第2話 夜明けまでの蝋
表の回廊は、月明かりで青白かった。
壁には、王国の名画がずらりと並んでいる。戦の勝利、王家の狩り、果物の静物。昼間は貴族たちがゆっくり眺めていく、ふつうの絵だ。
突き当たりの扉を開けると、ひやりとした空気が頬に触れた。
奥の間だ。
両側の壁に、灰色の布をかぶった額縁が、奥まで続いている。三百二十九枚。窓は高いところに一つだけ。ここに入れるのは、預かり役のわたしと、額縁の手入れを任された修復師だけだった。
殿下の写し絵は、入口から七番目にあった。
布を外す。
金色の巻き毛の少年が、そこにいた。十三歳。わたしと婚約した年の殿下だ。
けれどその顔は、少年のものではなかった。
目の下に、墨をなすりつけたような隈。頬には吹き出物が散り、こめかみの髪は束になって白く、口元は何かに怯えるように歪んでいる。
そして、膝の上に置かれた右の手のひらだけが、赤く腫れていた。
何かを、打ったあとの手のように。
*
額縁を少し傾けて、裏に回る。
キャンバスの裏一面に、小指の先ほどの灰色の蝋の印が、びっしりと押してあった。灰色の山に、一本の筆。グラウベルク家の紋だ。
その全部に、細いひびが入っていた。
わたしは、腰の小袋からパレットナイフを取り出した。それから、革表紙の帳面を開いた。
グラウベルク家の預かり役は、預かったものを一つ残らず帳面に書く。いつ、誰から、何を。預けた本人が忘れても、帳面だけは覚えている。
最初の印に、刃を当てる。
「六一二年、秋。ご婚約の儀の翌日。初めての乗馬で落馬なさったときの、恐怖」
かり、と小さな音がして、蝋が剥がれた。
「六一三年、初夏。剣術の御前試合の前夜の、臆病」
かり。
「六一四年、春。礼法の授業で、王妃陛下の御前でくしゃみを三回なさった恥ずかしさ」
かり。
「同じ日。その後で、くしゃみは侍従のせいだとおっしゃった後ろめたさ」
かり。
一つ削るたびに、読み上げる。読み上げるのは、作法だ。誰も聞いていなくても。
「六一四年、冬。家庭教師の課題を、ご友人に代わりにやらせたときの、後ろめたさ」
かり。
「六一五年、秋。ご友人に、乗馬が苦手だと知られたくなかった見栄」
かり。
「六一六年、夏。賭け札で負けた金額を、陛下に申し上げられなかった焦り」
かり。
「六一七年、秋。王国史の試験で、隣の席の答案を写されたこと」
かり。
*
殿下は、疲れた日も、しくじった日も、怖くなった夜も、ここへ来て額縁に手を置いた。
宮廷では、誰もがそうしている。若い貴族にとっては、ちょっとした身だしなみのようなものだった。夜会の前に髪を整えるように、試験の前に不安を預ける。
殿下が預けるたびに、わたしは筆を取った。
額縁に両手を置いた殿下の前で、写し絵の顔に、筆の先を当てる。すると筆の先から、冷たいものが指を伝って上ってくる。預かり役の仕事は、それだけだった。
六年間、殿下はわたしの顔を、一度も見なかった。
見ていたのは、いつも手袋だった。
汚い、と言われたことがある。十四のときだ。手袋を外して筆を握っていたら、殿下が顔をしかめて、ハンカチで鼻を押さえた。
絵の具の匂いがする、と。
わたしは次の日から、預かりのとき以外は、手袋を外さなくなった。
「六一七年、冬。お父君の誕生祝いの詩を、宮廷詩人に書かせて、ご自分の作としてお読みになったこと」
かり。
「残り、百九十」
指の付け根が、痛くなってきた。
*
夜半を過ぎたころ、ナイフを持つ手を休めて、窓を見上げた。
高い窓の向こうで、星が少し傾いていた。
画廊のどこかで、扉の閉まる音がした気がした。振り向いたけれど、奥の間の扉は閉じたままだった。
気のせいだろう。
帳面に目を戻す。
「六一六年、春。侍女のマルテに茶をこぼされ、頬を打ったあとの、嫌な気分」
ナイフが、一瞬だけ止まった。
マルテは、わたしと同じ年の侍女だった。打たれた次の日、彼女は頬を腫らしたまま、何事もなかったように殿下に茶を出していた。
殿下は、もう何も覚えていなかった。預けたから。
かり。
膝の上の、赤い手のひらの色が、少し薄くなった。
*
最後の印を削り落としたのは、東の窓が白み始めたころだった。
「六一八年、春。今夜。婚約破棄を宣言なさる前の、ためらい」
かり。
殿下は、夜会の前にも、ここへ来ていた。わたしの知らないうちに、ロジーナ嬢の父君、ブラント男爵の付き添いで。
ためらいは、あったのだ。
預けてしまったけれど。
*
表に回って、わたしは息を止めた。
絵が、変わっていた。
隈が消えていた。吹き出物も、白い髪も、歪んだ口元も、赤い手のひらも。金色の髪の少年が、澄んだ目でまっすぐにこちらを見ていた。肌はなめらかで、口元には自信のようなものさえ浮かんでいる。
美しい少年だった。
本来は、こういう顔をしていたのだ。預けていたものが、すべて持ち主に返ったから。
布は、かけ直さなかった。もう隠すものは何もない。
*
わたしは、自分の右手を見下ろした。
一晩じゅうパレットナイフを握っていた指が、細かく震えている。灰色の染みは、いつもどおり、第二関節まで、そこにあった。
母の手は、最期には手首まで灰色だった。
祖母も、そうだったと聞いている。グラウベルク家の画家は、誰も三十五を越えずに死ぬ。
鉛の毒は、怖い。
わたしは手袋をはめて、帳面を閉じた。表紙の裏に、母の字で小さく書いてある。
『お役目は、名誉なことよ』
母が死んだのは、わたしが九つの冬だった。
奥の間を出るとき、残りの三百二十八枚の布が、朝の光の中で、いつもより少しだけ重たそうに見えた。
扉を開けて、わたしは足を止めた。
扉の外の床に、湯気の消えかけた茶碗が一つ、置いてあった。
白い、飾り気のない陶器の茶碗。画廊の職員が使う、裏の湯沸かし場のものだ。手に取ると、まだほんのりと温かかった。
誰が置いたのだろう。
夜中に聞こえた、扉の閉まる音を思い出した。
画廊の夜の鍵を持っているのは、館長と、修復師と、わたしだけだ。館長は、六十を過ぎて夜は早く寝てしまう。
わたしは、冷めかけた茶を、ひと口だけ飲んだ。
蜂蜜も砂糖も入っていない、ただの濃い茶だった。一晩じゅう蝋を削っていた喉に、渋さがしみた。
茶碗は、湯沸かし場に洗って返しておいた。
*
工房に戻ると、家政婦のベルタが、台所の椅子で舟をこいでいた。
六十を過ぎた、丸い体の、母の代からいる家政婦だ。昨夜は、わたしの帰りを待って起きていてくれたのだろう。膝の上で、編みかけの靴下が落ちかけていた。
「ベルタ」
ベルタは、はっと目を開けた。それから、わたしのドレスの裾に蝋の粉がついているのを見て、すべてを察した顔をした。
「……夜会から戻らずに、画廊ですか」
「ええ」
「殿下の分を」
「ええ。二百十二個」
ベルタは、長いため息をついた。
「お嬢様。一つだけ伺いますよ。夜会で、何があったんです」
「婚約を、破棄されました」
ベルタは、しばらく黙っていた。
それから、椅子から立ち上がって、竈に火を入れ始めた。
「お湯を沸かします。お嬢様は、まず手をお出しなさい。それから寝る。話は、起きてからです」
「ベルタ、怒っているの?」
「怒ってますとも」
ベルタは、薪を乱暴に竈へ放りこんだ。
「お嬢様に、ではありませんよ」
殿下は、そろそろ目を覚まされるころだろう。
鏡を、ご覧になるだろうか。




