第8話 初めて私の名前が商品に刻まれた
軍用魔導灯の耐久試験が七十二時間を越えた瞬間、研究院の試験室では歓声より先に、妙な沈黙が落ちた。
白い光が、何事もなかったように机の上を照らしている。
初日からほとんど明るさが変わっていない。魔力残量にもまだ余裕があり、発熱も許容範囲のままだった。
測定器の前に座っていた技師が、念のためという顔でもう一度針を確かめる。
「七十二時間、経過しました」
誰かが告げた。
それでもしばらく、誰も声を上げなかった。
エレナ自身も、試作機を見つめたまま動けなかった。
「……止まりませんね」
ようやく口から出た言葉がそれだった。
隣にいたハロルドが、呆れたように笑う。
「止まらないように作ったんでしょう」
「そうなのですが、こうして実際に見ると少し不思議で」
「昨日までは『計算上は大丈夫です』と平然としていたのに?」
「計算と現物は違います。魔導具は動いて初めて信用できますから」
「その慎重さを、最初に『設計が悪い』と言ったときにも少しくらい発揮してほしかったですね」
「まだ気にしていたんですか?」
「私は十年使われてきた設計を、その日のうちに否定された側ですからね」
言葉だけを聞けば根に持っているようだが、ハロルドの口元には笑みがある。
あれから数日。
エレナは軍用開発室の技師たちと何度も意見をぶつけながら、試作機を改良した。
最初の落下試験で壊れた固定具は黒鋼を混ぜた部品へ変更し、外装の一部を薄くして重量増加を相殺した。低温試験では刻印付近の魔力伝導率が落ちたため、回路幅をわずかに調整している。
一度うまくいったものを、また作り直す。
以前のエレナなら、それを失敗だと思ったかもしれない。
今は違う。
良くなるなら、直せばいい。
その当たり前のことを、ようやく楽しめるようになっていた。
「これで正式採用ですか?」
リナが嬉しそうに尋ねる。
ハロルドは首を横へ振った。
「軍用採用には、まだ連続運転後の分解検査と、量産試験があります。そこで同じ性能を再現できなければ意味がありません」
「ですよね」
エレナも頷いた。
「私もそれが気になっています。今回の一号機だけ性能が良かった可能性がありますから」
「普通、そこで少しくらい喜びません?」
「喜んでいますよ」
「顔にあまり出ていませんけれど」
言われて、エレナは自分の頬へ触れた。
確かに笑ってはいない。
けれど胸の内には、じわじわと熱が広がっている。
七十二時間。
最初に聞いたときは八時間しか動かなかった魔導灯が、三日間光り続けた。
しかも自分一人ではない。
ハロルドたちが軍で必要な条件を教え、リナが素材を加工し、測定担当者が数値を取り続け、何度も設計を修正した。
誰かと一緒に作り上げた結果だった。
「嬉しいです。ただ……完成って言われるまでは、まだ落ち着かなくて」
「職人ですねえ」
リナが笑った。
その日の午後には、分解検査も始まった。
外装を外し、固定具の変形を確認する。魔導核を取り出し、刻印の摩耗、熱による変色、素材の劣化を一つずつ調べていく。
致命的な問題はなかった。
さらに二号機、三号機も同じ設計で組み上げ、性能差を確認する。
三台とも、ほぼ同じ数値が出た。
個体差を前提に素材を分類し、その分類ごとに刻印幅を変える。
エレナが長年感覚で行ってきたことを、ハロルドたちと一緒に量産可能な形へ落とし込んだ結果だった。
「再現できましたね」
ハロルドが測定記録を見ながら言う。
「はい」
「もっと喜んでもいいんですよ」
「今、かなり喜んでいます」
「やはり分かりにくいですね」
「そんなにですか?」
「初日に比べれば、かなり分かるようになりましたが」
そんな話をしているところへ、研究院長のオルディスがやって来た。
その後ろには事務官が二人いる。
「皆さん、お疲れさまでした。兵站局より、正式な通知が届きました」
ハロルドたちが顔を上げる。
エレナも手を止めた。
「試作三号までの検査結果を踏まえ、軍用長時間魔導灯として正式採用へ進むそうです。まずは限定数で配備し、実地運用後に本格量産へ移行します」
今度こそ、歓声が上がった。
リナが隣で小さく両手を握る。
ハロルドは大きく息を吐き、後ろにいた若い技師の肩を叩いた。
エレナも自然に笑っていた。
これまでだって、自分の作った魔導具が売れたことはある。
人気商品になったこともあった。
それなのに、この瞬間は全く違って感じた。
「それから」
オルディスが続ける。
「製品名も決まりました。正式名称は『帝国軍制式長時間照明具・第七码』です」
「……番号だけなんですね」
エレナが思わず言うと、ハロルドが苦笑する。
「軍用品ですから、そんなものです」
「もう少し夢のある名前でもいいと思うのですが」
「敵兵に名前を褒めてもらうための道具ではありませんよ」
「それもそうですね」
事務官の一人が、細長い金属板を取り出した。
「そして、こちらが量産品に取り付ける銘板の見本です」
エレナは何気なく受け取った。
銀灰色の小さな板だった。
上部には帝国軍の紋章。
その下に製品名と型式番号。
さらに製造所、製造年月、管理番号が刻まれている。
そこまでは普通だった。
問題は、その一番下だった。
『主任回路設計 エレナ・ヴァリエ』
エレナの指が止まった。
「……これ」
「はい」
事務官が答える。
「新規回路の主任設計者として、あなたのお名前を記載しています」
「前にも書類には書いていただきましたけれど……商品そのものにも?」
「研究院の新規規定では、主要な独自設計を行った技術者について、製造管理上の責任者名と併せて記録することになっています。今回は特に基礎回路の構造が従来型から大幅に変わっていますので」
「でも、私一人で作ったわけではありません」
反射的に出た言葉だった。
ハロルドが横から言う。
「だから製造責任者や改良班の記録は別に残っています。主任回路設計があなたなのは事実でしょう」
「そうですけれど……」
「嫌ですか?」
問われて、エレナは答えられなかった。
嫌ではない。
むしろ逆だった。
嬉しすぎて、どう受け取ればいいのか分からない。
自分の名前が、自分の作ったものに刻まれている。
ただそれだけのことなのに。
これまで、そうなったことは一度もなかった。
ガイウスの工房で販売されていた商品には、すべて工房名かガイウスの名が刻まれていた。
当時は何とも思わないようにしていた。
いずれ結婚するのだから。
工房は二人のものになるのだから。
自分の名前をいちいち出さなくても構わない。
そう思っていた。
本当にそう思っていたはずなのに。
目の前の小さな金属板に刻まれた文字を見ていると、胸の奥からいくつもの感情が込み上げてきた。
「……少し、変な感じがします」
「変?」
リナが覗き込む。
「自分の名前なのに、自分のものではないみたいで」
「ちゃんとエレナさんの名前ですよ」
「分かっています。でも……」
声が少し掠れた。
エレナは慌てて咳払いをした。
泣くほどのことではない。
そう思うのに、目の奥が熱い。
その変化を見て、リナが何も言わず少しだけ離れてくれた。
ハロルドも、別の書類を読むふりを始める。
皆が気づかないふりをしてくれている。
その気遣いが、余計に困る。
「以前の工房では」
気づけば、自分から話し始めていた。
「商品に名前を入れたいと言ったことが一度だけあるんです」
作業室の空気が静かになった。
「まだ工房が今ほど有名ではなかった頃、新しい小型魔導灯ができたときでした。せめて設計者として、小さくても自分の名前を入れてもらえないかって」
あの頃のことは、今でも覚えている。
ガイウスは悪意のある顔をしなかった。
むしろ困ったように笑った。
『エレナ、工房の商品に何人もの名前が入っていたら、客が混乱するだろう? 俺たちはいずれ夫婦になるんだ。俺の名前が出るのも、君の名前が出るのも同じことだよ』
そう言われた。
そのときは納得した。
納得しようとした。
「結局、やめました」
エレナは銘板を指先で撫でた。
「だから……こんなに嬉しいものだとは思いませんでした」
ハロルドがしばらく黙ったあと、少しぶっきらぼうに言った。
「では、慣れてください」
エレナは顔を上げた。
「どこかで聞いたような言い方ですね」
「陛下の真似ではありません。たぶん」
「最後の一言で怪しくなりました」
リナが笑う。
「次の製品にも、その次にも名前が入ったら、そのうち慣れますよ」
「そんなに簡単に次ができるとは限りません」
「でももう、次の研究を始めているじゃないですか」
「それは……」
否定できなかった。
昨日の夜から、軍用魔導灯とは別に家庭用照明の魔力消費をさらに落とす案を考えている。
目標は、以前クロムウェルへ話した十分の一。
まだ遠い。
けれど試してみたい。
「皆さん」
オルディスが笑みを浮かべた。
「感傷に浸るのは結構ですが、まだ一つ仕事がありますよ」
「何でしょう」
「陛下への正式報告です」
エレナの表情が固まった。
「私も行くのですか?」
「主任回路設計者ですので」
「ハロルド様だけでは?」
「逃げないでください」
すぐに言われた。
「逃げているわけではありません。ただ、私は説明役としてあまり……」
「兵站局長の前でも問題なく話せたでしょう」
「あれは魔導具がありましたから」
「今回もありますよ」
オルディスが示した先には、完成した三号機が置かれている。
退路を塞がれた。
「分かりました」
エレナは諦めて頷いた。
皇宮へ向かうことになったのは、その日の午後だった。
正式報告なので、さすがに作業着のままではまずい。
研究院から用意された簡素な正装へ着替えたが、エレナは何度も襟元を触ってしまう。
「落ち着きません」
馬車の向かいに座ったハロルドが笑った。
「私も正装は嫌いですよ」
「ハロルド様は慣れていそうです」
「慣れていることと好きなことは違います」
その言葉に少し安心した。
皇宮へ入ると、案内されたのは巨大な謁見の間ではなく、クロムウェルが実務に使っている執務室だった。
エレナとしては、そのほうがありがたい。
大勢の貴族が並んだ場所で発表しろと言われたら、今度こそ逃げていたかもしれない。
クロムウェルは大きな机の前で書類を読んでいた。
エレナたちが入ると、筆を置く。
「結果は聞いている」
「でしたら私たちは来なくてもよかったのでは?」
思わず言うと、ハロルドが横で小さく咳払いをした。
クロムウェルは気にした様子もない。
「報告書で数字を見ることと、作った人間から聞くことは違う」
「やっぱり説明するのですね」
「ああ」
「分かりました」
観念して、エレナは持ってきた試作機を机へ置いた。
ハロルドが採用までの経緯を説明し、その後、エレナが回路変更の要点を話した。
以前より不思議と緊張しない。
クロムウェルがこちらを見ているのは分かる。
けれど評価されることそのものへの怖さが、少しずつ薄れていた。
「つまり、最初から均一な素材を求めるのではなく、個体差を測定して分類し、その分類ごとに回路を変える方式へ移行したのか」
「はい。今までの設計思想では、材料を回路側へ合わせようとしていました。でも完全に同じ性質の素材を揃えるほうが大変です。それなら最初から、素材の違いを前提に設計したほうが無駄がありません」
「量産性は?」
「分類工程が増えます。ただ、最終調整の時間が短くなるので、全体では大きく変わらない見込みです」
クロムウェルがハロルドを見る。
「異論は?」
「ありません。むしろ現在の試算では、熟練技師一人に依存していた最終調整を減らせる分、量産しやすくなっています」
「そうか」
クロムウェルは試作機を手に取った。
「最初に君が作っていたものとは、考え方が逆になったな」
エレナは少し驚いた。
「よく覚えていらっしゃいますね」
「君の旧工房の小型魔導核は、君自身が一つずつ個別調整していた。これは、個別調整の知識を分類と規格へ変えたのだろう?」
「はい」
「なら、技術そのものが一段進んだということだ」
エレナは一瞬、返事を忘れた。
自分でも感じていたことだった。
以前は自分にしかできなかった。
それを誇らしいと思う一方で、誰かへ完全には教えられないことが悩みでもあった。
今は少し違う。
自分の感覚を、他人でも使える仕組みに変え始めている。
「……そう言われると、嬉しいです」
「事実を言っただけだ」
「陛下はそればかりですね」
「事実以上に持ち上げる必要も、事実以下に扱う必要もない」
また、その考え方だ。
けれど今回は素直に受け取れた。
「ありがとうございます」
そう答えると、クロムウェルがわずかに目を細めた。
以前なら、褒めすぎだと逃げていた。
その違いに、彼も気づいたのかもしれない。
「それから、こちらを」
エレナは持参していた銘板の見本を机へ置いた。
クロムウェルは手に取る。
「私の名前が載るそうです」
「ああ」
「ご存じだったんですか?」
「規定上、当然だろう」
「私は今日知りました」
「そうか」
「……もう少し何かありませんか?」
「何を求めている?」
聞かれて、エレナ自身が困った。
褒めてほしいわけではない。
いや、少しは褒めてほしいのかもしれない。
そんな自分に気づくと急に恥ずかしくなる。
「いえ、何でもありません」
「そうか」
クロムウェルは銘板へ目を落とした。
「では一つだけ言おう」
エレナは顔を上げる。
「似合っている」
「……何にですか?」
「君の名前が、君の作ったものに刻まれていることが」
一瞬、何を返せばいいか分からなかった。
技術を褒められるほうが、まだ対応できる。
設計のここが優れている。
効率がいい。
精度が高い。
そう言われれば、「ありがとうございます」で済む。
けれど今の言葉は、どこか違った。
「陛下、それは……少し反則ではありませんか」
「何がだ?」
「自覚がないなら、もっと困ります」
頬が熱い。
自分でも分かる。
クロムウェルは本当に分からないらしく、わずかに眉を寄せた。
横にいたハロルドが突然窓の外を見始めた。
助ける気はないらしい。
「とにかく」
エレナは銘板を取り返すように手を伸ばした。
「これは研究院へ持ち帰ります」
「待て」
「何ですか」
「それは見本だろう」
「はい」
「君が持っていろ」
「私が?」
「最初に名前が刻まれた品だ。記念になる」
エレナは銘板を見た。
「研究院の備品では?」
「同じものをもう一枚作らせればいい」
「そんな理由で増やしていいんですか?」
「金属板一枚で帝国の財政は傾かない」
「陛下は時々、規模の大きな安心のさせ方をしますね」
それでも、返す気はもうなくなっていた。
小さな銘板を手のひらへ載せる。
冷たいはずの金属が、不思議と温かく感じられた。
「では……いただきます」
「ああ」
「大切にします」
素直に言うと、クロムウェルは満足したように頷いた。
研究院へ戻る馬車の中でも、エレナは何度か銘板を取り出した。
ハロルドが三度目でとうとう笑った。
「随分気に入りましたね」
「悪いですか?」
「いいえ。ようやく分かりやすく喜んでいるので、こちらも安心しました」
「そんなに私は分かりにくいでしょうか」
「少し」
「皆さん同じことを言いますね」
エレナは銘板を布で包み、鞄の内側へしまった。
父からもらった工具箱と同じくらい、大切なものになる気がした。
その頃。
王国では、ガイウスがまったく別の紙を握りしめていた。
商会から届いた、帝国の新製品に関する速報だった。
「帝国軍が……新型魔導灯を正式採用?」
ガイウスは記事を読み進める。
連続点灯時間は従来の九倍以上。
魔力消費も大幅削減。
帝国国立魔導研究院と軍用開発室による共同開発。
そして。
記事の末尾に記された一行を見た瞬間、ガイウスの目が止まった。
『主任回路設計――エレナ・ヴァリエ』
その名前を、見間違えるはずがなかった。
「……エレナ?」
工房の中では、修理待ちの魔導具がいくつも積まれている。
王宮冷却装置の期限も迫っている。
自分の工房では、彼女が残した設計図すら満足に扱えない。
その一方で。
追い出したはずの女は、隣国で新しい魔導具を作り、その名前を正式な設計者として刻んでいた。
ガイウスは記事を何度も読み返した。
「そんな……馬鹿な」
だが、紙に印刷された文字は消えない。
エレナ・ヴァリエ。
その名前だけが、やけに鮮明に目へ焼きついた。




