第六話 ベランダの靴音
「確認用」を開いた。
催促が2行、並んだままになっている。
10歩だ。
出て、叩いて、返事を聞いて、戻る。それだけなら1分もかからない。
402もそう思った。
電話の向こうの人は、外の様子を確かめに出る必要はないと言った。言い方が、頼みではない。
【601:401さん、まだですか】
【504:無理ならそう言って。無理って言ってくれないと、こっちも次が決められない】
俺は打った。
【401:わかりました。いま出ます】
送信して、玄関を見た。
靴には手を伸ばさない。鍵にも触らない。
チェーンの金具を指で押さえて、動かないことだけ確かめた。
1分置いて、もう一行足した。
【401:ドアの前です。叩いてみます】
嘘をつくのは、思っていたより簡単だった。指を動かすだけでいい。
既読が二つついた。速い。
誰かがこの画面を見ている。それだけが分かって、誰なのかは分からない。
そこで、催促が止まった。
【504:了解】
【601:お願いします】
それきり、二つの名前は何も書かなくなる。
30秒待った。1分待った。
さっきまで、返事をしないでいると名前を呼んでくる相手だった。呼んでこない。
さっきまで7秒おきに落ちてきていたものが、ぴたりとなくなっている。
俺は画面を伏せて、部屋の真ん中に立った。
出ろと言っていた二人が、出たと聞いた途端に黙る。
用があるのは俺じゃない。俺がいない部屋だ。
「夜間連絡」を開いた。
302さんの名前はまだそこにある。最後の書き込みは、警察が来る前で止まっている。
書こうとして、やめた。ここには、もう一方の側も入っている。
個人メッセージのほうに、一行だけ送った。
【出ていません。部屋にいます】
【わかりました】
返ってきたのはそれだけで、それで足りた。
*
冷蔵庫のモーターが止まった。
この部屋の夜の音は、だいたい覚えている。上の階の給水管、外の道を通る車、風がベランダの物干し竿を鳴らす音。
どれでもない音が、その下から出てきた。
ベランダのほうだ。
擦れる音。靴の底がコンクリートを削るときの、乾いた音。
上から来ている。
風かと思った。
風なら、物干し竿が先に鳴る。鳴っていない。
俺は壁際まで下がって、天井を見上げた。
上の階の床は、見上げても何も教えてくれない。音だけが順番に落ちてくる。
続いて、軋む音がした。繊維が締まって伸びるときの、低い音だ。
洗濯物を干すロープなら、あんな太さの音は出ない。
もう一度、擦れた。さっきより近い。
その上のほうで、別の音が出た。
同じ質の擦れ方が、二つぶんの高さの差を置いて重なっている。
一人ではない。
601さんは書いていた。うちのベランダは封鎖されていないから、上下に行ける、と。
あれは嘘を混ぜるための本当の話だった。本当の部分だけが、いま鳴っている。
ベランダは仕切りだけで区切られていて、上は501、そのまた上は601だ。501はずっと空き部屋のままになっている。
下りてくるなら、その並びしかない。
504は別の列だ。あの人の部屋から、まっすぐここへは下りられない。
下りてくる相手は、6階の高さから来ている。
*
俺は通話の履歴を押した。
「先ほど401号室から通報した者です。ベランダの上から音がします。人が下りてきています」
「401号室の方ですね。いま室内ですか」
「室内です。窓は閉めています」
「音はいまも続いていますか」
「続いています。近づいています」
「窓の鍵はかかっていますか」
「かかっています」
「そのまま、窓から離れてください。開けないでください」
「はい」
「向かっています。玄関からもベランダからも出ないでください」
「鍵のかかる部屋はありますか」
「風呂と、トイレだけです」
「では、窓から離れられる位置にいてください。電話は繋いだままで構いません」
電話をスピーカーにして、シャツの胸ポケットに入れた。
浅すぎて落ちそうなので、ズボンのほうへ入れ直した。
通話を繋いだまま、台所へ回る。
流しの上の水切りかごに、青い茶碗が伏せてある。
その横の引き出しを、音が出ないように少しずつ引いた。
包丁を取った。柄が冷たい。
握り込むと、手のひらの汗で滑った。
持ったところで、自分が何をする気なのかは分からなかった。
振り回すつもりはない。持っていないよりましだと、それだけの理由で握っている。
持つ手が震えて、刃先が壁のタイルに触れた。小さな音が出た。
そのあと、上の擦れる音が止まる。
10秒。
また動きはじめた。
包丁の背を、もう一方の手のひらに当てた。冷たさが残っているうちは、まだ自分の手だと分かる。
*
リビングとベランダのあいだに戻った。
引き違い窓のガラスは閉まっている。クレセント錠も下りたままだ。
カーテンは半分。テレビ台の小さなライトだけが点いている。
スイッチに手を伸ばして、やめた。
いま消せば、消したことが外に伝わる。明るいままの部屋のほうが、まだ何も知らない部屋に見える。
ガラスの内側に、部屋が薄く映っている。ソファの背、テレビ台、俺の体の輪郭。
外側は暗い。向かいの棟の明かりが、3つ残っている。
その一つが、見ているあいだに消えた。
誰かが寝支度を終えただけのことが、ひどく遠い場所の出来事に見える。
映っているものと、向こうにあるもの。同じ一枚のガラスに、両方が乗っている。
俺は窓から2歩下がった位置に立った。
そこから先は、待つことしかできない。
包丁を体の横に下ろした。刃を外へ向けないようにだけ気をつけた。
自分の呼吸の音が、耳の中で大きくなっていく。
擦れる音が、天井の高さから、手すりの高さまで落ちてきた。
ロープが揺れている。
手すりの向こうの暗がりに、黒い縦の線が一本、振り子のように入ってきては戻る。
擦れた。ロープが鳴った。
手すりが小さく軋んだ。
線が止まった。
靴が見えた。
爪先が先に手すりに乗り、体重が移って、もう片方が続く。
濃い紺の脚。上着の裾。
肩の、布の縁取り。
ドアの外で聞いた、あの声の主だ。
男は手すりの上でしゃがんでいる。
片手はロープを握ったまま、もう片手を手すりの内側へ伸ばして、体を支える場所を探している。
肩が上下している。6階から下りてくるのに、息が上がったのだろう。
顔がこちらを向いた。
帽子はかぶっていない。前髪が額に張りついて、顎から汗が落ちた。
ガラス一枚をはさんで、目が合った。
男の動きが止まる。俺の動きも止まった。
男の片足が、手すりの内側へ下りた。




