第9話 便利な女ではなく、一人の技師として
正式採用が決まった軍用魔導灯の量産準備が始まると、研究院の空気は目に見えて忙しくなった。
素材の分類基準を文書化し、工房ごとの加工精度を確認し、誰が組み立てても一定の性能になるよう工程を細かく分けていく。エレナが以前の工房で一人きりで行っていた「見て、測って、微調整する」という作業も、今では複数の技師が再現できる形へ少しずつ整理されていた。
「この青晶石は第二分類です。ただ、端の結晶方向だけ少し違うので、ここを使う場合は回路幅を〇・三だけ広げてください」
エレナが加工前の素材を示すと、リナは記録表へ数字を書き込みながら眉を寄せた。
「エレナさん。〇・三という数字は分かりましたけど、どうしてそこが違うと分かるんです?」
「光へ向けると、筋の見え方が少し変わります」
「……私には全部同じに見えます」
「最初は私もそうでした」
「どのくらいで分かるようになりました?」
「三年くらいです」
リナの手が止まった。
「それを最初に言ってください」
「でも、慣れれば早いです」
「三年かかるものを『慣れれば』で片づけないでください」
隣で聞いていたハロルドが笑った。
「だから今、それを測定値へ落とし込んでいるんでしょう。エレナさんの目を全員へ移植するわけにはいきませんからね」
「目だけならまだしも、指先の感覚まで必要です」
「余計に無理です」
そんなやり取りが、今ではごく普通になっていた。
研究院へ来た初日には、エレナを見る目に警戒や疑いが混じっていた者も少なくなかった。しかし軍用魔導灯を一緒に作り上げてからは、仕事について遠慮なく意見を交わせる相手が増えている。
それが思っていた以上に楽しい。
自分の意見が採用されることもあれば、別の技師に否定されることもある。けれど、否定されるのはエレナ自身ではなく、その場に出した案だ。
その違いを理解するまで、少し時間がかかった。
「エレナさん、この分類法なんですが」
若い測定技師が一枚の紙を持ってきた。
「第三分類と第四分類の境界を、魔力抵抗値だけで決めていいでしょうか? 熱伝導率も入れたほうが、量産したときのばらつきが減る気がします」
エレナは紙を受け取り、しばらく数値を見る。
最初に思ったのは、自分の方式のほうが簡単だということだった。
けれど、その言葉を口にする前に計算する。
「……そうですね。そちらのほうがいいと思います」
「本当ですか?」
「はい。工程は一つ増えますけれど、完成後の調整を減らせます。こちらへ変えましょう」
「分かりました」
技師が嬉しそうに戻っていく。
エレナはその背中を見送りながら、少しだけ可笑しくなった。
以前なら、自分が何日も考えた方法を別の人間に変えられると、落ち着かなかったかもしれない。
自分が不要になるような気がしたからだ。
今は、より良くなるならそれでいいと思える。
それは自信がついたからなのか、それとも周囲を信用できるようになったからなのか、まだ自分でもよく分からなかった。
「随分と余裕が出ましたね」
不意にハロルドが言った。
「そう見えますか?」
「最初は何でも自分でやろうとしていたでしょう。測定まで助手から取り上げそうな勢いでした」
「取り上げてはいません」
「顔には書いてありましたよ。『自分でやったほうが早い』と」
否定しようとして、できなかった。
「……少しだけ思いました」
「でしょうね」
「でも、本当に自分でやったほうが早いこともあります」
「一回だけなら」
ハロルドは分類表を指で軽く叩いた。
「百個、千個作るなら違います。あなた一人で全部を抱えるやり方では、いずれ限界が来る」
「分かっています」
「本当に?」
「最近は、少し」
その返事に、ハロルドは満足そうに頷いた。
「それなら十分です」
昼過ぎ。
エレナが自分の工房へ戻ると、机の上に見覚えのない封筒が置かれていた。
差出人は研究院長のオルディス。
「呼び出しでしょうか」
封を開けてみると、短い文章で午後三時に院長室へ来てほしいと書かれている。
要件はない。
嫌な予感がした。
「リナさん」
「はい?」
「私、何か問題を起こしました?」
「急にどうしたんですか」
「院長室へ呼ばれました」
「それだけで?」
「理由が書いてありません」
「でしたら、まず行ってから心配したらどうです?」
「そうなのですが……」
これまでの人生で、「話がある」と呼ばれて良いことが起きた記憶があまりない。
ガイウスから婚約破棄を告げられた夜も、最初は似たようなものだった。
そんな自分の反応に気づき、エレナは少し嫌になった。
ここは違う。
頭では分かっている。
それでも体のどこかには、まだ古い習慣が残っているらしい。
「行ってきます」
「はい。もし解雇だったら、理由を聞いてきてくださいね」
「縁起でもないことを言わないでください」
笑って返せたことで、少し気が楽になった。
院長室へ入ると、オルディスだけではなかった。
ミレイアがいる。
さらに、窓際にはクロムウェルまで立っていた。
エレナは扉を閉めたところで動きを止めた。
「……やはり私、何かしました?」
オルディスが目を瞬く。
「なぜそうなるのです?」
「院長、ミレイア様、陛下まで揃っているので」
「褒賞を与える相手へ、処罰のような顔をするのはやめろ」
クロムウェルが言った。
「褒賞?」
「まず座ってください」
オルディスに促され、エレナは少し警戒しながら椅子へ腰を下ろした。
机の上には、一枚の正式な文書が置かれている。
「軍用魔導灯の正式採用に加え、量産規格の確立まで進みました。それに伴い、あなたの仮採用期間を予定より早く終了したいというのが、研究院側の判断です」
「仮採用を?」
「はい」
エレナは文書へ目を向けた。
首になる話ではないと分かり、まず胸を撫で下ろす。
「その上で、正式な役職をお願いしたいと思っています」
「役職?」
「国立魔導研究院、精密魔導核研究室主任」
今度こそ、エレナは固まった。
「……主任?」
「はい」
「私が?」
「ほかにエレナ・ヴァリエさんはいませんので」
オルディスが穏やかに答える。
「待ってください。私は研究院へ来たばかりです」
「承知しています」
「もっと長く勤めている方が大勢いらっしゃいます」
「それも承知しています」
「でしたら――」
「勤務年数で技術職の役職を決めるつもりはありません」
クロムウェルが言葉を挟んだ。
エレナはそちらを見る。
「ですが、陛下が私を連れてきたから昇進したと思われるのではありませんか?」
「思う人間はいるだろうな」
否定しない。
エレナはますます困った。
「それでは駄目では?」
「なぜだ」
「私自身が嫌です」
思わず声が強くなった。
部屋が少し静かになる。
エレナは膝の上で指を組み、言葉を選んだ。
「私は、陛下が声をかけてくださったからこの国へ来られました。それは感謝しています。でも、その後まで陛下の力で上へ行くのは嫌なんです。そんなことをしたら、結局また自分の技術ではなく、誰かとの関係で名前が出ることになります」
ガイウスの婚約者だった頃。
工房でエレナを知る人間の多くは、まず「ガイウスの婚約者」として彼女を見た。
今度は「皇帝に気に入られた技師」として見られる。
それでは、形が変わっただけではないか。
「私は、自分がやった仕事で評価されたいです」
言い切ると、クロムウェルはすぐには答えなかった。
怒らせただろうか。
そんな心配が頭をよぎったが、彼の表情に不快そうな色はない。
むしろ、どこか納得しているように見えた。
「そのために、今日は私一人で決めていない」
「え?」
クロムウェルがオルディスへ目を向ける。
院長は机の引き出しから、さらに厚い書類の束を取り出した。
「こちらを」
エレナは受け取った。
一枚目。
研究院内の評価票だった。
軍用開発室主任、ハロルド。
『精密魔力路設計の能力は現研究院内でも最上位。加えて、個人技術を規格化して他者へ共有する能力が確認された。共同研究において他者の提案を受け入れる柔軟性もあり、研究室主任として問題なし』
二枚目。
ミレイア。
『当初は一人で業務を抱え込む傾向が強かったが改善中。助手への指示も適切。ただし本人に休息を軽視する癖があるため、管理職就任後は本人自身の勤務時間管理も必要』
「最後の一文、要りますか?」
思わず顔を上げると、ミレイアは涼しい顔をしていた。
「必要です」
「役職の適性と関係ない気がします」
「大ありです。主任が徹夜を始めたら、下の人間まで帰れなくなるでしょう?」
それを言われると反論できない。
三枚目。
助手たちからの評価。
四枚目。
研究院長。
さらに、軍兵站局からの意見書まで付いている。
「これは……」
「あなたを主任へ推薦したのは、私ではありません」
クロムウェルが言った。
「研究院だ」
オルディスも頷く。
「陛下には最終承認をお願いしましたが、候補者選定は研究院側で行いました。もちろん反対意見もありましたよ。経験年数が短すぎるという意見、外国出身者へ主任職を与えるのは慎重にすべきだという意見もありました」
「反対されたんですね」
なぜか少し安心した。
オルディスが笑う。
「その顔は何です?」
「いえ。全員が賛成したと言われるより信用できます」
「私もそう思います」
院長は苦笑した。
「ですが最終的には、あなたに精密魔導核分野の研究をまとめてもらうのが最善だという結論になりました。特に、今回の軍用魔導灯で行った『職人の感覚を再現可能な規格へ変える』研究を、研究院として正式な分野にしたいのです」
エレナはもう一度、評価票を見る。
自分が知らないところで、自分の仕事を見ていた人たちがいる。
良いところだけではない。
悪いところも書いてある。
その上で、任せたいと言われている。
「私……人をまとめた経験はありません」
「最初から完璧な主任はいません」
ミレイアが答える。
「研究室といっても、最初はあなたと助手二人、それに希望する若手技師が数人です。困ったら私やハロルドへ相談してください」
「失敗したら?」
「主任を一度失敗したくらいで帝国は滅びません」
クロムウェルが言った。
エレナは思わず笑ってしまった。
「陛下はいつも規模が大きいですね」
「小さく言えば不安になるだろう」
「確かに、少し楽になりました」
もう一度文書を見る。
精密魔導核研究室主任。
その文字は、先日初めて自分の名前が刻まれた銘板よりも重く見えた。
「一つ、条件があります」
エレナは顔を上げた。
「聞こう」
「私が主任になっても、役職だけで意見を通すようなことはしたくありません。技術的に間違っていれば、助手でも新人でも指摘できる研究室にしたいです」
オルディスが頷いた。
「研究院としても望ましい方針です」
「それから、研究室の成果は、実際に関わった人全員の名前を残したいです」
「当然です」
「あと――」
クロムウェルが僅かに眉を上げた。
「まだあるのか」
「大事なことです」
「言ってみろ」
「研究に失敗した人を、材料を無駄にしたという理由だけで責めないでください」
自分でも、どこから出た言葉なのか分かっていた。
以前の自分へ向けて言っている部分もある。
「もちろん、無計画に材料を使うのは駄目です。でも、必要な試作で失敗したなら、その結果も研究記録として残したいです。同じ失敗を次の人が繰り返さなければ、それは完全な無駄ではないと思うので」
クロムウェルは、ほんの少し目を細めた。
「認める」
「そんなに簡単に?」
「合理的だからな」
「やっぱりそこなんですね」
「ほかに理由が必要か?」
エレナは首を振った。
「いいえ。それで十分です」
書類の最後には、署名欄があった。
まだ少し怖い。
自分にできるのだろうか。
人へ教えること。
研究の方向を決めること。
失敗した誰かへ、かつて自分が欲しかった言葉をきちんとかけること。
技術があることと、人の上に立てることは同じではない。
それでも、やってみたい気持ちのほうが少しだけ勝った。
「お受けします」
ペンを取り、エレナ・ヴァリエと署名する。
今度の名前は、一つの製品に刻まれるだけではない。
これから始まる研究室の責任者として書く名前だった。
「よろしくお願いします」
オルディスが手を差し出した。
エレナも握り返す。
「こちらこそ。ご迷惑をおかけするかもしれませんが」
「迷惑が一つもない研究室などありませんよ」
「院長が言うと妙に説得力がありますね」
「それはどういう意味でしょう」
ようやく部屋の空気が和らいだ。
話は終わりかと思ったところで、クロムウェルが一枚の紙をエレナの前へ滑らせた。
「それから、こちらも確認しておけ」
「まだ何か?」
受け取る。
新しい給与条件だった。
エレナは数字を見る。
もう一度見る。
「……陛下」
「何だ」
「増えています」
「主任手当だ」
「増えすぎでは?」
「またその話をするのか」
「だって、この前ようやく元の額を受け入れたばかりなんですよ」
「役職が変わったのだから、給与も変わる」
「理屈は分かります。でも感情が追いつきません」
ミレイアが吹き出した。
「エレナさん、そのうち慣れますよ」
「それ、最近皆さん便利に使いすぎではありませんか?」
「陛下が最初に使ったんですよ」
エレナがクロムウェルを見る。
本人はまったく悪びれていない。
「有効な言葉なら使えばいい」
「そういう問題では……」
言いかけて、エレナも笑った。
少し前までなら、自分に高い給金が提示されること自体が怖かった。
今はまだ戸惑うけれど、以前とは違う。
これは施しではない。
皇帝から個人的に与えられる褒美でもない。
役職と仕事に対して支払われる対価だ。
そう思えるようになっていた。
「分かりました。受け取ります」
「今回は早いな」
「学習していますから」
「それは結構だ」
クロムウェルの声にわずかな笑いが混じった。
正式な辞令が研究院内へ掲示されたのは、その日の夕方だった。
エレナが自分の工房へ戻る頃には、すでに何人かの技師が知っていた。
「主任、お帰りなさい」
リナが真っ先に言った。
エレナは入口で止まった。
「……誰のことです?」
「エレナ主任です」
「まだ慣れません」
「五分くらい前に辞令を見ましたけど、私はもう慣れました」
「本人より早く慣れないでください」
測定担当の助手も笑っている。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます。でも、今まで通りでお願いします。急に畏まられると困ります」
「では、今まで通り、休憩時間になったら工具を取り上げます」
「それは少し考え直しませんか?」
「主任になったからこそ厳しくします」
どうやら権力を得たはずなのに、自由は増えないらしい。
それが可笑しかった。
机へ向かうと、昨日までと同じ工具箱が置いてある。
作業台も変わらない。
自分自身だって、急に別人になったわけではない。
それでも。
エレナは新しく渡された研究室用の名札を手に取った。
『精密魔導核研究室 主任 エレナ・ヴァリエ』
指先で文字をなぞる。
ガイウスの婚約者だから与えられた場所ではない。
皇帝に拾われたからだけでもない。
自分が作り、考え、失敗し、人と一緒に直してきた結果として与えられた場所だった。
「エレナさん」
リナに呼ばれて顔を上げる。
「何でしょう」
「主任になった最初の仕事、何にします?」
エレナは少し考えた。
やりたいことはいくらでもある。
軍用魔導灯のさらなる省力化。
家庭用魔導灯。
小型冷却具。
素材分類の自動測定器。
けれど、その前に一つだけ決めたいことがあった。
「研究室の棚を一つ、失敗作専用にしましょう」
「失敗作?」
「はい。捨てないで、何を試して、なぜ駄目だったのかを書いて残します」
「場所を取りますよ?」
「いっぱいになったら広げましょう」
「陛下みたいなことを言い始めましたね」
「それは少し嫌です」
「聞こえたぞ」
背後から声がした。
エレナが勢いよく振り返ると、いつの間にか工房の入口にクロムウェルが立っていた。
「陛下、どうしてこちらに?」
「辞令を受けた初日に逃げていないか確認しに来た」
「逃げません」
「なら結構だ」
リナたちは自然に少し離れ、仕事へ戻っていく。
エレナは名札を持ったままクロムウェルへ向き直った。
「陛下」
「何だ」
「今日は、ありがとうございました」
「私は承認しただけだ」
「それでもです」
少し前なら、そこで終わったかもしれない。
けれど今日は、もう一つだけ伝えたかった。
「私、最初は怖かったんです。陛下に拾っていただいたから評価されているだけなのではないかって」
クロムウェルは黙って聞いている。
「でも、今日の評価票を読んで分かりました。良いところも、悪いところも見られた上で選ばれたんだって」
「そうだ」
「だから……嬉しかったです」
素直に言えた。
以前なら照れて誤魔化したかもしれない。
「便利だから置いてもらっているんじゃなくて、一人の技師として必要とされている気がしました」
その言葉を聞いたときだけ、クロムウェルの表情がわずかに変わった。
「気がした、ではない」
「え?」
「私は最初から、君を便利な道具として連れてきたつもりはない」
静かな声だった。
「技術が優れているから評価した。だが、優れた技術を持つ人間を使い潰していい理由にはならない」
エレナは何も言えなかった。
「君は人だ。技師であり、考えを持ち、断る権利も選ぶ権利もある。そこを取り違えるつもりはない」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
ガイウスの工房で欲しかったものは、もしかすると給金でも名前でもなかったのかもしれない。
自分の意見を聞いてもらうこと。
嫌だと言えること。
役に立つから置いてもらうのではなく、一人の人間として扱われること。
そんな当たり前のものだった。
「……陛下」
「何だ」
「また褒めすぎです」
「今のどこが褒め言葉だ」
「私には十分なんです」
エレナが笑うと、クロムウェルもほんの少しだけ口元を緩めた。
「なら、慣れろ」
「またそれですか」
「便利だからな」
「とうとう認めましたね」
今度は二人とも笑った。
研究院の窓から差し込む夕暮れの光が、新しい名札の文字を照らしている。
エレナはそれをもう一度見下ろした。
元婚約者の工房で、自分はずっと「役に立つ人間」であろうとしていた。
けれどここでは違う。
役に立ったから価値が生まれるのではない。
一人の技師として考え、失敗し、選び、その結果を評価される。
その違いを知った今、エレナはもう以前の場所へ戻りたいとは思わなかった。
そして翌朝。
精密魔導核研究室主任となったエレナの机には、王国から届けられた一通の書状が置かれることになる。
差出人の名前は――ガイウス。




