03.彼女がいなければ、少しだけ不便になる
翌朝、リーゼ・アルヴェインは誰よりも早く目を覚ました。
空はまだ薄暗く、森の木々には夜の冷たさが残っている。
野営地のあちこちでは、冒険者たちが寝袋にくるまって眠っていた。昨夜の見張りを終えた者たちも、交代の時間までは休んでいるはずだ。
静かな朝だった。
リーゼは上体を起こし、隣に置いていた鞄を手繰り寄せた。
まずは、今日の予定を確認する。
斥候部隊の報告を受ける時間。前衛部隊の装備点検。魔術部隊の魔力残量の確認。治療班の薬品補充。昼までに通過する予定の渓谷について、昨日の地図と照らし合わせる作業。
それから、昨夜のうちに終わらなかった物資の確認。
「……うん。大丈夫」
手帳の項目を一つずつ目で追い、リーゼは小さくうなずいた。
大丈夫。
今日も、ちゃんとできる。
そう思ったとき、昨夜のガイウスの言葉がふと頭をよぎった。
『もう少し周囲に仕事を任せてくれ』
リーゼは、手帳を持つ指に力を込めた。
任せる。
言葉の意味は分かっている。
自分がやらなくても、誰かに頼めばいい。得意な人に任せれば、仕事は分散できる。そうすれば、自分も余裕を持って働ける。
理屈としては、何も間違っていない。
むしろ、ギルドの運営を考えれば当然のことだった。
百二十人もの冒険者が所属しているのだから、一人ひとりが役割を持ち、協力して動くべきなのだ。
なのに。
「……難しいなあ」
リーゼは、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
誰かに任せるということは、その人に仕事を覚えてもらうということでもある。
やり方を説明しなければならない。必要な道具を用意しなければならない。失敗したときには、その原因を一緒に考えなければならない。
慣れない仕事なら、自分でやった方が早いことも多い。
それに、もし説明が足りず、誰かが困ったら。
もし、任せた仕事が原因で仲間が危険な目に遭ったら。
そのとき、自分は平気でいられるだろうか。
リーゼには、それが怖かった。
誰かを信じていないわけではない。
黎明の翼の仲間たちは、皆、優秀だ。自分にはできないことを、簡単にやってのける人だってたくさんいる。
けれど、彼らが失敗する可能性を考えると、どうしても先回りして手を出したくなる。
自分が確認しておけば、失敗を防げるかもしれない。
自分が準備しておけば、困る人を減らせるかもしれない。
そうやって仕事を引き受けるたび、リーゼは小さな安心を手に入れていた。
誰かに任せるより、自分でやる方が安心できる。
誰かに頼るより、自分が頼られる方が落ち着く。
その安心が、いつの間にか彼女の仕事を増やしていた。
「……よし!」
リーゼは、勢いよく立ち上がった。
考えすぎるのはよくない。
とりあえず、今日の仕事を始めよう。
その中で、誰かに任せられそうなものがあれば、少しずつ任せていけばいい。
急に全部を変える必要はないのだから。
そう自分に言い聞かせ、彼女は朝の野営地へと歩き出した。
◇
最初の異変は、朝食の準備で起きた。
「……あれ?」
物資管理班が並べた食材を確認していたリーゼは、首をかしげた。
数が合わない。
昨日の夜に記録した残量と、今朝の配給予定を照らし合わせると、保存食が六人分足りなかった。
大規模な遠征では、食料の管理が重要になる。
余分に持ちすぎれば荷物が重くなる。少なすぎれば、予定外の事態が起きたときに困る。
百二十人が三日間活動するとなれば、わずかな計算違いでも大きな問題になりかねない。
「すみません、ブリジットさん。昨日の夜、保存食を追加で配りましたか?」
「いや、私は配っていないよ」
物資管理班の責任者であるブリジットは、帳簿を見ながら答えた。
「……おかしいね。数は合っているはずなんだけど」
「もう一度、一緒に確認してもいいですか?」
「もちろんさ」
二人で荷物を調べる。
しばらくして、原因が分かった。
昨日の夕食後、見張りを担当する冒険者たちに、夜食として保存食が配られていたのだ。
配給そのものに問題はなかった。
ただ、その分の記録が、物資管理班の帳簿に反映されていなかったのである。
「ああ、そういうことか!」
ブリジットが納得したように声を上げた。
「夜食を配ったのは見張りの交代時だったからね。いつもの配給とは別の扱いにしていたんだ。記録をつけるのを忘れていたよ」
「なるほど……」
リーゼは、帳簿の端に修正を書き込んだ。
これで問題は解決だ。
けれど、彼女の頭には別の考えが浮かんでいた。
今回のようなことは、これまでも何度かあった。
食料の配給と追加支給を別々に記録していたり、薬品の使用量が治療班の記録と物資管理班の記録で違っていたり。
そのたびにリーゼが間に入り、双方の記録を照らし合わせていた。
今までは、それで何とかなっていた。
けれど。
「ブリジットさん」
「ん?」
「夜食や追加の物資を配ったときも、同じ帳簿に記録するようにしたらどうでしょうか?」
「同じ帳簿に?」
「はい。配った人が、その場で数量と配布先を書き込むんです。そうすれば、翌朝にまとめて確認するときも、数が合いやすくなると思います」
ブリジットは、少し考えた。
「なるほどねえ。確かに、それなら記録の漏れは減りそうだ」
「もちろん、緊急時は無理に書かなくてもいいと思います。あとでまとめて記録できるように、記入欄を分けておけば……」
「いいじゃないか。それ、試してみよう」
ブリジットは、にっと笑った。
「リーゼ、簡単な書式を作ってくれるかい?」
「はい。分かりました」
答えてから、リーゼは一瞬だけ言葉を止めた。
……あ。
また、自分が引き受けてしまった。
今の提案は、物資管理班の仕事を改善するためのものだった。
なら、書式の作成も、物資管理班の誰かに任せればいい。
けれど、もう返事をしてしまった。
「……リーゼ?」
「いえ、何でもありません。午前中には作っておきますね」
「助かるよ!」
ブリジットは、明るく答えた。
リーゼは笑顔を返し、帳簿を抱え直した。
小さな改善だ。
書式を一つ作るくらい、たいした手間ではない。
そう考えれば、何も問題はない。
……はずだった。
◇
午前八時。
森へ進む前の準備が始まった。
「全員、装備の確認をしろ! 異常があったら出発前に報告!」
セラの声が、野営地に響く。
前衛部隊の冒険者たちは、それぞれの武器や防具を点検していた。
リーゼは、彼らの様子を見ながら、昨日の支援記録を確認していた。
今日の戦闘では、魔力の消費を抑えることが重要になる。
森の奥には、通常よりも魔力耐性の高い魔物が出現するという報告があった。長期戦になれば、魔術部隊の負担が大きくなる。
そこでリーゼは、仲間たちの能力を一時的に引き上げるだけでなく、魔力の流れを整える支援を組み合わせることにした。
無駄な力の消費を減らし、必要な瞬間に最大限の力を発揮できるようにする。
派手さはない。
けれど、こうした小さな積み重ねが、長い冒険では大きな差になる。
「リーゼ!」
セラが手を振った。
「ちょっと、この新入りの動きを見てやってくれないか?」
「はい!」
リーゼは手帳を閉じ、駆け寄った。
そこには、槍を持った若い冒険者が立っていた。
年齢は十七、八歳くらいだろうか。緊張しているのか、槍を握る手に力が入りすぎている。
「初めまして。リーゼです。今日はよろしくお願いしますね」
「あっ、はい! トーマです! よろしくお願いします!」
少年は、勢いよく頭を下げた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。少し、いつもの動きを見せてもらえますか?」
「は、はい!」
トーマは槍を構えた。
踏み込み、突き。
悪くはない。
けれど、攻撃を繰り出すたびに肩が上がり、呼吸が止まっている。
このままでは、何度も攻撃を続けるうちに疲労が溜まるだろう。
「トーマさん。少し、肩の力を抜いてみましょうか」
「肩、ですか?」
「はい。敵を倒そうとする気持ちは大切です。でも、最初から全力で攻撃しようとすると、長く戦えなくなってしまいます」
リーゼは、彼の隣に立った。
「まずは、相手に届く距離を確かめること。次に、相手の動きを見ること。それから、攻撃する。全部を一度にやろうとしなくても大丈夫です」
「……はい」
「焦らなくても、ちゃんと上達しますよ」
彼女は微笑んだ。
トーマは、少しだけ肩の力を抜いた。
もう一度、槍を構える。
今度の突きは、先ほどよりも滑らかだった。
「おお……!」
トーマ自身が、驚いたような声を上げた。
「今の感覚を覚えておいてくださいね。力を抜くことと、手を抜くことは違いますから」
「はい!」
少年の表情が明るくなる。
リーゼは、その顔を見てうれしくなった。
自分の知っていることを伝えることで、誰かが成長する。
その瞬間を見るのが好きだった。
けれど、セラは別のところに目を向けていた。
「……リーゼ」
「はい?」
「今、魔力を使ったか?」
「え?」
「トーマの動きが変わったときだ。支援をかけただろ?」
リーゼは、一瞬だけ考えた。
「はい。身体の動きを少し整えました」
「……そうか」
セラは、トーマとリーゼを交互に見た。
「それ、どのくらい効果があるんだ?」
「ええと……本人の動きによりますけど、疲労を抑えながら、力を発揮しやすくする効果があります」
「いや、そうじゃなくて」
セラは腕を組んだ。
「昨日、私にも同じ支援をかけただろ。あれも、今のと同じなのか?」
「基本的には同じですよ」
「……基本的には?」
「あっ、いえ。相手の能力や癖によって、調整の仕方を変えているんです」
セラは、しばらく黙っていた。
やがて、難しい顔で頭をかいた。
「お前、自分がやってることを、もっとちゃんと説明した方がいいぞ」
「え?」
「いや、だって……」
セラは言葉を探すように、少し視線を泳がせた。
「私たちは、お前の支援がすごいことくらい分かってる。けど、どこがどうすごいのか、正直、ちゃんとは分かってないんだよ」
リーゼは、目を瞬かせた。
支援がすごい。
そんなふうに言われることは、時々あった。
けれど、それは特別なことではないと思っていた。
支援士なのだから、仲間を支援するのは当たり前だ。
自分よりも優れた剣士や魔法使いが、少しでも実力を発揮できるようにする。
そのために、自分は訓練してきたのだから。
「……でも、私の仕事は、みんなが戦いやすくなるようにすることですから」
「だから、それがどのくらいすごいのかって話だよ!」
セラが声を上げた。
トーマが、びくっと肩を震わせる。
「あっ、ごめん。お前に怒ってるわけじゃないからな」
「は、はい……!」
セラは大きく息を吐いた。
「……まあいい。とにかく、無理だけはするなよ」
「はい。ありがとうございます」
リーゼは、いつものように笑顔で答えた。
けれど、セラはまだ何か言いたそうだった。
その表情が気になったものの、リーゼには次の仕事が待っていた。
彼女はトーマにもう一度声をかけ、槍の構えを確認したあと、魔術部隊の方へと向かった。
その背中を見送りながら、セラは小さくつぶやいた。
「……あいつ、本当に自分の価値を分かってないな」
◇
午前十時。
森の奥へ進み始めてから、最初の戦闘が起きた。
「前方、魔物の群れを確認! 数は二十以上!」
斥候の報告を受け、ガイウスが即座に指示を出す。
「前衛部隊、迎撃準備! 魔術部隊は後方から援護! 治療班は安全な位置で待機!」
「了解!」
冒険者たちが一斉に動いた。
森の木々の間から、灰色の毛皮を持つ魔物たちが姿を現す。
牙の長い狼型の魔物。
群れで行動し、獲物の隙を見つけると一斉に襲いかかる習性がある。
単体なら、それほど強い相手ではない。
けれど、数が多ければ話は別だ。
「リーゼ!」
ガイウスの声が飛ぶ。
「前衛に速度上昇! 魔術部隊には詠唱補助を頼む!」
「はい!」
リーゼは杖を構えた。
まずは前衛部隊。
彼らの脚力と反応速度を引き上げ、魔物の動きに対応できるようにする。
「《俊敏の調律》!」
淡い光が、前衛部隊の足元を走った。
続いて、魔術部隊へ。
詠唱の間に生じる魔力の乱れを抑え、魔法の発動を安定させる。
「《魔力循環補助》!」
青白い光が、魔術部隊の周囲に広がった。
さらに、敵の動きを鈍らせるため、群れの先頭に弱体化の魔法をかける。
「《動作阻害》!」
魔物たちの足取りが、ほんのわずかに乱れた。
その一瞬を、セラたちは見逃さなかった。
「今だ! 押し返せ!」
セラの剣が、最初の魔物を弾き飛ばす。
前衛部隊が左右に展開し、群れを分断した。
魔術部隊の火球が森の中を走り、魔物たちの進路をふさぐ。
戦闘は、冒険者たちの優位に進んでいた。
けれど、リーゼは戦場全体を見渡しながら、次の支援を組み立てていた。
左側の前衛が少し押されている。
右側の魔術師は、連続詠唱で魔力を消耗し始めている。
後方の斥候が、別の群れの気配を察知している。
一つの戦場に、いくつもの問題が同時に存在していた。
普通なら、各部隊の責任者が状況を判断し、それぞれ対応する。
けれど、リーゼには、全体の流れが見えていた。
誰がどこで苦戦しているのか。
誰に支援をかければ、戦線が安定するのか。
どの敵の動きを止めれば、味方の負担が減るのか。
彼女はそれらを、ほとんど直感的に判断していた。
「セラさん、左に二歩下がってください! 次の攻撃が来ます!」
「分かった!」
セラが身を引いた瞬間、魔物の爪が空を切った。
「ノアさん、次の魔法は少し右へ! 敵が密集しています!」
「了解!」
魔術部隊の放った雷撃が、複数の魔物をまとめて打ち据える。
「後方、三体接近! 斥候の方、援護をお願いします!」
「任せろ!」
リーゼの声が、次々と戦場を飛び交う。
彼女の支援は、単に味方の能力を上げるだけではなかった。
味方の行動と敵の動きをつなぎ合わせ、戦場全体の流れを整える。
誰かが攻撃すれば、別の誰かが隙を埋める。
誰かが後退すれば、その間に別の誰かが前へ出る。
その連携が、少しずつ形になっていく。
やがて、最後の魔物が倒れた。
「……討伐完了!」
斥候の声が響く。
冒険者たちが、安堵の息を吐いた。
「よし! 負傷者を確認しろ! 装備の破損も忘れるな!」
ガイウスが指示を出す。
リーゼは杖を下ろした。
戦闘時間は、十五分ほど。
予定よりも早い。
負傷者も軽傷が数名いるだけで、重傷者はいなかった。
よかった。
その事実を確認した瞬間、リーゼの胸に安堵が広がった。
みんな、無事だった。
それだけで十分だった。
「リーゼ!」
セラが駆け寄ってくる。
「今の支援、すごかったぞ!」
「ありがとうございます。でも、皆さんが上手に連携してくださったからですよ」
「いや、そういうところだって!」
セラが呆れたように笑った。
「お前が敵の動きを鈍らせた瞬間、こっちはすごく動きやすくなった。普段なら、あの数を相手にするのはもっと時間がかかる」
「そうですか?」
「そうだよ!」
セラは、まっすぐにリーゼを見つめた。
「なあ、リーゼ。お前、今の戦闘で何回支援をかけた?」
「え?」
「何回だ?」
リーゼは少し考えた。
「……正確には数えていませんけど、三十回くらいでしょうか」
「三十回!?」
セラが目を見開いた。
「しかも、それぞれ別の調整をしていたのか?」
「はい。状況に合わせて、少しずつ変えていました」
「……お前、それを普通だと思ってるのか?」
リーゼは、答えに困った。
普通。
普通とは、何だろう。
支援士なら、味方の状況を見て支援を使い分けるものだと思っていた。
もちろん、誰にでもできることではない。
けれど、できるようになるまで訓練するのが、支援士の仕事なのではないだろうか。
「……私にできることをしただけですよ」
結局、そう答えた。
セラは、深いため息をついた。
「お前なあ……」
そのとき、ガイウスがこちらへ歩いてきた。
「二人とも、どうした?」
「聞いてくださいよ、リーダー。リーゼが自分の支援を普通だと思ってるんです」
「……そうか」
ガイウスは、リーゼの顔を見た。
その目には、責める色はなかった。
ただ、何かを確かめるような静けさがあった。
「リーゼ」
「はい?」
「今の戦闘で、君が何をしたのか、あとで少し詳しく教えてくれないか」
「もちろんです」
「できれば、君がどのように判断して支援を使い分けているのかも」
「分かりました」
リーゼは、うなずいた。
自分のやっていることを説明するだけなら、難しくはない。
そう思った。
けれど、実際には、その説明が簡単ではないことを、彼女はまだ知らなかった。
彼女の中では当たり前になっていた判断の多くが、経験や観察、そして一人ひとりに合わせた細かな調整の積み重ねによって成り立っていたからだ。
その仕事を、誰かが代わりにできるようにするには。
彼女が頭の中で行っていることを、誰にでも理解できる形にするには。
それは、彼女自身が思っていたよりも、ずっと大きな課題だった。
◇
昼過ぎ。
遠征隊は、小さな川のほとりで休憩を取っていた。
戦闘で大きな被害が出なかったこともあり、冒険者たちの表情は明るい。
「いやあ、今日の戦闘は楽だったな!」
「リーゼさんの支援のおかげだよ。いつも助かる!」
「次もよろしく頼むぜ!」
「はい。皆さんも、無理はしないでくださいね」
リーゼは笑顔で応じた。
その言葉に、誰も悪意はなかった。
皆、本当に彼女に感謝している。
彼女の仕事を認めているし、その能力を信頼している。
だからこそ、自然に頼る。
頼っても大丈夫だと思っている。
その信頼は、リーゼにとって大切なものだった。
けれど同時に、その信頼が少しずつ彼女の負担を増やしていることに、まだ誰も気づいていなかった。
「リーゼさん」
声をかけてきたのは、朝に訓練をしたトーマだった。
「どうしました?」
「さっきの戦闘、ありがとうございました!」
「え?」
「僕、魔物が近づいてきたとき、どう動けばいいか分からなくなってしまったんです。でも、リーゼさんの声が聞こえて……そのとおりに動いたら、何とか攻撃を避けられました」
トーマは、少し恥ずかしそうに笑った。
「僕、まだまだ未熟ですけど、いつかリーゼさんみたいに、周りを見られる冒険者になりたいです」
その言葉に、リーゼは胸がいっぱいになった。
「……ありがとうございます」
うまく言葉が出てこなかった。
自分の仕事が、誰かの役に立った。
それだけではない。
自分の姿を見て、目標にしたいと言ってくれる人がいる。
それは、思っていた以上にうれしいことだった。
「トーマさんなら、きっとなれますよ」
リーゼは、少年の目を見て言った。
「周りを見る力は、経験を積めば身につきます。でも、仲間を助けたいと思う気持ちは、今のまま大切にしてくださいね」
「はい!」
トーマは、元気よく返事をした。
その背中を見送りながら、リーゼは思った。
自分は、この仕事を続けていきたい。
誰かの成長を見守りたい。
仲間たちが安心して戦える場所を作りたい。
それが、自分の望みなのだ。
だからこそ、もっと頑張ろう。
もっと勉強して、もっと経験を積んで、もっと多くの人を支えられるようになろう。
そう考えることは、決して悪いことではないはずだった。
ただ、彼女はまだ知らなかった。
人を支える力を伸ばすことと、自分が支え続けなければならないと思い込むことは、同じではない。
その違いに気づくまで、彼女にはもう少し時間が必要だった。
◇
その日の夕方。
ガイウスは、野営地の端で、セラとノアを交えて話をしていた。
「今日の戦闘記録を見たが、負傷者が少ない。魔力の消費も、事前の予測を下回っている」
ガイウスが報告書を閉じた。
「リーゼの支援が大きかったんだろうな」
「間違いないですね」
ノアが眼鏡を押し上げた。
「彼女の支援は、単純な能力強化ではありません。味方の行動と魔力の流れを同時に調整している。しかも、個々の能力や戦闘状況に合わせて効果を変えているようです」
「それって、そんなに難しいことなのか?」
セラの問いに、ノアは即答した。
「極めて難しいです」
「……へえ」
「普通の支援魔法は、あらかじめ決められた効果を対象に与えるものです。しかし、リーゼさんの場合は、対象の状態を見ながら、必要な効果を細かく調整している。複数の対象に対して、それを同時に行っている可能性があります」
ノアは、手元の記録を見下ろした。
「私も、彼女がどのような原理であれほど精密な調整を行っているのか、まだ完全には理解できていません」
「本人は、普通にやってるつもりみたいだけどな」
セラが苦笑する。
「そこが問題なんだ」
ガイウスは、静かに言った。
「我々は、彼女が優秀だと知っている。だが、どの仕事にどれほどの時間を使い、どれだけの判断を重ねているのか、正確には把握していない」
「……確かに」
ノアがうなずいた。
「彼女の支援技術だけではありません。物資の管理や戦闘記録の整理、各部隊との連携調整まで、彼女の判断に依存している部分が多すぎます」
「依存、か」
セラは、その言葉を繰り返した。
少し苦い響きがあった。
「私たちは、リーゼがいてくれるから安心して任せていた。でも、それって……」
「彼女がいなければ、同じことができないということでもある」
ガイウスが言葉を継いだ。
三人の間に、沈黙が落ちた。
黎明の翼は、国内最大の冒険者ギルドだ。
優秀な冒険者が集まり、難しい依頼をこなし、数々の成果を上げてきた。
誰もが自分の仕事に誇りを持っている。
けれど、組織が大きくなればなるほど、仕事のつながりは複雑になる。
誰かが足りない部分を補う。
別の誰かが、その補助を前提に動く。
やがて、そのやり方が当たり前になる。
誰も悪気はない。
むしろ、互いを信頼しているからこそ、仕事が回っているように見える。
しかし、いつの間にか、一人の働きに多くを頼りすぎてしまうことがある。
そして、その人が動けなくなったとき、初めて問題の大きさに気づくのだ。
「……少しずつ、変えていく必要があるな」
ガイウスが、静かに言った。
「リーゼに負担が集中しない仕組みを作ろう。まずは各部隊の仕事を整理して、誰が何を担当しているのか、明確にする」
「賛成です」
ノアが答えた。
「記録方法も統一した方がいいでしょう。物資、戦闘、魔力消費。各部隊が別々に管理している情報を、必要に応じて共有できるようにすれば、確認作業も減らせます」
「それなら、物資管理班とも話してみるよ」
セラがうなずいた。
「ただし、いきなり全部を変えるのは難しい。まずは、できることから始めよう」
「ああ」
ガイウスは、遠くに目を向けた。
野営地の中央では、リーゼが若い冒険者たちに囲まれていた。
何かを説明しているらしい。
彼女が笑うと、周囲の者たちも笑った。
その光景は、いつもどおりだった。
皆が彼女を頼りにしている。
皆が彼女を認めている。
そして彼女自身も、皆のために働くことを望んでいる。
だからこそ、簡単には変えられないのかもしれない。
「……リーゼ本人とも、話をする必要があるな」
ガイウスがつぶやいた。
彼は、まだ知らなかった。
彼女に仕事を減らすよう伝えるだけでは、何も解決しないことを。
リーゼが本当に必要としているのは、単に仕事を減らすことではない。
誰かに任せても大丈夫だと思えること。
休んでいても、自分の価値は変わらないと信じられること。
そして、誰かに頼ることも、仲間を支えることと同じくらい大切なのだと知ること。
その変化には、仕組みだけでなく、彼女自身の心の変化も必要だった。
それは、ガイウス一人の力で成し遂げられることではない。
リーゼ自身と、彼女を頼りにしてきた仲間たち。
その全員が、少しずつ変わっていく必要があるのだ。
◇
夜。
リーゼは、焚き火のそばで手帳を開いていた。
今日の仕事を振り返り、明日の準備を確認する。
物資管理の記録方法について、簡単な案を作ること。
魔術部隊の魔力消費をまとめること。
戦闘記録を整理すること。
それから、明日の支援計画を修正すること。
書き込む項目が、少しずつ増えていく。
「……あれ?」
ふと、リーゼはペンを止めた。
今日一日、かなり働いたはずだった。
戦闘もあった。
物資の確認もした。
新人の訓練にも付き合った。
それなのに、手帳にはまだ終わっていない仕事が残っている。
いや、違う。
今日の仕事が終わっていないのではない。
今日の仕事を終わらせたことで、新しい仕事が生まれているのだ。
物資の記録を改善するなら、書式を作らなければならない。
書式を作るなら、各部隊の記録方法を確認しなければならない。
記録方法を確認するなら、今までのやり方にどんな問題があったのか、調べなければならない。
ひとつの問題を解決しようとすれば、その周りにある別の問題が見えてくる。
それは、組織をよくするためには必要なことだ。
けれど。
「……終わらないなあ」
リーゼは、小さく笑った。
笑うしかなかった。
別に、仕事が嫌いなわけではない。
むしろ、やりがいを感じている。
仲間たちの役に立てる。
ギルドが少しずつよくなっていく。
その変化を、自分の手で生み出せる。
それは、うれしいことだった。
ただ、ほんの少しだけ。
誰かに、こう言ってほしかった。
――今日はもう十分だよ。
――あとは、私たちに任せて。
――リーゼも、ゆっくり休んでいいんだよ。
そんな言葉を。
けれど、口に出して頼むことはできなかった。
自分から休みたいと言うのは、何となく申し訳なかった。
皆だって疲れている。
皆だって頑張っている。
それなのに、自分だけが休みたいと言っていいのだろうか。
そう考えると、言葉が喉の奥で止まってしまう。
だから、リーゼはいつも笑っていた。
大丈夫です。
私がやります。
気にしないでください。
その言葉を口にするたび、周囲は安心した。
リーゼなら大丈夫。
リーゼに任せれば安心。
そして、彼女自身も、その言葉に少しずつ縛られていった。
手帳の端に、ペン先が触れる。
リーゼは、しばらく考えたあと、小さく書き込んだ。
『明日こそ、少し早く休む』
書き終えると、彼女は自分でおかしくなった。
休むことまで、予定に入れなければならないなんて。
でも、そうでもしなければ、きっとまた仕事をしてしまう。
リーゼは手帳を閉じ、鞄にしまった。
焚き火の向こうでは、仲間たちが楽しそうに話していた。
明日の冒険のこと。
好きな食べ物のこと。
王都に帰ったら何をするか、ということ。
その声を聞きながら、リーゼは静かに目を閉じた。
明日も、皆が無事でありますように。
明日も、皆が笑っていられますように。
そして、できることなら。
自分も、皆と一緒に笑っていられますように。
そんな願いを胸に抱きながら、リーゼは眠りについた。
彼女の手帳には、明日やるべき仕事が、まだいくつも残されていた。
そして、彼女が書き込んだ最後の一行。
『明日こそ、少し早く休む』
その小さな約束が、守られる日はまだ遠かった。




