第一話 今すぐ黙らせる
泣き声で起こされた。
赤ん坊の声だ。壁の向こうというより、床と天井のあいだを這って、こっちの部屋の空気まで震わせてくる。
枕元のスマホを裏返すと、1時18分。
耳を枕に押しつけて30秒粘って、諦めた。
汐杜市の外れにある榎波コーポは、6階建てで築30年を超えている。壁も床も、その年代ぶんの厚みしかない。
泣き声は強くなったり弱くなったりしながら、途切れない。
スマホが短く震えた。
「住民連絡」。自治会が災害連絡用に作ったLINEのグループで、入居している家は全部入っていることになっている。
【302:確認ですが、これはどちらのお宅の泣き声でしょうか】
【601:まず、4階のどこかだと思います】
【504:404さんじゃないかな。うち、真上だから聞こえ方でわかる】
【402:たぶんそうっす。うちからも壁一枚ぶんくらいの近さで聞こえるっす】
俺の部屋は401だ。
廊下をまっすぐ行った先が402で、エレベーターの前を過ぎて折れた奥が404になる。
【302:確認ですが、どなたかインターホンで様子を伺える方はいますか】
【601:まず、この時間に訪ねるのは、かえって角が立つと思います】
【402:泣き止まないのは仕方ないっすよ。うちは平気っす】
【504:もう30分は泣いてる。さすがに長いよ】
指でスクロールしようとしたところに、返信が落ちてきた。
【404:今すぐ黙らせる】
句点がない。あの人の書き込みはいつもそうだ。
誰も続けて書かなかった。
泣き声のほうも、消えていた。
さっきまで空気を押していたものが、家具を一つ運び出したみたいに、なくなっている。
俺はベッドの上で起き上がっていた。
泣き声が戻ってくるのを待った。
耳の奥に残った高さの音が、しばらく勝手に鳴っている。それだけだ。
【302:確認ですが、いまのは冗談ですよね】
【504:子どもは泣くものでしょ。腹を立てても仕方ないって】
【601:まず、404さん、大丈夫ですか。手伝えることがあれば言ってください】
【402:本当に静かになってません? 俺、もう何も聞こえないっす。急に泣きやむものっすかね】
【302:確認ですが、いま音が聞こえている方はいますか】
【601:まず、私のところは何も聞こえません】
【504:うちも。真上なのに、何も】
402の一行のあと、画面が止まった。
*
台所の電気だけつけて、マグカップに水を汲んだ。
内側に茶渋の輪が二重に残っている。洗ったつもりでいた。
404さんの顔は思い出せる。
春先だった。エレベーターを降りるとき、両手が荷物で塞がっているのに、あの人は肘でドアを押さえて待っていた。
「先にどうぞ。ここ、押さえてますから」
手ぶらの俺が先に降りた。
礼を言うと、あの人は紙袋を抱え直して、聞かれてもいないことを短く足した。
「妻に頼まれた買い物です。子どもの分が多くて」
それで会話は終わった。
無愛想というのとは違う。続ける材料を持っていない人の、終わり方だった。
奥さんのほうは見たことがない。
俺が家を出るのは8時前で、帰るのは9時を回る。会わないほうが普通だ。
ベランダに干したものも、この並びからは見えない。見えないものを数えはじめると、いくらでも数えられる。
引っ越してきたころ、「共同購入」で誰かが書いていた。
【この建物、4のつく部屋を飛ばしてないんですね】
【昔の分譲はそうですよ。204も304も、いまは空いてますけど】
それきりの雑談だった。4階で入っているのは401と402と404の3戸しかない。
水を飲み干したところで、「住民連絡」がまた動いた。
【504:脅かすだけ脅かして寝るのはなしでしょ。説明がないなら俺が110番するよ】
【404:冗談だ。妻が起きてミルクをやった。泣きやんだ】
肩から力が抜けて、俺はカップを流しに置いた。
グループはそれきり動かない。
*
スマホを充電器に戻そうとしたところで、別のグループが震えた。
「共同購入」。入居時期の近い8戸で、収納棚をまとめて頼んだときに作った。
404さんは入っていない。
【504:ねえ、404、おかしくない?】
【402:どこがっすか】
【504:30分泣かせて、そのあいだ奥さんはミルクをやらなかったってこと?】
【504:赤ん坊の泣き方って、あんなふうに切れないでしょ。弱くなって、飲みはじめて、また少し鳴いて、それで静かになる】
【504:ぶつっと止まったんだよ。俺はあれが引っかかってる】
【402:やめてくださいよ。自分の子どもっすよ】
【601:まず、私は404さんが猫を殺すところを見たんです】
【402:えっ】
【302:確認ですが、それはいつ、どこで見たものですか】
【601:数日前です。場所までは覚えていません】
【302:確認ですが、その猫の話は、今夜の泣き声とどうつながりますか。私が知りたいのは、いまあの部屋がどうなっているかと、それを確かめる方法があるかどうかです】
【601:暴力的な傾向があるという話です。奥さんと一緒に出かけるところも、誰も見ていないでしょう】
【302:見かけないというのは、私たちが見かけていないということだけです】
猫の話と、奥さんを見ていないこと。
指がひとりでにその二つを並べようとして、俺はスマホを裏返した。
並べたのは601さんじゃない。俺だ。
俺も奥さんを見たことはない。
同じ階に住んでいて、見たことがない。それは俺の生活の形の話で、あの部屋の中の話ではない。
そう書こうとして、やめた。
書けば、俺がまだ起きていることが残る。
既読の数字が一つ増えた。誰の一つなのかは、画面のどこにも出ない。
*
スマホを持ったまま、玄関まで歩いた。
ドアに耳をつける。
廊下は静かだ。エレベーターも動いていない。
非常階段の扉は重い。開けば必ず音が出るのに、その音もしない。
蛍光灯の唸りが、ドア一枚ぶん遠くで続いている。
折れ角の向こうにある404の玄関は、ここからは見えない。音がしても、方向しかわからない。
画面を上まで戻した。
504さんが引っかかると書いた、あの切れ方をもう一度思い出そうとする。
思い出そうとしても、止まったあとの静けさしか出てこない。
泣きやんだ理由を書いたのは404さんだ。冗談だったと書いたのも、同じ列の少し下にある。
今夜あの部屋が無事だという話は、全部あの部屋から出ている。




