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第46話 好きです。でも、仕事を辞めるつもりはありません

 国際合同魔導災害対策会議の開会を翌日に控えた朝、エレナは国家魔導技師長室の机へ、一枚の書類を置いた。


 世界規模の魔力異常についてまとめた資料ではない。


 カルディア王国から送られてきた観測記録でも、エルグラン王国の地下魔力井戸の報告でもなかった。


 もっと短く。


 もっと個人的で。


 だからこそ、エレナにとっては、ここ数日で一番扱いに困る紙だった。


『皇帝陛下との私的関係に関する利益相反管理案』


「……朝から何を作ってるんですか」


 背後からリナの声がした。


 エレナは反射的に紙を伏せた。


「何も」


「今、隠しましたよね」


「まだ正式書類ではないので」


「何の?」


「まだです」


「そこまで言われると気になりますけど」


「気にしないでください」


 リナはエレナの顔を見て、それ以上は聞かなかった。


 代わりに、机の上へ朝の茶を置く。


「今日、陛下と会うんでしたっけ」


「はい」


「公務?」


「最初は」


「最初は?」


 余計な一言だった。


「会議前の最終確認です」


「その後は?」


「……少し、お話があります」


 言ってしまうと。


 胸が急にうるさくなる。


 リナは少しだけ目を細めた。


「ついに?」


「何がです?」


「私は何も言ってません」


「その顔で分かります」


「エレナさんも人の顔を読めるようになりましたね」


「最近、周りの方に鍛えられたので」


 エレナは茶を飲もうとする。


 少し熱かった。


 口をつけ。


 すぐ置く。


「緊張してます?」


「かなり」


「国際会議より?」


 エレナは答えに詰まった。


 明日は六か国以上の代表が集まる。


 政治家。


 技術者。


 軍。


 外務。


 医療。


 農業。


 地下魔力研究者。


 観測規格ひとつ決めるにも、国益がぶつかる。


 それはもちろん怖い。


 でも。


「種類が違います」


 ようやく答えた。


「会議は、資料を準備できます」


「今日の話は?」


「準備しています」


 伏せた紙を見る。


 リナも見る。


「……恋愛の話に書類持っていくんですか?」


「必要なので」


「何に?」


「もし、今後、私とクロムウェル様の関係が正式に変わるなら」


 そこまで言って。


 エレナは少し言葉を選んだ。


「仕事との線引きを、先に決めたいんです」


 リナが数秒黙った。


「エレナさんらしいですね」


「変ですか?」


「かなり」


「やっぱり」


「でも悪くないです」


 その言葉に少し安心する。


「ただ」


 リナは続ける。


「告白より先に利益相反規程を渡すのは、たぶん普通ではないです」


「告白って言わないでください」


「じゃあ何です?」


「……返事です」


「同じでは?」


「少し違います」


 クロムウェルは。


 とっくに言っている。


 自分を愛おしいと思っている、と。


 好きになってもらう努力をすると。


 返事は急がないと。


 ずっと。


 待ってくれていた。


 エレナも。


 もう、自分の気持ちを分かっている。


 会いたい。


 帰ってくると嬉しい。


 仕事以外の時間を一緒に過ごしたい。


 遠くにいれば声を聞きたい。


 必要だからではなく。


 いてほしい。


 そこまで分かって。


 まだ「好きです」とだけ言っていなかった。


 怖かったから。


 一度、誰かと将来を約束して。


 その関係の中で。


 自分の仕事も。


 自分の価値も。


 少しずつ相手の名前へ溶けていった。


 もう二度と。


 同じことになりたくない。


 でも。


 クロムウェルは。


 何度も。


 違うと示してきた。


 仕事と愛情は別。


 役職と人間の価値は別。


 愛するからといって、選択を奪わない。


 だから。


 今度は。


 自分から言う番だった。


「リナさん」


「はい」


「もし」


 エレナは少し迷い。


「もし私が、陛下と正式にお付き合いすることになったら」


「はい」


「研究院では今までどおりにしてください」


「どの意味で?」


「注意もしてください」


「します」


「働きすぎたら止めてください」


「止めます」


「皇帝陛下の……その、恋人だからって」


 言葉にして。


 一気に顔が熱くなる。


「遠慮しないでください」


 リナは真顔で頷いた。


「むしろ今より止めやすくなるかもしれません」


「どうして?」


「陛下ご本人に通報できます」


「それは困ります」


「効くでしょう?」


「かなり」


「なら採用です」


「勝手に制度化しないでください」


 少し笑った。


 そのおかげで。


 呼吸が楽になる。


 午前中は。


 国際会議の最終準備だった。


 参加国ごとの観測規格差。


 機密区分。


 共有可能な障害情報。


 国境を越える警報符号。


 自国の責任者。


 議長国。


 通訳。


 エレナは。


 以前なら全部へ口を出しただろう。


 今日は。


 必要なところだけ。


「カルディア側は、最低値だけでなく低下開始時刻を最優先共有したいそうです」


 外務官が言う。


「賛成です」


「エルグランは地下魔力井戸の正確な位置を伏せたい」


「地域単位で十分です」


「南方二国は、観測器そのものを持っていない地域が多い」


「簡易測定器を貸し出します。ただし帝国製だけにしないほうがいいです」


「なぜ?」


「共通規格なのに、帝国だけが測定器を供給すると、規格そのものを帝国が支配しているように見えます」


 外務官が少し感心したように頷く。


「カルディアにも製造を?」


「はい。仕様を公開して、認定だけ共通化したほうがいいと思います」


「技術流出は?」


「環境観測専用なら許容範囲です。軍用精度とは分けます」


 以前より。


 外交の考え方が。


 ほんの少しだけ分かる。


 全部渡す。


 全部隠す。


 その二択ではない。


「技師長殿」


 外務官が資料を閉じた。


「明日はかなり荒れると思います」


「ですよね」


「怖い?」


「はい」


「意外と素直ですね」


「最近、怖くないふりをやめました」


「良い傾向です」


「褒めています?」


「かなり」


 また。


 その言い方。


 少し笑って。


 会議を終えた。


 午後。


 エレナは宮殿へ向かった。


 カミラが護衛につく。


 研究院から宮殿までの道は。


 もう何度も通っている。


 以前なら。


 呼ばれた理由が仕事なら安心した。


 仕事なら。


 何を話せばいいか分かるから。


 今日は。


 仕事の資料も持っている。


 でも。


 鞄の一番上には。


 例の一枚。


 それが。


 異様に重い。


「技師長殿」


 馬車の中で。


 カミラが前を見たまま言った。


「はい?」


「先ほどから鞄の留め具を三回確認されています」


「そんなに?」


「はい」


「開いていたら困るので」


「全部閉まっています」


「ありがとうございます」


 少し間。


「緊張されていますか」


「……見えます?」


「かなり」


 また。


 それ。


「カミラさんまで」


「何か?」


「いえ」


 宮殿へ着く。


 クロムウェルの執務室。


 いつもどおり。


 扉。


 護衛。


 書類。


 大きな机。


 でも。


 今日は。


 少し違って見えた。


「来たか」


 クロムウェルが顔を上げる。


「はい」


「国際会議の最終確認?」


「まずは」


「まずは?」


 同じ反応。


「……皆さん、そこ拾うんですね」


「何の話だ」


「いえ」


 仕事から始めた。


 そのほうが。


 エレナも落ち着く。


 観測情報共有の最低項目。


 共通警報符号。


 軍事情報との切り分け。


 議事録の公開範囲。


 災害技術共有の原則。


「帝国側は」


 エレナが言う。


「最初から全部出しすぎないほうがいいです」


「以前の君なら逆を言ったな」


「はい」


「変わった」


「外交担当の方に何度も止められたので」


「人は失敗で学ぶ」


「私だけではなく制度として残します」


「さすがだ」


 いつもの調子。


 でも。


 頭の半分は。


 仕事の後にある。


 クロムウェルにも。


 たぶん気づかれている。


 いつもより。


 エレナが資料をめくる手が慎重だから。


「これで最後です」


 エレナは。


 国際会議資料を閉じた。


「分かった」


「では」


「うん」


 間。


 静か。


 窓の外から。


 宮殿中庭の噴水の音が。


 わずかに聞こえる。


「もう一つ」


 エレナは言った。


「あります」


「聞こう」


 クロムウェルの声は。


 仕事のときより少し柔らかい。


 それだけで。


 心臓が速くなる。


「その前に」


 エレナは鞄から。


 例の紙を出した。


 クロムウェルが見る。


「書類?」


「はい」


「何の?」


「もし、これから私たちの関係が変わる場合の」


 喉が少し乾く。


「利益相反管理案です」


 数秒。


 クロムウェルは。


 本当に。


 何も言わなかった。


「……クロムウェル様?」


「いや」


「変ですか?」


「君らしいと思っている」


「リナさんにも言われました」


「告白前に規程案を持ってくる女性は、帝国でも珍しいだろうな」


「まだ告白とは」


「違うのか?」


 逃げ道を。


 先に塞がれた。


「……たぶん」


「たぶん?」


「ほぼ」


「ほぼ告白」


「言わないでください」


 クロムウェルが。


 少し笑った。


 笑われた。


 でも。


 嫌ではない。


「見ても?」


「はい」


 紙を渡す。


 内容。


 一。


 エレナが国家魔導技師長として扱う案件に皇帝個人の利害が直接関係する場合、両者とも決裁から外れる。


 二。


 研究費・人事・昇進について、皇帝から国家魔導技師長への個別指示を禁止。


 三。


 国家魔導技師長の評価は独立監査委員会および研究院による複数審査。


 四。


 私的な贈与と公的研究設備を明確に区分。


 五。


 将来、身分上の関係が変化した場合も、研究職を辞するかどうかはエレナ本人が決定する。


 そこまで読んで。


 クロムウェルが顔を上げた。


「最後」


「はい」


「ずいぶん先まで考えたな」


 エレナの顔が熱くなる。


「可能性としてです」


「身分上の関係が変化」


「具体的に書くと」


「結婚?」


「言わないでください!」


 思ったより大きな声が出た。


 扉の外の護衛に聞こえていないだろうか。


「……声を下げます」


「私は普通に聞いただけだ」


「普通ではありません」


「規程案には書いてある」


「直接は書いていません」


「意味は同じだ」


「そうですけど」


 クロムウェルは。


 もう一度紙を見る。


「研究職を辞さない」


「はい」


 今度は。


 エレナも真面目に答えた。


「そこは、先に言っておきたいです」


「言ってくれ」


「もし」


 手を膝の上で組む。


「私が、あなたと正式にお付き合いすることになっても」


 その言葉だけで。


 鼓動が速い。


「将来、もっと関係が進んだとしても」


 具体的には。


 まだ言えない。


「私は、研究を辞めるつもりはありません」


 クロムウェルは。


 黙って聞いている。


「国家魔導技師長を永遠に続けるかは分かりません。任期がありますし、次の方へ譲ることもあると思います」


「うん」


「でも、魔導具を作ることは」


 そこだけは。


 迷わない。


「やめたくありません」


 言えた。


「研究も」


 続ける。


「工房も」


 自分の手で。


 作る場所。


「たとえ」


 少しだけ。


 怖い。


「皇帝陛下の隣にいる立場になったとしても」


 クロムウェルは。


 すぐ答えなかった。


 エレナの胸が。


 少し冷える。


 もし。


 ここで。


 違うと言われたら。


 皇帝の恋人。


 あるいは将来。


 それ以上。


 そうなれば。


 求められるものも変わる。


 宮廷。


 外交。


 儀礼。


 皇族としての役目。


 分かっている。


 全部を。


 何も変えずにはいられない。


 でも。


 自分を全部変えて。


 愛されるのは。


 もう嫌だった。


「エレナ」


 クロムウェルが言う。


「はい」


「私は」


 少し。


 口元が緩む。


「君が研究を辞めると言ったら、かなり困る」


 エレナが瞬く。


「困る?」


「ああ」


「どうして?」


「君が三日もたない」


「またそれですか」


「今回は本気だ」


 クロムウェルは。


 少し笑う。


「君から研究を取り上げて、宮殿で一日中茶会と儀礼だけさせたら」


「……」


「一週間以内に何かの魔導具を分解する」


「そこまでは」


「三日目に侍女用呼び出し鐘の効率改善を始める」


「……ありそうですね」


「五日目には宮殿照明の配線を変える」


「それも」


「一週間後には予算申請が来る」


「否定できません」


 二人で。


 少し笑った。


 そのあと。


 クロムウェルの声が。


 真面目になる。


「私は」


「はい」


「仕事を辞めた君が欲しいわけではない」


 胸が。


 静かになる。


「魔導技師でなくなった君でも大切に思う」


 クロムウェルは続ける。


「でも、それは」


 少しだけ。


 言葉を選ぶ。


「君から技術を奪ってもいいという意味ではない」


 エレナは。


 目を伏せそうになる。


 でも。


 見た。


「君が作りたいなら作ればいい」


「はい」


「研究したいなら続ければいい」


「はい」


「国家魔導技師長を辞めたい日が来れば、辞めてもいい」


「はい」


「続けたいなら、制度上認められる限り続ければいい」


「はい」


「私の隣にいることと」


 クロムウェルは。


 はっきり言った。


「君の人生を私の所有物にすることは、同じではない」


 その言葉に。


 胸の奥。


 昔から。


 固く残っていたものが。


 少し。


 ほどけた。


「……はい」


 声が。


 少しだけ震えた。


「それを」


 クロムウェルは言う。


「最初に約束する」


 エレナは。


 手元の規程案を見る。


「では」


「うん」


「この案」


「通そう」


「本当に?」


「むしろ必要だ」


「私たちが正式に」


 また。


 そこで。


 止まる。


 クロムウェルが待つ。


 急かさない。


 やっぱり。


 この人は。


 ずっと。


 待ってくれる。


 だから。


 今度は。


 自分から。


 進まなければならない。


「クロムウェル様」


「何だ」


 エレナは。


 深く息を吸った。


 今まで。


 何度も。


 近いところまで言った。


 会いたい。


 嬉しい。


 いてほしい。


 帰ってきてくれて嬉しい。


 でも。


 今日は。


 逃げない。


「私は」


 少しだけ。


 笑った。


「あなたが好きです」


 言った。


 思っていたより。


 静かな言葉だった。


 でも。


 言った瞬間。


 胸の奥が。


 急に軽くなる。


「……好きです」


 もう一度。


 今度は。


 少しだけ強く。


「クロムウェル様のことが」


 クロムウェルは。


 何も言わなかった。


 エレナは。


 少し不安になる。


「……何か」


「待っている」


「何を?」


「続きがある顔をしている」


 分かるのか。


「あります」


 やっぱり。


 この人には。


 隠せない。


「でも」


 エレナは言った。


「仕事を辞めるつもりはありません」


 一瞬。


 静か。


 そのあと。


 クロムウェルが。


 堪えきれないように。


 少し笑った。


「そこまで一組なのか」


「大事なので」


「分かっている」


「本当に?」


「ああ」


「好きと言った直後に、仕事の話をする女性でも?」


「君だろう」


 短い。


 でも。


 その答えが。


 とても嬉しかった。


「むしろ」


 クロムウェルは続ける。


「それを言う君だから好きになった」


 エレナの顔が。


 また熱くなる。


「そういう返し」


「何だ」


「ずるいです」


「今日何度目だ」


「まだ一回目です」


「では少ないな」


「増やさなくていいです」


 笑う。


 でも。


 泣きそうでもある。


 不思議だった。


 悲しくない。


 怖くもない。


 ただ。


 長く。


 言えなかったことを。


 やっと言えた。


「エレナ」


「はい」


「私も君が好きだ」


 今まで。


 愛おしいと。


 言われた。


 何度も。


 気持ちは。


 知っていた。


 それでも。


 同じ言葉で返されると。


 違う。


「愛している」


 さらに。


 クロムウェルは。


 静かに言った。


「でも」


 少しだけ。


 いたずらっぽく。


「仕事は辞めなくていい」


 エレナは。


 思わず笑った。


「そこ、わざわざ返すんですか」


「大事なんだろう?」


「大事です」


「なら」


 クロムウェルは。


 机の上の規程案へ手を置く。


「まずは正式に交際しよう」


 言葉として。


 はっきり。


 出た。


「交際」


「ああ」


「皇帝陛下と?」


「私と」


「同じでは」


「今は私事だ」


 その言い方。


 前にも聞いた。


「私も」


 エレナは頷く。


「そうしたいです」


「なら決まりだ」


 簡単。


 なのに。


 そこまで来るのに。


 随分時間がかかった。


「ただし」


 エレナが言う。


「はい?」


「正式にお付き合いすると、公表するんですか?」


 現実へ戻る。


 クロムウェルも。


 すぐ切り替わる。


「必要な範囲では」


「全部?」


「今すぐ国民へ婚約発表するわけではない」


「こ、婚約」


「していないだろう」


「分かっています」


「だから落ち着け」


「急に単語を出すからです」


 クロムウェルが笑う。


「交際そのものは、宮内府と監査委員会には届ける」


「利益相反のため?」


「ああ」


「研究院にも?」


「人事上必要な範囲で」


「新聞には?」


「聞かれれば隠さない」


「自分からは?」


「今はしない」


 エレナは。


 ほっとする。


「そのほうがいいです」


「理由は?」


「明日、国際会議なので」


「そこか」


「今、発表したら新聞が全部そっちになります」


「確かに」


「世界の魔力異常より、皇帝陛下の恋愛のほうが見出しになったら困ります」


「国民はそちらを読むかもしれない」


「だから困ります」


「それは少し面白い」


「面白くありません」


 二人で。


 また笑った。


 そのあと。


 規程案を。


 本当に詰める。


 皇帝からエレナへの研究予算直結は禁止。


 私的な贈り物。


 公的設備。


 明確に記録。


 エレナが皇帝個人に関係する装備を設計する場合。


 別技師の安全審査を必須。


「そこまで?」


 クロムウェルが聞く。


「必要です」


「私の私物の魔導灯でも?」


「高価なものなら」


「君が贈ってくれるなら?」


「私費で材料を買います」


「真面目だな」


「後で『皇帝の恋人だから国家予算で贈った』と言われたくないので」


「分かった」


 さらに。


「あと」


 エレナが言う。


「私が人事審査対象になった場合」


「うん」


「陛下は完全に外れてください」


「元からそのつもりだ」


「口も出さない」


「出さない」


「意見も」


「求められても?」


「正式記録に残る形なら」


「細かいな」


「大事です」


「分かった」


 クロムウェルは。


 一つずつ。


 全部受け入れる。


 それが。


 嬉しかった。


 愛しているから。


 特別扱いする。


 ではなく。


 愛しているからこそ。


 特別扱いだと疑われない仕組みを作る。


「逆に」


 クロムウェルが言った。


「私からも条件がある」


 エレナが少し身構える。


「何でしょう」


「私との交際を理由に」


 静かな声。


「君が必要以上に仕事を断るな」


「え?」


「『皇帝の恋人だから選ばれたと思われる』と怖がって、本来受けるべき仕事まで避けるな」


 エレナは。


 すぐ答えられなかった。


 あり得る。


 自分なら。


 やりそうだ。


「評価されたなら受けろ」


「でも」


「監査を通せばいい」


「はい」


「君が実力で得たものまで」


 クロムウェルは言った。


「私との関係のせいで手放すな」


 胸の奥が。


 また。


 少し熱くなる。


「……分かりました」


「約束できる?」


「努力します」


「そこは約束ではないな」


「かなり難しいので」


「正直だ」


「でも」


 エレナは。


 少し考え。


「逃げないようにします」


「それでいい」


 話が。


 全部。


 終わった。


 仕事。


 制度。


 交際。


 利益相反。


 研究。


 将来。


 あまりに。


 エレナらしい始まり方だと思う。


 恋人になる話を。


 こんなに書類で確認する人は。


 たぶん少ない。


 でも。


 これでいい。


 これが。


 自分たちなのだと思う。


「……では」


 エレナは。


 少し困った。


「何だ」


「ここから」


「うん」


「どうするんです?」


「何が」


「恋人になったので」


 クロムウェルが。


 完全に黙った。


「分からないんですか?」


「君は分かる?」


「分かりません」


「では同じだな」


 皇帝と国家魔導技師長。


 世界規模の危機に。


 制度を作り。


 他国と交渉し。


 何万人分のインフラを考えられる二人が。


 恋人になった直後。


 何をすればいいか分からない。


 それが。


 妙に可笑しい。


「とりあえず」


 クロムウェルが言う。


「茶でも飲むか」


「いつもと同じですね」


「急に変える必要がある?」


「ありません」


「ならそれでいい」


 それも。


 とても安心した。


 急に。


 距離を変えなくていい。


 急に。


 触れなくても。


 呼び方を変えなくても。


 いつものように。


 ただ。


 意味だけが。


 少し変わる。


 お茶が運ばれる。


 護衛や侍従は。


 当然いる。


 だから。


 完全な二人きりではない。


 それでも。


 エレナは。


 さっきまでより。


 少し近く感じる。


「クロムウェル様」


「何だ」


「一つだけ」


「うん」


 エレナは。


 机の上へ置いた手を。


 少しだけ前へ出す。


 前に。


 帰ってきた彼の袖へ。


 自分から触れたことがある。


 今日は。


 もう少し。


「手」


 言うのが恥ずかしい。


「手?」


「……つないでもいいですか」


 クロムウェルは。


 すぐ動かなかった。


「いいのか?」


 やっぱり。


 聞いてくれる。


「はい」


 エレナが答えると。


 初めて。


 クロムウェルの手が。


 こちらへ伸びる。


 ゆっくり。


 逃げられる速さで。


 指先が触れる。


 手のひら。


 温かい。


 思っていたより。


 大きい。


 エレナは。


 少しだけ。


 自分から指を絡めた。


 クロムウェルの手が。


 それに応える。


 強く握らない。


 ただ。


 そこにいる。


「……これ」


 エレナが小さく言う。


「はい?」


「かなり恥ずかしいですね」


「今さら?」


「言葉より」


「私は逆だ」


「そうなんですか?」


「君が『好きです』と言ったほうが」


 クロムウェルは。


 ほんの少し笑う。


「かなり効いた」


 顔が熱い。


「言わないでください」


「嬉しかった」


「もっと言わないでください」


「無理だ」


「ずるいです」


「知っている」


 少しの間。


 そのまま。


 手をつないでいた。


 何か特別なことが起きるわけではない。


 世界の魔力異常も。


 明日の国際会議も。


 全部。


 残っている。


 でも。


 そのすべてを抱えたまま。


 こんな時間があっていい。


 そう思えた。


「エレナ」


「はい」


「明日」


「はい」


「国際会議では」


 クロムウェルが。


 仕事の顔へ少し戻る。


「私は皇帝として君を見る」


「私も、国家魔導技師長としてお話しします」


「私的な関係は持ち込まない」


「はい」


「終わったら?」


 エレナは。


 少し考える。


「恋人として、お茶に行きたいです」


 今度は。


 自分から言えた。


「喜んで」


 それで。


 十分だった。


 宮殿を出る頃。


 夕方の風が。


 少し冷たくなっていた。


 カミラが。


 馬車の横で待っている。


 エレナを見る。


 一瞬だけ。


 何かに気づいたような顔をした。


「……何です?」


「いえ」


「顔に出ています?」


「かなり」


 もう。


 諦めた。


「今日は隠しません」


 カミラが。


 少しだけ。


 笑った。


 研究院へ戻ると。


 リナがまだいた。


 書類を片づけながら。


 エレナを見る。


 そして。


 何も聞かず。


「おめでとうございます」


 と言った。


「まだ何も言ってません」


「顔」


「ですよね」


「かなり」


 エレナは。


 笑った。


「はい」


 そして。


 今度は。


 自分から言う。


「お付き合いすることになりました」


 リナが。


 両手を止める。


「本当に?」


「はい」


「陛下と?」


「他に誰がいるんです?」


「確認です」


「はい。クロムウェル様と」


「告白は?」


 エレナの顔が。


 また熱くなる。


「しました」


「何て?」


「そこまで言いません」


「仕事辞めませんも?」


「……言いました」


 リナが。


 机へ突っ伏した。


「やっぱり!」


「何です?」


「絶対セットで言うと思ってました」


「大事なので」


「陛下、何て?」


「困るって」


「研究辞めたら?」


「はい」


 リナが。


 しばらく笑っている。


「笑いすぎです」


「すみません。でも」


 顔を上げる。


「よかったですね」


「はい」


 エレナは。


 今度こそ。


 迷わず答えた。


「すごく」


 その夜。


 明日の国際会議に備えて。


 エレナは。


 いつもより早く研究院を出た。


 机の上には。


 世界規模の魔力異常についての資料。


 国際警報符号案。


 各国観測表。


 そして。


 端に。


 正式提出前の。


『私的関係に関する利益相反管理案』


 全部。


 明日以降も。


 必要なもの。


 恋をしたから。


 仕事を捨てるわけではない。


 仕事を続けるから。


 恋を諦めるわけでもない。


 どちらかを選ばなくていい。


 それを。


 ようやく。


 信じられるようになった。


 好きな人がいる。


 自分の仕事も好きだ。


 どちらも。


 自分で選んだ。


 だから。


 どちらも。


 大切にしていい。


 そして翌日。


 国境を越えた技師たちが。


 帝都へ集まり始める。


 世界の魔力が揺れる中。


 エレナは。


 今度は。


 一人の天才としてではなく。


 多くの人と並ぶ。


 一人の技術者として。


 世界規模の問題へ向き合うことになる。

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