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婚約破棄されたので、お預かりしていた肖像画をすべてお返しします【連載版】  作者: 年商1億
第一部 二百十二個ございます

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第3話 鏡の中の白髪(ヴィンフリート視点)

 目を覚ました瞬間、ヴィンフリートは、誰かに上から押さえつけられているのだと思った。


 体が重い。腕も脚も、まぶたさえも、濡れた砂袋を縛りつけられたように重い。


「殿下、朝でございます」


 侍従がカーテンを引いた。


 ヴィンフリートは呻きながら身を起こし、いつものように、寝台の脇の姿見に目をやった。


 そして、悲鳴を上げた。


 鏡の中に、知らない男がいた。


 目の下に、墨をなすったような隈。頬はかさついて、顎に赤い吹き出物がふたつ。何より、こめかみから耳の上にかけて、金色の髪に白いものが混じっていた。一本や二本ではない。束になって。


「殿下、そのお髪は……」


「見るな!」


*


 午前の講義には、帽子を目深にかぶって出た。


 休めば噂になる。昨夜の婚約破棄と結びつけて、面白おかしく語られる。それだけは避けたかった。


 老博士が、王国史の講義を始めた。


 三行も聞かないうちに、ヴィンフリートの頭が、がくりと落ちた。


「殿下」


 はっと顔を上げる。よだれが一筋、羊皮紙に垂れていた。


「し、失礼。少し、寝不足で」


「左様ですか。では、続けます。灰の十年の終わりは、王国暦の何年でしたかな」


「それは……」


 出てこなかった。


 去年までは、すらすら答えられたはずの問いだった。いや、答えられたことになっていたはずの問いだ。


「殿下は昨年、王国史の試験で満点を取られましたな」


 老博士が、穏やかに言った。


 その一言で、背中に冷たい汗がにじんだ。


 あれは、隣の席の伯爵令息の答案を写したものだ。


 そんなこと、とうに忘れていた。忘れていたはずなのに、今は写した答案の筆跡まで、ありありと思い出せる。インクの染み。几帳面な数字の書き方。答案を写させてくれた令息が、試験のあと、自分の点が殿下より一点低かったと知って、黙って笑っていた顔。


 胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。


 こんな気持ちは、知らない。


 いや。知っていて、どこかへやってしまっていたのだ。


「……今日は、もう帰る」


*


 廊下で、ロジーナが待っていた。


「殿下ぁ!」


 駆け寄ってきた彼女は、ヴィンフリートの顔を見上げたとたん、半歩後ろに下がった。


「……まあ。お疲れですの?」


 扇の陰で、彼女の目がこめかみの白い筋を追っている。ヴィンフリートは帽子のつばを引き下げた。


「あの女に呪われたんだ。預かっていた分を返す、と言っただろう。あれは呪いの文句だ」


「呪い……」


 ロジーナは小さく息を呑み、左の頬に手を当てた。今朝は、いつもより白粉が厚い。


「どうした。昨夜から、そこばかり触っているな」


「いいえ。なんでもございませんわ。……少し、赤いだけ」


 彼女はそれきり、頬から手を離さなかった。


*


 王立画廊の北の端に、グラウベルク家の工房はある。


 ヴィンフリートが扉を蹴り開けると、油と溶剤の匂いが鼻を打った。


 イルゼは、作業台の前に座っていた。灰色の地味な作業着に、白い前掛け。何を考えているのか分からない、いつもの顔で、こちらを見上げる。


「おはようございます、殿下」


「何をした」


 ヴィンフリートは帽子を床に叩きつけた。白い筋の混じった髪が、むき出しになる。


「僕に何をした! この髪も、この顔も、お前の仕業だろう! 返せ!」


「何を、でございますか」


「僕の顔だ! 昨日までの、僕の顔を返せ!」


「お返ししたのが、殿下のお顔でございます」


 ヴィンフリートは、言葉に詰まった。


 台所の戸口から、太った年配の女が顔をのぞかせた。工房の家政婦だ。女は帽子の落ちた床と、王子の顔と、イルゼの顔を順に見て、何も言わずに引っ込んだ。


 引っ込む前に、鼻を鳴らしたような気がした。


「お前……昨日まで、僕に口答えなんか一度もしなかっただろう」


「はい。殿下の婚約者でしたので」


「今は」


「今は、ただの画家の娘でございます」


 イルゼは、表情ひとつ変えなかった。


「わたくしは、お返ししただけでございます。殿下がお預けになったものを」


「僕は何も預けてない!」


「左様でございますか」


 イルゼは、作業台の上の革表紙の帳面を開いた。ページをめくる指先に、灰色の染みが見えた。


 汚い、と思ったことがある。


 なぜ汚いと思ったのか、今朝は、思い出せそうな気がした。


「では、お読みいたしましょうか。六一六年、春」


 イルゼの声は、平らだった。


「侍女のマルテに茶をこぼされ、頬を打ったあとの、嫌な気分」


 ヴィンフリートの喉が、ひくりと鳴った。


 思い出した。


 打った手のひらの痛みまで、はっきりと。黙ってうつむいた、マルテの横顔も。


「やめろ」


「全部で、二百十二ございます」


「やめろと言っている!」


 イルゼは、帳面を閉じた。


「昨夜、すべてお返しいたしました」


 ヴィンフリートは、作業台に両手をついた。


「……婚約は、撤回する。破棄は取り消しだ。それなら、元に戻せるだろう」


「申し訳ございません」


 イルゼは、少しだけ首をかしげた。


「一度ひびの入った印は、元には戻りませんので」


*


 回廊を戻る途中で、洗濯物の籠を抱えた侍女とすれ違った。


 マルテだった。


 彼女は王子に気づくと、壁際に寄って深く頭を下げた。白髪の混じった頭を見ても、何も言わなかった。


 ヴィンフリートは、その横を通り過ぎた。


 目を合わせることが、どうしてもできなかった。


 これまでは平気だったのだ。平気な顔をしていられたのは、平気でいられないものを、全部どこかに置いてきていたからだった。


*


 中庭を横切ろうとして、ヴィンフリートは足を止めた。


 噴水のそばの長椅子に、いつもの三人がいた。侯爵家のディートハルト、子爵家のフェリクス、伯爵家のオットマー。学友であり、遊び仲間であり、この六年、ヴィンフリートの口添えで、何度も画廊の奥へ通った連中だ。


 三人は、手鏡を回しながら、顔を寄せ合っていた。


「……俺は、何も変わっていない。お前はどうだ」


「変わってない、はずだ。いや、目の下が少し」


「殿下のお口添えで預けた分が、返ってくるんだろう? いつだ。今日か。明日か」


「知るか。あの女に聞け」


 ヴィンフリートが近づくと、三人はぴたりと口を閉じた。


 そして、ディートハルトが、立ち上がって、深々と頭を下げた。


「殿下。……ご気分がすぐれないと伺いました。どうぞ、お大事に」


 それだけ言うと、三人は、そそくさと回廊のほうへ去っていった。


 一度も、ヴィンフリートの帽子の下を見ようとしなかった。


 見れば、自分たちの明日が分かってしまうからだ。


 噴水の水の音だけが、やけに大きく聞こえた。


*


 自室に戻ると、侍従が、おずおずと言った。


「殿下。宰相閣下が、お見えになっております」


「追い返せ」


「それが、閣下はたいそうお急ぎのご様子で……画廊の奥の間のことで、と」


 ヴィンフリートは、顔を上げた。


 宰相ホーエンベルク。六十を過ぎて、四十にしか見えない男。昨夜、グラスを落とした男だ。


「僕のことで、か」


「いいえ」


 侍従は、言いにくそうに目を伏せた。


「閣下は、いちばん奥の一枚のことで、とおっしゃっておられました」


 その日、ヴィンフリートは生まれて初めて、自分の顔を重いと思った。


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