02.頼み事は連鎖する
王都を出発してから、二時間が経過した。
街道の両脇には、朝露を残した草花が揺れている。遠くには青々とした山並みが見え、頭上では小鳥たちが気持ちよさそうに飛び回っていた。
絶好の冒険日和。
普通なら、そんな言葉が似合う朝だった。
「リーゼー! ちょっといいか!」
「はい、何でしょう?」
「悪い! この地図なんだが、昨日もらった写しと、斥候の報告書で森の小道の位置が微妙に違うんだ! どっちが正しいか見てもらえるか?」
「分かりました。今、確認しますね」
私は歩みを止め、背負っていた鞄から地図を取り出した。
今回の遠征には、百人近い冒険者が参加している。
前衛部隊、魔術部隊、斥候部隊、治療班、物資管理班。それぞれの専門家が集まった、黎明の翼らしい大規模な編成だった。
これほど大勢の人間が集まれば、当然、確認事項も増える。
地図の記載ミス。
装備の不具合。
食料の配分。
魔力回復薬の残量。
隊員同士の連携方法。
一つひとつは、決して難しいことではない。
けれど、小さな見落としが積み重なれば、やがて誰かが危険な目に遭う。
だから私は、できる限りのことをしておきたかった。
「……うん。こっちの地図が古いですね。この小道は、三か月前の大雨で崩れたという報告があります」
「本当か?」
「はい。斥候の方が確認してくださった地点とも一致しています。こちらの道を進む方が安全です」
「助かった! ありがとう!」
冒険者は笑顔で走り去っていった。
私は地図に小さく印をつけ、鞄へしまう。
よし。これで一つ、解決。
そう思った直後だった。
「リーゼさん!」
今度は魔術部隊の方から声が飛んできた。
「次の休憩地点で、魔力循環の確認をお願いしたいのですが!」
「はい、分かりました!」
さらに数歩進んだところで、後ろから別の声がする。
「リーゼ! 食料の分配について相談がある!」
「はい、今行きます!」
……あれ?
私、今、どこへ向かっていたんだっけ。
確か、セラさんに頼まれた装備の確認をするため、前衛部隊のところへ行こうとしていたはず。
その前に、ノアさんから魔術部隊の配置について相談されたような気もする。
そういえば、出発前に新人の冒険者さんが、野営地での魔物避けの方法を教えてほしいと言っていた。
私は足を止めた。
そして、鞄から小さな手帳を取り出す。
そこには、細かな文字がびっしりと書き込まれていた。
今日の遠征で確認すべき事項。
各部隊の支援内容。
隊員ごとの注意点。
装備の不具合。
食料の残量。
魔力回復薬の使用予定。
私は一つずつ項目を確認し、終わったものに印をつけていく。
まだ、半分にも届いていなかった。
「……よし」
小さく息を吐き、手帳を閉じる。
大丈夫。
まだ時間はある。
みんなが安全に冒険できるようにすることが、私の仕事なのだから。
◇
「リーゼさんって、いつもこんな感じなんですか?」
昼前の休憩時間。
水筒の水を飲んでいた私に、若い魔法使いが話しかけてきた。
名前はエミル。黎明の翼に加入して半年ほどの新人だ。
「こんな感じ、ですか?」
「はい。さっきからずっと、誰かに呼ばれてるじゃないですか。休憩中も仕事してますし……」
エミルは心配そうに私の手元を見た。
手帳は、すでに次の確認事項を記したページが開かれている。
「ああ、これですか?」
私は苦笑した。
「そんなに大したことじゃないですよ。みんなが困っていることを、少し手伝っているだけですから」
「でも、それってリーゼさんがやらなくてもいい仕事ですよね?」
「そうかもしれませんね」
「だったら、どうして……」
エミルは言葉を止めた。
たぶん、私の答えを待っているのだろう。
どうして、自分の仕事ではないことまで引き受けるのか。
どうして、休む時間を削ってまで他人の面倒を見るのか。
どうして、頼まれるたびに断らず、笑顔で引き受けてしまうのか。
私自身、それを真剣に考えたことはなかった。
考える必要がなかった、と言った方が正確かもしれない。
困っている人がいる。
自分には助けられるだけの力がある。
なら、助ければいい。
私にとっては、それが自然なことだった。
「うーん……」
私は少し考えてから答えた。
「誰かが困っているのを見て見ぬふりをする方が、私は落ち着かないんです」
「……それだけですか?」
「はい。それだけです」
エミルは不思議そうな顔をした。
納得していないのかもしれない。
けれど、私にとっては本当に、それ以上の理由はなかった。
少なくとも、そのときはそう思っていた。
「それに、私、こういう仕事は好きなんですよ」
私は手帳を軽く持ち上げた。
「みんなが安心して冒険できるように準備するのも、戦闘で力を発揮できるように支援するのも。自分が関わったことで、誰かが少しでも楽になれるなら、うれしいですから」
それは、嘘ではなかった。
誰かの役に立ちたい。
困っている人を助けたい。
自分の知識や経験を使って、大切な人たちの力になりたい。
そうした気持ちは、私の中に確かに存在していた。
ただ、ひとつだけ。
今になって思えば、私は知らなかったのだ。
誰かを助けることが好きだという気持ちと、誰かに頼られていなければ不安だという気持ちが、いつの間にか自分の中で混ざり合っていたことを。
誰かの役に立てたとき、私はうれしかった。
けれど、何も頼まれなかった日には、何となく落ち着かなかった。
誰かに「ありがとう」と言われると、胸の奥が温かくなった。
けれど、誰にも必要とされていない気がすると、自分がここにいる意味まで、少しだけ分からなくなった。
その二つは、よく似ていた。
少なくとも、当時の私には区別がつかなかった。
「……リーゼさんって、すごいですね」
エミルがぽつりとつぶやいた。
「そんなことないですよ」
「いや、すごいです。僕だったら、自分の仕事だけで精いっぱいです」
「エミルさんだって、魔法の勉強を頑張っているじゃないですか。昨日の訓練でも、詠唱がずいぶん安定していましたよ」
「えっ? あ、ありがとうございます!」
エミルの顔が、ぱっと明るくなった。
その表情を見ると、私までうれしくなる。
ああ、よかった。
少しでも、自信を持ってくれたなら。
私はそう思って、彼の肩を軽く叩いた。
「今回の遠征でも、期待していますね」
「はい! 頑張ります!」
エミルは元気よく返事をし、魔術部隊の仲間たちのところへ戻っていった。
その背中を見送っていると、今度は別の方向から声が聞こえた。
「リーゼ、悪い! ちょっと相談がある!」
「はーい!」
私は立ち上がった。
水筒の蓋を閉め、手帳を鞄にしまう。
結局、休憩時間はほとんど終わっていた。
けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
自分が動けば、誰かが助かる。
誰かが助かれば、みんなが前に進める。
そのことが、私は好きだった。
◇
午後二時。
森の入り口に到着した一行は、最初の野営予定地点で足を止めた。
ここから先は、魔物の出現頻度が高くなる。
斥候部隊が周囲の安全を確認し、前衛部隊が警戒態勢を整える。その間に、物資管理班が荷物を整理し、治療班が薬品の残量を確認する。
いつもなら、各部隊が自分たちの手順に従って準備を進めるはずだった。
「リーゼ! ちょっと来てくれ!」
セラの声が聞こえた。
「はい、今行きます!」
前衛部隊のところへ向かうと、セラが片手を上げた。
「悪いんだけど、剣の調子を見てくれないか? さっきから、どうも振り下ろしの最後で引っかかるんだ」
「分かりました。少し見せてください」
私は剣を受け取り、刃と柄の接合部分を確認した。
見たところ、大きな損傷はない。
けれど、柄に巻かれた革がわずかに緩んでいた。
「セラさん、握り方が少し変わっていませんか?」
「ん? そうか?」
「はい。右肩をかばう癖が残っているので、無意識に握る位置がずれているのかもしれません。あとで革を巻き直しましょう。応急処置なら、今すぐできますよ」
「助かる!」
私は道具袋から細い革紐を取り出し、柄の部分を整え始めた。
その間にも、セラは隊員たちに指示を出していた。
「おい、そこの二人! 警戒はいいが、荷物を通路に置くな! 治療班が通れなくなるだろ!」
「す、すみません!」
「謝る前に動け! ほら、こっちに寄せろ!」
元気な声が森に響く。
私は、そのやり取りを聞きながら、少しだけ笑った。
セラさんは、厳しい。
けれど、その厳しさには理由がある。
誰かが転べば危ない。
通路がふさがれば、負傷者を運べない。
たったそれだけのことが、命に関わる場合もある。
だからこそ、彼女は細かなことまで気にかけているのだ。
「よし。これで大丈夫です」
修繕を終えた剣を渡すと、セラは軽く振って具合を確かめた。
「おお、いい感じだ!」
「よかったです」
「……リーゼ」
「はい?」
セラは剣を鞘に戻しながら、私の顔をじっと見た。
「お前、本当に大丈夫か?」
心臓が、少しだけ跳ねた。
「え?」
「いや、朝からずっと動き回ってるだろ。飯は食ったか?」
「食べましたよ」
「何を?」
「パンを」
「それだけか?」
「……あと、干し果物も」
「おい!」
セラが大きな声を出した。
近くにいた隊員が、何事かとこちらを振り向く。
「それ、食事って言わないからな!?」
「えっ、でも、移動中でも食べられますし……」
「そういう問題じゃない!」
セラは頭を抱えた。
「お前は本当に……!」
「す、すみません」
「謝るな! 今からちゃんと食え!」
「でも、まだ物資の確認が……」
「私がやる!」
即答だった。
私は、思わず目を瞬かせた。
「え?」
「物資の確認くらい、私にもできる。あとはブリジットにも手伝ってもらう。だから、お前は食べろ」
「で、でも……」
「でも、じゃない!」
セラは私の肩をつかみ、近くの休憩用の丸太へと押し出した。
「座れ!」
「は、はい!」
私は思わず背筋を伸ばした。
セラさんは、満足そうにうなずく。
「よし。動くなよ」
そう言って、彼女は物資管理班の方へ歩いていった。
私は、取り残されたように丸太へ腰を下ろした。
手元には、さっきまで使っていた道具袋。
頭の中には、まだ確認していない項目がいくつも浮かんでいた。
魔術部隊の配置確認。
斥候からの報告。
夕食の食材。
明日の移動経路。
どれも、今すぐやらなければいけないわけではない。
分かっている。
分かっているのだけれど。
座っていると、落ち着かなかった。
自分だけが休んでいるような気がした。
みんなが忙しく動いているのに、私だけが何もしていない。
そんな感覚が、胸の中にじわじわと広がっていく。
どうしてだろう。
少し休むくらい、別に悪いことではないはずなのに。
私は膝の上で、両手を握った。
そのとき、目の前にパンと温かいスープが差し出された。
「はい。食べてください、リーゼさん」
顔を上げると、ミレーユが立っていた。
治療師の彼女は、少し困ったように笑っている。
「セラさんから頼まれました。ちゃんと食べるまで見張っていてほしいって」
「そんな……見張るだなんて」
「ふふっ。冗談です。でも、心配していましたよ」
私は差し出された食事を受け取った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。あ、スープは熱いので気をつけてくださいね」
ミレーユはそう言うと、別の隊員のところへ向かっていった。
私は、温かいスープを見下ろした。
湯気がゆっくりと立ち上っている。
香草の匂い。
野菜の甘い香り。
それから、身体の奥まで温めてくれそうな、優しい匂い。
……おいしそう。
そう思った瞬間、ようやく自分が空腹だったことに気づいた。
私はスープをひと口飲んだ。
温かさが、喉を通って胸の奥へと落ちていく。
「……おいしい」
思わず、声が漏れた。
いつもなら、私が皆の食事を準備する側だった。
誰が何を食べられるのか。
誰が疲れているのか。
どの食材を優先的に使うべきなのか。
そんなことを考えながら、食事の準備を手伝うことも多かった。
けれど、自分のために誰かが食事を用意してくれるというのは、思っていたよりも不思議な感覚だった。
何かをしてもらうことに、慣れていない。
それに気づいた私は、少しだけ苦笑した。
――私、何をそんなに慌てているんだろう。
少しくらい休んだって、みんなは大丈夫なのに。
そう思った。
けれど、その考えは、すぐに別の不安に押し流されてしまった。
もし、私が休んでいる間に問題が起きたら?
もし、私が確認しなかったせいで、誰かが危険な目に遭ったら?
もし、私がいなくても何も問題がないのだとしたら。
……私は、何をすればいいのだろう。
最後の考えが浮かんだ瞬間、私はスープを持つ手を止めた。
違う。
そんなことを考える必要はない。
私は、みんなの役に立つためだけにここにいるわけじゃない。
そう、分かっているはずだ。
それでも、胸の奥に生まれた小さな不安は、簡単には消えてくれなかった。
私は、残っていたスープをゆっくりと飲み干した。
◇
夕方。
野営地の準備が整い、冒険者たちは夕食を囲んでいた。
森の入り口に設けられた仮設の食事場は、いつも以上に賑やかだった。
「いやあ、今日は歩いたなあ!」
「明日はもっと奥に進むんだろ? 今のうちにしっかり食っておかないとな!」
「おい、その肉、俺の分も残しておけよ!」
「早い者勝ちだ!」
笑い声が絶えない。
私は食事をしながら、その光景を眺めていた。
みんなが笑っている。
みんなが元気で、明日の冒険を楽しみにしている。
それだけで、今日一日の疲れが少し報われたような気がした。
「リーゼ」
隣に座ったガイウスが、静かに声をかけてきた。
「はい?」
「今日は、ありがとう」
「え?」
「地図の修正も、物資の確認も、魔術部隊の調整も。いくつも助かった」
私は、少し照れくさくなった。
「いえ、必要なことをしただけですから」
「それでも、ありがとう」
ガイウスは、真剣な顔で言った。
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
私は、こういう瞬間が好きだった。
自分のしたことが、誰かの役に立ったと分かる瞬間。
誰かが、自分の努力に気づいてくれる瞬間。
「……どういたしまして」
私は笑った。
ガイウスも、わずかに表情を和らげた。
「ただし」
「はい?」
「明日からは、もう少し周囲に仕事を任せてくれ」
……あ。
せっかく温かくなった胸の奥が、わずかに縮こまった。
「私、そんなに……」
「今日一日、君が何度呼ばれたか、数えていたんだ」
ガイウスは落ち着いた声で続けた。
「君が優秀なのは知っている。だからこそ、皆が頼りにするのも分かる。だが、頼りにすることと、すべてを君に任せることは違う」
その言葉に、私は何も返せなかった。
ガイウスは、責めているわけではない。
私を心配してくれているのだ。
それは分かっていた。
分かっていたのに。
心のどこかで、私は少しだけ、寂しさを感じていた。
自分の仕事を減らすように言われることが。
誰かに任せるように言われることが。
自分がいなくても大丈夫だと、言われているような気がしてしまったから。
もちろん、ガイウスはそんなことを言っていない。
彼は私を信頼してくれている。
だからこそ、無理をしてほしくないのだろう。
それなのに、私は。
「……はい。気をつけます」
そう答えることしかできなかった。
ガイウスは、私の顔を見つめた。
何かを感じ取ったのかもしれない。
けれど、彼はそれ以上、何も言わなかった。
「明日は森の奥へ進む。今日は早めに休んでくれ」
「分かりました」
彼が立ち上がる。
私は、その背中を見送った。
明日は、今日よりも危険な場所へ進む。
なら、今日のうちにできることは、できるだけ済ませておかなければならない。
みんなが安心して眠れるように。
明日の戦闘で、誰も傷つかないように。
そう考えた私は、食事を終えると、そっと席を立った。
セラさんには、休むように言われている。
ガイウスにも、早めに休むように言われた。
でも、少しだけなら。
まだ時間はある。
みんなが寝る前に、確認しておきたいことがある。
私は鞄から手帳を取り出した。
そのページには、今日の確認事項が並んでいる。
終わった項目には、印がついていた。
けれど、まだいくつか残っている。
私はペンを握り、ひとつずつ確認を始めた。
あと少し。
これが終わったら、今度こそ休もう。
そう思いながら。
いつの間にか、星が瞬く夜空の下で、私はまた一人、仕事を始めていた。
その姿を、少し離れた場所から見つめている人がいることにも気づかずに。
ガイウスは、彼女の手元にある小さな手帳を見ていた。
そこには、百人近い遠征隊の情報が、細かな文字でびっしりと書き込まれている。
誰が何を得意としているのか。
誰がどこを苦手としているのか。
誰が疲れやすく、誰が無理をしてしまうのか。
それらを、リーゼはほとんど一人で把握していた。
「……本当に、どこまでやるつもりなんだ」
彼は、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
心配していなかったわけではない。
むしろ、彼は彼女の仕事ぶりを誰よりも評価していた。
だからこそ、任せてしまっていた。
リーゼなら大丈夫だと。
リーゼなら、何とかしてくれると。
その信頼が、彼女にどれほどの重さを背負わせているのか。
ガイウスは、まだ正確には理解できていなかった。
そして、リーゼ自身も。
自分がどこまで無理をしているのか、本当の意味では分かっていなかった。
森の奥では、風が木々を揺らしていた。
明日の冒険は、きっと今日よりも厳しいものになる。
それでもリーゼは、手帳を閉じることができなかった。
みんなが無事に帰ってこられるように。
誰も、困らないように。
その願いを胸に抱きながら、彼女はまた一つ、仕事を終わらせていく。
――頼み事は、終わらない。
そして、彼女はまだ知らない。
いつか自分が倒れたとき、仲間たちが初めて気づくことになるのだ。
彼女がどれほど多くの仕事をこなしていたか、ということだけではない。
彼女が一人で抱えていたものを、皆で分け合うことだってできたのだということを。




