第4話 それはあなたの傷です(ロジーナ視点)
昼を過ぎるころには、白粉では隠せなくなっていた。
ロジーナ・ブラントは、自室の鏡の前で、左の頬を見つめていた。
耳の下から顎の線にかけて、手のひら半分ほどの赤い痕。朝はうっすらと赤いだけだったものが、今は引きつれて、まだらに光っている。
火傷の痕だった。
知らない。こんな傷は、知らない。
十六年生きてきて、自分の顔に傷があったことなど、一度もない。社交界でいちばん美しい頬。それが、ロジーナが持っている、ほとんど唯一のものだった。
「お嬢様、ヴェールを」
侍女が、おそるおそる差し出した。ロジーナは、それをひったくるように受け取った。
*
王宮の回廊で、ヴェール越しに殿下を見つけた。
「殿下!」
ヴィンフリート殿下は、帽子を目深にかぶって、窓辺に立っていた。ロジーナの声に振り向いて、ヴェールの下の赤い色に気づいたのか、ほんの一瞬、目を見開いた。
「殿下、わたくしの顔が……あの女のせいですわ。殿下なら、何とかしてくださるでしょう?」
殿下は、何も言わなかった。
それから、窓のほうへ顔を向けた。
「……今は、誰とも会いたくない。帰ってくれ」
「殿下」
「帰ってくれと言っている」
殿下の帽子の下から、白い髪がのぞいていた。
昨夜まで、あんなに金色だったのに。
ロジーナは、その場に立ち尽くした。殿下はもう、こちらを見なかった。
帰りの馬車の中で、ロジーナは、ヴェールの下で頬に触れた。ざらりとした、知らない手触りだった。
*
屋敷に戻ると、まっすぐ父の書斎に向かった。
ブラント男爵は、机の上に帳簿を広げていた。娘がヴェールを上げると、ペンが止まった。
「お父様。これは、何ですの」
「……ロジーナ」
「知っていらしたのね」
父は、驚いていなかった。
それだけで、全部分かった。
父は長いこと黙っていたが、やがて、ペンを置いて話し始めた。
六つのとき、冬の夜に、居間の暖炉で負った火傷だという。
四年前、殿下との縁談の話が出たころに、父は殿下にお口添えを頼み、グラウベルク家に娘の写し絵を描かせた。娘を眠り薬で眠らせて、頬の痕を預けた。目を覚ました娘は、痕のことも、火のことも、すっかり忘れていた。
「あの痕では、良い縁談は来ない。王子妃どころか、伯爵家にも嫁げない。だから、お前のためにしたことだ」
「わたくしのため」
ロジーナは、繰り返した。
そんな言葉が、こんなに気持ちの悪いものだなんて、知らなかった。
「昨夜の夜会の前に、殿下を画廊へお連れしたのも、お父様ですわね」
父は、答えなかった。
「殿下が、婚約を破棄なさる前に、ためらいを預けに行ったのよね。わたくし、殿下から聞きましたの。男爵が勧めてくれたって」
「……あの婚約が解ければ、お前が王子妃になれた」
「そして、わたくしの頬が戻ってきましたわ」
ロジーナは、ヴェールを下ろした。
「お父様が、殿下にためらいを捨てさせたせいで」
*
その日の夕方、グラウベルク家の工房の扉を、遠慮がちに叩く音がした。
わたしが開けると、ヴェールで顔を覆った娘が立っていた。
「……ブラント嬢」
「入っても、よろしいかしら」
昨夜、殿下の腕にしがみついていた声と、同じ声とは思えなかった。
工房の小さな椅子に座ってもらい、ベルタが茶を出した。
「どうぞ。蜂蜜を、多めにしておきましたよ」
ベルタはそれだけ言って、台所へ引っ込んだ。引っ込みながら、こちらに目配せをした。昨夜の、あのお嬢さんですよ、という顔だった。存じています。
ロジーナ嬢は茶碗を両手で包んだまま、しばらく黙っていた。
それから、ヴェールを上げた。
四年前、わたしが筆を当てた頬だった。
「もう一度、預かっていただけませんか」
ロジーナ嬢は、身を乗り出した。
「お金なら、父に払わせます。借金をしてでも。だから」
「申し訳ございません」
わたしは、首を振った。
「ブラント嬢のお預かり物は、殿下のお口添えで受けたものです。殿下とわたくしの家の縁が切れた以上、もうお預かりすることはできません」
「では、わたくしは、このまま」
「はい」
ロジーナ嬢は、言葉を失ったようだった。
しばらくして、彼女は小さな声で言った。
「……怒って、いらっしゃらないの」
「何を、でございますか」
「昨夜、わたくし、殿下の腕にしがみついて、扇の陰で笑いましたのよ。あなたの婚約者を取ったのよ。ざまあみろと言われても、仕方がないと思って、ここへ来ましたの」
わたしは、ロジーナ嬢の頬を見た。
四年前、眠り薬で眠る十二歳の少女の頬に、わたしは筆を当てた。そのときのことを、よく覚えている。少女は眠ったまま、小さく眉を寄せていた。
「それは、あなたの傷です」
わたしは言った。
「あなたが悪いのではありません。お父様がお預けになり、わたくしがお預かりして、今、あなたにお返ししました。それだけのことです」
「でも」
「殿下は、あなたのものではありませんでした。わたくしのものでも、ありませんでした」
ロジーナ嬢は、目を見開いた。
それから、ゆっくりと、自分の頬の痕に指先で触れた。
*
「……あ」
ロジーナ嬢の指が、止まった。
「思い出し、ましたわ」
ささやくような声だった。
「暖炉の火の中に、硝子玉みたいに光るものがあって。きれいで、手を伸ばしたの。そうしたら、後ろから、誰かが腰を強く抱いて、引き戻してくれて」
ロジーナ嬢の目に、涙が溜まっていった。
「袖の焦げる匂いがして。床に転がって。痛かったね、ごめんね、ロジーナ、って」
彼女の母君は、彼女が九つのときに病で亡くなったと聞いている。
「お母様の、腕でしたわ」
涙が一粒、引きつれた痕の上を伝って落ちた。
「この傷は、お母様が、わたくしを火から引き戻してくれた痕でしたのね。父はそれを、消してしまった。お母様の腕の記憶ごと」
わたしは、何も言わなかった。
*
帰り際、ロジーナ嬢は戸口で振り向いた。
ヴェールは、つけていなかった。作業台の上に、きちんと畳んで置いてあった。
「それは、置いていきますわ。もう要りませんもの」
夕暮れの光が、彼女の頬の痕を赤く照らしていた。
「返してくださって、ありがとう」
わたしは、まばたきをした。
何と答えればいいのか、分からなかった。
「……お返しして、お礼を言われたのは、初めてです」
ロジーナ嬢は少しだけ笑って、自分の顔のまま、夕暮れの道を帰っていった。
台所から、ベルタが顔を出した。
「あのお嬢さん、いらしたときと帰るときで、まるで別人みたいなお顔でしたねえ」
「ご自分のお顔に、おなりになったのです」
「はあ。お嬢様は、ときどき難しいことをおっしゃる」
ベルタは首をかしげながら、畳まれたヴェールを手に取って、どこにしまおうか迷っていた。
結局、ベルタはそれを、工房の窓の、日除けにかけた。
夕日が、薄い布ごしに、少しやわらかくなった。




