第五話 その通報はない
ソファに戻って、肘掛けに手を置いた。
布が毛羽立って、指の腹に引っかかる。毎日そこに肘を置いているせいだ。
画面が光った。601さんからの個人メッセージだった。
【401さん、変なことを言いますが、聞いてもらえますか】
【私はこの建物の302さんが気になっています】
俺は体を起こした。
【どういうことですか】
【うちのベランダは封鎖されていません。手すりを越えれば、上下の階に行けます】
そのとおりだ。
入居のときに、ベランダの仕切りは非常時に蹴破るものだと説明された。行こうと思えば行ける造りになっている。
【302さんと402さんは、騒音のことで何度も揉めています。知りませんでしたか】
【知りません】
【402さんは302さんの真上です。そう考えると、さっき404のドアを叩いたのが、本当に402さんだったかどうか】
【叩いたあと、階段で下りてしまえば、402の部屋に戻る必要はありません】
【それなら、402さんはいまどこにいるんですか】
【分かりません。分からないから、確かめたほうがいいと言っています】
俺は文字を読み返した。
読み返すほど、話が薄くなっていく。
402の声は聞いていない。それは確かだ。
確かでも、聞いていないことから別の人間の名前は出てこない。
【601さん、その『揉めています』は、誰から聞いた話ですか】
返信は早かった。
【私が見ていました】
一つ前の行に「まず、」がない。
この人は、何かを整理して言うときに必ず「まず、」から始める。共同購入の受け取り日を決めたときも、全部そうだった。
書き方が変わったからといって、人が入れ替わるわけではない。
疲れていれば崩れる。夜中だ。
俺の文だって、さっきから助詞が抜けている。
それでも、指はスクロールを止めなかった。
*
別の通知が重なった。
302さんからの個人メッセージだ。今夜はじめて、この人が俺に直接書いてきた。
【確認ですが、601さんから何か言われていませんか】
【言われています】
【私のことでしょう】
【そうです】
【内容は聞きません。ただ、601さんの書き方を、今夜の最初のほうと見比べてください】
【302さん、どうして俺に言うんですか】
【401さんが、404さんの玄関にいちばん近いからです。それだけです】
俺は「共同購入」を上まで送った。
【まず、私は404さんが猫を殺すところを見たんです】
【まず、404さん、大丈夫ですか】
【まず、順番を決めませんか】
全部ついている。
警察の人が帰ってからの行にはない。急に、整理のない人になった。
【302さん、俺にも一つあります。504さんの書き方も、途中から変わりました】
【最初は『部屋で待ってて』でした】
【わかりました。それも覚えておきます】
【ただ、書き方だけでは何も決まりません】
【決まるのは、その書き込みがその人のいつもの書き方ではない、ということだけです】
【私はこれから110番にかけます。来た人の説明を、直接確かめます】
【私の返事を待たなくていいです。401さんも、ご自分でかけてください】
そう書いて、302さんは黙った。
*
10分ほど、何も来なかった。
充電の表示は54になっている。
302さんが戻ってきたのは、そのあとだ。
【かけました。住所と、402さんが戻らないことと、警察官を名乗る人が来たことを伝えました】
【この住所に向かわせたという記録は、確認できないと言われました】
【504さんの通報として受けたものも、ありません】
【いま、私の通報として改めて動いてくれています】
指が冷たくなっていた。
画面を持ち替えて、もう一方の手を膝の下に入れた。
【302さん、それは、302さんが聞いた言葉ですよね】
【そうです。私が聞いた言葉です。401さんはご自分で確かめてください】
*
そこへ、新しいグループの通知が来た。
「確認用」。601のアカウントが作ったもので、入っているのは俺と、504のアカウントと、601のアカウントだけだった。
302さんがいない。
【601:302には見えないところで話しましょう】
敬称が落ちていた。
【504:401さん、さっきの話だけど、402の部屋のドアを叩いてもらえないかな】
【504:中から返事があるかないか、それだけでいい】
【601:まず、返事があれば、警察が電話で確認したという話も裏がとれます】
【601:401さん、ドアを出たら返事ください】
【504:10歩でしょ。ドアからドアまで】
【601:出られない理由がありますか】
【504:怖いのは分かる。でも誰かが確かめないと、朝まで同じだよ】
10歩。
402がそう書いた。廊下に出て10歩だと。
そのあと、あいつは戻っていない。
504さんは自分が110番したと書き、来た人はいま自分の部屋にいるとも書いた。
あのとき廊下にいた足音は、一人ぶんだった。
【504:401さん、返事は】
【601:401さん】
二つの名前から、同じ言葉が来ている。
間隔も似ていた。片方が来て、7秒か8秒置いて、もう片方が来る。
会話のようにも見えるし、順番に指を動かしているようにも見える。
どちらなのかは、画面からは決まらない。
決まらないが、一つだけはっきりしていることがある。
3時間前、504さんは俺に、絶対に部屋から出るなと書いた。
いまは、出ろと書いている。
*
俺は「確認用」を閉じた。
通話の画面を開いて、数字を3つ押した。
呼び出し音が、2回で切り替わる。
「110番です。事件ですか、事故ですか」
「事件かどうか、分かりません。汐杜市榎波町2丁目8番6号、榎波コーポの401号室です」
「住所と部屋番号をお願いします。……はい、確認しました。今は室内にいますか」
「います。ドアは閉めています」
俺は順番に話した。
同じ階の402号室の住人が、隣の部屋へ様子を見に行ったまま戻らないこと。玄関の音を聞いていること。
そのあと、警察官を名乗る男が来て、ドア越しに話していったこと。
「そのとき、ドアは開けましたか」
「開けていません。向こうから、開けなくていいと言われました」
「……はい。その方は、ほかに何と説明されましたか」
「504号室からの110番通報を受けて、通信指令室の指令で来たと言っていました」
紙をめくるような音がした。
「先ほどの302号室の方からの通報は受けています」
「504号室からの通報を受けて、その人を現場へ向かわせたという記録は、確認できません」
俺は口の中の空気を全部吐いた。
「……もう一度、お願いします」
「504号室からの通報として受けた記録は、ありません」
担当者の声は、上がりも下がりもしなかった。
「いま、ご自宅に一人ですか」
「一人です」
「玄関とベランダの施錠を確認してください。こちらから折り返すことがあります」
「ドアは開けないでください。外の様子を確かめに出る必要はありません。誰か来ても、名乗りだけでは開けないでください」
「分かりました」
通話を切ってから、俺は連絡先を開いた。
「警察の人」を消して、打ち直した。
警察を名乗る男。




