第7話 設計図に書いてありません
「設計図に書いてある通りに作った。それなのに、なぜ動かないんだ」
ガイウスは王宮から戻るなり、作業台の上へ分厚い設計図の束を叩きつけた。
紙の端が跳ね、近くに置かれていた細かな部品がいくつか床へ転がる。普段なら誰かがすぐ拾うところだが、その日の工房では誰も動かなかった。
皆、それどころではなかった。
王宮西棟の冷却装置は、結局直らなかった。
正確には、一度は動いた。
ガイウスが現地で回路を確認し、魔石を交換し、導魔線をつなぎ直したところ、停止していた装置は再び低い駆動音を響かせた。
王宮付きの役人からは安堵の声も上がった。
ところが十五分もしないうちに出力が乱れ始め、冷却用の魔力回路が過熱した。
慌てて止めなければ、今度は装置そのものを焼いていたところだった。
そのため王宮側から与えられた猶予は三日。
三日以内に完全修理できなければ、別の工房へ依頼すると告げられた。
王宮御用達という看板に傷がつく。
それだけは避けなければならない。
「先生、こちらが納品時の設計図です」
テオが慎重に一冊の綴じ本を差し出した。
ガイウスは奪うように受け取ると、机の上へ広げた。
「昨日も見た」
「ですが、もう一度最初から確認したほうがいいと思います。王宮の冷却装置は、今問題になっている小型魔導灯とは構造がかなり違いますから」
「そんなことは分かっている」
言い返しながら、ガイウスは図面へ顔を近づけた。
冷却装置の全体構造。
魔石を収める槽。
冷気を生み出すための変換回路。
室内へ送るための導魔管。
どれも見覚えがある。
自分の工房で作ったものなのだから当然だ。
図面には細かな数値まで記されていた。
魔力の流量。
刻印の幅。
魔石と回路の距離。
使用する合金の比率。
ガイウスは指で一つずつ追った。
「ここも合っている。ここもだ。王宮で確認した数値と同じだ」
「はい」
「だったら壊れる理由がないだろう」
返事はなかった。
ガイウスが顔を上げると、テオだけでなく他の弟子たちまで微妙な表情をしている。
「何だ」
「先生」
年長の弟子が口を開いた。
「エレナ様が作業されていたとき、この図面以外にも何か見ていた覚えはありませんか?」
「何か?」
「小さな手帳とか、測定表とかです」
ガイウスは眉をひそめた。
「そんなものが重要なら、最初から正式な設計資料に残しているはずだ」
「本当にそうでしょうか」
「どういう意味だ」
「エレナ様は、最終調整の途中で何度も数値を書き直していました。でも、完成後に工房へ残された設計図には、その途中経過がほとんどありません」
ガイウスはページをめくった。
「途中経過なんて必要ない。完成した数値があれば十分だ」
「俺も、前はそう思っていました」
テオが言った。
「でも新型魔導灯を作り直して分かったんです。同じ数値に合わせても、同じ結果になりません」
「またその話か」
「大事な話です」
テオの声は強かった。
数日前なら、その口調だけでガイウスは怒鳴っていただろう。
だが今は、それをしている時間すら惜しい。
「説明しろ」
テオは少し驚いたようだったが、すぐに作業台へ小型魔導核を二つ並べた。
「こちらを見てください。両方とも同じ青晶石から切り出してあります。寸法も同じです。刻印の幅も、設計図通りに揃えました」
「それで?」
「測定すると、魔力の流れ方が違います」
測定器をつなぐ。
一つ目の核へ魔力を流すと、針が一定の位置で止まった。
二つ目。
今度は少し高い位置まで針が動く。
「誤差だろう」
「この程度なら、普通の魔導具では誤差です。でも小型化した核では、ここから熱の出方が変わります。俺たちが設計図通りに作ったものが不安定になるのは、この差を調整できていないからじゃないかと思います」
「だったら、その差をなくせ」
「どうやってです?」
「刻印を調整すればいいだろう」
「どこを、どれだけですか?」
ガイウスは口を閉じた。
テオは責めるような表情をしていなかった。
だからこそ、その問いが重かった。
「エレナ様は、これを見ただけで何か分かっていたみたいなんです」
「見ただけで分かるわけがない」
「測定器は使っていました。でも、数値だけじゃありませんでした」
別の弟子が話へ加わる。
「俺、一度聞いたことがあります。『どうしてそこを削るんですか』って。そうしたらエレナ様は、『この石はこっちへ魔力が流れたがっているから』って」
「魔力が流れたがっている?」
ガイウスは顔をしかめた。
「子供みたいな説明だな」
「俺にもそう聞こえました。でも、削ったあとは本当に数値が安定したんです」
ガイウスは二つの魔導核を睨んだ。
そんな曖昧な感覚で、自分にはできないことをやっていたというのか。
認めたくなかった。
魔導具は技術だ。
理論があり、構造があり、正確な数値がある。
誰か一人にしか分からない感覚などに頼るほうがおかしい。
「なら、その感覚とやらを数値にすればいい」
「それをしようとしていたんじゃないでしょうか」
「何?」
「エレナ様の研究ノートで」
また、あのノートだった。
婚約破棄の日に、エレナが自分の鞄へ入れて持ち出したもの。
そのときガイウスは止めなかった。
むしろ勝手にしろと言った。
「……工房に写しはないのか」
「探しました」
「全部か?」
「資料室も、エレナ様が使っていた机も、素材庫もです」
「なら、捨てた紙の中に――」
「婚約破棄の日より前の廃棄資料まで調べました」
先回りされ、ガイウスは苛立った。
「随分と熱心だな」
「このままでは仕事になりませんから」
テオの返しは静かだった。
工房に以前のような遠慮がなくなっている。
それも腹立たしかったが、ガイウスは反論できなかった。
弟子たちも疲弊している。
返品された魔導具を分解し、修理を試し、新しい注文は遅れ、王宮の件まで重なった。
誰かを怒鳴れば問題が直る段階ではない。
その現実くらいは、ガイウスにも分かり始めていた。
「王宮の冷却装置にも、同じ問題があると思うか?」
テオはすぐには答えなかった。
「可能性はあります。ただ、あれはもっと大型ですし、エレナ様が何を調整していたのか俺たちは見ていません」
「役に立たないな」
思わず出た言葉に、テオの顔が強張る。
ガイウス自身も、すぐに言いすぎたと思った。
けれど謝る言葉は出なかった。
「とにかく、設計図を全部出せ。納品前の記録もだ。何か手掛かりがあるはずだ」
「分かりました」
弟子たちが散っていく。
ガイウスは椅子へ座り、額を押さえた。
眠っていない。
昨夜はほとんど一睡もできなかった。
頭の奥が重い。
そこへ、場違いなほど甘い香りが近づいてきた。
「まあ、まだこんなところにいらしたの?」
セシリアだった。
「セシリア。今日は来ると聞いていない」
「だって、心配だったんですもの」
彼女はそう言いながら、散らかった工房を見回した。
作業台には分解された魔導具、床には素材箱、壁際には返品品が積まれている。
「随分……大変そうですわね」
「少し注文が重なっているだけだ」
「でも昨日、お父様が王宮の装置まで止まったとおっしゃっていましたわ」
「情報が早いな」
「貴族の間では、こういう話はすぐ広まりますもの」
ガイウスの胸がざらついた。
「直せば済む話だ」
「もちろん、ガイウス様なら直せますわ」
セシリアは疑いなく笑った。
「だって、あれを作ったのもガイウス様でしょう?」
「ああ」
返事が一瞬遅れた。
自分でも分かった。
セシリアは気づかなかったようだ。
「でしたら簡単ではありませんか。作った本人なら、直すことだってできますもの」
悪意はない。
本気でそう信じている。
だからこそ、ガイウスの胸へ刺さった。
「当然だ」
もう一度、今度ははっきり答えた。
「三日もかからない」
「さすがですわ」
セシリアは嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ながら、ガイウスは自分の言葉で退路を一つ塞いだことに気づいていた。
けれど、今さら弱音を吐けるはずがない。
「ところで」
セシリアは机の上に広げられた設計図へ目をやった。
「エレナ様が何か大事なものを持っていったという話を聞いたのですけれど」
ガイウスの顔が強張った。
「誰から聞いた」
「工房の方々が話しているのが聞こえましたわ。研究ノート、でしたかしら」
「ただの個人的な覚え書きだ」
「でしたら、なくても困りませんわね?」
「ああ」
また即答した。
セシリアは安心したように微笑んだ。
「よかった。私、少し心配してしまいましたの。もしエレナ様が大事な技術を勝手に持ち出したのでしたら、それは工房のものを盗んだことになるのではないかって」
「盗んだ?」
ガイウスは顔を上げた。
「だって、ここで働きながら作った技術なのでしょう?」
「まあ……そうだが」
「なら、そのノートも本当は工房のものではありませんの?」
甘い声だった。
けれど、その言葉がガイウスの中へ妙に深く入り込んだ。
そうだ。
エレナは自分の工房で研究していた。
工房の素材も使った。
ならば、そこで生まれた技術は誰のものだ。
少なくとも全部がエレナ個人のものだと言い切れるのか。
「……あいつは、自分のものだと言っていた」
「でも、ガイウス様は詳しく確認なさらなかったのでしょう?」
「そのときは必要ないと思った」
「でしたら、一度返していただけばいいのではなくて?」
セシリアは簡単に言った。
「だって、困っていらっしゃるのでしょう?」
「困っているわけじゃない」
「そうでしたわね」
すぐ訂正されたことが、かえって癪に障った。
「ただ、勝手に工房の技術を持ち出されたなら確認は必要だ」
「ええ。そのほうがいいと思いますわ」
ガイウスは設計図へ目を落とした。
エレナのノートさえあれば。
そこに調整方法が書いてあるなら。
今起きている問題のほとんどは片づく。
そう考えると、胸の奥に久しぶりの光が差した気がした。
「テオ!」
声を上げると、奥から弟子が出てきた。
「何でしょう」
「エレナの行き先を調べろ」
「……え?」
「研究ノートの件を確認する。工房で生まれた技術なら、こちらにも権利がある」
テオはしばらく黙っていた。
「先生」
「何だ」
「婚約破棄の日、先生はエレナ様が個人の研究記録を持ち帰ることを認めましたよね」
「状況が変わった」
「それで返せと言うんですか?」
「返せとは言っていない。内容を確認すると言っている」
「同じことでは」
「テオ」
ガイウスの声が低くなる。
「俺は工房を守ろうとしているんだ」
テオは何か言いたそうだったが、結局口を閉じた。
「分かりました。ただ……」
「ただ?」
「エレナ様がどこへ行ったのか、誰も知りません」
ガイウスは眉を寄せた。
「王都の宿を探せ」
「もう探しました」
「いつ?」
「返品が増え始めた日にです。連絡を取れないかと思って」
初耳だった。
「なぜ俺に言わなかった」
「見つからなかったからです」
「では実家の親族は?」
「そちらにも戻っていません」
「知り合いは」
「工房以外に親しい方は、ほとんどいなかったと思います」
その言葉に、ガイウスは妙な違和感を覚えた。
エレナは何年も、自分の工房にいた。
朝から夜まで。
休日ですら、試作品が気になると言って顔を出すことがあった。
社交にもほとんど出なかった。
友人の名前も、ガイウスは思い浮かばない。
いつもそこにいた。
だから、いなくなることなど考えたこともなかった。
「……じゃあ、どこへ行ったんだ」
誰に尋ねたとも分からない声が漏れた。
テオは答えなかった。
その日の午後、王宮冷却装置に関する過去の資料がすべて作業台へ集められた。
ガイウスは一枚ずつ確認した。
設計図。
材料一覧。
施工記録。
試運転結果。
最後の調整記録。
「これだ」
納品前夜の記録があった。
エレナの字だ。
ガイウスは食い入るように読んだ。
『第三変換槽、出力不均衡。基準値内だが長期使用時に偏りが生じる可能性あり』
次の行。
『結晶方向を確認後、第二刻印を微調整』
さらにその下。
『最終値、安定。詳細は個人調整記録・冷却大型一号参照』
ガイウスの指が止まった。
「個人調整記録……」
テオも横から覗き込む。
「やっぱり、ノートですね」
「設計図には?」
「ありません」
別の資料を探す。
ない。
数字は完成後のものだけ。
どの数値から始まり。
どういう症状が出て。
何を見て、どこを削ったのか。
それだけがない。
「なぜ書いてない」
ガイウスの声が掠れた。
「なぜ肝心なことを正式な図面に書かなかったんだ」
テオが少し考えてから答えた。
「書かなかったんじゃなくて、まだまとめている途中だったんじゃないでしょうか」
「途中?」
「エレナ様、よく言っていました。感覚で分かることを、そのまま後輩に教えても意味がないから、誰でも再現できるように整理したいって」
ガイウスは顔を上げた。
「そんな話、俺は聞いていない」
「先生が興味を持たなかったからでは」
工房の空気が凍った。
言ったテオ自身も、一瞬だけしまったという顔をした。
それでも、もう取り消さなかった。
「……どういう意味だ」
「エレナ様が調整の話を始めても、先生はよく『細かいところは任せる』と言っていたじゃないですか」
覚えている。
確かに言った。
何度も。
細かな技術の説明は長い。
ガイウスには客との商談も、貴族との付き合いもあった。
そんな話を全部聞いている暇はないと思っていた。
『ガイウス様、今の小型核ですが、結晶方向によって――』
『ああ、そのあたりは任せるよ。君のほうが細かい作業は得意だろう?』
記憶の中のエレナは、一瞬だけ何か言いたそうな顔をした。
けれどすぐに、「分かりました」と笑った。
それで終わりだった。
「……だったら、最初から重要だと言えばよかったんだ」
苦し紛れに出た言葉だった。
テオはもう反論しなかった。
その沈黙が、否定されるより腹立たしかった。
日が暮れる頃。
王宮から二度目の使者が来た。
「明日の正午までに修理計画を提出してほしいとのことだ」
「明日?」
「三日後に直せ、という話とは別だ。どのように修理するのか、事前に説明せよとの命令だ」
ガイウスは奥歯を噛んだ。
修理計画。
今の段階では、書けない。
原因そのものを完全には特定できていないのだから。
「分かった。必ず提出する」
使者が帰る。
扉を閉めた途端、ガイウスは作業台へ拳をついた。
「くそ……」
王宮。
返品。
納期の遅れ。
新製品。
すべてが同時に崩れ始めている。
それなのに解決するための答えは、どこを探しても設計図には書かれていなかった。
書いてあるのはエレナのノート。
そしてエレナ自身の頭の中だ。
「先生」
テオが声をかける。
「何だ」
「一つ、分かったことがあります」
「何が」
「エレナ様の行き先です」
ガイウスが勢いよく顔を上げた。
「どこだ」
「確実ではありません。ただ、婚約破棄の夜、工房の近くで見た者がいました」
「何を」
「エレナ様が黒い馬車へ乗るところです」
「馬車?」
「かなり高位の貴族が使うものだったそうです。紋章は隠されていたらしいですが、御者の制服が王国式ではなかったと」
ガイウスの胸に嫌な感覚が広がった。
「それで?」
「門の記録も調べました。同じ特徴の馬車が、その夜、王都を出ています」
「行き先は」
テオは言いにくそうに口を閉ざした。
「どこだと聞いている」
「……東の国境です」
ガイウスの指先が冷たくなる。
東。
そこから先にある大国は、一つしかない。
「まさか」
「アルヴァレス帝国方面です」
工房の中で、誰かが息を呑んだ。
ガイウスはすぐに笑おうとした。
「馬鹿な。エレナに帝国とのつながりなんてない」
「俺もそう思います。ただ――」
「ただ何だ」
「婚約破棄の夜会に来ていた商人の一人が、妙な話をしていました」
テオはガイウスの顔を見た。
「以前、先生の工房を訪れた銀髪の外国人客を覚えていますか?」
その姿が記憶の底から浮かび上がった。
やたらと細かい質問をしてきた男。
ガイウスが適当に答えると、なぜかエレナばかりに話を聞きたがった。
「あの男がどうした」
「夜会のあと、工房の近くで見かけたそうです」
「……誰なんだ」
「まだ分かりません」
答えを聞くより先に、ガイウスの脳裏には一つの光景が蘇っていた。
あの日。
銀髪の男が魔導灯を手に取り、ガイウスへ質問した。
『この魔導核の流路圧縮は、あなたが?』
『もちろんです』
そう答えた。
直後。
その男はガイウスではなく、奥から呼び出されたエレナへ視線を向けた。
そして彼女の説明だけは、最後まで一言も遮らず聞いていた。
あのときの目。
商品を見る目ではなかった。
技術者を見る目だった。
「調べろ」
ガイウスは低い声で言った。
「その男の正体を調べろ。馬車もだ。エレナがどこへ行ったのか、必ず見つけろ」
テオは返事をしなかった。
「聞いているのか?」
「聞いています」
「なら急げ」
「でも、見つけてどうするんです?」
ガイウスは迷わなかった。
「決まっているだろう」
設計図を握りしめる。
ここには答えがない。
ならば、答えを知っている人間を連れ戻せばいい。
「工房に戻ってこさせる」
テオの顔から、わずかに表情が消えた。
「……エレナ様が戻りたいと言わなくても?」
その問いに、ガイウスは苛立たしげに顔を上げた。
「俺の工房が必要としているんだ。断る理由がどこにある」
その言葉を聞いた弟子たちは、誰一人として頷かなかった。




