第45話 君が世界を背負う必要はない
三か国同時観測の翌朝から、国家魔導技師長室には、世界が紙になって押し寄せてきた。
カルディア王国から、大気魔力低下時の都市給水対策について照会。
エルグラン王国から、地下魔力井戸の出力低下と鉱山設備への影響評価。
南方のローディア公国から、夜間に街全体の魔導灯が一時的に暗くなったという報告。
東部の小国からは、結界農園の一部が短時間停止したため、アルヴァレス帝国が使っている保温結界の設計資料を共有できないかという要請。
帝国内からも当然来る。
軍。
農業。
医療。
水道。
通信。
交通。
財政。
外務。
同じ日の昼前には、エレナの机の左側に積まれた未処理書類が、座った彼女の顔を隠す高さになっていた。
「……これは、少し多いですね」
書類の横から顔を出して言うと、リナが呆れたように腕を組んだ。
「少し?」
「かなり」
「かなり?」
「ものすごく」
「最初からそれを言ってください」
エレナは一枚目を取った。
「でも、順番に読めば」
横から抜かれた。
「何をするんです?」
「今、何枚目?」
「まだ一枚目です」
「昨夜は何時に寝ました?」
エレナは答えなかった。
リナの目が細くなる。
「何時です?」
「……研究院を出たのは、二時です」
「寝た時間」
「三時前くらい」
「起きたのは?」
「六時半」
「没収」
「待ってください」
リナは書類を抱えたまま離れる。
「重要なんです」
「全部重要です」
「だから読みます」
「全部あなたが?」
「国家魔導技師長なので」
言ってから。
自分で少し引っかかった。
ついこの前。
自分がいなくても回る国にしたいと言った。
分野責任者も置いた。
仕事を分けた。
それなのに。
世界規模の問題になった途端。
また。
全部を自分で確認したくなっている。
分かっている。
でも。
「今回だけは」
エレナは言った。
「今回だけは範囲が広すぎます。情報が分かれていたら、全体像を見落とすかもしれません」
「だから?」
「私が一度まとめて」
「駄目です」
リナではない。
扉のところから。
ミレイアの声がした。
白衣の袖をまくりながら入ってくる。
「聞こえてたわよ。すごく懐かしい台詞ね」
「懐かしい?」
「『私が一度全部見ます』」
「……前にも言いました?」
「何度も」
ミレイアは机の前まで来ると、未処理書類の山を見上げた。
「それで倒れた」
「今回は倒れません」
「倒れる人はだいたいそう言うの」
「でも」
「却下」
「ミレイアさん」
「国家魔導技師長は、倒れるまで働いていい特別資格じゃないわ」
痛い。
正しい。
でも。
今は事情が違う。
そう言いたくなる。
「世界規模かもしれないんです」
「知ってる」
「各国で同じ夜に」
「知ってる」
「原因も」
「分かってない。知ってる」
「なら」
「だからこそ、一人で抱えるなと言ってるの」
ミレイアは書類の山から一束を抜き取った。
「これは医療」
「はい」
「アメリアへ」
次。
「農業」
「マティアスさん」
「通信」
「ノアさん」
「公共設備」
「グレゴールさん」
「軍事」
「ハロルドさん」
「交通」
「ユルゲンさん」
次々。
分けられていく。
エレナの机から。
書類が減っていく。
「待ってください」
「何」
「それぞれの結果は、私にも」
「要約だけ来る」
「原本も」
「必要なら」
「全部」
「必要なら」
「でも」
ミレイアが紙を机へ置いた。
「エレナ」
呼び方が。
少し変わった。
冗談ではない。
「あなた、また前に戻ってる」
エレナは黙る。
「『自分がやらないと』って」
図星だった。
その言葉は。
昔。
ガイウスの工房でも。
帝国へ来てからも。
何度も自分を動かした。
自分がやれば早い。
自分が見れば安心。
自分が倒れても。
他の人が困らなければ。
「でも今回は」
エレナが言いかける。
「今回は何?」
「……範囲が」
「広いから?」
「はい」
「じゃあなおさら一人で無理」
ミレイアの返事は。
とても単純だった。
そして。
それだけに。
反論しにくい。
「あなたは世界の全部の井戸を知らない」
「はい」
「全部の畑も」
「はい」
「全部の治療院も」
「……はい」
「全部の国の制度も知らない」
「はい」
「なら、一人で見たって分からないでしょう」
そうなのだ。
世界が広がったなら。
自分の手を広げるだけでは足りない。
人を増やすしかない。
「でも」
エレナは小さく言った。
「まとめる人は必要です」
「いるわ」
「誰が?」
「あなた」
エレナが顔を上げる。
ミレイアは少し笑った。
「全部やる人じゃなくて」
書類を分ける。
「全部を繋ぐ人として」
その違い。
分かっていたつもりだった。
でも。
本当に大きな問題が来たら。
すぐ昔の癖へ戻った。
「……はい」
エレナはゆっくり頷いた。
「では、分けます」
「最初からそうしなさい」
「でも、一時間ごとに要約を」
「三時間」
「一時間半」
「二時間」
「……分かりました」
リナが小さく笑った。
「交渉が早くなりましたね」
「慣れました」
「その慣れ方でいいんでしょうか」
結局。
各分野へ情報を分配。
国家魔導技師長室には。
横断的に必要なものだけ残した。
大気魔力濃度。
地下魔力井戸。
発生時刻。
回復時刻。
地域別の設備障害。
国別の観測規格。
そして。
各部門の対策状況。
机の上は。
半分以下になった。
それでも。
十分多い。
午後。
最初の横断会議。
エレナは。
自分から答えを出そうとしなかった。
「医療」
アメリアが報告する。
「自然魔力依存の補助器具について、緊急度ごとに分類したわ。救命に直接関わる装置は優先して独立魔石へ。全部入れ替えるのは無理だから、まず重症病棟と地方救護」
「魔石量は足ります?」
「今の備蓄なら二週間。長期化するなら別問題」
「分かりました」
「農業」
マティアス。
「北部は保温結界の運用手順がもうある。問題は中部と西部だ。今まで凍害対策が必要なかった地域に設備が少ない」
「簡易型は?」
「作れる。ただし農地全部は無理だ」
「では優先を」
「種苗、生産量の高い区画、越冬作物。農業側で決める」
エレナは頷く。
決めてもらう。
自分ではなく。
「通信」
ノア。
「魔力低下時の反射と減衰が確認されています。最低限警報モードへの自動切替を検討中。ただし自動化しすぎると誤作動が怖いので、まず半自動にします」
「人が確認して切り替える?」
「はい」
「いいと思います」
「軍」
ハロルド。
「前線装備より基地設備が問題だ。各地の結界・保管庫・通信設備を自然魔力依存率で分類中。軍内部で優先順位はつける」
「外部支援は?」
「必要になったら言う」
短い。
でも頼もしい。
「公共設備」
グレゴール。
「水道は都市ごとの差が大きい。古い都市ほど自然魔力補助が多い。全部更新すると国家予算が死ぬ」
「……言い方」
「事実だ」
「はい」
「なので、まず切替手順の整備。予備魔石を持っていても、現場が切替方法を知らんところがある」
「そこから?」
「そこからだ」
エレナは。
少し驚いた。
新しい装置を作るより。
既存設備の操作訓練。
それで助かる場所がある。
「分かりました」
記録する。
それぞれ。
自分の分野で。
考えている。
自分より。
詳しく。
現実的に。
会議が終わる頃。
エレナは少しだけ。
肩の力が抜けていた。
「技師長」
グレゴールが立ち上がりながら言う。
「お前さん、今日静かだったな」
「最近よく言われます」
「良いことだ」
「褒めています?」
「かなり」
最近。
皆同じ言い方をする。
「でも」
グレゴールは続ける。
「最後に決めるところは決めろ」
「はい」
「人へ振ることと、責任まで放るのは違う」
エレナは。
その言葉を真面目に受け取った。
「覚えておきます」
夕方。
外務部から。
さらに連絡が入った。
アルヴァレス帝国だけでなく。
カルディア。
エルグラン。
ローディア。
そして東部二国。
計六か国が。
共通の技術会議を求めている。
「六か国?」
エレナが資料を見る。
「はい」
外務担当官が答える。
「ただし」
「ただし?」
「全員が協力的なわけではありません」
「と言いますと」
「自国の観測データは欲しい。でも自分のデータは出したくない国も」
「……なるほど」
「帝国の通信技術や治癒瓶、農業保温技術だけを先に求めている国も」
「それは」
少し腹が立つ。
でも。
分からなくもない。
国なら。
自分の利益を守る。
「それから」
「まだ?」
「この異常を、他国の魔力使用が原因だと疑っている国もあります」
エレナの眉が寄る。
「証拠は?」
「ない」
「では」
「政治では、証拠がなくても疑念は生まれます」
技術者としては。
非常に面倒だ。
でも。
それも現実。
「会議を開くなら」
外務官が言う。
「技術者だけでは済みません」
「分かっています」
「政府代表も必要です」
「はい」
「各国がどこまで情報を出すか、先に枠組みを決める必要があります」
「災害情報だけは」
エレナが言う。
「政治的対立と切り離せませんか」
「理想としては」
「最低限」
観測時刻。
低下率。
回復。
設備への影響。
それだけでも。
「国境の隣で大きな低下が起きているのに、知らされないのは危険です」
「外務部でも同意見です」
少し安心した。
「では、国際合同会議を?」
「陛下へ上申します」
「お願いします」
外務官が退出したあと。
エレナは。
また机へ戻った。
残った資料。
六か国。
観測。
制度。
技術。
地図。
頭の中で。
全部を繋ごうとする。
帝国。
カルディア。
エルグラン。
遠くの国。
大気。
地下。
農地。
水道。
医療。
通信。
一つずつ。
でも。
気づけば。
外が暗い。
「……もう?」
時計を見る。
午後九時。
「リナさん?」
いない。
帰った?
いや。
違う。
机の上に。
紙が一枚。
『午後八時以降は仕事禁止。残っていたらミレイアさんへ報告します』
エレナは。
しばらく見た。
「……八時以降」
今。
九時。
「一時間だけ」
誰に言うでもなく。
資料へ手を伸ばす。
そのとき。
扉が開いた。
「何をしている」
聞き慣れた声。
エレナの手が止まる。
「クロムウェル様」
皇帝が。
扉のところに立っている。
顔が。
少し怖い。
「仕事を」
「見れば分かる」
「では何を」
「何時までやるつもりだった」
「……あと一時間くらい」
「誰にも言わず?」
「一人で集中したほうが」
「エレナ」
声が低い。
怒っている。
たぶん。
かなり。
「はい」
「立て」
「え?」
「帰る」
「でも」
「帰る」
「資料が」
「明日」
「国際会議の」
「明日」
「クロムウェル様」
「君が世界を背負う必要はない」
その言葉で。
エレナは。
止まった。
「……世界を背負う?」
「ああ」
「そんなつもりは」
「ある」
「ありません」
「ある」
クロムウェルは。
机の上の資料を見る。
「帝国の農業。医療。水。通信。軍。さらに六か国」
「まとめる必要が」
「まとめるのと、全部自分の頭へ入れるのは違う」
「でも」
「分からないなら言い方を変える」
クロムウェルは。
エレナの前まで来た。
「国家魔導技師長は、世界を一人で直す仕事ではない」
胸に。
刺さる。
「私は」
エレナは言葉を探す。
「一人で直そうとは」
「では、なぜ一人で残っている」
「それは」
「なぜ全部読む」
「見落としたくないからです」
「なぜ」
「誰かが困るかもしれないから」
「なぜ」
答えが。
少しずつ。
自分でも嫌なところへ近づく。
「……私が気づけば」
「うん」
「防げるかもしれないから」
「うん」
「だから」
「だから君が全部見なければならない?」
その問いに。
答えられない。
「エレナ」
クロムウェルの声が。
少し柔らかくなる。
「前にも言った」
「はい」
「君が壊れるくらいなら、発明などいらない」
昔。
倒れたとき。
言われた言葉。
「今は発明だけじゃない」
クロムウェルは続ける。
「制度も。国も。世界も」
エレナを見る。
「君が壊れてまで守る価値はない」
「でも」
「違うな」
クロムウェルは自分で言い直した。
「守る価値がないのではない」
少し考え。
「君一人を壊して守る仕組みなら、最初から間違っている」
それなら。
分かった。
エレナは。
しばらく机を見る。
「……怖いんです」
やっと。
言えた。
「何が」
「今度は」
声が少し震える。
「本当に大きすぎるから」
帝国だけなら。
まだ。
自分が知っている。
でも。
世界。
国境の向こう。
知らない町。
知らない人。
知らない設備。
「私が気づかなかったせいで、どこかの人が死んだら」
それが。
怖い。
「あとで資料を見て」
指先に力が入る。
「ここに兆候があったのにって分かったら」
「うん」
「たぶん、ずっと後悔します」
クロムウェルは。
すぐ。
慰めなかった。
「そうだろうな」
その返事に。
エレナは少し驚いた。
「否定しないんですか?」
「後悔はするだろう」
「……はい」
「君はそういう人間だから」
静かな声。
「でも」
クロムウェルは続ける。
「全部見ても、救えない人は出る」
厳しい。
でも。
本当だ。
「君が世界中の資料を読んでも」
クロムウェルは言う。
「すべての事故は防げない。すべての判断も当てられない」
「はい」
「それを自分の責任にし始めたら」
少し間を置く。
「君は永遠に休めない」
その通りだった。
世界が広い限り。
誰かは。
どこかで。
困っている。
それ全部を。
自分の責任にしたら。
終わらない。
「だから」
クロムウェルは。
机の上の資料を一束持つ。
「これは誰の担当だ」
表紙。
医療設備。
「アメリアさん」
別。
農業。
「マティアスさん」
通信。
「ノアさん」
軍。
「ハロルドさん」
「では?」
「……任せます」
「声が小さい」
「任せます」
「もう一度」
「任せます」
少し。
腹が立ってきた。
「何回言わせるんです?」
「三回で覚えるかと思った」
「子どもではありません」
「なら帰れ」
「それとこれは」
「同じだ」
クロムウェルが。
少し笑った。
怒っていた空気が。
少しだけ緩む。
「……ずるいです」
「何が」
「怒ってから笑うところ」
「君が言うことを聞かないからだ」
「聞いています」
「九時まで残って?」
「今から帰ります」
「よし」
エレナは。
本当に資料を閉じた。
鞄にも入れない。
一枚も。
それは。
少し怖かった。
でも。
扉を出る。
クロムウェルと。
一緒に。
翌朝。
研究院へ来ると。
世界は。
ちゃんと続いていた。
通信班は。
夜間の観測を交代制で終えている。
医療部は。
自然魔力依存設備の優先表を作っている。
農業部は。
簡易保温対策を各州へ配布。
公共設備局は。
都市ごとの切替訓練日程を組んだ。
軍は。
基地設備の分類を終えつつある。
自分が寝ている間に。
「……かなり進んでいますね」
エレナが言う。
リナが答える。
「でしょう?」
「私、昨日いませんでしたよね」
「いましたけど帰りました」
「それでも」
「回りました」
胸の中に。
少しだけ。
昔の寂しさ。
でも。
今は。
それより安心のほうが大きい。
「よかった」
素直に言えた。
午前。
六か国協議。
ただし。
今回。
エレナは最初から。
「自分が議長をする」とは言わなかった。
「技術部門と政治部門、分けたほうがいいと思います」
外務会議で提案する。
「各国政府同士の協議は外務部主導」
「技術部門は?」
「共同責任制に」
外務官が聞き返す。
「帝国主導ではなく?」
「はい」
「なぜ」
「帝国だけの問題ではないからです」
カルディアにも。
エルグランにも。
専門家がいる。
そして。
これから加わる国にも。
「帝国が全部教える形にすると」
エレナは言った。
「相手国の知識が入ってきません」
それは。
損だ。
「こちらが知らない古い記録や、違う観測方法があるかもしれない」
「では名称は?」
「国際合同魔導災害対策会議」
外務官が一瞬黙った。
「普通ですね」
「駄目ですか?」
「いえ。あなたにしては読みやすい」
「正式名称です」
「そこは相変わらずですね」
少し笑いが起きる。
組織案。
政治代表会議。
技術代表会議。
その下に。
観測。
医療。
農業。
公共設備。
通信。
地下魔力。
各専門部会。
「エレナ技師長は?」
「帝国代表の技術統括」
「議長ではない?」
「常任議長は持ち回りでもいいと思います」
「本当に?」
外務官が少し驚く。
「はい」
「この規模の会議を帝国で開くのに?」
「だからこそです」
帝国が。
全部を握らない。
そのほうが。
参加しやすい国もある。
「ただ」
エレナは続けた。
「災害観測情報については、共通規格だけ早く決めたいです」
「そこは譲らない?」
「はい」
政治的に仲が悪くても。
魔力低下は。
国境で止まらない。
「異常開始時刻。低下率。回復。重大設備障害」
最低限。
「ここだけは」
エレナは言う。
「誰の国だからという理由で隠さない仕組みにしたいです」
外務官は。
少し考え。
「難しいですが」
「はい」
「交渉してみましょう」
「お願いします」
午後。
各国へ。
正式招請。
『国際合同魔導災害対策会議』
アルヴァレス帝国帝都。
第一回会合。
参加予定。
六か国。
追加参加国。
調整中。
そして。
帝国側技術統括。
エレナ・ヴァリエ。
名前を見て。
エレナは。
以前なら。
少し怖かったかもしれない。
今も。
もちろん怖い。
でも。
その下に。
各専門部会責任者。
ずらりと名前が並んでいる。
アメリア。
マティアス。
ノア。
ハロルド。
グレゴール。
ユルゲン。
オルディス。
ミレイア。
さらに。
他国の技術者たち。
世界は。
一人で見るには広すぎる。
だから。
一人で見なくていい。
夕方。
クロムウェルへ正式決定を報告した。
「会議設立、承認されました」
「聞いている」
「帝国主導ではなく、共同責任制です」
「ああ」
「私、議長ではありません」
「不満?」
「全然」
すぐ答えられた。
「むしろ安心しました」
「成長したな」
「最近、それを言う役が減ってきたので、少し久しぶりです」
「では多めに言うか」
「それは要りません」
クロムウェルが笑う。
エレナも。
少しだけ。
笑った。
「クロムウェル様」
「何だ」
昨日。
言えなかったこと。
いや。
少し違う。
今だから。
言えること。
「私」
「うん」
「あなたがいるから、頑張れると思います」
言葉にすると。
恥ずかしい。
でも。
逃げなかった。
クロムウェルも。
何も言わず待っている。
「昨日も」
エレナは続ける。
「止めてもらって。今朝、ちゃんと皆さんが仕事を進めているのを見て」
少し息を吸う。
「一人で背負わなくていいって、やっと少し分かりました」
「それは良い」
「はい」
そして。
「でも」
ここは。
大事だった。
「あなたのためだけに頑張るわけではありません」
クロムウェルが。
ほんの少し。
目を細めた。
「国のためでもあるし」
「うん」
「研究が好きだからでもあるし」
「うん」
「仲間と一緒にやりたいからでもあるし」
「うん」
「自分で選んだから」
そこまで言って。
エレナは。
少し笑った。
「頑張ります」
クロムウェルは。
しばらく。
答えなかった。
それから。
「それでいい」
静かに言った。
「むしろ、それがいい」
「……はい」
「私だけのために生きられても困る」
「困るんですか」
「君は仕事を取り上げたら、三日で研究室へ逃げる」
「一日かもしれません」
「そこは否定しろ」
「無理です」
二人で。
笑った。
少しだけ。
そのあと。
クロムウェルが言う。
「エレナ」
「はい」
「私は」
言葉を選ぶように。
「君が私を必要とすることは嬉しい」
胸が。
少し熱くなる。
「でも」
続く。
「君が私だけを必要とするようにはなってほしくない」
エレナは。
その言葉を。
ゆっくり受け取った。
「……はい」
「君には、君の仕事があって」
「はい」
「仲間がいて」
「はい」
「私の知らないところで笑う時間もある」
その言い方が。
少し寂しそうで。
少し優しい。
「そのうえで」
クロムウェルは。
こちらを見る。
「私のところへ戻ってきてくれればいい」
胸の奥で。
何かが。
静かに決まっていく。
まだ。
言葉にはしない。
でも。
もう。
前ほど迷っていない。
「クロムウェル様」
「何だ」
「次の休み」
「うん」
「また、お茶に行きませんか」
クロムウェルの表情が。
少しだけ。
柔らかくなる。
「喜んで」
「今度は」
エレナは笑う。
「仕事の話、本当に禁止です」
「君が守れる?」
「……努力します」
「なら私も努力しよう」
「陛下もするんですか」
「君が破ったら私も話す」
「それでは禁止にならないです」
「難しいな」
笑いながら。
エレナは思った。
世界が。
少し怖い。
これから。
もっと大きな異常が来るかもしれない。
自分たちが。
まだ知らない危機。
止められないこと。
救えないことも。
きっとある。
それでも。
一人ではない。
そして。
誰かに支えられることは。
自分を失うことではない。
好きな人がいることも。
その人のためだけに生きることとは違う。
国際合同魔導災害対策会議。
開催まで。
あと六日。
世界の魔力が揺れ始めた今。
エレナは。
世界を一人で背負うことをやめた。
その代わり。
世界のどこかで。
同じ問題に向き合っている人たちと。
一緒に持つことを。
選んだ。




