第1話 二百十二個ございます
「イルゼ・グラウベルク。お前との婚約を、今この場で破棄する」
春の叙任の夜会。王宮の大広間の真ん中で、第二王子ヴィンフリート殿下が、わたしを指さした。
「陰気で、笑わず、手袋の下はいつも絵の具だらけ。そんな絵の具臭い女を、王子妃にはできない」
扇の陰で、くすくすと笑い声が広がる。
殿下の腕には、男爵令嬢のロジーナ・ブラント嬢がしがみついていた。栗色の巻き毛に、社交界でいちばん美しいと評判の、白い頬。
わたしの指は、いつも汚れている。
右手の人差し指と、中指と、薬指。爪の際から第二関節まで、青みがかった灰色の染みが、霧のようにかかっている。宮廷画家の家に生まれた者の、鉛白の毒だ。洗っても落ちない。
本当のことなので、否定はしなかった。
「承知いたしました」
わたしは、膝を折った。
「それでは、殿下からお預かりしていた分を、すべてお返しいたします」
「……預かっていた?」
殿下が、鼻で笑った。
「僕が、お前に何を預けたと言うんだ」
「二百十二個ございます」
広間が、静まり返った。
壁際で、宰相閣下の手からグラスが落ちて、割れた。
「覚えていらっしゃらないのは、当然です。お預けになったものは、皆様、お忘れになりますので」
皆様、と言ったところで、広間のあちこちで、扇がぴたりと止まった。
*
この国の貴族は、美しい。
六十を過ぎた宰相閣下は四十にしか見えないし、七十の老侯爵には白髪が一本もない。玉座の隣の王妃陛下は、四十八になられるはずなのに、二十五の娘のような肌をしていらっしゃる。
夜会に集う誰もが、肌はなめらかで、目は澄んで、後ろめたいことなど何ひとつないという顔をしている。
その理由を、わたしは知っている。
王立画廊の奥に、灰色の布をかぶった肖像画が、三百二十九枚並んでいるからだ。
グラウベルク家の画家が描く似姿は、写し絵と呼ばれる。描かれた本人と、同じものとして扱われる。だから本人が額縁に両手を置いて願えば、老いも、疲れも、罪も、後ろめたさも、写し絵のほうへ移すことができる。
預けたものは、本人の中から消える。記憶ごと。
代わりに、写し絵の顔が崩れていく。
「殿下は六年間、わたくしの家に、いろいろなものをお預けになりました。ご婚約という縁があったからです。その縁を、今夜、殿下ご自身が、皆様の前でお断ちになりました」
わたしは、できるだけ平らな声で続けた。
「縁が切れたら、お預かりしたものはお返しする。それが、決まりでございます。殿下のお口添えで預けられた方の分も、同じく」
ロジーナ嬢の指が、ぴくりと動いた。
広間のどこかで、誰かが小さく言った。
「お、お口添え……殿下の?」
「わ、私は違うぞ。殿下のお口添えでは、ない、はずだ……」
「わたくしもですわ。……たぶん」
ひそひそ声が、さざ波のように広がっていく。
誰も、自分が何を預けたのか覚えていない。だから、誰も安心できない。
ただ一人、広間の柱のそばに立っている背の高い方だけが、頬に手を当てていなかった。王太子エーリヒ殿下。弟君とは似ても似つかない、疲れた目をした方だった。
「殿下ぁ。この方、何をおっしゃっていますの? 怖いですわ」
ロジーナ嬢が、殿下の袖を引いた。
「は」
殿下が、笑い飛ばそうとした。
「何を言い出すかと思えば。呪いの真似事か。そんな脅しで、僕が婚約を撤回するとでも――」
そこで、殿下の口が、大きく開いた。
言葉の続きではなかった。
あくびだった。
顎が外れるかと思うほどの、とてつもなく大きなあくび。殿下は慌てて手で口を押さえたが、止まらない。二度、三度。目尻に涙がにじみ、膝ががくりと折れかけて、ロジーナ嬢に支えられた。
「で、殿下?」
「な、なんでも……ふあ……ない……」
六年分の、寝不足だった。
広間の誰も、笑わなかった。皆、自分の頬に手を当てていた。
ロジーナ嬢も、左の頬を押さえていた。耳の下のあたりを、白粉の上から、指先でそっと。
「どうした、ロジーナ」
「いいえ。少し、かゆいだけですわ」
*
わたしは、殿下に向かって、もう一度膝を折った。
「長らくお預けくださり、ありがとうございました」
それから、少しだけ迷って、付け加えた。
「……殿下。明朝は、鏡をご覧にならないほうが、よろしいかと存じます」
背を向けて、広間を出た。
誰も、引き止めなかった。
大扉の脇で、白髪の侍従長が、わたしのために扉を開けてくれた。この方には、預かり物が一つもない。七十を過ぎて、自分の顔で、自分の皺のまま、四十年王宮に仕えている。
「お気をつけて、グラウベルク様」
「ありがとうございます」
回廊に出ると、夜風が冷たかった。
手袋の中で、右の指先が、ちりちりと痛んでいた。
*
六年前、この婚約を決めたのは、国王陛下だった。
グラウベルク家は、代々、王家の預かり役を務めてきた。爵位もなく、領地もない。あるのは、王立画廊の北の工房と、筆と、帳面だけ。
それでも、宮廷の誰もが、わたしの家を手放したがらなかった。
母が死んだ冬、九歳のわたしが九代目を継ぐと決まったとき、陛下は仰った。預かり役の家を王家に結びつけておけば、宮廷はいっそう安らかになる、と。
そうして十一歳のわたしは、二つ年上の第二王子の婚約者になった。
婚約の儀の日、殿下は、わたしの手袋を見て言った。
「なんで手袋なんかしてるんだ。夏なのに」
わたしは、正直に答えた。指が汚れているからです、と。
殿下は、それきり、わたしの手を取らなかった。
六年間、一度も。
夜会で踊るときでさえ、殿下は手袋の上から、指の先だけをつまむようにしてわたしの手を持った。誰かに見られているときだけ、仕方なく。
それを、悲しいと思ったことはなかった。
預かり役は、悲しいと思うためにいるのではない。預かるためにいる。母は、そう教えてくれた。
だから、今夜、殿下が「破棄する」とおっしゃったとき、わたしが最初に思ったのは、悲しいということではなかった。
帳面の、何ページ目からだったかしら、ということだった。
*
縁が切れると、写し絵の裏の預かり印にひびが入る。
ひびの入った印からは、預けたものが、少しずつ持ち主へ戻っていく。
何か月もかけて、少しずつ。
それは、預かり役の作法に反する。お返しするなら、きちんと、ひとつ残らず。
わたしは夜会のドレスの裾をつまんで、王宮の裏庭を横切った。王立画廊は、庭の向こうにある。夜の画廊の通用口の鍵を持っているのは、館長と、修復師と、わたしだけだ。
今ごろ、画廊の奥では、二百十二の灰色の印に、ひびが入り始めているはずだった。
夜明けまでに、全部削らなければならない。
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