてお返しします【連載版】  作者: 年商1億
第一部 二百十二個ございます

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第4話 それはあなたの傷です(ロジーナ視点)

 昼を過ぎるころには、白粉では隠せなくなっていた。


 ロジーナ・ブラントは、自室の鏡の前で、左の頬を見つめていた。


 耳の下から顎の線にかけて、手のひら半分ほどの赤い痕。朝はうっすらと赤いだけだったものが、今は引きつれて、まだらに光っている。


 火傷の痕だった。


 知らない。こんな傷は、知らない。


 十六年生きてきて、自分の顔に傷があったことなど、一度もない。社交界でいちばん美しい頬。それが、ロジーナが持っている、ほとんど唯一のものだった。


「お嬢様、ヴェールを」


 侍女が、おそるおそる差し出した。ロジーナは、それをひったくるように受け取った。


*


 王宮の回廊で、ヴェール越しに殿下を見つけた。


「殿下!」


 ヴィンフリート殿下は、帽子を目深にかぶって、窓辺に立っていた。ロジーナの声に振り向いて、ヴェールの下の赤い色に気づいたのか、ほんの一瞬、目を見開いた。


「殿下、わたくしの顔が……あの女のせいですわ。殿下なら、何とかしてくださるでしょう?」


 殿下は、何も言わなかった。


 それから、窓のほうへ顔を向けた。


「……今は、誰とも会いたくない。帰ってくれ」


「殿下」


「帰ってくれと言っている」


 殿下の帽子の下から、白い髪がのぞいていた。


 昨夜まで、あんなに金色だったのに。


 ロジーナは、その場に立ち尽くした。殿下はもう、こちらを見なかった。


 帰りの馬車の中で、ロジーナは、ヴェールの下で頬に触れた。ざらりとした、知らない手触りだった。


*


 屋敷に戻ると、まっすぐ父の書斎に向かった。


 ブラント男爵は、机の上に帳簿を広げていた。娘がヴェールを上げると、ペンが止まった。


「お父様。これは、何ですの」


「……ロジーナ」


「知っていらしたのね」


 父は、驚いていなかった。


 それだけで、全部分かった。


 父は長いこと黙っていたが、やがて、ペンを置いて話し始めた。


 六つのとき、冬の夜に、居間の暖炉で負った火傷だという。


 四年前、殿下との縁談の話が出たころに、父は殿下にお口添えを頼み、グラウベルク家に娘の写し絵を描かせた。娘を眠り薬で眠らせて、頬の痕を預けた。目を覚ました娘は、痕のことも、火のことも、すっかり忘れていた。


「あの痕では、良い縁談は来ない。王子妃どころか、伯爵家にも嫁げない。だから、お前のためにしたことだ」


「わたくしのため」


 ロジーナは、繰り返した。


 そんな言葉が、こんなに気持ちの悪いものだなんて、知らなかった。


「昨夜の夜会の前に、殿下を画廊へお連れしたのも、お父様ですわね」


 父は、答えなかった。


「殿下が、婚約を破棄なさる前に、ためらいを預けに行ったのよね。わたくし、殿下から聞きましたの。男爵が勧めてくれたって」


「……あの婚約が解ければ、お前が王子妃になれた」


「そして、わたくしの頬が戻ってきましたわ」


 ロジーナは、ヴェールを下ろした。


「お父様が、殿下にためらいを捨てさせたせいで」


*


 その日の夕方、グラウベルク家の工房の扉を、遠慮がちに叩く音がした。


 わたしが開けると、ヴェールで顔を覆った娘が立っていた。


「……ブラント嬢」


「入っても、よろしいかしら」


 昨夜、殿下の腕にしがみついていた声と、同じ声とは思えなかった。


 工房の小さな椅子に座ってもらい、ベルタが茶を出した。


「どうぞ。蜂蜜を、多めにしておきましたよ」


 ベルタはそれだけ言って、台所へ引っ込んだ。引っ込みながら、こちらに目配せをした。昨夜の、あのお嬢さんですよ、という顔だった。存じています。


 ロジーナ嬢は茶碗を両手で包んだまま、しばらく黙っていた。


 それから、ヴェールを上げた。


 四年前、わたしが筆を当てた頬だった。


「もう一度、預かっていただけませんか」


 ロジーナ嬢は、身を乗り出した。


「お金なら、父に払わせます。借金をしてでも。だから」


「申し訳ございません」


 わたしは、首を振った。


「ブラント嬢のお預かり物は、殿下のお口添えで受けたものです。殿下とわたくしの家の縁が切れた以上、もうお預かりすることはできません」


「では、わたくしは、このまま」


「はい」


 ロジーナ嬢は、言葉を失ったようだった。


 しばらくして、彼女は小さな声で言った。


「……怒って、いらっしゃらないの」


「何を、でございますか」


「昨夜、わたくし、殿下の腕にしがみついて、扇の陰で笑いましたのよ。あなたの婚約者を取ったのよ。ざまあみろと言われても、仕方がないと思って、ここへ来ましたの」


 わたしは、ロジーナ嬢の頬を見た。


 四年前、眠り薬で眠る十二歳の少女の頬に、わたしは筆を当てた。そのときのことを、よく覚えている。少女は眠ったまま、小さく眉を寄せていた。


「それは、あなたの傷です」


 わたしは言った。


「あなたが悪いのではありません。お父様がお預けになり、わたくしがお預かりして、今、あなたにお返ししました。それだけのことです」


「でも」


「殿下は、あなたのものではありませんでした。わたくしのものでも、ありませんでした」


 ロジーナ嬢は、目を見開いた。


 それから、ゆっくりと、自分の頬の痕に指先で触れた。


*


「……あ」


 ロジーナ嬢の指が、止まった。


「思い出し、ましたわ」


 ささやくような声だった。


「暖炉の火の中に、硝子玉みたいに光るものがあって。きれいで、手を伸ばしたの。そうしたら、後ろから、誰かが腰を強く抱いて、引き戻してくれて」


 ロジーナ嬢の目に、涙が溜まっていった。


「袖の焦げる匂いがして。床に転がって。痛かったね、ごめんね、ロジーナ、って」


 彼女の母君は、彼女が九つのときに病で亡くなったと聞いている。


「お母様の、腕でしたわ」


 涙が一粒、引きつれた痕の上を伝って落ちた。


「この傷は、お母様が、わたくしを火から引き戻してくれた痕でしたのね。父はそれを、消してしまった。お母様の腕の記憶ごと」


 わたしは、何も言わなかった。


*


 帰り際、ロジーナ嬢は戸口で振り向いた。


 ヴェールは、つけていなかった。作業台の上に、きちんと畳んで置いてあった。


「それは、置いていきますわ。もう要りませんもの」


 夕暮れの光が、彼女の頬の痕を赤く照らしていた。


「返してくださって、ありがとう」


 わたしは、まばたきをした。


 何と答えればいいのか、分からなかった。


「……お返しして、お礼を言われたのは、初めてです」


 ロジーナ嬢は少しだけ笑って、自分の顔のまま、夕暮れの道を帰っていった。


 台所から、ベルタが顔を出した。


「あのお嬢さん、いらしたときと帰るときで、まるで別人みたいなお顔でしたねえ」


「ご自分のお顔に、おなりになったのです」


「はあ。お嬢様は、ときどき難しいことをおっしゃる」


 ベルタは首をかしげながら、畳まれたヴェールを手に取って、どこにしまおうか迷っていた。


 結局、ベルタはそれを、工房の窓の、日除けにかけた。


 夕日が、薄い布ごしに、少しやわらかくなった。


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