第二話 帰ってこない隣人
「共同購入」は止まらなかった。
【302:確認ですが、これは110番したほうがいい話ではありませんか】
【504:証拠が何もないのに呼ぶのは、迷惑にならない? 空振りだったら、こっちが怒られると思うんだけど】
【302:迷惑かどうかを私たちが決める必要はないと思いますが】
【302:確認ですが、止まっているのは泣き声だけではありません。404さんからの返信も止まっています】
【504:寝たんじゃないの。あれだけ書けば気も済むでしょ】
【601:まず、順番を決めませんか。誰かが一度様子を見て、それでも分からなければ呼ぶ、という形で】
【504:それなら俺も賛成。いきなり呼ぶのは重いって】
【601:まず、404さんと親しい方はいますか】
【504:いないでしょ。ここ、そういう付き合いのある建物じゃないし】
【302:確認ですが、親しくないと様子を見に行けない、という話ではないと思います】
画面が30秒ほど動かなかった。
【402:そんな難しい話っすか? 隣なんで、俺が行って聞いてくるっす】
【302:確認ですが、402さんが一人で行く話になっていませんか】
【402:一人も何も、廊下に出て10歩っす】
【302:確認ですが、戻られたら一行でいいので書いてください】
【402:了解っす】
【504:行ける? じゃあ頼むわ。様子だけ見てきて】
【601:まず、責めに行くのではないと伝えてください。心配して来た、という形で】
【402:呼び鈴はやめときます。寝たところかもしれないし】
【402:行ってきます。3分で戻るっす】
俺はもう玄関に立っていた。
サンダルに足を入れるところまでやって、やめた。
出るつもりはない。内側で聞くだけなら、誰にも何も残らない。
しゃがんだ足の下で、マットの縫い目から出た短い糸が一本、指の腹に触った。
*
ドアの音がした。
402の玄関だ。まっすぐ先で、鍵が2回鳴って、閉まる。
スリッパではない足音が、廊下をエレベーターのほうへ動いていく。
そこから先は、折れ角の向こうになる。
ノックの音がした。3回だった。
間があって、もう2回鳴った。
俺はドアに耳の軟骨を押しつけて、喉の奥で息を止める。
そのあとが、なかった。
声がしない。返事も、名乗りもない。
402は「心配で来ました」と言うつもりで行ったはずだ。言えば聞こえる距離だった。
代わりに聞こえたのは、ドアが閉まる音だ。
重い、金属の戸が枠に収まる音。
402の玄関のものではない。方向が違う。
どちらの戸かは、方向でしか決まらない。
404の玄関は折れ角の向こうにある。俺の家のレンズからは、どうやっても入らない場所だ。
開いたのが404だとして、閉めたのが誰だったのかは、音では出てこない。
それきり、廊下は元の静けさに戻った。
俺はその場にしゃがみ込んで、スマホの画面を見た。
*
1分。2分。
3分が過ぎたあたりで、「共同購入」が動いた。
【402:大丈夫だ、みんな寝ろ】
【601:まず、確認ありがとうございます。何もなかったのなら安心しました】
【302:わかりました。ではこちらも休みます】
【504:そういうことなら、寝る寝る】
俺は動けなかった。
402は戻っていない。
戻ったのなら、あの重い玄関がもう一度開いて、閉まって、鍵が2回鳴るはずだった。
俺はドアの内側で、ずっとそこに耳をつけていた。
聞き漏らすことはある。廊下の音は、遠ければ一枚の壁で消える。
それでも、鍵の音は消えない。俺の部屋の鍵と、同じ型だからだ。
*
スマホが震えた。グループではない。
504さんからの個人メッセージだった。
【まだ起きてるでしょ。この時間に寝られる人じゃないし】
先週も、日付が変わってから一戦だけ行かないかと誘われた。
断ったら、じゃあまた今度で、と返ってきた。そのうしろに、親指の絵文字が一つ。
一緒にゲームをやる相手で、遅い時間に誘われることが多い。断ると、じゃあまた今度でと引く人だ。
俺は返した。
【起きてます。さっきの、見てました】
【ならちょうどいい。あのさ、402のいまの書き込み、何か変じゃなかった?】
【どこがですか】
【あいつ、普段の書き方。癖があるでしょ】
画面を上に送った。
402の行だけを目で拾っていく。
今夜の分で11行あって、そのうち10行に「っす」が入っていた。入っていない一行は、収納棚の受け取り日を伝えただけの事務連絡だ。
【俺が行って聞いてくるっす】【呼び鈴はやめときます】【自分の子どもっすよ】。
さっきまで、全部そうだった。語尾に「っす」が入っている。
軽くて、誰も責めない書き方だ。
最後の一行にはない。
【大丈夫だ、みんな寝ろ】
命令形だった。
402は、寝ているかもしれない家に呼び鈴を鳴らさない男だ。
その男が、8人に向かって寝ろと書いている。
【504さん、『変じゃなかった』って、語尾のことですか】
【そう。俺が言いたいのはそれ】
【てか、402が出ていったのって何時ごろ】
【2時を少し過ぎたころです】
【あと、あいつが戻る音、聞こえた? 同じ階でしょ】
【聞こえた音ならあります。ただ、どの部屋の戸かまでは分かりません】
【そっか。まあ、そうだよな】
【とりあえず俺はもう少し起きてる。何かあったら書いて[グッド]】
返ってくるのが早い。眠そうな人の速さではなかった。
指が止まった。
聞こえなかったとは、まだ書きたくない。
書けば、俺が廊下の音を全部拾える場所にいることが、相手の側に残る。
そこまで考えて、自分が誰を相手に計算しているのか、わからなくなった。
*
そのとき、外で音がした。
足音だ。踵を落とさない、体重を抜いて歩く音。
近い。
音は402の玄関の前を過ぎて、こちらへ寄ってくる。
俺は立ち上がって、ドアスコープに目を寄せた。
レンズの中の廊下は、魚の腹みたいに丸く歪んでいる。
蛍光灯。402の玄関。
その先に、エレベーターの前。
その端を、人の横顔が抜けていく。
濃い紺色の上着。肩に、布の縁取りのようなものが縫いつけてある。
顎の線が見えて、それきり折れ角の影に入った。
制服を着た誰かが、404のほうへ歩いていった。
心臓が首の裏で鳴っている。俺は手のひらをドアについて、体を支えた。
ドアスコープは外から中が見えない。引っ越してきたときに読んだ説明書に、そう書いてあった。
説明書を信じるしかない距離だ。
十数えた。それから、もう一度レンズに目を寄せる。
廊下は空だった。
そこまでは、まだよかった。
目の高さが合った先に、顔がある。
レンズの丸みに合わせて引き伸ばされた、男の顔。
睫毛の一本一本が数えられる距離で、こちらの穴をのぞき込んでいる。
口は動いていない。瞬きもしない。
レンズの縁の歪みの中で、その顔だけが動かずにあった。
404さんだった。




