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第52話 行かない勇気も、責任です

 大陸中央高地の混成観測隊が第二観測点へ向かった朝、エレナは研究院の通信室にいた。


 昨日までと同じ机。


 同じ地図。


 同じ受信石。


 けれど、地図の中央には、昨日までなかった数字が増えている。


 大気魔力、平常推定値比プラス一五。


 地表下五メートル、プラス二九。


 二十メートル付近、概算プラス四七。


 さらに、地下魔力には一定方向への流動偏差が確認された。


 推測ではなく、ようやく現地で測れた数字だ。


「第二観測点までは?」


 エレナが尋ねると、ノアは現地から届いた行程表へ指を置いた。


「直線なら六キロ弱。ただ、谷を一つ迂回するので、実際は十キロくらいです」


「今日中に?」


「雪が増えなければ」


「増えたら?」


「一段手前で宿営です。そこは現地判断」


 エレナは頷いた。


 それだけ。


 行程を変えろとも。


 急げとも。


 自分ならこうする、とも言わない。


 少し前なら、その沈黙が難しかった。


 自分が知らない場所で。


 自分が設計に関わった装置を使い。


 自分が気づいた異常を。


 自分以外の人たちが調べている。


 落ち着かない。


 とても。


「主任」


「はい?」


「また地図を睨んでます」


 ノアが言った。


「見ているだけです」


「穴が開きそうです」


「紙に穴は開きません」


「比喩です」


「分かっています」


 ノアが笑う。


「行きたかった?」


「かなり」


「昨日も聞きましたけど」


「今日もかなりです」


「そこは減らないんですね」


「現地の数字が増えるほど行きたくなります」


「普通逆じゃないですか?」


「どうして?」


「地下四七ですよ」


「だから見たいんです」


「技師って面倒ですね」


「ノアさんもでしょう」


「否定しません」


 二人とも。


 同じ。


 未知の現象を見ると。


 怖いより先に。


 確かめたい気持ちが出る。


 ただ。


 今は。


 その気持ちだけで。


 動かない。


 午前九時。


 第一報。


『第一観測点離脱。隊員異常なし。装備正常』


 十時二十分。


『高度上昇。風速増加。進行速度低下』


 十一時十分。


『大気魔力プラス一七。地下簡易値プラス三二』


 十一時四十八分。


『通信強度七一パーセント』


 ノアが眉を寄せた。


「落ちてきましたね」


「中継器は?」


「第一仮設中継点は正常。問題は現地側の地形遮蔽っぽいです」


「反射?」


「あります。山肌が近い」


「予備周波数は?」


「主系統より少し良いです」


「なら」


 エレナが言いかける。


 その前に。


 ノアが操作盤へ手を伸ばした。


「予備へ切り替えます。主系統は監視だけ残す」


 エレナは。


 口を閉じた。


 ノアがこちらを見る。


「何か違います?」


「いいえ」


「言おうとしてましたよね」


「同じことを」


「じゃあ先に言えた」


「少し悔しいです」


「そこですか」


「でも嬉しいです」


「どっちなんです?」


「両方です」


 ノアは呆れながら。


 少し笑っていた。


 昼過ぎ。


 天候が悪化した。


 高地の雪。


 強風。


 視界。


 三十メートル以下。


『第二観測点への進行一時停止』


 それは。


 当然の判断。


 エレナも。


 そう思った。


 だが。


 三十分後。


 違う報告が来た。


『精密地下測定器一号、不安定』


 エレナの背筋が伸びる。


「不安定?」


 ノアが受信内容を読み上げる。


「基準石正常。測定値のみ周期的に跳ねる。二号は問題なし」


「一号だけ?」


「はい」


「温度は?」


「外気マイナス十一。収納箱内部マイナス三」


「低い」


 精密測定核の許容使用温度は。


 もっと上。


 高地対策で保温箱を使っている。


 でも。


 風が想定より強い。


「保温具の出力?」


「平常」


「箱の密閉」


「確認中」


 続報。


『外装接合部に微細な隙間。風雪侵入痕あり』


「凍結?」


 エレナが言う。


「可能性高いです」


「開けると?」


「その場で分解する?」


 ノアが聞く。


 エレナは。


 一瞬。


 頭の中で手順を組んだ。


 外装。


 接合部。


 低温。


 内部結露。


 精密回路。


 もし自分がいるなら。


 乾燥布。


 局所加温。


 結露を避けながら。


 接合部を。


「主任」


 ノアが呼ぶ。


「はい」


「現地から対処案が来ました」


 エレナが止まる。


「誰から?」


「カルディアの高地観測技師です」


 簡略通信。


『分解せず。外装全体を断熱布で包み、温石を直接接触させず周囲配置。内部温度を緩徐上昇。二十分後再測定』


 エレナは。


 紙を見る。


 そして。


 少し驚いた。


「……いい」


「ですよね」


「すごくいいです」


 自分なら。


 開けたかもしれない。


 いや。


 開ける前に。


 保温は考えた。


 でも。


 高地での風雪。


 外装の急加熱による結露。


 そこまで。


 現地経験がある技師のほうが。


 判断が早い。


「返信は?」


 ノアが聞く。


「そのまま実施で」


「了解」


 送信。


 二十分。


 結果。


『一号測定器、安定化。基準誤差内復帰』


 通信室の空気が。


 少し緩む。


「直った」


 リナが。


 後ろから言う。


 いつの間に来ていたのか。


 温かい飲み物を二つ持っている。


「はい」


 エレナは。


 報告紙を見る。


「私、何もしてません」


「いいことでは?」


「はい」


 答える。


 でも。


 胸の奥に。


 ほんの少し。


 寂しさ。


 前なら。


 もっと。


 強かったかもしれない。


 自分がいない。


 だから。


 何もできない。


 自分なら直せた。


 そんなふうに。


 でも。


 今は。


 違う。


「カルディアの技師さん」


 エレナが言う。


「名前、記録してください」


「もちろん」


 ノア。


「現地対処考案?」


「はい」


「正式報告にも?」


「入れてください」


 リナが。


 少し笑う。


「嬉しそうですね」


「はい」


「自分が直したんじゃないのに」


「だからかもしれません」


 口にして。


 自分でも。


 少し驚く。


「前だったら」


 エレナは続ける。


「私がいないと駄目だって思っていたかもしれません」


「今は?」


「私がいなくても、ちゃんと誰かが考えて」


 報告紙を見る。


「私より合っている方法で直してくれる」


 そのことが。


 思っていたより。


 嬉しい。


「負けた感じしません?」


 ノアが聞く。


「少しします」


「するんだ」


「技師なので」


「じゃあ」


「次は私が先にいい案を出します」


「結局競争になる」


「いいじゃないですか」


 笑い。


 短く。


 そのあと。


 また。


 仕事。


 観測隊は。


 吹雪のため。


 その日の進行を断念。


 第一観測点と第二観測点の中間。


 岩壁の陰。


 風の弱い場所へ。


 臨時宿営。


 技術的には。


 前へ進まない日。


 でも。


 大事。


「大気値」


 ノア。


「プラス一八・二」


「地下」


「二十メートル換算でプラス五一前後」


 エレナの顔が変わる。


「五〇を超えた?」


「概算ですけど」


「変化率は?」


「一時間で五・一パーセント」


「撤退基準には届かない」


「はい」


「装置自己加熱」


「正常」


「隊員」


「異常なし」


 なら。


 今すぐ。


 撤退理由はない。


 でも。


 数字は。


 さらに上がる。


 高地。


 奥へ近づくほど。


 地下。


 濃い。


「主任」


 ノア。


「今、行きたい?」


 エレナは。


 少し笑った。


「かなり」


「ですよね」


「でも」


 地図を見る。


「今ここにいるほうが、役に立つと思います」


 その言葉。


 自然に。


 出た。


 自分で。


 少し。


 嬉しい。


 夕方。


 各国技術代表との通信会議。


 現地報告。


 故障。


 修理。


 値。


 天候。


 行程。


 カルディア側代表が。


 自国技師の応急処置が採用されたと聞き。


 少し誇らしそう。


 エルグラン側は。


 地下流動値の追加測定を提案。


 故国側。


 結界測定技師から。


 高魔力環境で簡易結界の安定性を見る。


 各国。


 少しずつ。


 出す。


 自分の知識。


 エレナは。


 まとめる。


 でも。


 全部。


 決めない。


「明日」


 会議終盤。


 カルディアの代表が言う。


「天候が回復した場合、第二観測点へ進む」


「現地判断で」


 エレナ。


「地下五〇超でも?」


 東方代表。


「数値だけなら継続条件内です」


「危険では?」


「分かりません」


「分からない場所へ進ませる?」


 少し。


 責めるような声。


 エレナは。


 一瞬。


 胸が詰まる。


 それ。


 自分も。


 同じ。


 怖い。


「はい」


 でも。


 答えた。


「条件を決めた上で」


「何か起きたら?」


「撤退します」


「間に合わなかったら?」


 その問い。


 重い。


 エレナは。


 すぐには答えない。


 現地。


 山。


 吹雪。


 高魔力。


 誰も知らない。


 完全な安全は。


 ない。


「その可能性は」


 エレナは言った。


「あります」


 室内。


 静か。


「だから」


 続ける。


「撤退条件を決めました」


「でもゼロにはならない」


「なりません」


「なら」


「調査をやめる?」


 エレナは。


 聞き返した。


 相手が。


 少し黙る。


「今の異常が」


 エレナは。


 ゆっくり言う。


「何も調べなくても自然に終わるなら、それでもいいと思います」


 でも。


 百五十年前。


 四日。


 五日。


 六日。


 街灯。


 水。


 畑。


 治療。


「もし」


 声が。


 少しだけ。


 強くなる。


「次がもっと長くて」


 各国代表を見る。


「今度は戻らなかったら」


 誰も。


 すぐには答えない。


「危険があるから調べない、も」


 エレナは言う。


「一つの判断です」


「……」


「でも」


 資料へ目を落とす。


「調べない危険もあります」


 だから。


 比較する。


 準備。


 撤退。


 通信。


 医療。


 護衛。


「現地隊へ」


 エレナは続けた。


「英雄になれとは言っていません」


 自分自身にも。


 言っている。


「測れるところまで測って」


 そして。


「危険なら帰ってきてください、と言っています」


 カルディア代表が。


 少しだけ。


 頷いた。


 会議後。


 エレナは。


 宮殿へ。


 今日は。


 公務の報告。


 そして。


 それが終わってから。


 少しだけ。


 恋人として。


 クロムウェルと。


 茶。


「現地隊」


 クロムウェルが言う。


「今日は止まった?」


「はい。吹雪です」


「故障は」


「直りました」


「君が?」


「いいえ」


 エレナは。


 少し笑う。


「カルディアの技師さんが」


「そうか」


「私なら分解していたかもしれません」


「それは危なかった?」


「たぶん。低温で開けると結露が出た可能性があります」


「では」


「はい」


「行かなくてよかった?」


 来た。


 その質問。


 エレナは。


 茶の湯気を見る。


「……まだ」


「まだ?」


「行かなくて正解だった、とまでは思い切れません」


 正直。


「現地の数字を見るたび」


 少し。


 胸の奥。


「自分で確かめたいです」


「うん」


「装置が壊れたと聞いたら」


「うん」


「私がいればって、思います」


「今日は他の人が直した」


「はい」


「それでも?」


「少し」


 クロムウェルは。


 すぐ。


 励まさない。


 それが。


 ありがたい。


「エレナ」


「はい」


「行かなかったことが正解だったかどうかを」


 静かな声。


「結果で決めるな」


 エレナが。


 顔を上げる。


「結果?」


「ああ」


「もし」


 クロムウェルは続ける。


「現地隊が何事もなく戻れば、行かなかった君が正しい?」


「……そうとも」


「逆に」


 声が。


 少し低くなる。


「現地で事故が起きたら」


 エレナの胸が。


 少し硬くなる。


「君が行くべきだった?」


「それは」


「違うだろう」


 答える前に。


 言われる。


「判断した時点で」


 クロムウェル。


「君の役割は帝都統括だった」


「はい」


「現地には」


「現地の専門家がいます」


「君より高地を知る人も」


「います」


「地下魔力を知る人も」


「います」


「なら」


 少しだけ。


 優しくなる。


「結果が良かったから正解。悪かったから間違いではない」


 エレナは。


 その言葉を。


 ゆっくり受け取る。


「役割として」


 クロムウェルが言う。


「その時点で妥当だったか」


 はい。


「それで決めろ」


 胸の奥。


 少し。


 軽くなる。


「……難しいです」


「分かっている」


「事故が起きたら」


「後悔する?」


「たぶん」


「していい」


 その返事。


 エレナが。


 少し驚く。


「いいんですか?」


「後悔と判断の誤りは同じじゃない」


「……」


「心配も」


 クロムウェルは。


 エレナを見る。


「愛情も」


 少し。


 私的な声。


「仕事の妥当性とは別だ」


 エレナは。


 少し笑う。


「私たち、そればかり話していますね」


「必要だからな」


「付き合い始めてから」


「普通の恋人はもっと違う話をする?」


「たぶん」


「何を?」


「知りません」


「なら問題ない」


 少し。


 笑う。


 肩。


 楽になる。


「クロムウェル様」


「何だ」


「もし」


「うん」


「私が現地に行くべき役割になったら」


「止めたい」


「即答ですね」


「恋人としては」


「皇帝としては?」


「行かせる」


「嫌そう」


「かなり」


 エレナは。


 笑った。


「ありがとうございます」


「何が」


「ちゃんと嫌がってくれること」


 クロムウェルが。


 少し。


 黙る。


「でも」


 エレナ。


「ちゃんと仕事として判断してくれることも」


 どちらも。


 嬉しい。


「欲張りだな」


「最近、自覚しています」


 その夜。


 研究院へ戻る。


 遅くまで残らない。


 定時通信だけ。


 それを。


 自分で決めた。


 午後十時。


 受信。


 現地。


『天候やや回復』


『地下魔力概算プラス五〇前後で推移』


『大気プラス一八』


『隊員異常なし』


 そして。


『明朝、第二観測点へ進行』


 エレナは。


 紙を見る。


 心配。


 ある。


 かなり。


 でも。


 今。


 自分ができること。


 通信状態。


 確認。


 支援装置。


 確認。


 撤退条件。


 確認。


 全部。


 整っている。


「帰ります」


 エレナが言う。


 ノアが。


 顔を上げる。


「本当に?」


「はい」


「定時報告来たばかりですよ」


「見ました」


「次の臨時通信は?」


「夜勤担当が受けます」


「起こす条件は?」


「撤退基準到達。重大故障。人的異常」


「それ以外は?」


「朝」


 ノアが。


 少しだけ。


 驚いた顔。


「主任」


「はい」


「成長」


「言うと思いました」


「かなり」


「それも」


 二人で。


 少し笑う。


 翌朝。


 エレナが研究院へ来る前。


 夜勤から。


 一通。


 緊急ではない報告。


 机の上に。


 置かれていた。


『第二観測点到着』


『大気魔力プラス二一』


『地下流動方向、第一観測点と一致』


『深部測定準備開始』


 エレナは。


 紙を持ったまま。


 少し。


 息を吐く。


 行かなかった。


 それでも。


 観測隊は。


 進んだ。


 装置も。


 動いている。


 通信も。


 届いた。


 そして。


 そこに。


 自分のいない場所で。


 他国の技師が。


 自分たちのやり方で。


 仕事をしている。


 寂しさは。


 なくならない。


 でも。


 昨日より。


 誇らしさのほうが。


 少しだけ。


 大きかった。


 エレナは。


 第二観測点の位置へ。


 新しい印を置いた。


 行くことだけが。


 責任ではない。


 行かないことも。


 任せることも。


 帰れと言えることも。


 そして。


 遠くから支えることも。


 責任なのだ。


 そのことを。


 ようやく。


 頭だけでなく。


 少しずつ。


 自分の中で。


 信じられるようになっていた。

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