04.誰かに任せるということ
翌朝、リーゼは目覚ましが鳴るよりも早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗い。野営地を包む森には朝霧が漂い、遠くで鳥の鳴く声が聞こえている。
いつもの時間だった。
目を覚まし、身支度を整え、今日の予定を確認する。足りない物資がないか調べ、昨日の戦闘で負傷した者の体調を確認する。各班の出発時刻を調整し、魔術師たちの魔力の回復具合を聞き取る。
それから朝食の準備を手伝う。
そこまで終われば、ようやく自分の朝食を取ることができる。
いつもなら、そうだった。
――明日こそ、少し早く休む。
昨夜、手帳に書いた言葉がふと脳裏をよぎった。
「……そうだった」
リーゼはベッドの上で小さく呟いた。
今日くらい、少しだけ仕事を減らしてみよう。
誰かに任せられることは任せる。自分でなくてもできることは、自分でなくてもいいのだと考えてみる。
昨夜、ガイウスたちが話していたことは理解している。
仕事を一人に集中させるのは危険だ。情報は共有したほうがいい。仕事の手順を明確にすれば、誰かが不在になっても組織は動く。
どれも正しい。
正しいと分かっているからこそ、リーゼは自分に言い聞かせた。
今日は、少しだけ。
いつもより少しだけ、誰かに任せてみよう。
そう決めて、彼女は手帳を閉じた。
ところが、部屋を出て最初に聞こえてきた声は、そんな決意をあっさりと揺らすものだった。
「リーゼさん、すみません! 食料の箱が一つ見当たらなくて!」
物資管理を担当するブリジットが、慌ただしく駆け寄ってきた。
「昨日の夜に確認したときは、確かにあったんです。でも、今朝の記録と数が合わなくて……!」
「どの箱?」
「乾燥野菜と保存用の香辛料です。昨日の補給班が運び込んだはずなんですが」
「分かった。最後に確認した場所は――」
そこまで口にして、リーゼは止まった。
いつものように、自分が確認すればいい。
倉庫の配置は覚えている。昨日、誰が何を運んだのかも、おおよそ把握している。記録を見れば、すぐに原因を突き止められるだろう。
しかし、今日は少しだけ違うことをしてみると決めたのだ。
「ブリジット。昨日の搬入記録は、あなたが確認してくれる?」
「えっ?」
「私は、記録のつけ方を一緒に確認するわ。まずは最後に箱を見た人と、置き場所を調べてみて」
「わ、分かりました!」
ブリジットは、やや緊張した面持ちで頷いた。
その姿を見た瞬間、リーゼの胸の奥に小さな不安が生まれた。
大丈夫だろうか。
もし見つからなかったら。朝食の準備に影響が出たら。香辛料がなければ、長い遠征で食事に不満が出るかもしれない。
それに、ブリジットは物資管理の経験こそあるが、このギルドの遠征ではまだ細かな手順に慣れていない。
自分が一緒に探したほうが、早い。
間違いなく、早い。
その考えが浮かぶたび、リーゼは自分の足を止めた。
早いことと、正しいことは、いつも同じではない。
それは分かっていた。
けれど、正しいと分かっていることを実行するのが、こんなにも難しいとは思わなかった。
◇
「リーゼ。少しいいか」
食堂へ向かおうとしたところで、ガイウスに声をかけられた。
「おはようございます、ガイウスさん」
「おはよう。今、ブリジットに物資の確認を任せたところか?」
「はい。私が手伝いすぎないように、まずは本人に調べてもらおうと思って」
「なるほど」
ガイウスは微かに笑った。
「それはいい判断だな」
「……そうでしょうか」
「ああ。問題が起きたとき、リーゼが全部解決してしまえば、その場は早く片づく。だが、それでは次に同じ問題が起きたときも、全員がお前を頼ることになる」
「はい。理解しています」
「理解している顔には見えないが」
「えっ?」
思いがけない言葉に、リーゼは目を瞬かせた。
ガイウスは彼女を責めるような顔をしていなかった。ただ、見逃すまいとするように、まっすぐこちらを見ていた。
「気になっているんだろう。ブリジットに任せて、本当に大丈夫なのかと」
「……はい」
「なら、今日のところは、任せた仕事がどう進むか見ていればいい。困っているなら助ければいいし、危険があるなら止めればいい。最初から全部取り上げる必要はない」
「でも、私がやったほうが早いこともありますから」
「あるだろうな」
ガイウスは否定しなかった。
「お前が得意なことなら、なおさらだ。経験のある人間がやったほうが早い。慣れた人間がやったほうが、間違いも少ない。そういう仕事は確かにある」
「でしたら……」
「だが、リーゼ」
彼は言葉を区切った。
「お前が一番早くできることと、お前が一人でやらなければならないことは、同じじゃない」
リーゼは答えられなかった。
言葉の意味は、理解できる。
理解できるのに、胸のどこかが抵抗していた。
自分がやれば、間違いなく終わる。
自分が確認すれば、誰かが困る可能性を減らせる。
自分が引き受ければ、他の誰かが余計な負担を背負わずに済む。
そうやって考えることは、間違っているのだろうか。
誰かが困る姿を想像するくらいなら、自分が少し無理をするほうがいい。
その考え方によって、これまで救えたものがある。
助かった人がいる。
笑顔になった人がいる。
だからリーゼは、簡単には手放せなかった。
自分のやり方を否定したいわけではない。
ただ、そのやり方がいつか自分を壊してしまうのだとしたら。
その先に何が残るのだろう。
「……少し、難しいですね」
「そうだろうな」
ガイウスは、意外にもあっさりと頷いた。
「すぐにできるようになれとは言わない。俺たちも、すぐにお前と同じことができるようになるわけじゃないからな」
「ありがとうございます」
「礼を言うことでもない」
そう言うと、彼は食堂のほうへ視線を向けた。
「ところで、朝食は?」
「これからです」
「本当か?」
「……本当です」
「では、今から一緒に食べよう」
有無を言わせぬ口調だった。
リーゼが断ろうとする前に、ガイウスは食堂へ歩き出していた。
その背中を見つめながら、リーゼは小さく息を吐く。
困った人だ。
そう思った。
けれど、その言葉の中に不思議と嫌な響きはなかった。
◇
朝食を終えたあと、黎明の翼は予定どおり森の奥へ進んだ。
昨日の戦闘で確認された魔物の群れは、森のさらに深い場所に移動しているらしい。斥候の報告によれば、今日の目的地付近には起伏の激しい地形があり、道幅も狭くなるという。
大規模な陣形を維持するには難しい場所だった。
「前衛を三班に分けよう。道幅が狭くなったら、先行班と後続班の距離を保つこと。魔術師は合図があるまで大規模魔法を使うな」
ガイウスの指示に、団員たちが応じる。
リーゼは後方で、隊列の配置を確認していた。
本来なら、ここで各班の能力や疲労度を考慮し、細かく調整を加えるところだ。
誰が前に出れば負担が少ないのか。
誰の魔力がどれほど回復しているのか。
誰と誰を組ませれば、互いの弱点を補えるのか。
頭の中には、すでに複数の組み合わせが浮かんでいた。
そのすべてを口にすれば、戦闘はきっと楽になる。
けれど、今日はひとつだけ、試してみたいことがあった。
「エミルさん」
「はい!」
声をかけられた新人の青年が振り向いた。
「昨日の戦闘を覚えていますか?」
「もちろんです。自分が見た範囲なら、だいたいは」
「それなら、今日の各班の様子を記録してもらえませんか。誰がどんな役割を担い、どこで負担が大きくなったか。気づいたことがあれば、何でも構いません」
「俺が、ですか?」
「はい。戦闘が終わったら、一緒に振り返りましょう」
エミルは驚きながらも、すぐに背筋を伸ばした。
「分かりました。やってみます!」
その返事を聞いて、リーゼは微笑んだ。
任せると決めたのは、自分だ。
なら、相手を信じてみよう。
そう思った。
ところが、実際に戦闘が始まると、彼女の決意は何度も試されることになった。
「右手の斜面から二体!」
「後衛、下がれ!」
「前衛の交代が間に合っていないぞ!」
森の奥から現れたのは、昨日よりも体格の大きな狼型の魔物だった。数は十五体ほど。群れは正面から押し寄せる一方で、左右に回り込むように動いている。
地形を利用した挟撃だった。
前衛が盾を構え、剣士たちが迎え撃つ。魔術師たちが詠唱を始めた。
リーゼは即座に状況を把握する。
右側の班は、地面の傾斜によって足元が不安定になっている。左側の前衛は、敵を押し返すことはできているものの、後衛を守るために必要以上の力を使っている。中央の魔術師たちは、詠唱に集中するあまり、周囲の変化に気づきにくくなっていた。
必要な支援は分かっていた。
右側の前衛に《俊敏の調律》。
中央の魔術師たちには《魔力循環補助》。
左側の敵には《動作阻害》をかけて、攻撃のタイミングをずらす。
それに加えて、敵の進路を誘導するように、風の流れをわずかに変える。
いつもなら、すぐに行動していた。
けれど、その瞬間、エミルの声が飛んできた。
「リーゼさん! 右側の班、足元が悪くて動きづらそうです!」
「ええ、見えているわ」
「魔術師の方たちも、中央の通路が塞がれています。右側の班が少し下がれば、通れるかもしれません!」
リーゼは一瞬、驚いた。
エミルはまだ経験が浅い。それでも、ただ戦闘を眺めているわけではなかった。
見ている。
自分たちが戦っている場所を。
仲間が何に困っているのかを。
「いい観察ね。では、ガイウスさんに右側の班の位置を調整してもらいましょう。あなたは中央の魔術師たちに、通路を確保するよう伝えて」
「分かりました!」
エミルが駆けていく。
リーゼは魔法を発動させた。
《俊敏の調律》。
右側の前衛たちの動きが滑らかになる。足場の悪さそのものを消すことはできないが、身体の重心移動を補助することで、踏み込みの失敗を減らす。
続けて、敵の先頭に《動作阻害》。
攻撃がわずかに遅れた隙を、剣士たちが逃さなかった。
中央では、魔術師たちが位置を変え、詠唱を再開する。
戦況が少しずつ整っていった。
リーゼは、次の支援を重ねようとした。
しかし、そこで気づいた。
自分がいくつもの仕事を抱え込む前に、別の誰かが動き始めている。
ガイウスは前衛の隊列を調整し、セラは危険な位置にいた団員を後退させた。ミレーユは負傷者の治療だけでなく、疲労の色が濃い者を見つけて早めに交代を促している。
ノアもまた、魔術師たちに短い指示を飛ばし、詠唱の順番を整えていた。
そしてエミルは、先ほどまでの戦況を伝えながら、周囲の変化を追い続けている。
自分だけが、すべてを支えているわけではない。
当たり前のことだった。
黎明の翼には、百人を超える仲間がいる。
剣を振るう者がいる。
魔法を操る者がいる。
傷を癒やす者がいる。
物資を管理する者がいて、状況を見極める者がいる。
みんな、自分にできることをしているのだ。
それなのに、リーゼは時々、その事実を忘れてしまう。
誰かが困っていれば、自分が助けなければならない。
誰かが見落としていれば、自分が気づかなければならない。
誰かが疲れていれば、自分がそのぶん動けばいい。
そう考えるうちに、いつの間にか、周囲の誰もが自分に頼っているように感じてしまう。
けれど、本当にそうなのだろうか。
彼らは、本当に何もできない人たちなのだろうか。
そんなはずはない。
リーゼは、誰よりもそれを知っているはずだった。
彼らが戦う姿を、何度も見てきたのだから。
◇
戦闘が終わったのは、それから十分ほど後のことだった。
大きな負傷者は出なかった。前衛の消耗はあったものの、魔術師たちの魔力も想定より多く残っている。
リーゼは負傷者の確認を終え、周囲を見回した。
いつもなら、ここからが本当の仕事だった。
各班の体調を確認し、魔法の使用量を記録し、消耗品の残数をまとめる。午後の行程を調整して、夕食の準備に必要な物資を洗い出す。
それらを自分の手帳に書き込み、忘れないように頭の中で整理する。
しかし今日は、エミルが手帳を持って近づいてきた。
「リーゼさん。戦闘中の記録、ひとまずまとめました」
「もう?」
「はい。全部正確かどうかは分かりませんが、気づいたことを時系列で書いてあります」
差し出された記録には、戦闘が始まった時刻、各班が動いた順番、負傷者が発生した位置、魔術師たちが詠唱を中断した回数などが、丁寧に書き込まれていた。
細部に間違いはあった。
それでも、十分に役立つ記録だった。
「よく見ていたわね」
「ありがとうございます。でも……」
エミルは少し言いづらそうに頬を掻いた。
「リーゼさんが何をしていたかは、ほとんど書けませんでした」
「私が?」
「はい。みんなが危なくなりそうなところに、いつの間にか支援が入っていて。どのタイミングで魔法を使ったのか、俺には全然追えませんでした」
彼は悔しそうに記録を見つめた。
「もっとちゃんと見ていれば、分かったのかもしれません」
「いいえ」
リーゼは静かに首を振った。
「あなたが見ていたものは、あなたにしか見つけられなかったことよ。私の支援を全部把握する必要はないわ。まずは、自分が見つけたものを大事にして」
「……はい」
「記録はとても役に立つと思う。ガイウスさんやノアさんにも見てもらいましょう」
エミルは、ほっとしたように笑った。
その表情を見て、リーゼの胸に温かなものが広がった。
誰かに仕事を任せた。
その人は、自分なりに考えて動いた。
そして、自分一人では気づかなかったものを見つけてくれた。
それは、仕事を減らしたというだけではなかった。
見えている世界が、少し広がったような気がした。
「リーゼ」
セラが近づいてきた。
「今回の戦闘、いつもより支援の数が少なかったんじゃないか?」
リーゼは少しだけ身構えた。
「そうですね。みんなが自分で判断して動ける場面では、必要最低限にしました」
「それで問題はなかった、と」
「はい。ガイウスさんたちが細かく指示を出してくれましたし、エミルさんの報告も役に立ちましたから」
セラは腕を組んだ。
「なるほどな」
そして、いつもの少し厳しい顔のまま言った。
「悪くないじゃないか」
「えっ?」
「お前の支援があるから勝てる。それは間違いない。だが、お前が全部やらなくても勝てるなら、そのほうがいいに決まってる」
その言葉に、リーゼは胸を突かれたような気がした。
自分が全部やらなくても、勝てる。
それは、喜ぶべきことのはずだった。
自分がいなくても困らないようにする。それこそが、組織を支えるために必要なことなのだろう。
それでも心のどこかに、ひどく小さな寂しさがあった。
――私がいなくても、大丈夫なんだ。
浮かんだ考えに、リーゼは戸惑った。
大丈夫であってほしいと、ずっと思っていたはずなのに。
自分がいなくても、仲間たちが困らずに済むこと。
自分が休んでも、誰かが代わりに動けること。
それを望んでいたのは、間違いなく自分だった。
なのに、いざその光景を目にすると、胸の奥が少しだけ痛む。
自分は、何を期待していたのだろう。
誰かに必要とされること。
誰かの役に立てること。
それらを望むのは、悪いことではない。
けれど、もし自分が役に立たなくなったら。
もし自分が何もできなくなったら。
そのとき、自分はここにいてもいいのだろうか。
リーゼは、その問いを心の奥へ押し込んだ。
今、考えることではない。
そう自分に言い聞かせた。
◇
夕方、黎明の翼は森の手前にある休憩地点へ到着した。
野営の準備が始まると、リーゼは自然と周囲を見回した。
テントの設営は順調か。
食料の配分は足りているか。
負傷した団員の様子はどうか。
水の残量は。
薪は。
明日の出発に必要な道具は――。
「リーゼさん」
声をかけられ、彼女は振り返った。
そこにいたのはブリジットだった。
「物資の確認、終わりました。昨日の箱も見つかりましたよ」
「本当?」
「はい。補給班が、予定と違う場所に置いていたみたいです。記録にもそのことを書いておきました。今後は、搬入した人が置き場所を記録するようにすれば、同じことは起きにくいと思います」
ブリジットは、自信を取り戻したような表情をしていた。
「リーゼさんが、一緒に記録のつけ方を確認してくれたおかげです。ありがとうございました」
「私は、ほとんど何もしていないわ」
「そんなことありません。最初に何を確認すればいいのか教えてもらえたから、落ち着いて調べられたんです」
そう言われて、リーゼは言葉を失った。
何もしていないつもりだった。
自分が直接探したわけでも、すぐに問題を解決したわけでもない。
ただ、最初に少しだけ手を貸した。
それだけだった。
それでもブリジットは、自分で原因を突き止め、次に同じことが起きない方法まで考えてくれた。
自分が全部を引き受けなくても、仕事は進む。
むしろ、誰かが自分で考える機会を持てば、次はもっとよくなるのかもしれない。
「……こちらこそ、ありがとう」
リーゼがそう答えると、ブリジットは嬉しそうに笑って戻っていった。
彼女の背中を見送りながら、リーゼは胸の奥に生まれた感情を確かめていた。
安心。
喜び。
そして、ほんの少しの寂しさ。
どれも本当だった。
どれか一つだけが正しいわけではない。
人の心は、もっと複雑にできている。
誰かの成長を嬉しく思いながら、自分の役割が小さくなったように感じることもある。
誰かに頼りたいと思いながら、頼ることが怖いと感じることもある。
自分が楽になることを望みながら、楽になった自分を許せないことだってある。
矛盾している。
けれど、矛盾しているからといって、どちらかの気持ちが嘘になるわけではない。
リーゼはそう思った。
それなら、今の自分も否定しなくていいのかもしれない。
寂しいと感じたことを、いけないことだと思わなくていい。
誰かに必要とされたいと思う自分を、恥じなくてもいい。
ただ、その気持ちのために、自分をすり減らし続けなくてもいいのだ。
そのことを、いつか自然に受け入れられるようになるだろうか。
今の彼女には、まだ分からなかった。
◇
夕食のあと、リーゼは野営地の端に腰を下ろした。
いつもなら、食事の片づけが終わったところで、翌日の準備に取りかかる。
物資の残数を確認し、今日の支援内容を記録し、各班の疲労度を整理する。明日の予定を見直して、必要な調整を加える。
しかし今夜は、ガイウスから「記録は明日の朝でもいい」と言われていた。
だからリーゼは、何もせずに座っていた。
正確には、何もしないことを試みていた。
視線の先では、団員たちが談笑している。
トーマが今日の戦闘について熱心に話し、セラが彼の説明に時々突っ込みを入れていた。ノアは少し離れた場所で明日の魔力配分について考えながら、ミレーユに何かを相談している。
ブリジットはエミルに記録の書き方を教えていた。
ガイウスは団員たちの話を聞きながら、ときおり全体の様子を見渡している。
みんな、ちゃんと動いている。
みんな、自分の仕事をしている。
リーゼが手を出さなくても。
リーゼが指示を出さなくても。
その光景を見ていると、胸の奥が少しだけざわついた。
何か、することはないだろうか。
誰か、困っている人はいないだろうか。
自分にできることはないだろうか。
問いが次々と浮かんでくる。
そして、その問いの奥に、もう一つの問いがあった。
――何もしない私は、何者なのだろう。
リーゼは膝の上で指を組んだ。
仕事をしているときは、考えなくて済んだ。
誰かの役に立っていると分かる。必要な仕事を終えるたび、ここにいる意味を確かめられる。
けれど、何もしていないと、自分の中に何が残るのかが分からなくなる。
役に立つこと。
頼られること。
期待に応えること。
それらが自分の価値を証明してくれるのなら、頑張ることは怖くなかった。
どれだけ疲れていても、身体が重くても、やるべきことがある限り、自分は進めた。
けれど、それらがなくなったら?
自分が何もしなくても、誰かが笑っている。
自分がいなくても、みんなが困らずに暮らしている。
そのとき、自分は何を理由に、ここにいていいと思えばいいのだろう。
答えは出なかった。
ただ、リーゼは気づき始めていた。
仕事を減らすことは、単に作業を誰かに振り分ければ済む話ではない。
自分の中にある、もっと根深い何かと向き合う必要があるのかもしれない。
「隣、いいか?」
不意に声がした。
顔を上げると、ガイウスが立っていた。
「はい。どうぞ」
彼はリーゼの隣に腰を下ろした。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
森の夜は静かだった。焚き火がぱちりと音を立て、風が木々の葉を揺らしている。
「今日は、どうだった?」
やがて、ガイウスが尋ねた。
「……少し、不思議な気分でした」
「不思議?」
「私が全部をしなくても、みんながちゃんと動いてくれて。問題も解決して。戦闘も無事に終わりました」
「そうだな」
「嬉しかったんです。みんなが自分で考えて、動いてくれることが」
リーゼは、膝の上の手を見つめた。
「でも、少しだけ寂しくもありました」
口にした瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
こんなことを言うつもりはなかった。
自分でも、どうしてそう感じるのか分からない。誰かの成長を喜ぶべきなのに、そこに寂しさが混じってしまう自分が、少し嫌だった。
けれど、ガイウスは笑わなかった。
不思議そうな顔もしなかった。
ただ、静かに聞いていた。
「……変ですよね」
「いや」
ガイウスは首を横に振った。
「変じゃないと思う」
「でも、私が望んでいたことなんです。みんなが困らないように、私がいなくても動けるように。そうできるように、今まで頑張ってきたつもりでした」
「うん」
「なのに、実際にそうなってみると……自分の居場所が、少しずつなくなっていくような気がして」
最後の言葉は、ほとんど囁きだった。
口にしてしまったことが怖かった。
そんなふうに思っていると知られたら、みんなはどう感じるだろう。
自分がいないと困るように、わざと仕事を抱え込んでいたのだと思われるだろうか。
そんなつもりはない。
本当に、そんなつもりはなかった。
ただ、誰かが困るのが嫌だった。
誰かの力になりたかった。
その気持ちは、嘘ではない。
けれど、それだけだったのだろうか。
自分でも分からなかった。
「リーゼ」
ガイウスの声は、いつもより少し柔らかかった。
「俺たちは、お前が仕事をしているからここに置いているわけじゃない」
リーゼは顔を上げた。
「……え?」
「お前が物資を管理するから。傷ついた仲間を気遣うから。戦闘で支援をしてくれるから。そういう理由だけで、ここにいるわけじゃない」
ガイウスは、焚き火の向こうにいる団員たちを見た。
「もちろん、お前の仕事には何度も助けられている。お前がいなければ、もっと苦労した場面もあっただろう。これからも、力を貸してほしいと思っている」
彼はそこで言葉を切った。
「だが、それと、お前が休んではいけないということは違う」
リーゼは何も言えなかった。
「お前が何かできるから、一緒にいるんじゃない。俺たちは同じギルドの仲間だから、一緒にいるんだ」
その言葉は、ひどく当たり前のことのように聞こえた。
けれど、リーゼにとっては、すぐに受け入れられるほど簡単なものではなかった。
役に立たなくてもいい。
何もしなくても、ここにいていい。
そんな考え方を、自分はいつの間にか難しいものにしてしまっていたのだろうか。
リーゼは、自分の胸の奥を探った。
そこには、嬉しさがあった。
救われるような気持ちもあった。
けれど同時に、信じることをためらう自分もいた。
人の気持ちは変わる。
状況も変わる。
今はそう言ってくれていても、いつか自分が本当に何もできなくなったら、同じように思ってくれるだろうか。
そんな不安が、心のどこかに残っている。
それでも。
今、この人はそう言ってくれた。
自分が何かをしなくても、ここにいていいのだと。
「……ありがとうございます」
リーゼは、ようやくそう答えた。
ガイウスは小さく頷いた。
「礼を言うことでもないさ」
それから、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。
「ただし、明日の朝も仕事を抱え込んでいたら、俺が取り上げるからな」
「そ、それは困ります」
「困るようなものを、全部抱え込まなければいい」
「……ガイウスさんは、ずるいです」
「そうか?」
「そうです」
思わず口をついて出た言葉に、リーゼ自身が驚いた。
ガイウスは声を立てて笑った。
つられるように、リーゼの口元も緩んだ。
その笑顔は、いつも誰かを安心させるために浮かべているものとは、少し違っていた。
何かを成し遂げたわけではない。
誰かの役に立ったわけでもない。
ただ、隣にいる人と言葉を交わして、少し笑った。
それだけの時間だった。
それだけなのに、リーゼの心には、いつもとは違う温かさが残っていた。
◇
その夜、リーゼは手帳を開いた。
今日の記録をまとめようとして、ペンを手に取る。
しかし、すぐに書き始めることはしなかった。
今日、自分がしたこと。
誰かに任せたこと。
任せた相手が、自分では気づかなかったことを見つけてくれたこと。
そして、何もしないで過ごした時間。
思い返しながら、彼女はゆっくりと文字を書いた。
――仕事を任せても、仲間は困らなかった。
そこまで書いて、ペンが止まった。
次の行に何を書けばいいのか、すぐには思いつかなかった。
少し考えたあと、リーゼは新しい行に言葉を綴った。
――任せることは、見捨てることではない。
書いた文字を、じっと見つめる。
それは今日、頭では理解していたことだった。
けれど、実際に誰かに任せてみたことで、少しだけ違う形になって自分の中に残った。
ブリジットは自分で問題を解決した。
エミルは自分なりの視点で戦闘を記録した。
仲間たちは、リーゼがすべてを引き受けなくても、自分の力で動いていた。
誰かに任せることは、その人を信じることなのかもしれない。
その人が、自分の知らない力を持っていると認めることなのかもしれない。
そして、自分が何もかもを背負わなくてもいいと認めることでもある。
最後の一文を書こうとして、リーゼは再び手を止めた。
――私は、何もしなくても、ここにいていい。
その言葉が頭に浮かんだ。
けれど、書くことはできなかった。
まだ、信じきれなかったからだ。
そんなことを書いてしまったら、明日から本当に何もしなくなってしまうような気がした。
誰かの役に立とうとする気持ちまで、失ってしまうような気がした。
もちろん、そんなはずはない。
仕事を休んだからといって、仲間を大切に思う気持ちがなくなるわけではない。
何かを任せたからといって、誰かを見捨てることになるわけでもない。
分かっている。
それでも、怖かった。
自分が頑張らなくても、ここにいていい。
その言葉を、本当に信じられる日が来るのだろうか。
リーゼは手帳を閉じた。
答えはまだ出ていない。
けれど、昨日までとは少しだけ違う。
誰かに頼ることを、ほんの少しだけ試してみた。
仕事を任せてみた。
何もしない時間を、少しだけ過ごしてみた。
たったそれだけのことだった。
それでも、今夜は自分を責めずに眠れそうだった。
リーゼは灯りを消し、ベッドに横になった。
明日は、今日より少しだけうまくできるだろうか。
誰かに任せることも。
自分を休ませることも。
そして、何もできない自分を許すことも。
まだ分からない。
ただ、少なくとも今夜だけは。
彼女は、誰かのために何かをすることなく、静かに目を閉じた。
――その小さな休息が、彼女にとってどれほど大切なものだったのか。
このときのリーゼは、まだ知らなかった。




