↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
404号室の泣き声が止んだ夜  作者: 空の異変


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/7

第二話 帰ってこない隣人

「共同購入」は止まらなかった。


【302:確認ですが、これは110番したほうがいい話ではありませんか】


【504:証拠が何もないのに呼ぶのは、迷惑にならない? 空振りだったら、こっちが怒られると思うんだけど】


【302:迷惑かどうかを私たちが決める必要はないと思いますが】


【302:確認ですが、止まっているのは泣き声だけではありません。404さんからの返信も止まっています】


【504:寝たんじゃないの。あれだけ書けば気も済むでしょ】


【601:まず、順番を決めませんか。誰かが一度様子を見て、それでも分からなければ呼ぶ、という形で】


【504:それなら俺も賛成。いきなり呼ぶのは重いって】


【601:まず、404さんと親しい方はいますか】


【504:いないでしょ。ここ、そういう付き合いのある建物じゃないし】


【302:確認ですが、親しくないと様子を見に行けない、という話ではないと思います】


画面が30秒ほど動かなかった。


【402:そんな難しい話っすか? 隣なんで、俺が行って聞いてくるっす】


【302:確認ですが、402さんが一人で行く話になっていませんか】


【402:一人も何も、廊下に出て10歩っす】


【302:確認ですが、戻られたら一行でいいので書いてください】


【402:了解っす】


【504:行ける? じゃあ頼むわ。様子だけ見てきて】


【601:まず、責めに行くのではないと伝えてください。心配して来た、という形で】


【402:呼び鈴はやめときます。寝たところかもしれないし】


【402:行ってきます。3分で戻るっす】


俺はもう玄関に立っていた。


サンダルに足を入れるところまでやって、やめた。


出るつもりはない。内側で聞くだけなら、誰にも何も残らない。


しゃがんだ足の下で、マットの縫い目から出た短い糸が一本、指の腹に触った。


    *


ドアの音がした。


402の玄関だ。まっすぐ先で、鍵が2回鳴って、閉まる。


スリッパではない足音が、廊下をエレベーターのほうへ動いていく。


そこから先は、折れ角の向こうになる。


ノックの音がした。3回だった。


間があって、もう2回鳴った。


俺はドアに耳の軟骨を押しつけて、喉の奥で息を止める。


そのあとが、なかった。


声がしない。返事も、名乗りもない。


402は「心配で来ました」と言うつもりで行ったはずだ。言えば聞こえる距離だった。


代わりに聞こえたのは、ドアが閉まる音だ。


重い、金属の戸が枠に収まる音。


402の玄関のものではない。方向が違う。


どちらの戸かは、方向でしか決まらない。


404の玄関は折れ角の向こうにある。俺の家のレンズからは、どうやっても入らない場所だ。


開いたのが404だとして、閉めたのが誰だったのかは、音では出てこない。


それきり、廊下は元の静けさに戻った。


俺はその場にしゃがみ込んで、スマホの画面を見た。


    *


1分。2分。


3分が過ぎたあたりで、「共同購入」が動いた。


【402:大丈夫だ、みんな寝ろ】


【601:まず、確認ありがとうございます。何もなかったのなら安心しました】


【302:わかりました。ではこちらも休みます】


【504:そういうことなら、寝る寝る】


俺は動けなかった。


402は戻っていない。


戻ったのなら、あの重い玄関がもう一度開いて、閉まって、鍵が2回鳴るはずだった。


俺はドアの内側で、ずっとそこに耳をつけていた。


聞き漏らすことはある。廊下の音は、遠ければ一枚の壁で消える。


それでも、鍵の音は消えない。俺の部屋の鍵と、同じ型だからだ。


    *


スマホが震えた。グループではない。


504さんからの個人メッセージだった。


【まだ起きてるでしょ。この時間に寝られる人じゃないし】


先週も、日付が変わってから一戦だけ行かないかと誘われた。


断ったら、じゃあまた今度で、と返ってきた。そのうしろに、親指の絵文字が一つ。


一緒にゲームをやる相手で、遅い時間に誘われることが多い。断ると、じゃあまた今度でと引く人だ。


俺は返した。


【起きてます。さっきの、見てました】


【ならちょうどいい。あのさ、402のいまの書き込み、何か変じゃなかった?】


【どこがですか】


【あいつ、普段の書き方。癖があるでしょ】


画面を上に送った。


402の行だけを目で拾っていく。


今夜の分で11行あって、そのうち10行に「っす」が入っていた。入っていない一行は、収納棚の受け取り日を伝えただけの事務連絡だ。


【俺が行って聞いてくるっす】【呼び鈴はやめときます】【自分の子どもっすよ】。


さっきまで、全部そうだった。語尾に「っす」が入っている。


軽くて、誰も責めない書き方だ。


最後の一行にはない。


【大丈夫だ、みんな寝ろ】


命令形だった。


402は、寝ているかもしれない家に呼び鈴を鳴らさない男だ。


その男が、8人に向かって寝ろと書いている。


【504さん、『変じゃなかった』って、語尾のことですか】


【そう。俺が言いたいのはそれ】


【てか、402が出ていったのって何時ごろ】


【2時を少し過ぎたころです】


【あと、あいつが戻る音、聞こえた? 同じ階でしょ】


【聞こえた音ならあります。ただ、どの部屋の戸かまでは分かりません】


【そっか。まあ、そうだよな】


【とりあえず俺はもう少し起きてる。何かあったら書いて[グッド]】


返ってくるのが早い。眠そうな人の速さではなかった。


指が止まった。


聞こえなかったとは、まだ書きたくない。


書けば、俺が廊下の音を全部拾える場所にいることが、相手の側に残る。


そこまで考えて、自分が誰を相手に計算しているのか、わからなくなった。


    *


そのとき、外で音がした。


足音だ。踵を落とさない、体重を抜いて歩く音。


近い。


音は402の玄関の前を過ぎて、こちらへ寄ってくる。


俺は立ち上がって、ドアスコープに目を寄せた。


レンズの中の廊下は、魚の腹みたいに丸く歪んでいる。


蛍光灯。402の玄関。


その先に、エレベーターの前。


その端を、人の横顔が抜けていく。


濃い紺色の上着。肩に、布の縁取りのようなものが縫いつけてある。


顎の線が見えて、それきり折れ角の影に入った。


制服を着た誰かが、404のほうへ歩いていった。


心臓が首の裏で鳴っている。俺は手のひらをドアについて、体を支えた。


ドアスコープは外から中が見えない。引っ越してきたときに読んだ説明書に、そう書いてあった。


説明書を信じるしかない距離だ。


十数えた。それから、もう一度レンズに目を寄せる。


廊下は空だった。


そこまでは、まだよかった。


目の高さが合った先に、顔がある。


レンズの丸みに合わせて引き伸ばされた、男の顔。


睫毛の一本一本が数えられる距離で、こちらの穴をのぞき込んでいる。


口は動いていない。瞬きもしない。


レンズの縁の歪みの中で、その顔だけが動かずにあった。


404さんだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。