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サポーターが皆のために働いていたら倒れたため、ギルドマニュアルが作成されました  作者: 和泉 きよ


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04.誰かに任せるということ

 翌朝、リーゼは目覚ましが鳴るよりも早く目を覚ました。


 窓の外はまだ薄暗い。野営地を包む森には朝霧が漂い、遠くで鳥の鳴く声が聞こえている。


 いつもの時間だった。


 目を覚まし、身支度を整え、今日の予定を確認する。足りない物資がないか調べ、昨日の戦闘で負傷した者の体調を確認する。各班の出発時刻を調整し、魔術師たちの魔力の回復具合を聞き取る。


 それから朝食の準備を手伝う。


 そこまで終われば、ようやく自分の朝食を取ることができる。


 いつもなら、そうだった。


 ――明日こそ、少し早く休む。


 昨夜、手帳に書いた言葉がふと脳裏をよぎった。


「……そうだった」


 リーゼはベッドの上で小さく呟いた。


 今日くらい、少しだけ仕事を減らしてみよう。


 誰かに任せられることは任せる。自分でなくてもできることは、自分でなくてもいいのだと考えてみる。


 昨夜、ガイウスたちが話していたことは理解している。


 仕事を一人に集中させるのは危険だ。情報は共有したほうがいい。仕事の手順を明確にすれば、誰かが不在になっても組織は動く。


 どれも正しい。


 正しいと分かっているからこそ、リーゼは自分に言い聞かせた。


 今日は、少しだけ。


 いつもより少しだけ、誰かに任せてみよう。


 そう決めて、彼女は手帳を閉じた。


 ところが、部屋を出て最初に聞こえてきた声は、そんな決意をあっさりと揺らすものだった。


「リーゼさん、すみません! 食料の箱が一つ見当たらなくて!」


 物資管理を担当するブリジットが、慌ただしく駆け寄ってきた。


「昨日の夜に確認したときは、確かにあったんです。でも、今朝の記録と数が合わなくて……!」


「どの箱?」


「乾燥野菜と保存用の香辛料です。昨日の補給班が運び込んだはずなんですが」


「分かった。最後に確認した場所は――」


 そこまで口にして、リーゼは止まった。


 いつものように、自分が確認すればいい。


 倉庫の配置は覚えている。昨日、誰が何を運んだのかも、おおよそ把握している。記録を見れば、すぐに原因を突き止められるだろう。


 しかし、今日は少しだけ違うことをしてみると決めたのだ。


「ブリジット。昨日の搬入記録は、あなたが確認してくれる?」


「えっ?」


「私は、記録のつけ方を一緒に確認するわ。まずは最後に箱を見た人と、置き場所を調べてみて」


「わ、分かりました!」


 ブリジットは、やや緊張した面持ちで頷いた。


 その姿を見た瞬間、リーゼの胸の奥に小さな不安が生まれた。


 大丈夫だろうか。


 もし見つからなかったら。朝食の準備に影響が出たら。香辛料がなければ、長い遠征で食事に不満が出るかもしれない。


 それに、ブリジットは物資管理の経験こそあるが、このギルドの遠征ではまだ細かな手順に慣れていない。


 自分が一緒に探したほうが、早い。


 間違いなく、早い。


 その考えが浮かぶたび、リーゼは自分の足を止めた。


 早いことと、正しいことは、いつも同じではない。


 それは分かっていた。


 けれど、正しいと分かっていることを実行するのが、こんなにも難しいとは思わなかった。


     ◇


「リーゼ。少しいいか」


 食堂へ向かおうとしたところで、ガイウスに声をかけられた。


「おはようございます、ガイウスさん」


「おはよう。今、ブリジットに物資の確認を任せたところか?」


「はい。私が手伝いすぎないように、まずは本人に調べてもらおうと思って」


「なるほど」


 ガイウスは微かに笑った。


「それはいい判断だな」


「……そうでしょうか」


「ああ。問題が起きたとき、リーゼが全部解決してしまえば、その場は早く片づく。だが、それでは次に同じ問題が起きたときも、全員がお前を頼ることになる」


「はい。理解しています」


「理解している顔には見えないが」


「えっ?」


 思いがけない言葉に、リーゼは目を瞬かせた。


 ガイウスは彼女を責めるような顔をしていなかった。ただ、見逃すまいとするように、まっすぐこちらを見ていた。


「気になっているんだろう。ブリジットに任せて、本当に大丈夫なのかと」


「……はい」


「なら、今日のところは、任せた仕事がどう進むか見ていればいい。困っているなら助ければいいし、危険があるなら止めればいい。最初から全部取り上げる必要はない」


「でも、私がやったほうが早いこともありますから」


「あるだろうな」


 ガイウスは否定しなかった。


「お前が得意なことなら、なおさらだ。経験のある人間がやったほうが早い。慣れた人間がやったほうが、間違いも少ない。そういう仕事は確かにある」


「でしたら……」


「だが、リーゼ」


 彼は言葉を区切った。


「お前が一番早くできることと、お前が一人でやらなければならないことは、同じじゃない」


 リーゼは答えられなかった。


 言葉の意味は、理解できる。


 理解できるのに、胸のどこかが抵抗していた。


 自分がやれば、間違いなく終わる。


 自分が確認すれば、誰かが困る可能性を減らせる。


 自分が引き受ければ、他の誰かが余計な負担を背負わずに済む。


 そうやって考えることは、間違っているのだろうか。


 誰かが困る姿を想像するくらいなら、自分が少し無理をするほうがいい。


 その考え方によって、これまで救えたものがある。


 助かった人がいる。


 笑顔になった人がいる。


 だからリーゼは、簡単には手放せなかった。


 自分のやり方を否定したいわけではない。


 ただ、そのやり方がいつか自分を壊してしまうのだとしたら。


 その先に何が残るのだろう。


「……少し、難しいですね」


「そうだろうな」


 ガイウスは、意外にもあっさりと頷いた。


「すぐにできるようになれとは言わない。俺たちも、すぐにお前と同じことができるようになるわけじゃないからな」


「ありがとうございます」


「礼を言うことでもない」


 そう言うと、彼は食堂のほうへ視線を向けた。


「ところで、朝食は?」


「これからです」


「本当か?」


「……本当です」


「では、今から一緒に食べよう」


 有無を言わせぬ口調だった。


 リーゼが断ろうとする前に、ガイウスは食堂へ歩き出していた。


 その背中を見つめながら、リーゼは小さく息を吐く。


 困った人だ。


 そう思った。


 けれど、その言葉の中に不思議と嫌な響きはなかった。


     ◇


 朝食を終えたあと、黎明の翼は予定どおり森の奥へ進んだ。


 昨日の戦闘で確認された魔物の群れは、森のさらに深い場所に移動しているらしい。斥候の報告によれば、今日の目的地付近には起伏の激しい地形があり、道幅も狭くなるという。


 大規模な陣形を維持するには難しい場所だった。


「前衛を三班に分けよう。道幅が狭くなったら、先行班と後続班の距離を保つこと。魔術師は合図があるまで大規模魔法を使うな」


 ガイウスの指示に、団員たちが応じる。


 リーゼは後方で、隊列の配置を確認していた。


 本来なら、ここで各班の能力や疲労度を考慮し、細かく調整を加えるところだ。


 誰が前に出れば負担が少ないのか。


 誰の魔力がどれほど回復しているのか。


 誰と誰を組ませれば、互いの弱点を補えるのか。


 頭の中には、すでに複数の組み合わせが浮かんでいた。


 そのすべてを口にすれば、戦闘はきっと楽になる。


 けれど、今日はひとつだけ、試してみたいことがあった。


「エミルさん」


「はい!」


 声をかけられた新人の青年が振り向いた。


「昨日の戦闘を覚えていますか?」


「もちろんです。自分が見た範囲なら、だいたいは」


「それなら、今日の各班の様子を記録してもらえませんか。誰がどんな役割を担い、どこで負担が大きくなったか。気づいたことがあれば、何でも構いません」


「俺が、ですか?」


「はい。戦闘が終わったら、一緒に振り返りましょう」


 エミルは驚きながらも、すぐに背筋を伸ばした。


「分かりました。やってみます!」


 その返事を聞いて、リーゼは微笑んだ。


 任せると決めたのは、自分だ。


 なら、相手を信じてみよう。


 そう思った。


 ところが、実際に戦闘が始まると、彼女の決意は何度も試されることになった。


「右手の斜面から二体!」


「後衛、下がれ!」


「前衛の交代が間に合っていないぞ!」


 森の奥から現れたのは、昨日よりも体格の大きな狼型の魔物だった。数は十五体ほど。群れは正面から押し寄せる一方で、左右に回り込むように動いている。


 地形を利用した挟撃だった。


 前衛が盾を構え、剣士たちが迎え撃つ。魔術師たちが詠唱を始めた。


 リーゼは即座に状況を把握する。


 右側の班は、地面の傾斜によって足元が不安定になっている。左側の前衛は、敵を押し返すことはできているものの、後衛を守るために必要以上の力を使っている。中央の魔術師たちは、詠唱に集中するあまり、周囲の変化に気づきにくくなっていた。


 必要な支援は分かっていた。


 右側の前衛に《俊敏の調律》。


 中央の魔術師たちには《魔力循環補助》。


 左側の敵には《動作阻害》をかけて、攻撃のタイミングをずらす。


 それに加えて、敵の進路を誘導するように、風の流れをわずかに変える。


 いつもなら、すぐに行動していた。


 けれど、その瞬間、エミルの声が飛んできた。


「リーゼさん! 右側の班、足元が悪くて動きづらそうです!」


「ええ、見えているわ」


「魔術師の方たちも、中央の通路が塞がれています。右側の班が少し下がれば、通れるかもしれません!」


 リーゼは一瞬、驚いた。


 エミルはまだ経験が浅い。それでも、ただ戦闘を眺めているわけではなかった。


 見ている。


 自分たちが戦っている場所を。


 仲間が何に困っているのかを。


「いい観察ね。では、ガイウスさんに右側の班の位置を調整してもらいましょう。あなたは中央の魔術師たちに、通路を確保するよう伝えて」


「分かりました!」


 エミルが駆けていく。


 リーゼは魔法を発動させた。


 《俊敏の調律》。


 右側の前衛たちの動きが滑らかになる。足場の悪さそのものを消すことはできないが、身体の重心移動を補助することで、踏み込みの失敗を減らす。


 続けて、敵の先頭に《動作阻害》。


 攻撃がわずかに遅れた隙を、剣士たちが逃さなかった。


 中央では、魔術師たちが位置を変え、詠唱を再開する。


 戦況が少しずつ整っていった。


 リーゼは、次の支援を重ねようとした。


 しかし、そこで気づいた。


 自分がいくつもの仕事を抱え込む前に、別の誰かが動き始めている。


 ガイウスは前衛の隊列を調整し、セラは危険な位置にいた団員を後退させた。ミレーユは負傷者の治療だけでなく、疲労の色が濃い者を見つけて早めに交代を促している。


 ノアもまた、魔術師たちに短い指示を飛ばし、詠唱の順番を整えていた。


 そしてエミルは、先ほどまでの戦況を伝えながら、周囲の変化を追い続けている。


 自分だけが、すべてを支えているわけではない。


 当たり前のことだった。


 黎明の翼には、百人を超える仲間がいる。


 剣を振るう者がいる。


 魔法を操る者がいる。


 傷を癒やす者がいる。


 物資を管理する者がいて、状況を見極める者がいる。


 みんな、自分にできることをしているのだ。


 それなのに、リーゼは時々、その事実を忘れてしまう。


 誰かが困っていれば、自分が助けなければならない。


 誰かが見落としていれば、自分が気づかなければならない。


 誰かが疲れていれば、自分がそのぶん動けばいい。


 そう考えるうちに、いつの間にか、周囲の誰もが自分に頼っているように感じてしまう。


 けれど、本当にそうなのだろうか。


 彼らは、本当に何もできない人たちなのだろうか。


 そんなはずはない。


 リーゼは、誰よりもそれを知っているはずだった。


 彼らが戦う姿を、何度も見てきたのだから。


     ◇


 戦闘が終わったのは、それから十分ほど後のことだった。


 大きな負傷者は出なかった。前衛の消耗はあったものの、魔術師たちの魔力も想定より多く残っている。


 リーゼは負傷者の確認を終え、周囲を見回した。


 いつもなら、ここからが本当の仕事だった。


 各班の体調を確認し、魔法の使用量を記録し、消耗品の残数をまとめる。午後の行程を調整して、夕食の準備に必要な物資を洗い出す。


 それらを自分の手帳に書き込み、忘れないように頭の中で整理する。


 しかし今日は、エミルが手帳を持って近づいてきた。


「リーゼさん。戦闘中の記録、ひとまずまとめました」


「もう?」


「はい。全部正確かどうかは分かりませんが、気づいたことを時系列で書いてあります」


 差し出された記録には、戦闘が始まった時刻、各班が動いた順番、負傷者が発生した位置、魔術師たちが詠唱を中断した回数などが、丁寧に書き込まれていた。


 細部に間違いはあった。


 それでも、十分に役立つ記録だった。


「よく見ていたわね」


「ありがとうございます。でも……」


 エミルは少し言いづらそうに頬を掻いた。


「リーゼさんが何をしていたかは、ほとんど書けませんでした」


「私が?」


「はい。みんなが危なくなりそうなところに、いつの間にか支援が入っていて。どのタイミングで魔法を使ったのか、俺には全然追えませんでした」


 彼は悔しそうに記録を見つめた。


「もっとちゃんと見ていれば、分かったのかもしれません」


「いいえ」


 リーゼは静かに首を振った。


「あなたが見ていたものは、あなたにしか見つけられなかったことよ。私の支援を全部把握する必要はないわ。まずは、自分が見つけたものを大事にして」


「……はい」


「記録はとても役に立つと思う。ガイウスさんやノアさんにも見てもらいましょう」


 エミルは、ほっとしたように笑った。


 その表情を見て、リーゼの胸に温かなものが広がった。


 誰かに仕事を任せた。


 その人は、自分なりに考えて動いた。


 そして、自分一人では気づかなかったものを見つけてくれた。


 それは、仕事を減らしたというだけではなかった。


 見えている世界が、少し広がったような気がした。


「リーゼ」


 セラが近づいてきた。


「今回の戦闘、いつもより支援の数が少なかったんじゃないか?」


 リーゼは少しだけ身構えた。


「そうですね。みんなが自分で判断して動ける場面では、必要最低限にしました」


「それで問題はなかった、と」


「はい。ガイウスさんたちが細かく指示を出してくれましたし、エミルさんの報告も役に立ちましたから」


 セラは腕を組んだ。


「なるほどな」


 そして、いつもの少し厳しい顔のまま言った。


「悪くないじゃないか」


「えっ?」


「お前の支援があるから勝てる。それは間違いない。だが、お前が全部やらなくても勝てるなら、そのほうがいいに決まってる」


 その言葉に、リーゼは胸を突かれたような気がした。


 自分が全部やらなくても、勝てる。


 それは、喜ぶべきことのはずだった。


 自分がいなくても困らないようにする。それこそが、組織を支えるために必要なことなのだろう。


 それでも心のどこかに、ひどく小さな寂しさがあった。


 ――私がいなくても、大丈夫なんだ。


 浮かんだ考えに、リーゼは戸惑った。


 大丈夫であってほしいと、ずっと思っていたはずなのに。


 自分がいなくても、仲間たちが困らずに済むこと。


 自分が休んでも、誰かが代わりに動けること。


 それを望んでいたのは、間違いなく自分だった。


 なのに、いざその光景を目にすると、胸の奥が少しだけ痛む。


 自分は、何を期待していたのだろう。


 誰かに必要とされること。


 誰かの役に立てること。


 それらを望むのは、悪いことではない。


 けれど、もし自分が役に立たなくなったら。


 もし自分が何もできなくなったら。


 そのとき、自分はここにいてもいいのだろうか。


 リーゼは、その問いを心の奥へ押し込んだ。


 今、考えることではない。


 そう自分に言い聞かせた。


     ◇


 夕方、黎明の翼は森の手前にある休憩地点へ到着した。


 野営の準備が始まると、リーゼは自然と周囲を見回した。


 テントの設営は順調か。


 食料の配分は足りているか。


 負傷した団員の様子はどうか。


 水の残量は。


 薪は。


 明日の出発に必要な道具は――。


「リーゼさん」


 声をかけられ、彼女は振り返った。


 そこにいたのはブリジットだった。


「物資の確認、終わりました。昨日の箱も見つかりましたよ」


「本当?」


「はい。補給班が、予定と違う場所に置いていたみたいです。記録にもそのことを書いておきました。今後は、搬入した人が置き場所を記録するようにすれば、同じことは起きにくいと思います」


 ブリジットは、自信を取り戻したような表情をしていた。


「リーゼさんが、一緒に記録のつけ方を確認してくれたおかげです。ありがとうございました」


「私は、ほとんど何もしていないわ」


「そんなことありません。最初に何を確認すればいいのか教えてもらえたから、落ち着いて調べられたんです」


 そう言われて、リーゼは言葉を失った。


 何もしていないつもりだった。


 自分が直接探したわけでも、すぐに問題を解決したわけでもない。


 ただ、最初に少しだけ手を貸した。


 それだけだった。


 それでもブリジットは、自分で原因を突き止め、次に同じことが起きない方法まで考えてくれた。


 自分が全部を引き受けなくても、仕事は進む。


 むしろ、誰かが自分で考える機会を持てば、次はもっとよくなるのかもしれない。


「……こちらこそ、ありがとう」


 リーゼがそう答えると、ブリジットは嬉しそうに笑って戻っていった。


 彼女の背中を見送りながら、リーゼは胸の奥に生まれた感情を確かめていた。


 安心。


 喜び。


 そして、ほんの少しの寂しさ。


 どれも本当だった。


 どれか一つだけが正しいわけではない。


 人の心は、もっと複雑にできている。


 誰かの成長を嬉しく思いながら、自分の役割が小さくなったように感じることもある。


 誰かに頼りたいと思いながら、頼ることが怖いと感じることもある。


 自分が楽になることを望みながら、楽になった自分を許せないことだってある。


 矛盾している。


 けれど、矛盾しているからといって、どちらかの気持ちが嘘になるわけではない。


 リーゼはそう思った。


 それなら、今の自分も否定しなくていいのかもしれない。


 寂しいと感じたことを、いけないことだと思わなくていい。


 誰かに必要とされたいと思う自分を、恥じなくてもいい。


 ただ、その気持ちのために、自分をすり減らし続けなくてもいいのだ。


 そのことを、いつか自然に受け入れられるようになるだろうか。


 今の彼女には、まだ分からなかった。


     ◇


 夕食のあと、リーゼは野営地の端に腰を下ろした。


 いつもなら、食事の片づけが終わったところで、翌日の準備に取りかかる。


 物資の残数を確認し、今日の支援内容を記録し、各班の疲労度を整理する。明日の予定を見直して、必要な調整を加える。


 しかし今夜は、ガイウスから「記録は明日の朝でもいい」と言われていた。


 だからリーゼは、何もせずに座っていた。


 正確には、何もしないことを試みていた。


 視線の先では、団員たちが談笑している。


 トーマが今日の戦闘について熱心に話し、セラが彼の説明に時々突っ込みを入れていた。ノアは少し離れた場所で明日の魔力配分について考えながら、ミレーユに何かを相談している。


 ブリジットはエミルに記録の書き方を教えていた。


 ガイウスは団員たちの話を聞きながら、ときおり全体の様子を見渡している。


 みんな、ちゃんと動いている。


 みんな、自分の仕事をしている。


 リーゼが手を出さなくても。


 リーゼが指示を出さなくても。


 その光景を見ていると、胸の奥が少しだけざわついた。


 何か、することはないだろうか。


 誰か、困っている人はいないだろうか。


 自分にできることはないだろうか。


 問いが次々と浮かんでくる。


 そして、その問いの奥に、もう一つの問いがあった。


 ――何もしない私は、何者なのだろう。


 リーゼは膝の上で指を組んだ。


 仕事をしているときは、考えなくて済んだ。


 誰かの役に立っていると分かる。必要な仕事を終えるたび、ここにいる意味を確かめられる。


 けれど、何もしていないと、自分の中に何が残るのかが分からなくなる。


 役に立つこと。


 頼られること。


 期待に応えること。


 それらが自分の価値を証明してくれるのなら、頑張ることは怖くなかった。


 どれだけ疲れていても、身体が重くても、やるべきことがある限り、自分は進めた。


 けれど、それらがなくなったら?


 自分が何もしなくても、誰かが笑っている。


 自分がいなくても、みんなが困らずに暮らしている。


 そのとき、自分は何を理由に、ここにいていいと思えばいいのだろう。


 答えは出なかった。


 ただ、リーゼは気づき始めていた。


 仕事を減らすことは、単に作業を誰かに振り分ければ済む話ではない。


 自分の中にある、もっと根深い何かと向き合う必要があるのかもしれない。


「隣、いいか?」


 不意に声がした。


 顔を上げると、ガイウスが立っていた。


「はい。どうぞ」


 彼はリーゼの隣に腰を下ろした。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 森の夜は静かだった。焚き火がぱちりと音を立て、風が木々の葉を揺らしている。


「今日は、どうだった?」


 やがて、ガイウスが尋ねた。


「……少し、不思議な気分でした」


「不思議?」


「私が全部をしなくても、みんながちゃんと動いてくれて。問題も解決して。戦闘も無事に終わりました」


「そうだな」


「嬉しかったんです。みんなが自分で考えて、動いてくれることが」


 リーゼは、膝の上の手を見つめた。


「でも、少しだけ寂しくもありました」


 口にした瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 こんなことを言うつもりはなかった。


 自分でも、どうしてそう感じるのか分からない。誰かの成長を喜ぶべきなのに、そこに寂しさが混じってしまう自分が、少し嫌だった。


 けれど、ガイウスは笑わなかった。


 不思議そうな顔もしなかった。


 ただ、静かに聞いていた。


「……変ですよね」


「いや」


 ガイウスは首を横に振った。


「変じゃないと思う」


「でも、私が望んでいたことなんです。みんなが困らないように、私がいなくても動けるように。そうできるように、今まで頑張ってきたつもりでした」


「うん」


「なのに、実際にそうなってみると……自分の居場所が、少しずつなくなっていくような気がして」


 最後の言葉は、ほとんど囁きだった。


 口にしてしまったことが怖かった。


 そんなふうに思っていると知られたら、みんなはどう感じるだろう。


 自分がいないと困るように、わざと仕事を抱え込んでいたのだと思われるだろうか。


 そんなつもりはない。


 本当に、そんなつもりはなかった。


 ただ、誰かが困るのが嫌だった。


 誰かの力になりたかった。


 その気持ちは、嘘ではない。


 けれど、それだけだったのだろうか。


 自分でも分からなかった。


「リーゼ」


 ガイウスの声は、いつもより少し柔らかかった。


「俺たちは、お前が仕事をしているからここに置いているわけじゃない」


 リーゼは顔を上げた。


「……え?」


「お前が物資を管理するから。傷ついた仲間を気遣うから。戦闘で支援をしてくれるから。そういう理由だけで、ここにいるわけじゃない」


 ガイウスは、焚き火の向こうにいる団員たちを見た。


「もちろん、お前の仕事には何度も助けられている。お前がいなければ、もっと苦労した場面もあっただろう。これからも、力を貸してほしいと思っている」


 彼はそこで言葉を切った。


「だが、それと、お前が休んではいけないということは違う」


 リーゼは何も言えなかった。


「お前が何かできるから、一緒にいるんじゃない。俺たちは同じギルドの仲間だから、一緒にいるんだ」


 その言葉は、ひどく当たり前のことのように聞こえた。


 けれど、リーゼにとっては、すぐに受け入れられるほど簡単なものではなかった。


 役に立たなくてもいい。


 何もしなくても、ここにいていい。


 そんな考え方を、自分はいつの間にか難しいものにしてしまっていたのだろうか。


 リーゼは、自分の胸の奥を探った。


 そこには、嬉しさがあった。


 救われるような気持ちもあった。


 けれど同時に、信じることをためらう自分もいた。


 人の気持ちは変わる。


 状況も変わる。


 今はそう言ってくれていても、いつか自分が本当に何もできなくなったら、同じように思ってくれるだろうか。


 そんな不安が、心のどこかに残っている。


 それでも。


 今、この人はそう言ってくれた。


 自分が何かをしなくても、ここにいていいのだと。


「……ありがとうございます」


 リーゼは、ようやくそう答えた。


 ガイウスは小さく頷いた。


「礼を言うことでもないさ」


 それから、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。


「ただし、明日の朝も仕事を抱え込んでいたら、俺が取り上げるからな」


「そ、それは困ります」


「困るようなものを、全部抱え込まなければいい」


「……ガイウスさんは、ずるいです」


「そうか?」


「そうです」


 思わず口をついて出た言葉に、リーゼ自身が驚いた。


 ガイウスは声を立てて笑った。


 つられるように、リーゼの口元も緩んだ。


 その笑顔は、いつも誰かを安心させるために浮かべているものとは、少し違っていた。


 何かを成し遂げたわけではない。


 誰かの役に立ったわけでもない。


 ただ、隣にいる人と言葉を交わして、少し笑った。


 それだけの時間だった。


 それだけなのに、リーゼの心には、いつもとは違う温かさが残っていた。


     ◇


 その夜、リーゼは手帳を開いた。


 今日の記録をまとめようとして、ペンを手に取る。


 しかし、すぐに書き始めることはしなかった。


 今日、自分がしたこと。


 誰かに任せたこと。


 任せた相手が、自分では気づかなかったことを見つけてくれたこと。


 そして、何もしないで過ごした時間。


 思い返しながら、彼女はゆっくりと文字を書いた。


 ――仕事を任せても、仲間は困らなかった。


 そこまで書いて、ペンが止まった。


 次の行に何を書けばいいのか、すぐには思いつかなかった。


 少し考えたあと、リーゼは新しい行に言葉を綴った。


 ――任せることは、見捨てることではない。


 書いた文字を、じっと見つめる。


 それは今日、頭では理解していたことだった。


 けれど、実際に誰かに任せてみたことで、少しだけ違う形になって自分の中に残った。


 ブリジットは自分で問題を解決した。


 エミルは自分なりの視点で戦闘を記録した。


 仲間たちは、リーゼがすべてを引き受けなくても、自分の力で動いていた。


 誰かに任せることは、その人を信じることなのかもしれない。


 その人が、自分の知らない力を持っていると認めることなのかもしれない。


 そして、自分が何もかもを背負わなくてもいいと認めることでもある。


 最後の一文を書こうとして、リーゼは再び手を止めた。


 ――私は、何もしなくても、ここにいていい。


 その言葉が頭に浮かんだ。


 けれど、書くことはできなかった。


 まだ、信じきれなかったからだ。


 そんなことを書いてしまったら、明日から本当に何もしなくなってしまうような気がした。


 誰かの役に立とうとする気持ちまで、失ってしまうような気がした。


 もちろん、そんなはずはない。


 仕事を休んだからといって、仲間を大切に思う気持ちがなくなるわけではない。


 何かを任せたからといって、誰かを見捨てることになるわけでもない。


 分かっている。


 それでも、怖かった。


 自分が頑張らなくても、ここにいていい。


 その言葉を、本当に信じられる日が来るのだろうか。


 リーゼは手帳を閉じた。


 答えはまだ出ていない。


 けれど、昨日までとは少しだけ違う。


 誰かに頼ることを、ほんの少しだけ試してみた。


 仕事を任せてみた。


 何もしない時間を、少しだけ過ごしてみた。


 たったそれだけのことだった。


 それでも、今夜は自分を責めずに眠れそうだった。


 リーゼは灯りを消し、ベッドに横になった。


 明日は、今日より少しだけうまくできるだろうか。


 誰かに任せることも。


 自分を休ませることも。


 そして、何もできない自分を許すことも。


 まだ分からない。


 ただ、少なくとも今夜だけは。


 彼女は、誰かのために何かをすることなく、静かに目を閉じた。


 ――その小さな休息が、彼女にとってどれほど大切なものだったのか。


 このときのリーゼは、まだ知らなかった。


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