第七話 残った一行
その足が、途中で止まった。
男の目が、俺の顔から少し上へずれた。
俺の背中の、向こう側を見ている。
ガラスに部屋が映っている。ソファの背。
テレビ台の小さなライト。俺の肩の線。
その肩の、すぐうしろに、もう一つの輪郭があった。
俺のものではない。俺より少し背が高くて、うつむいてもいない。
404さんだった。
顔の造作までは映らない。顎から首にかけての形と、立っている角度で分かる。
エレベーターの前で制服の背中を見ていたときと、同じ角度だ。
振り向かなかった。
振り向けなかったのか、振り向かなかったのか、いまでも分からない。
ガラスの中の輪郭は動かなかった。
近づいてくるわけでもなく、俺の肩に手を伸ばすわけでもない。
ただ、そこに立っている。
立っているだけのものを、手すりの上の男は正面から見ている。
男の喉から、息の抜けるような音が出た。
短い声になって、それから途切れた。
ロープを握っていた手が、框から離れる。
手すりの上の体が、外側へ傾いた。
傾いてから、男はもう一度ロープを掴もうとした。
指が空をかく。
*
落ちる音は、長くなかった。
そのすぐあとで、上のほうから二つめの音がした。
ロープが一度、上へ引かれるように鳴る。何かが、ベランダの外を縦に通り過ぎていく。
二人だった。
上にいたほうは、下りている途中ではなかったのだと思う。
一人が落ちて、繋がっていたもう一人が引かれた。俺が見たのは、外を縦に通り過ぎた影だけだ。
ガラスは閉まったままだ。俺は一歩も動いていない。
膝から下の感覚が抜けて、包丁が床に落ちた。
刃がフローリングを跳ねる音だけ、やけにはっきり聞こえた。
背中側の輪郭は、ガラスの中にまだある。
それを見たところまでは覚えている。
*
最初に戻ってきたのは音だった。無線の雑音と、誰かが番号を読み上げる声。
それから、床の冷たさ。
目を開けると、天井が明るかった。
部屋の照明が全部ついていて、知らない人間が3人立っていた。
「401号室の方ですね。今、話せますか。難しければ、あとにします」
俺は起き上がろうとして、肘を床についた。
「ゆっくりでいいです。息を吸って、吐いて」
壁際のカレンダーの下端が、湿気で丸まっている。その丸まりを見ながら、今日の日付を思い出そうとした。
「話せます」
声が掠れていた。渇いているのではなく、使い方を忘れたような掠れ方だ。
救急の人が、手首と、それから瞼の裏を見た。頭を打っていないか確かめているらしかった。
そのあと俺が聞いたのは、現場で確認されたことだけだ。
「404号室で、住んでいた3人の方が亡くなっていました」
「504号室と601号室の方も、部屋の中で亡くなっています」
「402号室の方は、404号室の中で見つかりました。意識のない状態でしたが、搬送先で戻っています。ご自分では、何も送っていないとおっしゃっているそうです」
「ベランダの下に、男性が二人倒れていました。警備会社の制服です。二人の体は、同じロープで繋がっていました」
「404号室と504号室と601号室の携帯は、601号室の中でまとめて見つかりました」
「それとは別に、404号室で、持ち主の分からない携帯が一台出ています」
「402号室の方の携帯も、404号室の中にありました」
ベランダの窓の向こうで、白い光が何度か動いた。下に人が集まっているらしい。
俺は自分が立っていた位置から、その光を見た。同じ場所に立っているのに、床の感じが違う。
俺は口を挟まなかった。
聞きたいことは一つだけあって、それは最後に聞いた。
「今夜、うちの『共同購入』に、402さんの名前で一行だけ書き込みがありました。あれは誰が送ったんですか」
「402さんは、大丈夫なんですか」
「命に別状はないと聞いています。あとでこちらから連絡します」
「今夜のことは、分かった順にお伝えします。いま言えないことは、言えないとお伝えします」
「誰がその文を送ったかは、まだ確認できていません」
それだけだった。
その人は、確認できていないことを確認できていないと言った。夜のあいだに聞いた説明の中で、それが一番はっきりしている。
*
事情を書き取ってもらうあいだに、俺は自分のスマホを出した。
見返したのは3か所だ。
一つめ。
【404:今すぐ黙らせる】
この文を打ったのは、601号室にまとめて置かれていた携帯だ。あの人の指ではない。
404のアカウントから出ていただけで、404さんの言葉ではない。
同じことが、あと二つの名前にも当てはまる。
一緒にゲームをやっていた人は、今夜、一度も俺に話しかけていなかった。話しかけてきたのは、その人の携帯を持っている誰かだ。
猫の話を書いた人も同じだ。あの部屋の主は、書ける状態になかった。
504さんが俺を外へ出そうとしたわけではない。504のアカウントが、そうしていた。
二つめ。
【廊下、他に何か落ちてなかった?】
【いや、たとえばスマホとか】
落とし物の話が、どこから出てきたのかが分かった。404号室で見つかった、持ち主の分からない一台だ。
あれを探していた人間は、俺に廊下を見せたがっていた。制服の顔を見たと書いたのも、俺だ。
ベランダの男は、ドア越しに話していった男と同じ人間だった。
警官を装っていた男で、強盗の一人だ。
三つめ。
【402:大丈夫だ、みんな寝ろ】
402さんの携帯は、404号室の中にあった。あの人は、自分では何も送っていないと言っている。
402の書き込みではない。402の携帯から届いた文だ。
俺が廊下で聞いたのは、ノックと、戸が閉まる音だけだ。
あの一行が出たとき、その携帯のそばにいたのは誰か。
句点がない。404さんの書き方には句点がなかった。
そんな書き方をする人間は、いくらでもいる。それだけでは何も決まらない。
決まらないまま、別のものが残る。
ドアスコープの前にいた男は、俺に何もしなかった。
廊下で制服のうしろに立っていたとき、あの人は手を下ろしたままだった。
俺の背中にいたときも、触れてこない。声も出さなかった。
この一行だけが、あの人が出した音だ。
「みんな寝ろ」。寝ていれば、誰も廊下に出ない。
402さんは出てきて、倒れた。次に誰が出てくるのかは、あの人にも見えていなかった。
だから、宛先は全員になっている。
嘘だった。あの部屋は大丈夫ではなかった。
嘘をついてでも、これ以上誰も来ないようにする。
それが、俺の持っている全部だ。警察の人は、これを調書には書かない。
*
302さんから、短いメッセージが入っていた。
【無事ですか】
【無事です】
【わかりました】
その3行で終わっていた。
玄関のほうで、人が出入りする音が続いている。
ベランダの窓は開けられて、外から風が入ってきていた。
俺は充電ケーブルを抜いて、スマホを膝の上に置いた。
指で画面を上へ送る。
泣き声のこと。黙らせるという一行。
誰も書き込まなくなった数分間。
そこから下へ戻して、「共同購入」を開いた。
新しい通知はない。
あの行は、送られてきたときのまま、同じ場所にある。
スクロールを止めて、そこを出したままにした。
【402:大丈夫だ、みんな寝ろ】




