第四話 制服の背中
座って30分ほどで、「夜間連絡」が動いた。
【504:来た。いま俺の部屋で話してる】
【601:まず、お疲れさまです。こちらは何時でも構いません】
【302:確認ですが、何人で来られましたか】
【504:ちょっと待って、いま話してるから】
【302:確認ですが、いま何時ですか。私の画面では2時46分です】
【504:そんな感じ】
俺は立ち上がって、玄関へ歩いた。
エレベーターの動く音は、4階の廊下まで届く。ワイヤーの鳴る音と、扉の開く音。
今夜はじめて、それが聞こえた。
靴の音が出た。
革靴だ。硬い底が、コンクリートに一定の間隔で当たっている。
数えた。一つぶんしかない。
二人なら、歩幅のずれで音が濁る。濁っていない。
エレベーターが途中の階で止まったかどうかは、聞いていなかった。
聞いていれば何かが分かったのかというと、それも分からない。
*
足音は廊下を折れていった。
ノックの音。4回。
返事はない。もう一度、4回。
やはり返事がない。
そのあと、声がした。
「汐杜警察署の者です。……はい、404号室の方でいらっしゃいますか」
俺はドアに耳をつけた。
相手の声は聞こえない。折れ角の向こうから届くのは、こちらに立っている男の声だけだ。
「今夜、お宅の物音について通報がありまして。いま、玄関の前まで来ております」
言葉と言葉の間が、きれいに空いている。
相手の声が漏れてこないのは、距離のせいだと思った。折れ角の向こうは、俺の耳が届く端だ。
間。
「お子さんの具合が。……なるほど、それでご家族で」
間。
「わかりました。こちらから通報された方に説明しておきます。お大事になさってください」
通話が切れる音は聞こえなかった。
続けてもう一度、番号を押す音がした。今度の声は低くて、単語が拾えない。
たぶん20秒くらいだ。
靴の音が戻ってくる。廊下を折れて、エレベーターの前を過ぎて、こちらへ。
うちの前で止まった。
*
ノックは3回だった。
「401号室の方、いらっしゃいますか」
玄関のフックに、折り畳みのエコバッグが掛かっている。返事をする前に、なぜかそれを見ていた。
「……はい」
声を出したあとで、出したことを悔やんだ。
いると分かれば、いると分かったことにされる。
「汐杜警察署です。ドアは閉めたままで結構です。お話だけ伺います」
俺はレンズに目を寄せた。
制服。濃い紺。
帽子のつばが低くて、鼻から上が影になっている。
肩の縁取りは、さっき横から見たものと同じ形だった。
顎と口だけが見える。年齢の見当がつかない。
ドアの下の隙間から、廊下の光が細く入ってきている。その光を、靴の影が2度横切った。
「504号室からの110番通報で、通信指令室の指令を受けて来ました」
「404号室ですが、お子さんの具合が悪くて、いまご家族で病院にいらっしゃいます。LINEの書き込みは、そのときの苛立ちだったそうです」
夜中に子どもが熱を出す。俺の同僚も、去年それで1週間休んでいた。
ありえない話ではない。
俺は口を開くまでに、2度息を入れ替えた。
「402号室の方は、どうですか」
俺は聞いた。自分の声が、思ったより低く出た。
「お電話で確認済みです。ご自宅にいらっしゃいます」
「402さんは、404さんのところへ様子を見に行ったはずです。そのあと帰ってきた音を、俺は聞いていません」
「寝入りばなのようでしたので、出てきていただくのはやめました。眠っておられるなら、それが一番です」
「『確認済み』というのは、顔を見たということですか」
一拍あった。
「お電話です。声で確認しております」
つばの影が、少しだけこちらへ向いた。
「ドアは開けていただかなくて結構です。夜分に怖い思いをさせても仕方がありませんから」
「これから何かありましたら、110番より私の携帯のほうが早いです。指令室を経由すると、こちらへ回ってくるまでに時間がかかりますので」
「番号は、504号室の方にお渡ししてあります。あとで共有されると思います」
「404さんの電話番号は、どうやって」
「管理会社の緊急連絡先名簿を使わせてもらいました」
そういうものがあるのかどうか、俺は知らない。
知らないことを聞かされたとき、人は納得した顔をする。ドア越しだから、顔は見られていない。
それで終わりだった。
「今夜のことは、ここまでにしましょう。おやすみなさい」
*
靴の音が離れていく。
俺はレンズから目を離さなかった。
制服の背中が、エレベーターの前で止まった。ボタンを押して、表示を見上げている。
その背中の、すぐうしろに、男が立っていた。
404さんだった。
1メートルもない。俺が誰かの背中を見るときの距離より近い。
上着の肩の布が、蛍光灯の下で少しだけ光っている。
男の手は、体の横に下りたままだ。
顔はうつむいていない。制服の後頭部を、まっすぐ見ている。
警察の人は振り向かない。
肩も動かない。首の角度も変わらない。
表示を見上げたままだ。
扉が開いた。
制服が中へ入って、体の向きを変えた。
そのまま、正面を向く。
1メートル先に男が立っている。目の高さは、ほとんど同じだ。
制服はボタンを押した。
扉が閉まった。
廊下に、404さんだけが残っている。
ワイヤーの音が下へ落ちていく。3階、2階。
その音が消えるまで、男は扉のほうを向いて立っていた。
俺は口の中を噛んだ。血の味がして、それで自分の体が動いていることが分かった。
男の首が、こちらへ回った。
レンズから顔を離して、床に膝をつく。
*
スマホを両手で持って、「夜間連絡」に打ち込んだ。
打ち間違いを3回直した。
【401:警察の人が帰るとき、エレベーターの前に404さんが立っていました】
【401:すぐうしろです。触れる距離でした。警察の人は、振り向きませんでした】
【401:正面を向いてからも、何の反応もありませんでした】
しばらく、誰も書かなかった。
【504:え、待って。見間違いじゃなくて?】
【601:まず、落ち着いてください。401さん、薬か何か飲んでいませんか】
【302:確認ですが、401さんが見たのは、ドアスコープ越しですか】
【401:そうです】
【302:わかりました】
【302:確認ですが、来た方は、どこの署だとおっしゃいましたか】
【401:汐杜署です。名前は聞いていません】
【302:わかりました。それなら、あとで確かめられます】
302さんはそれ以上聞かなかった。
【504:とにかく、警察の人には話が通ってるから。404は病院、402は家。それは確認済みってことでしょ】
【504:あと、これ、さっきの人の番号。何かあったらここに直接かけて】
番号が一行だけ貼りつけられていた。
俺はそれを長押しして、連絡先に登録した。
見えていないのは、警察の人のほうだ。
見えているのは、俺のほうだ。
制服の背中は、何も気づかずに帰っていく。気づかないでいられる側にいるということが、そのときの俺には、正しさに見えた。
登録名は「警察の人」にした。




