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サポーターが皆のために働いていたら倒れたため、ギルドマニュアルが作成されました  作者: 和泉 きよ


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05.言葉にならない仕事

 翌朝、リーゼは目覚ましの音で目を覚ました。


 窓の外は、昨日よりも明るかった。


 森の木々の隙間から朝日が差し込み、野営地のあちこちで人が動き始めている。食事の準備をする者、装備を点検する者、今日の探索に備えて地図を広げる者。黎明の翼は、いつもと変わらない朝を迎えていた。


 けれど、リーゼには一つだけ、いつもと違うことがあった。


 目を覚ました瞬間、最初に思い浮かんだのが仕事ではなかったのだ。


 昨日の夜、ガイウスと話したこと。


 仕事を任せても、仲間は困らなかったこと。


 何もしない時間を過ごしても、自分の居場所がなくなったわけではなかったこと。


 それらが、眠りの底からゆっくりと浮かび上がってきた。


「……少しは、前に進めたのかしら」


 独り言をこぼし、リーゼはベッドから起き上がった。


 もちろん、一晩で何かが大きく変わったわけではない。


 仕事をしなくてもいいと、心の底から信じられるようになったわけではないし、誰かに頼ることへの抵抗が消えたわけでもない。


 ただ、昨日は休めた。


 それだけのことだ。


 けれど、それだけのことが、思っていたよりも嬉しかった。


 リーゼは身支度を整え、手帳を鞄にしまった。


 今日は、何もかもを先回りして確認するのではなく、必要なことを必要な人と共有しながら進めてみよう。


 昨日と同じように、少しずつ。


 その決意を胸に、部屋を出た。


     ◇


「リーゼ、ちょうどいいところに来た」


 朝食を終えたところで、ガイウスが地図を片手に近づいてきた。


「今日の探索について、少し相談したい」


「はい。何でしょうか?」


「昨日、エミルがまとめてくれた記録を見た。なかなかいい内容だったぞ」


「そうですね。私も、とても参考になると思いました」


「それで、一つ考えたことがある」


 ガイウスは地図を広げ、目的地の手前にある細い道を指で示した。


「今日から、各班で簡単な記録を取るようにしたい。戦闘の詳細まですべて残す必要はない。どの場所で、どんな問題が起きたのか。誰がどの役割を担い、何がうまくいったのか。それだけでも、次の行動を決める材料になる」


「いいと思います。特に、地形と戦闘の記録を一緒に残すと役に立ちそうです」


「やはりそうか」


 ガイウスは満足そうに頷いた。


「ただ、問題もある。記録を取ることに慣れていない者が多い。それに、何を記録すべきなのかも分からないだろう」


「確かに……」


「そこで、お前の知識を借りたい。どんな情報を残せば、後から役立つのか。リーゼの考えを聞かせてほしい」


 リーゼはすぐには答えなかった。


 自分の知識を共有すること。


 それ自体は、必要なことだと思う。


 ただ、具体的に何を伝えればいいのだろう。


 彼女にとって、戦闘中の支援は、ほとんど無意識に近い作業だった。


 誰かの足取りが乱れたら、姿勢を整えやすくする。


 魔術師の呼吸が浅くなったら、魔力の循環を補助する。


 前衛の動きが鈍くなったら、敵の攻撃の癖と疲労の具合を考え、必要に応じて支援を変える。


 いくつもの情報が頭の中で結びつき、考えるより先に身体が動く。


 なぜその支援を選んだのかと聞かれれば説明できる。


 しかし、それらを誰にでも使える手順として整理するとなると、話は違った。


「……考えてみます」


「急がなくていい。まずは、昨日の戦闘で気づいたことを整理するところからで構わない」


「はい」


 そう答えながら、リーゼは少しだけ戸惑っていた。


 自分の知識を人に伝える。


 その必要性は理解している。


 けれど、自分が何を知っていて、何を感覚的に判断しているのか。それを改めて考えたことは、ほとんどなかった。


 彼女は、自分がしていることを当たり前だと思っていた。


 仲間の状態を把握することも。


 次に起きる問題を予測することも。


 誰かが困る前に準備をしておくことも。


 自分にできるのだから、やればいい。


 それだけだった。


 だが、当たり前にできることほど、言葉にするのが難しい。


 それは、リーゼが初めて直面する問題だった。


     ◇


 探索は、順調に進んでいた。


 道幅の狭い山道を抜け、岩場を越え、しばらく進んだところで、一行は小さな開けた場所に到着した。


 地図では、その先に古い石造りの遺構がある。


 今回の探索の目的は、遺構の内部に魔物の巣が形成されていないかを確認し、さらに奥へ進むための安全な経路を見つけることだった。


「ここから先は、見通しが悪くなる。先行班は慎重に進め。異常を見つけたら、必ず後続に伝えること」


 ガイウスの指示を受け、斥候を中心とした先行班が出発した。


 リーゼは後方で、各班の状態を確認していた。


 昨日よりも、少しだけ意識して周囲を見る。


 自分が直接支援を加える必要があるのか。


 それとも、本人たちが対処できる範囲なのか。


 誰かに任せるべきことと、自分が介入すべきこと。その違いを考えてみる。


 簡単ではなかった。


 目の前に困っている人がいれば、助けたいと思う。


 危険が迫っていれば、すぐに動きたいと思う。


 その気持ちは、考えるよりも早く湧き上がってくる。


 だからこそ、リーゼは自分に問いかけた。


 今、助けることが本当に必要なのか。


 それとも、相手が自分で解決できる機会を奪ってしまうのか。


 けれど、その問いに夢中になりすぎるのも危険だった。


 支援を控えることが目的になってはいけない。


 必要な場面で動かないのは、ただの怠慢だ。


 大切なのは、自分の仕事を減らすことではなく、仲間全員が無理なく力を発揮できる状態をつくることなのだろう。


 その考えは、少しずつリーゼの中に根づき始めていた。


「リーゼさん!」


 前方から、エミルが戻ってきた。


「先行班から連絡です。遺構の手前に崩れた石橋があって、馬車は通れそうにありません。人が渡ることはできそうですが、足場が不安定みたいです」


「分かったわ。ガイウスさんに伝えてくれた?」


「はい。今、セラさんたちと確認に向かっています」


「ありがとう。私も――」


 そこまで言いかけて、リーゼは言葉を止めた。


 いつもの癖で、自分も現場に向かおうとしていた。


 状況を確認し、渡る順番を考え、危険な箇所を見極める。必要な支援を用意し、万が一に備えて別の経路を探す。


 おそらく、自分が行けば役に立つ。


 けれど、今はガイウスとセラが現場に向かっている。


 橋の状態を確認する仕事は、彼らに任せてもいいはずだった。


「……私は、後続の状態を確認しておくわ。エミルさん、橋の状況が分かったら教えてくれる?」


「はい!」


 そう答えたエミルは、すぐに前方へ走っていった。


 リーゼは後続の荷物と団員たちを確認した。


 負傷者はいない。疲労も想定の範囲内。水や食料に問題はなく、補給班も必要な物資を把握している。


 特に、今すぐ自分が手を出さなければならない問題はなかった。


 その事実に気づいて、リーゼは少しだけ不思議な気持ちになった。


 仕事がない。


 いや、正確には、仕事がないのではなく、自分が直接担当しなければならない仕事がない。


 それでも、手持ち無沙汰になると、心のどこかが落ち着かなかった。


 何かを見落としているのではないか。


 誰かが本当は困っているのに、気づいていないだけではないか。


 そう考えると、もう一度みんなの様子を見て回りたくなった。


 けれど、リーゼは立ち上がらなかった。


 今は、待ってみよう。


 必要な報告が届くまで、任せた仕事の結果を信じてみよう。


 自分が動かない時間にも、意味があるのだと考えてみよう。


 そう決めた。


     ◇


「橋は渡れそうだ。ただし、全員が一度に通るのは危険だな」


 しばらくして戻ってきたガイウスが、全体に説明した。


「先行班が反対側で安全を確保する。荷物は必要最低限に分け、前衛から順番に渡る。橋の中央付近は石が崩れやすいらしい。そこでは立ち止まらず、誘導役の指示に従ってくれ」


 セラが補足した。


「右側の縁は比較的安定している。だが、二人並んで歩くと端に負荷がかかる可能性がある。一人ずつ、十分に間隔を空けて渡ること」


 指示を聞いた団員たちは、それぞれの準備を始めた。


 リーゼも、渡る際の安全を確保するため、何か支援を加えるべきか考えていた。


 橋の幅は狭く、石材も古い。


 足元の安定を補助する魔法を全員にかける方法もある。ただし、対象が多いぶん魔力の消費が増える。効果を弱めれば消費は抑えられるが、支援としての意味も薄くなる。


 ならば、特に危険の大きい場所で個別に支援を加えるほうがいい。


 そう考えていると、ガイウスが声をかけてきた。


「リーゼ。橋を渡る者に支援をかける場合、どこを優先する?」


「足元の安定を補助する支援が有効だと思います。ただ、全員に同じ強さでかける必要はありません。荷物を持つ人と、盾を背負う人では重心の取り方が違いますし、普段の歩き方によっても効果が変わります」


「なるほど。では、優先順位は?」


「まずは重い荷物を運ぶ人。その次に、普段から足元の細かい動作が苦手な人。それから、疲労が強い人です。ただし、本人が自分でバランスを取れる場合は、過剰に支援しないほうがいいと思います。身体の感覚が普段と変わりすぎると、かえって歩きにくくなることがあるので」


 そこまで説明してから、リーゼははっとした。


「……すみません。少し細かすぎましたね」


「いや。助かる」


 ガイウスは真剣な顔で頷いた。


「今の話を、記録に残しておきたい。魔法の名前だけではなく、どういう状況で使うべきなのかも分かれば、ほかの支援役にも役立つはずだ」


「そうですね」


 リーゼは、思わず頷いた。


 魔法の名前や効果なら、魔術の基本書に載っている。


 しかし、どの状況で、誰に、どれだけの支援を使うべきか。


 それは、経験を積んだ人間ほど感覚的に判断している部分だった。


 同じ魔法でも、使う相手が違えば結果が変わる。


 同じ相手でも、疲労の程度や周囲の地形が違えば、適切な支援は変わる。


 正しい魔法を知っているだけでは足りない。


 いつ使うべきか。


 いつ使わないべきか。


 その判断を、他人にどう伝えるか。


 それが共有できれば、支援の質はもっと上がるかもしれない。


 そして、自分一人が常に判断し続ける必要もなくなる。


「分かりました。今日の記録に、支援の判断基準も書いてみます」


「助かる。ただし、無理はするなよ」


「はい」


 リーゼは笑顔で答えた。


 そのときは、本当に無理をするつもりなどなかった。


     ◇


 橋を渡り始めると、リーゼは少し離れた場所から全体の様子を見守った。


 先行班の誘導に従い、団員たちは慎重に橋を渡っていく。


 危険な箇所では、リーゼが必要な者にだけ支援を加えた。


 支援を受けた者が次の一歩を踏み出し、無事に渡りきる。


 ひとり、またひとりと、向こう岸へ移動していった。


 順調だった。


 リーゼが全員に支援をかけなくても、誘導役が適切に声をかけ、渡る者は自分の足で慎重に進んでいた。


 誰かが少しよろめいたときには、近くにいた仲間が手を貸した。


 荷物が重くて歩みが遅くなった者には、後ろから来た団員が荷物を一つ引き受けた。


 その光景を見ながら、リーゼは何度も胸の奥で同じ言葉を繰り返していた。


 大丈夫。


 みんな、自分で考えて動いている。


 だから、すべてを自分で解決しようとしなくてもいい。


 最後の団員が橋を渡りきったとき、ガイウスが満足そうに頷いた。


「よし。全員無事だな。少し休憩を取ってから、遺構の周囲を調べる」


 団員たちの間に安堵の声が広がった。


 リーゼも小さく息を吐いた。


 その瞬間、身体の奥に残っていた緊張がほどけた。


 自分が全部を見ていなくても、物事は進んだ。


 誰かが判断し、誰かが動き、誰かが足りない部分を補った。


 黎明の翼は、自分一人で動いているわけではない。


 その当たり前の事実を、今日も少しだけ実感できた。


 ただし、彼女が見落としていたことが一つあった。


 仕事を分担することと、仕事そのものが減ることは、同じではない。


 現場で自分がする仕事を減らしても、誰かに説明するための時間が必要になる。


 他の人が判断できるように、経験を整理する必要がある。


 記録を残し、手順を整え、間違いが起きたときに原因を確かめる仕組みも必要になる。


 それらは、これまで彼女が感覚的に行ってきたことを、別の形で表に出す作業だった。


 だから、リーゼはその日の夜も手帳を開いた。


     ◇


 夕食のあと、野営地の端に小さな机が置かれた。


 リーゼはそこに座り、今日の出来事を振り返っていた。


 手帳を開き、支援を使った場面を書き出す。


 足元の安定を補助する魔法。


 魔力循環を助ける魔法。


 敵の動きを鈍らせる魔法。


 一つひとつの名前を書くだけなら、難しくない。


 問題は、その次だった。


 ――どんな状況で使うべきか。


 ――どの程度の効果が必要か。


 ――どんな場合には使わないほうがいいか。


 書こうとすると、次々と例外が浮かんでくる。


 疲労が強い者には有効でも、集中力が落ちている者には、別の支援を先に使ったほうがいい場合がある。


 足場が悪い場所では、動きを速くするよりも、姿勢を安定させるほうがいい。


 魔術師の魔力が少ないときには、循環を補助しても、根本的な不足までは補えない。


 状況によって、判断を変えなければならないのだ。


「……思っていたより難しいわね」


 リーゼは額に指を当てた。


 感覚的には分かっている。


 しかし、それを文章にしようとすると、思考の曖昧さが浮き彫りになる。


 自分は、何を根拠にこの判断をしていたのだろう。


 過去の経験か。


 相手の表情か。


 歩き方か。


 呼吸の乱れか。


 あるいは、それらをすべて組み合わせた直感か。


 その一つひとつを言葉にしなければ、ほかの人が同じ判断をすることは難しい。


 リーゼは、少しずつ文章を書き加えていった。


 時刻が進む。


 焚き火の周囲にいた団員たちが、次第に自分のテントへ戻っていく。


 手帳の上には、細かな文字が増えていった。


 ようやく一つの項目を書き終えたところで、リーゼは肩を回した。


 身体が重かった。


 目の奥にも、わずかな疲れがある。


 今日は早めに休もう。


 そう思っていたのに、手帳にはまだ書ききれていない項目が残っていた。


 あと少しだけ。


 この支援について書いてしまえば、明日は楽になる。


 明日、誰かに聞かれても、すぐに説明できる。


 記録があれば、同じ判断を一から考えなくてもいい。


 それに、せっかく今日、みんなが自分で動ける場面を見られたのだ。その機会を無駄にしたくなかった。


 リーゼは再びペンを動かした。


 ――支援を行う前に、対象者の疲労度を確認する。


 ――周囲の地形と敵の位置を考慮する。


 ――本人が対応できる場合は、必要以上に能力を補助しない。


 書きながら、彼女はふと思った。


 これは、魔法の使い方だけをまとめた記録ではないのかもしれない。


 自分がこれまで、何を見て、何を考え、どう判断してきたのか。


 自分の中にある仕事の仕組みを、少しずつ外へ取り出しているのだ。


 もし、それができれば。


 自分がいなくても、仲間たちは必要な判断を下せるようになるかもしれない。


 そうなれば、もっと安心して休めるだろう。


 リーゼは、少しだけ嬉しくなった。


 この作業には意味がある。


 自分だけが知っていることを、みんなが知っていることに変えていく。


 自分だけができることを、みんなができることに変えていく。


 それは、ギルドにとって大切な仕事だった。


 だからこそ、途中でやめるのが難しかった。


 ひとつの項目を書き終えると、別の問題が見つかる。


 別の問題を考えると、それに関連する注意点も思い浮かぶ。


 それを書き留めると、さらに補足が必要になる。


 気づけば、手帳の余白は細かな文字で埋まっていた。


 そして、リーゼ自身がすっかり忘れていたことがあった。


 彼女は、何かを任せるために、この記録を作ろうとしていたのだ。


 自分一人で仕事を抱え込まなくても済むように。


 仲間たちが、自分で判断できるように。


 そのための記録だったはずなのに。


 いつの間にか、記録を完成させる仕事そのものを、また自分一人で抱え込んでいた。


     ◇


「リーゼ?」


 名前を呼ばれ、彼女は顔を上げた。


 ガイウスが立っていた。


「まだ起きていたのか」


「あ……はい。今日の支援内容を整理していたら、思ったより時間がかかってしまって」


「どれくらい前から書いている?」


「夕食のあとからです」


 ガイウスは机の上に目を落とした。


 そこには、何ページにもわたって書き込まれた記録があった。


 魔法の効果だけでなく、状況ごとの判断基準や注意点、個人差による調整方法まで細かくまとめられている。


 その内容は、彼が予想していたよりもずっと詳細だった。


「……これは、お前が全部書いたのか?」


「はい。まだ途中ですが」


「途中?」


「ええ。支援の種類ごとに整理して、誰でも使えるようにしようと思っているんです。魔法の名前や効果だけでは、実際に使うときに判断できないこともありますから」


 リーゼは、少しだけ誇らしい気持ちで説明した。


 これがあれば、みんながもっと動きやすくなる。


 そう考えると、疲れも忘れられる気がした。


 しかし、ガイウスの表情は、彼女が期待していたものとは少し違っていた。


「リーゼ」


「はい?」


「これは、いつまでに完成させるつもりだ?」


「いつまでに、というわけではありません。ただ、できるだけ早く形にしたいと思っています」


「なるほど」


 ガイウスはしばらく黙っていた。


 やがて、静かに椅子を引き、彼女の向かい側に座った。


「最初に言っておく。これは必要な仕事だ。お前がまとめてくれた記録は、今後の探索や訓練にも役立つだろう」


「ありがとうございます」


「だが、これを一人で完成させる必要はない」


 リーゼの笑顔が、わずかに揺れた。


「でも、私が一番よく分かっていますから」


「そうだな。お前が一番よく知っている部分は多いと思う」


 ガイウスは、彼女の言葉を否定しなかった。


「だからこそ、最初から最後まで一人で書こうとする必要はないんだ。判断の基準をお前が説明して、記録の整理はエミルに任せてもいい。魔法の効果に関する部分はノアに確認してもらえる。実際に支援を受ける側の感想は、前衛の連中から集められるはずだ」


「……あ」


「お前は、自分が知っていることを全部書き出そうとしている。だが、知識を共有することと、資料を一人で完成させることは違う」


 その言葉は、今日何度も考えたはずのことだった。


 けれど、目の前に置かれた手帳を見ると、急に自分のしていることが分からなくなった。


 誰かに任せるための記録。


 そのための作業を、誰にも任せていない。


 いや、任せられないと思っていたのだろう。


 自分が一番よく分かっているから。


 自分が書けば、正確にできるから。


 自分で最後まで仕上げたほうが、早いから。


 それは、これまでの仕事と同じだった。


 自分ができることを、自分で引き受ける。


 そうして、いつの間にか一人で抱え込む。


 リーゼは唇を結んだ。


「……また、同じことをしていましたね」


「そうだな」


 ガイウスは苦笑した。


「だが、気づけたなら、そこから変えていけばいい」


「私、分かっていたつもりだったんです」


「何を?」


「一人で仕事を抱え込むのは、よくないことだと。誰かに任せなければ、みんなが成長する機会もなくなるのだと」


 言葉を重ねるうちに、胸の内側に隠していたものが、少しずつ形になっていった。


「それなのに、自分が知っていることを説明しようとすると、全部伝えなければいけない気がして。間違ったことを教えたくないですし、誰かが困ることも避けたいですし……」


 彼女は、手帳を見つめた。


「そう考えていたら、結局、自分で全部やろうとしていました」


 ガイウスは静かに頷いた。


「お前は、手を抜きたくないんだろう」


「はい」


「自分が知っていることを、曖昧なまま渡すのも嫌なんだろうな」


「……はい」


「それは悪いことじゃない。責任感があるのも、丁寧に仕事をするのも、お前の長所だ」


 リーゼは顔を上げた。


「ただ、自分の長所を、自分を追い詰めるために使わなくてもいい」


 その言葉を聞いた瞬間、リーゼの胸の奥が静かに揺れた。


 自分の長所。


 誰かを気遣うこと。


 細かな変化に気づくこと。


 必要なことを先回りして考えること。


 どれも、自分が大切にしてきたものだった。


 だから、それらを減らすことが、まるで自分自身を否定することのように感じられたのかもしれない。


 もっと気を配らなければ。


 もっと正確にしなければ。


 もっと自分が頑張らなければ。


 そう思うたびに、自分の長所を、少しずつ自分の負担に変えていた。


 けれど、長所は本来、自分を苦しめるためにあるものではない。


 誰かを助けるために身につけた力なのに、そのせいで自分が倒れてしまったら。


 そのとき、いったい誰が助かるというのだろう。


「……私、少しずつ考え方を変えないといけませんね」


「少しずつでいい」


 ガイウスは、机の上の手帳を指で軽く叩いた。


「明日から、この記録を一緒に整理しよう。ノアとエミルにも声をかけておく。お前が説明して、みんなが質問する。そのやり方なら、必要な情報を残しながら、お前一人に仕事が集中するのを防げる」


「分かりました」


「それと、今夜はもう終わりだ」


「でも、まだ――」


「終わりだ」


 はっきりと言われ、リーゼは言葉を失った。


 ガイウスは穏やかな目で彼女を見ていた。


「明日も探索は続く。お前が疲れたままでは、今日の記録も役に立たなくなる。休むことも、仕事のうちだ」


 それは、何度も聞いた言葉だった。


 頭では理解している。


 それでも、こうして面と向かって言われると、胸の奥が少しだけ痛む。


 自分が休んでもいい。


 途中でやめてもいい。


 完成していないものを、明日に持ち越してもいい。


 そんな簡単なことが、どうしてこんなに難しいのだろう。


「……はい」


 リーゼは、今度こそ頷いた。


 ペンを置き、手帳を閉じる。


 まだ書ききれていない項目は残っていた。


 気になる点も、いくつもあった。


 それでも、彼女は手帳を鞄にしまった。


 明日、みんなと一緒に考えればいい。


 そう自分に言い聞かせて、椅子から立ち上がった。


     ◇


 自分の寝床へ戻る途中、リーゼはふと足を止めた。


 ガイウスは、先ほどの記録を見て何を思ったのだろう。


 呆れただろうか。


 自分が同じ失敗を繰り返していることに、失望しただろうか。


 そう考えた瞬間、胸の奥に小さな不安が浮かんだ。


 彼に、ちゃんと仕事ができる人間だと思われたい。


 みんなから、信頼される人間でありたい。


 その気持ちが、ないわけではなかった。


 役に立つことだけが自分の価値ではないと、少しずつ分かり始めている。


 それでも、誰かに認めてもらいたいという気持ちは残っている。


 大切な仲間たちに、自分の仕事を理解してほしい。


 自分がしてきたことを知ってほしい。


 そして、できれば、これからも必要としてほしい。


 そんな気持ちを抱く自分を、リーゼは否定したくなかった。


 誰かに必要とされたいと思うこと自体は、悪いことではないはずだ。


 ただ、そのために、どこまでも働き続ける必要はない。


 休んでいる自分を、価値のない人間だと思わなくてもいい。


 そうなれたら、どれほど楽だろう。


 リーゼはゆっくりと息を吐いた。


 今夜は、昨日よりも少し疲れていた。


 身体だけでなく、頭の中まで重い。


 それでも、以前のように自分を責める気持ちは、少しだけ薄れていた。


 今日は途中で終わらせることができた。


 未完成の仕事を、明日に持ち越すことができた。


 誰かに続きを任せると、決めることができた。


 それは、小さな一歩だった。


 けれど、リーゼにとっては、決して簡単な一歩ではなかった。


 彼女は寝床に入り、目を閉じた。


 眠りに落ちる直前、ふと考える。


 もし、黎明の翼の誰もが、自分の仕事を自分で判断できるようになったら。


 自分がいなくても、みんなが安全に探索を続けられるようになったら。


 そのとき、自分は何をすればいいのだろう。


 まだ、答えは見つからなかった。


 ただ、今日一つだけ分かったことがある。


 自分が誰かのために働くことと、誰かが働けるように支えることは、同じではない。


 前者は、自分が動くことで成り立つ。


 後者は、自分以外の誰かが動けるようになることで成り立つ。


 どちらも、誰かを大切にするための仕事だった。


 ならば、これからは後者も、少しずつ覚えていけばいい。


 そう思いながら、リーゼは眠りに落ちた。


 しかし、彼女はまだ知らなかった。


 誰かに仕事を任せる方法を覚えることと、自分が休んでもいいと心から信じられるようになることは、別の問題なのだということを。


 そして、その違いはやがて、彼女自身にも、黎明の翼にも、大きな問いを突きつけることになる。


 誰かを守るために働く人間を、いったい誰が守るのか。


 その問いへの答えを、彼らが知るのは、もう少し先のことだった。


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