第2章 敗北者
白い天井。
白い壁。
鉄の扉。
時計はない。
スマートフォンもない。
ニュースもない。
SNSもない。
留置施設の中で、
トシアキはただ座っていた。
外で何が起きているのか。
分からない。
自分の動画が、
どこまで広がったのか。
誰が自分を批判しているのか。
逆に、
誰か自分を支持している人間はいないのか。
確かめる手段がない。
それが。
何よりも苦しかった。
---
これまでトシアキは、
一人だと思ったことがなかった。
SNSを開けば、
必ず誰かがいた。
賛同する者。
怒る者。
罵倒する者。
議論をふっかけてくる者。
通知が鳴り続けている限り、
トシアキの中では、
世界と自分はつながっていた。
だが。
ここには。
何もない。
声を上げても、
壁に吸われる。
怒っても。
誰も反応しない。
トシアキはベッドに横になる。
天井を見る。
――今ごろ、外じゃ何て言われてる。
考えないようにする。
だが。
それしか考えることがなかった。
---
取調室。
刑事が書類をめくっている。
トシアキは向かいに座っていた。
「動画、相当広がってるよ」
トシアキの目が動く。
「どれくらいだ」
刑事は顔を上げる。
「気になる?」
「別に」
「そう」
また書類を見る。
「テレビも連日やってる」
沈黙。
「あなたの過去の投稿も掘られてる」
トシアキの拳がわずかに握られる。
「都合のいいところだけ切り取ってんだろ」
「それは俺に言われても知らないよ」
「向こうの挑発は?」
「動画に映ってる」
「じゃあ分かるだろ」
「何が?」
「俺だけが悪いわけじゃない」
刑事はしばらくトシアキを見る。
「口論したことと」
机の上の調書を指で叩く。
「顎の骨を折ったことは別だ」
トシアキは黙る。
「あいつが近づいてきた」
「それも映ってる」
「俺を挑発した」
「それも映ってる」
「だったら――」
刑事が遮る。
「でも」
一拍。
「一度突き飛ばしたあと、お前、止まってるよな」
トシアキの顔が固まる。
「……」
「数秒だけ」
「……」
「それから自分から近づいて、殴ってる」
トシアキは視線を外した。
刑事はそれ以上言わなかった。
それが逆に、
腹立たしかった。
---
数日後。
弁護士との接見。
透明な仕切り。
電話。
向こう側に、
疲れた表情の弁護士。
書類の束を机に置く。
「かなり厳しいです」
トシアキは眉をひそめる。
「何が」
「映像です」
「またそれか」
「かなり鮮明です」
弁護士は淡々としている。
「最初の口論については、双方かなり激しい言葉を交わしています」
トシアキは少し身を乗り出す。
「ほら見ろ」
「ですが」
弁護士は続ける。
「その後の暴行については、あなたに非常に不利です」
トシアキの顔が戻る。
「被害者は顎を骨折しています」
「分かってる」
「治療も長引いています」
「それも聞いた」
「社会的な反響も大きい」
「……」
「このまま争った場合、実刑判決の可能性を真剣に考える必要があります」
トシアキが笑った。
「脅してんのか?」
「説明しています」
弁護士は感情を変えない。
その態度も。
トシアキには気に入らなかった。
「それで?」
「示談を検討してください」
トシアキの笑みが消える。
「……何?」
「被害者側に謝罪する」
「誰に?」
「被害者本人です」
弁護士は少し間を置く。
「必要なら、関係団体との調整もこちらで行います」
トシアキが電話を握る手に力を込める。
「俺が」
低い声。
「あいつに頭を下げるのか?」
「そうです」
「俺が?」
「刑事事件では珍しいことではありません」
「ふざけるな」
「トシアキさん」
「向こうから喧嘩売ってきたんだぞ」
「それと暴行は別です」
また。
同じ言葉。
トシアキの顔が歪む。
弁護士は続けた。
「謝罪して、被害弁償を行って、示談が成立すれば」
一枚の書類を取り出す。
「裁判所に対して有利な事情として主張できます」
「不起訴になるのか?」
「現段階では、それを約束できる状況ではありません」
「じゃあ意味ないだろ」
「意味はあります」
弁護士はトシアキを見る。
「仮に有罪でも、執行猶予を求める余地は大きくなります」
沈黙。
その言葉だけは、
トシアキにも重かった。
刑務所へ行かずに済む。
外へ戻れる。
自宅へ。
スマートフォンへ。
SNSへ。
自分の生活へ。
ほんの一瞬。
心が揺れる。
「……謝罪文って」
トシアキが言う。
弁護士の表情がわずかに緩む。
「こちらで原案を――」
「違う」
トシアキは遮る。
「俺が何を書けばいい」
弁護士は答える。
「まず、暴力行為について明確に非を認めることです」
トシアキの表情が止まる。
「非を認める?」
「はい」
「向こうにも問題があったとは書けるよな」
「謝罪文では勧めません」
「挑発されたことは?」
「それを入れれば、責任転嫁と取られる可能性があります」
「……」
「あなたが自分の行為を反省していることを示す必要があります」
反省。
その言葉が。
トシアキには、
謝罪以上に屈辱だった。
「それを」
ゆっくり言う。
「奴らが読むのか?」
「当然、被害者側には渡ります」
「団体にも?」
「交渉の過程で共有される可能性はあります」
トシアキの頭の中に。
光景が浮かぶ。
あのクイーン。
そして。
その周囲にいた人間たち。
自分の謝罪文を読む。
俺が悪かった。
申し訳ありませんでした。
二度としません。
笑うかもしれない。
勝ったと思うかもしれない。
――あの男、折れたぞ。
そんな声が聞こえる気がした。
トシアキは歯を噛みしめる。
「嫌だ」
弁護士が止まる。
「……何です?」
「やらない」
「一度考えてください」
「考えた」
「まだ数秒ですが」
「十分だ」
弁護士は息を吐いた。
「意地で決める問題ではありません」
「意地じゃねえ」
トシアキは電話を強く握った。
「あいつらに俺の人生を決めさせるのか?」
「そういう話ではありません」
「同じだろ」
「違います」
「俺が頭を下げるかどうかで刑務所に行くか決まるんだろ?」
「裁判所が判断します」
「でも、あいつが示談するかどうかが影響する」
「影響はします」
「だったら同じだ」
トシアキの声が大きくなる。
「あいつが俺の人生を握ってるじゃねえか!」
弁護士は黙った。
トシアキの息が荒い。
そして。
もっと深い場所にある理由を。
自分でも分かっていた。
謝罪したら。
自分が間違っていたことになる。
あの日だけではない。
今までSNSに書いてきたこと。
拡声器で叫んできたこと。
自分を支えてきた言葉。
プロフィールに書いた、
あの一行。
「真実の男」
それが。
全部。
嘘になるような気がした。
「……俺は謝らない」
弁護士が尋ねる。
「それが最終的な意思ですか」
「ああ」
「示談をしなければ、実刑の可能性は高まります」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるって言ってんだろ」
弁護士はしばらく何も言わなかった。
そして。
書類を閉じた。
「では、その前提で弁護方針を考えます」
電話が切れる。
トシアキは椅子に座ったまま。
仕切りの向こうを見つめていた。
胸の奥。
恐怖があった。
だが。
その恐怖を認めることの方が、
もっと怖かった。
---
裁判が始まった。
検察側は映像を提出した。
巨大なモニター。
代々木公園。
二つの隊列。
口論。
クイーンが近づく。
トシアキが突き飛ばす。
映像が止まる。
法廷に、
自分の顔が大きく映っている。
検察官。
「被告人は、この時点で一度動きを止めています」
映像が進む。
クイーンが後ずさる。
トシアキが近づく。
拳。
悲鳴。
そして。
蹴り。
トシアキは、
画面を見なかった。
---
弁護士は、
挑発が存在したこと。
当初から暴行を計画していたわけではないこと。
その他の事情を主張した。
だが。
謝罪はない。
示談もない。
法廷で問われた。
「被害者に対し、現在どのように思っていますか」
トシアキは答えた。
「暴力を振るったこと自体は認める」
弁護士がわずかに顔を動かす。
トシアキは続ける。
「だが、事件には原因がある」
傍聴席がざわつく。
「あの日、向こうから俺に近づいてきた」
裁判長が静かに聞いている。
「言葉で挑発してきた」
「……」
「俺だけを一方的な加害者として扱うのは間違っている」
弁護士が目を閉じた。
トシアキは。
最後まで。
謝らなかった。
---
判決の日。
法廷。
傍聴席は埋まっていた。
トシアキは入廷すると。
すぐに気づいた。
いた。
あのクイーン。
顎の治療は終わったのか。
表情は見える。
その隣には、
あの日パレードにいた者たち。
トシアキは目を逸らさない。
向こうも。
こちらを見ていた。
裁判長が判決を読み上げる。
有罪。
そして。
実刑。
その言葉だけが。
妙に鮮明に聞こえた。
後は。
ほとんど頭に入らなかった。
理由。
量刑。
暴行の態様。
被害結果。
反省の程度。
示談が成立していないこと。
様々な言葉が続いている。
だが。
トシアキが見ていたのは。
傍聴席だった。
判決が告げられた瞬間。
小さなどよめき。
誰かが息を吐く。
安堵した表情。
そして法廷の外。
記者や支援者の前で。
団体の人間たちが喜びを隠さない。
トシアキには。
それが歓声のように聞こえた。
勝った。
あいつらの顔が、
そう言っている。
クイーンと目が合う。
ほんの一瞬。
クイーンは何も言わなかった。
笑いもしなかった。
ただ。
目を逸らした。
それが。
トシアキには。
何よりも屈辱だった。
「……ふざけんな」
刑務官が腕を取る。
「行きます」
「触るな」
「行きます」
トシアキは連れていかれる。
最後に。
傍聴席を見る。
――覚えてろ。
だが。
声には出さなかった。
---
刑務所。
朝。
起床。
整列。
食事。
作業。
休憩。
作業。
食事。
消灯。
翌日。
起床。
整列。
食事。
作業。
同じ。
その翌日も。
同じ。
SNSはない。
拡声器もない。
敵もいない。
味の薄い食事。
灰色の壁。
決められた時間。
決められた動作。
番号で呼ばれる。
トシアキが怒鳴っても。
何も変わらない。
「俺には名前がある」
職員。
「整列してください」
「聞いてんのか」
「整列してください」
それだけ。
---
夜。
洗面台。
金属製の鏡。
少し歪んだ自分の顔。
右頬には、
収監後の小さな揉め事でできた痣が残っている。
トシアキはそこに触れる。
痛い。
鏡を見る。
「……何やってんだ、俺」
初めて。
そんな言葉が出た。
すぐに。
顔を歪める。
「違う」
鏡に向かって言う。
「俺は間違ってない」
鏡は答えない。
「俺は……負けてない」
誰も答えない。
「俺は」
声が小さくなる。
「真実の男だ」
自分で言ってみる。
以前なら。
その言葉だけで。
自分を取り戻せた。
今は。
何も感じない。
トシアキは鏡から目を逸らした。
---
数週間後。
共有スペース。
新聞。
トシアキは。
ほとんど惰性でページをめくっていた。
社会面。
経済。
事件。
政治。
興味がない。
ページをめくる。
そのとき。
指が止まる。
小さな記事。
最初は。
何となく目に入っただけだった。
だが。
ある言葉が。
トシアキの視線を固定した。
《収容区分再審査制度》
読む。
本人の性別認識。
医療的評価。
安全上の事情。
複数の要素を審査した上で、
従来の戸籍上の区分とは異なる施設への収容も検討する。
トシアキは鼻で笑った。
「……くだらねえ」
新聞を閉じる。
机に置く。
数秒。
沈黙。
もう一度。
新聞を取る。
記事を読む。
今度は。
最初から。
一文字ずつ。
読む。
本人の性別認識。
収容区分。
女性施設。
トシアキの目が止まる。
何かが。
頭の中で。
つながった。
あの法廷。
傍聴席。
クイーン。
団体の人間たち。
勝ち誇っているように見えた顔。
そして。
新聞の記事。
トシアキは。
ゆっくりと椅子にもたれた。
先ほどまで。
死んでいた目に。
光が戻ってくる。
「……待てよ」
記事をもう一度読む。
口元が。
ほんの少し。
上がる。
「そうか」
心臓が。
久しぶりに強く鳴った。
「それがあるのか」
周囲の囚人が。
ちらりとトシアキを見る。
だが。
もうトシアキには。
何も見えていなかった。
頭の中にいるのは。
刑務所でも。
弁護士でも。
裁判官でもない。
あの連中だった。
トシアキは新聞の記事を見ながら。
静かに笑った。
「……まだ終わってねえ」
最後のコマ。
新聞記事を握る。
トシアキの目。
代々木公園で見せていた、
あの目が。
戻っている。
「お前らが作ったルールで」
小さく。
笑う。
「今度は俺が勝ってやる」




