第三話 鍵を二度確かめる
膝が先に落ちた。
尻を床につけて、玄関の壁に背中を預けた。喉が渇いているのに、唾を飲む音を立てるのが怖い。
3分か、5分か。
秒を数えていたはずが、途中でどこまで数えたか分からなくなった。
膝の裏がじっとりしている。
台所の蛇口から、水が一滴落ちる音がした。その音で、自分がまだ聞く側にいると分かった。
立ち上がって、レンズにもう一度目を寄せる。
廊下は空だった。
蛍光灯と、402の玄関と、エレベーターの前。歪んだ丸の中身は、さっきと同じ並びに戻っている。
顔はない。
折れ角がある。人が3歩下がれば、この穴からは消える。
消えたことは、消えた人がどこにいるかを教えない。
レンズを離せば、俺には廊下が見えなくなる。
この穴は、ずっと外を見張れる道具ではなかった。
404の戸が閉まる音は聞いた。
閉めた人が中に入ったのか、閉めてから廊下に残ったのかは、聞き分けられない。音は戸のことしか言わない。
*
床に置いたままのスマホを拾った。
504さんからの個人メッセージが3つ並んでいる。
【寝た?】
【寝てないよな】
【402に電話かけてみようと思うんだけど、どう?】
俺は指を走らせた。
【かけないでください。まだかけてませんよね】
【まだだけど。本人が出れば一発で分かるじゃん】
【出るのが本人じゃなかったら、こっちが起きていることが向こうに伝わります】
送ってから、自分の書いた文を読み返した。
向こう。
俺はもう、402の部屋の向こう側に誰かがいるという前提で文を作っていた。
【504さん、さっき廊下を見ました】
【制服みたいな上着の人が、404のほうへ歩いていきました。顔は横からしか見ていません】
返事が来るまで、少し間があった。
【制服って、どんな】
【濃い紺です。肩のところに布の縁取りがありました】
【そのあと、404さんの顔がドアスコープの前にありました。俺の家の、この穴です】
【は?】
【それ、どういうこと】
連続で二つ来た。この人は普段、一行にまとめる。
【説明できません。見たままです】
打ちながら、指の腹が画面の上で滑った。汗だ。
こんな文を送れば、頭がどうかしたと思われる。思われたほうがましだと、そのときは考えた。
【廊下、他に何か落ちてなかった?】
指が止まった。
【落ちてた、というと】
【いや、たとえばスマホとか。誰かが慌てて落としていったものがあれば、それが手がかりになるでしょ】
【504さん、その『手がかり』は、誰に渡すつもりですか】
【警察に決まってるでしょ。来たときに渡せるものがあったほうが早い】
俺はレンズの中の廊下を思い出した。
蛍光灯の下に、影の落ちるものは何もなかった。
【何も見ていません】
【そっか。わかった】
そこで会話が切れた。
落とし物の話が、どこから出てきたのか分からなかった。402が戻らないという話に、落とし物は要らない。
*
5分ほどして、通知が3つ重なった。
504さんが新しいグループを作っていた。「夜間連絡」。
俺と、302さんと、601さんと、504さん。
【504:夜中にすみません。起きてる人だけ集めました】
【504:実はさっき、俺が110番しました。404の件と、402が戻ってこない件、両方伝えてあります】
【601:まず、通報していただいてありがとうございます。私から何か伝えることはありますか】
【504:警察が来たら、たぶん一軒ずつ話を聞く流れになると思う。そのとき、今夜見たことを話してもらえれば】
【601:まず、私が見たことも話したほうがいいですか】
【504:猫の話でしょ。聞かれたら言えばいいと思う】
【302:確認ですが、601さんは、それを警察に話すつもりですか】
【601:聞かれたら話します】
【302:確認ですが、通報したのは何時ごろですか】
【504:ついさっき。時間まで見てなかった】
【302:確認ですが、受理番号のようなものは言われましたか】
【504:言われてない。そういうの、普通言う?】
【302:私は聞いたことがあります。ただ、必ず言われるものかまでは分かりません】
【601:まず、いま揉めても仕方がないでしょう。来るのを待ちませんか】
302さんからの返信は、少し遅れた。
【302:わかりました。では待ちます】
【504:402にも連絡つかないんだよな。既読もつかない】
【302:確認ですが、それはどちらの話ですか。402さんは、このグループには入っていません】
【504:ああ、そっか。共同購入のほう】
【504:名前と部屋番号は俺から伝えてある。同じことを2回聞かれるかもしれないけど、そこは我慢して】
【302:確認ですが、私の部屋番号も伝えたのですか】
【504:起きている人として伝えただけ】
【504:それと、みんな部屋から出ないで。廊下を歩き回ると、来た人が誰と話せばいいか分からなくなるから】
【504:401さんのとこが一番近いけど、絶対に出ないでね。部屋で待ってて[グッド]】
親指の絵文字が、いつもの位置についていた。
出るなと言われて、俺は少し楽になった。
出なくていい理由を、自分以外の誰かが用意してくれたからだ。
そのことに気づいて、気持ちが悪くなった。
302さんから個人メッセージが来ていないか確かめた。来ていない。
「夜間連絡」の中で、あの人だけが誰にも返事を急がせていなかった。
*
やることを決めた。
まず、画面を保存した。
「住民連絡」の泣き声から「今すぐ黙らせる」までと、「共同購入」の402の行を上から下まで。指を送るたびに画面の端が白く光る。
保存できるのは、そこに出ているものだけだ。誰が打ったかは、どこにも写らない。
途中で指が滑って、一枚だけ余計に保存した。壁紙の無地の部分が写っただけの画像だ。
消さずに残した。
次に、玄関へ戻った。
主錠を回す。回りきっている。
指を離して、もう一度回した。
チェーンロックを溝の端まで送って、引いて、たるみがないことを確かめた。
金属が一枚あるだけだ。これが何を止められるかは知らない。
入居のときに管理会社から渡された書類には、補助錠と書いてあった。補助という言葉を、こんな時間に思い出した。
それから、ベランダの引き違い窓を見にいく。
クレセント錠は下りている。サッシを手前に引いてみると、5ミリも動かずに止まった。
ガラスの向こうは暗い。手すりの外側に、向かいの棟の明かりが三つ四つ残っている。
手すりの先で建物がいちど折れている。04の並びのベランダは、こちら側と同じ面には出ていない。
カーテンは半分だけ引いた。
閉めきると外が見えない。開けきると、こっちが見える。
部屋の明かりは落として、テレビ台の上の小さなライトだけ残した。
ガラスに、部屋の中が薄く映っている。ソファの背と、俺の肩の線。
映るのは、部屋の中にあるものだけだ。
俺は自分の肩を意味もなく一度動かして、それが自分だと確かめた。
テレビ台には、エアコンのリモコンが伏せて置いたままになっている。
最後に、充電ケーブルを挿した。
バッテリーは31パーセントまで落ちている。今夜、これが切れると何もできない。
ケーブルの根元が少し熱い。俺はそれを握ったまま、ソファの肘に腰を下ろした。
表示が32に変わるまで、そこに座っていた。




