第3話 鏡の中の白髪(ヴィンフリート視点)
目を覚ました瞬間、ヴィンフリートは、誰かに上から押さえつけられているのだと思った。
体が重い。腕も脚も、まぶたさえも、濡れた砂袋を縛りつけられたように重い。
「殿下、朝でございます」
侍従がカーテンを引いた。
ヴィンフリートは呻きながら身を起こし、いつものように、寝台の脇の姿見に目をやった。
そして、悲鳴を上げた。
鏡の中に、知らない男がいた。
目の下に、墨をなすったような隈。頬はかさついて、顎に赤い吹き出物がふたつ。何より、こめかみから耳の上にかけて、金色の髪に白いものが混じっていた。一本や二本ではない。束になって。
「殿下、そのお髪は……」
「見るな!」
*
午前の講義には、帽子を目深にかぶって出た。
休めば噂になる。昨夜の婚約破棄と結びつけて、面白おかしく語られる。それだけは避けたかった。
老博士が、王国史の講義を始めた。
三行も聞かないうちに、ヴィンフリートの頭が、がくりと落ちた。
「殿下」
はっと顔を上げる。よだれが一筋、羊皮紙に垂れていた。
「し、失礼。少し、寝不足で」
「左様ですか。では、続けます。灰の十年の終わりは、王国暦の何年でしたかな」
「それは……」
出てこなかった。
去年までは、すらすら答えられたはずの問いだった。いや、答えられたことになっていたはずの問いだ。
「殿下は昨年、王国史の試験で満点を取られましたな」
老博士が、穏やかに言った。
その一言で、背中に冷たい汗がにじんだ。
あれは、隣の席の伯爵令息の答案を写したものだ。
そんなこと、とうに忘れていた。忘れていたはずなのに、今は写した答案の筆跡まで、ありありと思い出せる。インクの染み。几帳面な数字の書き方。答案を写させてくれた令息が、試験のあと、自分の点が殿下より一点低かったと知って、黙って笑っていた顔。
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
こんな気持ちは、知らない。
いや。知っていて、どこかへやってしまっていたのだ。
「……今日は、もう帰る」
*
廊下で、ロジーナが待っていた。
「殿下ぁ!」
駆け寄ってきた彼女は、ヴィンフリートの顔を見上げたとたん、半歩後ろに下がった。
「……まあ。お疲れですの?」
扇の陰で、彼女の目がこめかみの白い筋を追っている。ヴィンフリートは帽子のつばを引き下げた。
「あの女に呪われたんだ。預かっていた分を返す、と言っただろう。あれは呪いの文句だ」
「呪い……」
ロジーナは小さく息を呑み、左の頬に手を当てた。今朝は、いつもより白粉が厚い。
「どうした。昨夜から、そこばかり触っているな」
「いいえ。なんでもございませんわ。……少し、赤いだけ」
彼女はそれきり、頬から手を離さなかった。
*
王立画廊の北の端に、グラウベルク家の工房はある。
ヴィンフリートが扉を蹴り開けると、油と溶剤の匂いが鼻を打った。
イルゼは、作業台の前に座っていた。灰色の地味な作業着に、白い前掛け。何を考えているのか分からない、いつもの顔で、こちらを見上げる。
「おはようございます、殿下」
「何をした」
ヴィンフリートは帽子を床に叩きつけた。白い筋の混じった髪が、むき出しになる。
「僕に何をした! この髪も、この顔も、お前の仕業だろう! 返せ!」
「何を、でございますか」
「僕の顔だ! 昨日までの、僕の顔を返せ!」
「お返ししたのが、殿下のお顔でございます」
ヴィンフリートは、言葉に詰まった。
台所の戸口から、太った年配の女が顔をのぞかせた。工房の家政婦だ。女は帽子の落ちた床と、王子の顔と、イルゼの顔を順に見て、何も言わずに引っ込んだ。
引っ込む前に、鼻を鳴らしたような気がした。
「お前……昨日まで、僕に口答えなんか一度もしなかっただろう」
「はい。殿下の婚約者でしたので」
「今は」
「今は、ただの画家の娘でございます」
イルゼは、表情ひとつ変えなかった。
「わたくしは、お返ししただけでございます。殿下がお預けになったものを」
「僕は何も預けてない!」
「左様でございますか」
イルゼは、作業台の上の革表紙の帳面を開いた。ページをめくる指先に、灰色の染みが見えた。
汚い、と思ったことがある。
なぜ汚いと思ったのか、今朝は、思い出せそうな気がした。
「では、お読みいたしましょうか。六一六年、春」
イルゼの声は、平らだった。
「侍女のマルテに茶をこぼされ、頬を打ったあとの、嫌な気分」
ヴィンフリートの喉が、ひくりと鳴った。
思い出した。
打った手のひらの痛みまで、はっきりと。黙ってうつむいた、マルテの横顔も。
「やめろ」
「全部で、二百十二ございます」
「やめろと言っている!」
イルゼは、帳面を閉じた。
「昨夜、すべてお返しいたしました」
ヴィンフリートは、作業台に両手をついた。
「……婚約は、撤回する。破棄は取り消しだ。それなら、元に戻せるだろう」
「申し訳ございません」
イルゼは、少しだけ首をかしげた。
「一度ひびの入った印は、元には戻りませんので」
*
回廊を戻る途中で、洗濯物の籠を抱えた侍女とすれ違った。
マルテだった。
彼女は王子に気づくと、壁際に寄って深く頭を下げた。白髪の混じった頭を見ても、何も言わなかった。
ヴィンフリートは、その横を通り過ぎた。
目を合わせることが、どうしてもできなかった。
これまでは平気だったのだ。平気な顔をしていられたのは、平気でいられないものを、全部どこかに置いてきていたからだった。
*
中庭を横切ろうとして、ヴィンフリートは足を止めた。
噴水のそばの長椅子に、いつもの三人がいた。侯爵家のディートハルト、子爵家のフェリクス、伯爵家のオットマー。学友であり、遊び仲間であり、この六年、ヴィンフリートの口添えで、何度も画廊の奥へ通った連中だ。
三人は、手鏡を回しながら、顔を寄せ合っていた。
「……俺は、何も変わっていない。お前はどうだ」
「変わってない、はずだ。いや、目の下が少し」
「殿下のお口添えで預けた分が、返ってくるんだろう? いつだ。今日か。明日か」
「知るか。あの女に聞け」
ヴィンフリートが近づくと、三人はぴたりと口を閉じた。
そして、ディートハルトが、立ち上がって、深々と頭を下げた。
「殿下。……ご気分がすぐれないと伺いました。どうぞ、お大事に」
それだけ言うと、三人は、そそくさと回廊のほうへ去っていった。
一度も、ヴィンフリートの帽子の下を見ようとしなかった。
見れば、自分たちの明日が分かってしまうからだ。
噴水の水の音だけが、やけに大きく聞こえた。
*
自室に戻ると、侍従が、おずおずと言った。
「殿下。宰相閣下が、お見えになっております」
「追い返せ」
「それが、閣下はたいそうお急ぎのご様子で……画廊の奥の間のことで、と」
ヴィンフリートは、顔を上げた。
宰相ホーエンベルク。六十を過ぎて、四十にしか見えない男。昨夜、グラスを落とした男だ。
「僕のことで、か」
「いいえ」
侍従は、言いにくそうに目を伏せた。
「閣下は、いちばん奥の一枚のことで、とおっしゃっておられました」
その日、ヴィンフリートは生まれて初めて、自分の顔を重いと思った。




