第1章 真実の男
暗闇。
白い光だけが、男の顔を照らしている。
スマートフォン。
SNSのプロフィール画面。
名前は――
トシアキ
三十三歳。
プロフィール欄に書かれている言葉は、一行だけだった。
「真実の男」
それ以外には何もない。
所属。
職業。
趣味。
経歴。
そんなものを、トシアキは必要としていなかった。
画面を指で滑らせる。
ニュース。
論争。
炎上。
誰かの怒り。
誰かの謝罪。
誰かの反論。
そして。
数日後に迫ったプライドパレードの告知。
トシアキの指が止まる。
しばらく眺めてから。
鼻で笑う。
---
世の中には、
嘘が多すぎる。
いや。
嘘そのものなら、まだいい。
本当に気持ち悪いのは、
嘘を嘘だと知りながら、
みんなで「真実」ということにすることだ。
誰かが傷つく。
差別になる。
時代遅れだ。
配慮しろ。
理解しろ。
認めろ。
そうやって、
言葉を一つずつ塞いでいく。
最後には、
誰も本当のことを言えなくなる。
だったら。
俺が言えばいい。
嫌われてもいい。
叩かれてもいい。
一人でも構わない。
真実は、
多数決じゃない。
---
トシアキはSNSの投稿画面を開く。
文章を打つ。
《今年も代々木で例の“奇祭”があるらしい》
少し考える。
さらに続ける。
《なら、こっちも堂々と声を上げよう》
《黙って道を譲る必要はない》
《有志募集》
《同日・同時刻。俺たちも歩く》
投稿。
数秒。
通知がつく。
一件。
三件。
十件。
二十件。
賛同。
批判。
罵倒。
冷笑。
トシアキは画面を眺める。
口元が上がる。
「……そうだよ」
小さく呟く。
「怒れよ」
通知がさらに増えていく。
「その方が、分かりやすい」
---
数日後
代々木公園。
晴天。
大勢の人間。
色鮮やかな旗。
音楽。
衣装。
笑顔。
プライドパレードの参加者たちが集まっている。
その少し離れた場所。
別の集団。
十数人。
地味な服装。
日の丸。
手製のプラカード。
拡声器。
中央にいるのはトシアキ。
黒いシャツ。
太い腕。
厚い胸板。
拡声器を肩に担いでいる。
彼の周りには、
SNSを通じて集まった者たちがいる。
互いに本名すら知らない者も多い。
「トシアキさん」
一人が尋ねる。
「本当に向こうと同じルート近くを行くんですか」
「許可された範囲でな」
「揉めません?」
トシアキは笑った。
「揉めたら困ることでもあるのか?」
「いや……」
「俺たちは歩くだけだ」
拡声器のスイッチを入れる。
「向こうが自由に言いたいことを言うなら」
一瞬。
プライド側の隊列を見る。
「俺たちにも同じ権利がある」
---
プライドパレードが動き始める。
音楽。
拍手。
歓声。
少し離れて。
カウンター側も動き出す。
二つの流れ。
同じ街。
違う言葉。
プライド側から声が上がる。
「誰もが自分らしく生きられる社会を!」
拍手。
カウンター側。
トシアキが拡声器を構える。
「子供たちに歪んだ価値観を押し付けるな!」
向こうから声。
「差別をやめろ!」
こちらから。
「思想の押し付けをやめろ!」
「多様性を認めろ!」
「異論を封じるな!」
最初は。
互いに決められた文句を、
互いの隊列に向けて繰り返しているだけだった。
だが。
距離が近づく。
声が大きくなる。
相手の言葉が聞こえる。
聞こえれば。
言い返したくなる。
「差別主義者!」
プライド側から誰かが叫ぶ。
カウンター側の一人が怒鳴り返す。
「変態!」
係員が振り返る。
「挑発には乗らないでください!」
だが。
拡声器同士の声が、
さらに大きくなっていく。
「私たちはここにいる!」
「だから何だ!」
「存在を否定するな!」
「誰も存在なんか否定してねえ!」
トシアキが割り込む。
「問題は、お前らが社会に認めろと強制してることだ!」
向こうから拡声器。
「権利を求めることの何が悪い!」
トシアキ。
「権利じゃない!」
声を張り上げる。
「欲望を権利と言い換えてるだけだ!」
一気に野次が飛ぶ。
「最低!」
「黙れ!」
「帰れ!」
トシアキの周囲からも声が上がる。
「言論弾圧だ!」
「都合の悪い意見を消すな!」
二つの隊列は、
もはやパレードというより、
巨大な口論になりつつあった。
警備スタッフが双方の間隔を広げようとする。
それでも。
言葉は届く。
拡声器は届く。
視線は届く。
トシアキは高揚していた。
これだ。
と思った。
――ちゃんと効いている。
――俺たちの声を、無視できていない。
彼にとって、
向こうが怒れば怒るほど、
自分の言葉が真実に近づいているように思えた。
「真実から逃げるな!」
トシアキが叫ぶ。
「都合の悪い現実を、差別という言葉で消すな!」
そのとき。
プライド側の隊列から、
一人が飛び出した。
派手なドレス。
高いヒール。
大きなイヤリング。
鮮やかなメイク。
ドラァグクイーンだった。
スタッフが止めようとする。
「戻ってください!」
クイーンは振り切る。
トシアキの真正面へ歩いてくる。
「あなた」
トシアキが拡声器を下ろす。
「なんだ」
「さっきから好き勝手言ってるけど」
クイーンが睨む。
「大きな声を出せば正しくなると思ってるの?」
周囲がざわつく。
スマートフォンが向けられる。
トシアキは笑った。
「じゃあお前は」
上から下まで見る。
「そんな格好すれば正しくなると思ってるのか?」
「少なくとも」
クイーンも退かない。
「誰かを怒鳴りつけて、自分を大きく見せたりはしないわ」
周囲から笑い声。
トシアキの眉が動く。
「言うじゃねえか」
「あなたこそ」
クイーンが一歩近づく。
「“真実”“真実”って」
もう一歩。
「そんなに自信があるなら」
トシアキの目の前。
「もっと近くで言いなさいよ」
トシアキは引かない。
二人の距離がなくなる。
胸と胸が触れそうになる。
「俺が怯むと思ったか?」
「怯えてるのはあなたでしょう?」
「……何?」
「だから怒鳴るのよ」
クイーンがトシアキの胸元を指差す。
「自分より弱そうな相手を探して」
「黙れ」
「大声で脅して」
「黙れって言ってる」
「自分が男だって確認してるだけ」
一瞬。
トシアキの表情が消える。
「……もう一度言ってみろ」
クイーンは目を逸らさない。
「虚勢を張ってるだけだって言ったの」
トシアキの手が出た。
考えたわけではなかった。
両手でクイーンの胸元を突く。
「うるせえ!」
ドンッ。
クイーンの身体が後ろへ飛ぶ。
ヒールがもつれる。
地面へ倒れる。
悲鳴。
その瞬間。
トシアキの頭が冷えた。
自分の両手を見る。
――まずい。
心臓が跳ねる。
――やっちまった。
周囲。
何台ものスマートフォン。
警備員。
警察。
見られている。
まだ殴ってはいない。
押しただけ。
ここで終われば。
まだ。
そう思った。
一歩。
トシアキの足が後ろへ動きかける。
そのときだった。
倒れたクイーンと目が合う。
さっきまで。
あれほど堂々としていた。
笑っていた。
挑発していた。
トシアキを臆病者扱いしていた。
その人間が。
今は。
明らかに怯えていた。
目を見開いている。
肩をすくめている。
片手を地面について、
少しずつ後ろへ下がっている。
「来ないで」
声が震えている。
「……」
「誰か……」
その姿を見た瞬間。
トシアキの中に浮かんだ感情は。
罪悪感ではなかった。
嫌悪だった。
――なんだよ。
トシアキは思う。
――なんだ、その姿は。
ついさっきまで。
あれだけ偉そうに。
俺に説教していた。
俺を馬鹿にしていた。
男がどうとか。
虚勢だとか。
好き勝手言っていた。
なのに。
少し押されただけで。
怯えている。
声を震わせている。
逃げようとしている。
トシアキの中では、
クイーンもまた「男」という尺度に押し込められていた。
――男なら立てよ。
――睨み返せよ。
――さっきまでの威勢はどうした。
そして。
もう一つ。
もっと認めたくない感情があった。
クイーンの怯えた目。
その目が。
自分を映している。
暴力を振るった男として。
危険な人間として。
「……なんだよ」
トシアキが呟く。
クイーンの身体がこわばる。
「その顔」
「……」
「なんなんだよ、その顔は」
トシアキが一歩進む。
クイーンが後ずさる。
「来ないで」
その言葉で。
トシアキの中の何かが切れた。
「さっきまで偉そうにしてただろうが!」
拳が飛ぶ。
頬に入る。
クイーンが横倒しになる。
悲鳴。
「やめろ!」
誰かが叫ぶ。
クイーンは顔を庇う。
派手だったメイクが崩れている。
涙。
恐怖。
身体を小さく丸める。
その姿を見るほど。
トシアキは怒った。
本当なら。
その恐怖は。
自分が作ったものだった。
だが。
それを認める代わりに。
トシアキは、
その恐怖そのものを憎んだ。
「立てよ」
クイーンは動かない。
「立てって言ってんだよ!」
「やめて……」
弱々しい声。
完全に。
引き金になった。
「ふざけるな!」
トシアキが脚を振り上げる。
重いブーツ。
つま先が、
クイーンの顎を捉える。
鈍い音。
身体が崩れる。
その瞬間。
周囲の声が消えた。
ほんの一瞬だけ。
完全な静寂。
トシアキは、
荒い息を吐いていた。
倒れたクイーンを見る。
動かない。
周囲の人間を見る。
誰も。
さっきまでの口論を続けていない。
ただ。
トシアキを見ている。
トシアキの拳が震える。
「……調子に乗るな」
誰に言っているのか。
自分でも分からない。
「これが」
息を吸う。
「秩序を乱した代償だ」
だが。
トシアキ自身だけは知っていた。
最初に突き飛ばした瞬間。
自分は。
やめようと思った。
まだ戻れた。
それでも。
戻らなかった。
---
その夜。
映像はSNSを埋め尽くした。
最初の口論。
二つの団体。
互いの拡声器。
クイーンが近づいていくところ。
トシアキが突き飛ばすところ。
そして。
ほんの一瞬。
トシアキが立ち止まるところ。
そこから。
自分から再び近づき。
殴り。
蹴るところまで。
全部。
映っていた。
《代々木公園で傷害事件》
《パレード参加者が重傷》
《カウンターデモ参加者の男を逮捕へ》
トシアキのSNSにも、
何万件もの通知が届く。
プロフィール。
トシアキ
「真実の男」
コメント欄。
《どこが真実の男だ》
《ただの暴力だろ》
《弱い相手を殴っただけ》
《卑怯者》
《犯罪者》
自宅。
トシアキは、
画面を睨んでいる。
「……違う」
誰もいない。
「向こうから来たんだ」
画面を見る。
「向こうが挑発した」
動画では。
クイーンが近づいている。
確かに。
言い争っている。
確かに。
挑発もしている。
トシアキはそこだけを見る。
「ほら」
呟く。
「俺だけじゃねえだろ」
だが。
動画は続く。
突き飛ばしたあと。
立ち止まる自分。
怯えるクイーン。
そこから。
自分から近づいていく自分。
トシアキは動画を止める。
「……」
再生しない。
自分でも。
その続きを見たくなかった。
「あいつが」
声が小さくなる。
「あんな顔するから……」
そこで。
言葉が止まった。
その理由だけは。
誰にも説明できない。
自分自身にも。
説明できなかった。
---
夕方。
自宅前。
パトカー。
警察官。
手錠。
報道陣のフラッシュ。
トシアキは顔を上げる。
「好きにしろ」
カメラに向かって吐き捨てる。
「俺だけを悪者にしたけりゃ、そうすればいい」
護送車へ押し込まれる。
扉が閉まる。
暗闇。
初めて。
音が消えた。
---
拘置施設。
鉄格子。
数人の男たちが、
新しく入ってきたトシアキを見る。
事件を知っている者もいる。
知らない者もいる。
だが。
誰も声をかけない。
トシアキが睨む。
「なんだよ」
返事はない。
一人。
目を逸らす。
もう一人。
興味を失う。
それだけ。
トシアキの胸の奥に、
妙な違和感が生まれる。
外では。
彼が一言書けば。
誰かが怒った。
誰かが反論した。
誰かが罵倒した。
拡声器を握れば。
向こうも拡声器を向けた。
トシアキには。
それが戦いだった。
そして。
戦っている限り。
自分は重要な人間だった。
だが。
ここでは。
誰も。
彼の「真実」を聞こうとしない。
誰も。
彼と戦おうともしない。
鉄格子の向こう。
トシアキは、
初めて。
自分の言葉が、
何も動かさない場所に立っていた。
暗転。
最後のコマ。
取り上げられたスマートフォン。
消えた画面の中に、
最後に一瞬だけ残っていたプロフィール。
「真実の男」




