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第44話 世界中の魔力が、同じ夜に揺れた

 その夜を「同時観測夜」と呼ぶようになったのは、ずっと後のことだった。


 始まる前の研究院には、むしろ妙に落ち着いた空気があった。


 アルヴァレス帝国。


 カルディア王国。


 エルグラン王国。


 三か国で、初めて観測規格を揃えた大気魔力の同時測定。


 基準魔石。


 測定間隔。


 補正方式。


 異常と判定する低下率。


 時刻の合わせ方。


 すべてを可能な限り共通化し、各国の観測所で同じ夜、同じ時刻に記録する。


 エレナが最初に「国によって測り方が違うなら、数字を並べても意味がない」と言ってから、ようやくここまで来た。


「帝国側、全十二観測所の時刻同期を確認」


 国家魔導研究院の臨時観測室で、ノアが読み上げる。


「北部第一、第二、北東山間、西北、中央、帝都、南部、それぞれ誤差二秒以内です」


「通信線は?」


「主系統正常。北部第五―六番間は予備周波数を待機状態にしています」


「カルディア側は?」


「国境通信所経由で確認済み。向こうは九観測所」


「エルグランは?」


「七か所。ただし地下魔力井戸の測定も三か所追加」


「ありがとうございます」


 エレナは壁の大陸地図を見る。


 三つの国。


 色の違う小さな札が散らばっている。


 まだ大陸全体とは言えない。


 観測空白地帯も多い。


 けれど、以前のように帝国北部だけを見ている状態からは大きく進んだ。


「緊張しますね」


 リナが温かい茶を置きながら言った。


「はい」


「何も起きないほうがいいんですよね?」


「もちろんです」


「でも何も起きなかったら、少し残念そうな顔をしそう」


「しません」


「本当に?」


「研究者としてはデータが欲しいですけど、人が困る異常は起きないほうがいいです」


「前半が正直ですね」


 否定できない。


 エレナは茶を一口飲んだ。


 今夜の観測には、各分野の責任者も参加している。


 農業のマティアス。


 軍技術のハロルド。


 公共設備のグレゴール。


 通信のノア。


 研究院からオルディスとミレイア。


 医療側とは通信でアメリアが待機。


 そして、宮殿にはクロムウェルがいる。


 皇帝が研究院へ来なかったのは、もし異常が発生した場合、国家全体を動かす場所にいたほうがいいからだ。


 それも。


 以前のエレナなら「来てほしい」と少し思ったかもしれない。


 今も、ほんの少しは思う。


 でも。


 同じ問題へ別の場所から向き合っていることに、もう不安はなかった。


「開始時刻です」


 ノアの声がする。


 午後八時。


 三か国一斉観測。


 といっても。


 何か特別な装置を起動するわけではない。


 すでに測っているものを。


 より細かく。


 より正確に。


 同じ基準で記録する。


 最初の三十分。


 異常なし。


 一時間。


 帝国北部、わずかな低下。


 ただし平常変動の範囲内。


「カルディア?」


「変化なし」


「エルグラン?」


「地下井戸二番で、一・八パーセント低下。ただし誤差範囲です」


 記録。


 判断しない。


 まだ。


 午後九時半。


 帝国北東部。


 平常比マイナス四パーセント。


「少し下がりました」


 ノアが言う。


「警戒値には?」


「届いていません」


 エレナは頷いた。


「続けてください」


 さらに十五分。


 マイナス六。


 西北部。


 マイナス三。


「来ていますか?」


 リナの声が少し低くなる。


「まだ決めません」


 そのとき。


 国境通信所からカルディアの速報符号が届いた。


 ノアが受信表を見る。


「カルディア北部第一、低下開始」


 室内の空気が変わる。


「率は?」


「五パーセント超」


「時刻」


「九時四十六分」


 帝国北東部。


 九時四十一分から明確な低下。


 差。


 五分。


「近いですね」


 マティアスが地図を見る。


「でも距離はかなりある」


「はい」


 エレナは時計と地図を交互に見る。


 単純な移動現象なら。


 速すぎる。


 しかし。


 まだ二地点。


「エルグラン待ちです」


 数分後。


 通信員が声を上げた。


「エルグラン王国、地下魔力井戸二番。平常比マイナス七パーセント」


「大気観測は?」


「西部観測所でも五パーセント低下」


 エレナの指が止まった。


 三国。


 離れた地点。


 ほぼ同じ時間帯。


「時刻を揃えてください」


 すぐ言う。


「測定時刻補正も」


「はい」


 数字が並ぶ。


 帝国北東。


 カルディア北部。


 エルグラン西部。


 地下魔力井戸。


 差は。


 最大十四分。


 大陸規模で見れば。


 ほぼ同時と言っていい。


「偶然?」


 リナが聞く。


「一度だけなら」


 エレナは答える。


「まだ言えます」


 けれど。


 低下は止まらなかった。


 午後十時。


 帝国北部。


 マイナス十一パーセント。


 カルディア北部。


 マイナス十二。


 エルグラン西部。


 マイナス十。


 地下井戸。


 マイナス十三。


 そして。


 帝都。


「帝都観測所、三パーセント低下」


 ノアが言った。


 エレナが顔を上げる。


「帝都も?」


「はい。まだ小さいですけど」


 これまで。


 帝都はほぼ正常だった。


「南部は?」


「一・五。西部二・一」


「広がってる?」


 リナの声。


 エレナはすぐ答えなかった。


 広がっている。


 そう見える。


 でも。


 以前の「北から移動している」仮説はすでに崩れた。


 今度も。


 見た目だけで決めたくない。


「各地の開始時刻を並べてください」


 ノアが紙へ書き込む。


 エレナは。


 曲線を見る。


 妙だった。


 場所ごとに最低値は違う。


 でも。


 落ち始める形が似ている。


 一度下がり。


 少し止まり。


 また下がる。


「……二段階?」


 若い測定技師が呟く。


「私もそう見えます」


 エレナは答える。


「前の記録も出してください」


 北部冷害時。


 カルディア観測。


 エルグラン魔力井戸。


 重ねる。


 完全には同じではない。


 でも。


 どれにも。


 小さな周期がある。


 下がる。


 少し戻る。


 また下がる。


「脈みたいですね」


 リナが言った。


 エレナの手が止まった。


「脈……」


 その言葉。


 前にも似た考えはあった。


 川。


 循環。


 地下。


 大気。


 繋がっているかもしれない。


 でも。


 今夜の記録は。


 それをもう少し違う形で見せている。


「一方向へ流れているだけじゃない?」


 ノアが言う。


「大きな循環全体が、同時に弱くなってる?」


「可能性としては」


 エレナは慎重に言った。


「あります」


 まだ仮説。


 でも。


 考える価値はある。


 そのとき。


 観測室の外から、別の足音が近づいた。


 公共設備局の伝令。


「技師長殿!」


「何です?」


「帝都東区の街灯網で出力低下。自動補助が入っています」


 エレナの顔が変わる。


「停止は?」


「していません。明るさが一時的に二割ほど落ちました」


「自然魔力依存率は?」


 グレゴールがすぐ答える。


「旧型区画だ。高い」


「独立魔石への切替は?」


「一部だけだ」


「人の安全に影響する場所から切り替えてください」


「もう指示した」


 さすがだった。


 続いて。


 医療通信。


 アメリアから。


『中央治療院、低価格補助器具二台で出力低下。治癒瓶・重要設備は独立魔石で正常』


 エレナは息を吐く。


 治癒瓶。


 守れた。


 次。


 水道。


『帝都北区揚水器一基、補助魔力低下により予備魔石へ切替。給水停止なし』


 また。


 農業。


 まだ凍結するほどではない。


 ただし。


 北部の保温装置が警戒域へ。


「全部」


 リナが言う。


「同じ夜に?」


「はい」


 エレナの胸が重くなる。


 大きな災害ではない。


 まだ。


 街灯が少し暗くなった。


 水道設備が予備へ切り替わった。


 治療器具が一部不安定。


 農業設備が警戒。


 それぞれなら。


 小さな障害。


 でも。


 同じ原因で。


 同じ夜に。


 三か国で。


 起きているなら。


 意味が変わる。


「通信線!」


 ノアが突然声を上げた。


 受信石の光が乱れた。


「北部第五―六番、主系統減衰!」


「予備へ」


「切り替えます!」


 操作。


 予備周波数。


 それも。


 通常より弱い。


「予備も八割以下」


「符号識別は?」


「できます。でも余裕がない」


 エレナが装置へ近づく。


 通信器そのものは内部魔石駆動。


 それでも。


 伝達する空間側が揺れている。


「最低限の警報符号だけに絞れますか?」


「できます」


 ノアが即答する。


「長い定型文と私信は停止します」


「お願いします」


 ノアが全線へ運用制限を送る。


 通信容量を減らす。


 符号を単純化。


 警報。


 異常値。


 設備停止。


 回復。


 必要なものだけ。


「通りました」


 ノアが言う。


「今は?」


「最弱区間でも識別可能です」


「維持してください」


 エレナは少しだけ拳を握った。


 技術は。


 全部止まらなかった。


 完璧でもない。


 でも。


 以前から準備していた。


 自然魔力に依存しすぎない。


 予備魔石。


 予備周波数。


 最低限の機能へ落とす。


 その積み重ねが。


 今。


 生きている。


「宮殿からです」


 補佐官が入る。


「陛下より。国家警戒段階を一段階上げる。医療・水・食料・通信を最優先。民間には現時点で不要な混乱を避けつつ、節電ならぬ『魔力使用抑制』を要請する準備を、と」


 エレナが少し驚く。


「魔力使用抑制?」


「大規模設備で不要な自然魔力取り込みを減らすそうです」


 意味はある。


 原因が供給不足なら。


 需要を少し落とすことに価値はあるかもしれない。


 ただ。


「効果は分かりません」


「陛下も承知しています。『害が少なく、今できることから』と」


 エレナは頷いた。


「それでお願いします」


 夜十一時。


 三国の魔力低下は。


 底へ近づいた。


 帝国北部。


 最大二十三パーセント。


 カルディア北部。


 二十一。


 エルグラン地下井戸。


 二十五。


 帝都。


 七。


 南部。


 四。


「帝都まで七……」


 以前より大きい。


 でも。


 その直後。


 北部から。


「戻り始めました」


 ノアが言う。


 エレナが測定紙を見る。


 本当だ。


 少しずつ。


 上がっている。


「カルディア?」


「向こうも回復開始」


「エルグラン」


「地下井戸、上昇」


 また。


 ほぼ同時。


「……下がるのも、戻るのも」


 ミレイアが低く言う。


「同じ時期」


「はい」


 エレナは。


 大陸地図を見る。


 もし。


 一つの場所から異常が広がっているなら。


 回復にも時間差があるはず。


 でも。


 今夜は。


 遠く離れた地点が。


 似た時刻に。


 落ち。


 似た時刻に。


 戻り始めている。


「流れているというより」


 エレナがゆっくり言う。


「全体が……一緒に弱くなっている」


 誰も口を挟まない。


「大陸の魔力循環そのものが」


 言葉を選ぶ。


「脈を打つように、周期的に落ち込んでいる可能性があります」


 ノアが地図を見る。


「大陸全体で?」


「まだ断定できません」


「でも三国で」


「はい」


「地下も大気も」


「はい」


 それが。


 一番怖い。


 局所設備なら直せる。


 都市なら。


 国なら。


 対策できる。


 でも。


 大陸全体の魔力循環が弱っているなら。


 何を直せばいい?


 その答えは。


 まだない。


「原因候補は?」


 ハロルドが尋ねる。


 エレナは首を横に振る。


「分かりません」


「地下魔脈の枯渇?」


「可能性はあります。でも一斉に戻る理由が説明できません」


「大量使用?」


「それも。けれど三国の使用量が同時に変わった記録はありません」


「自然周期?」


「今まで観測されていないだけならあり得ます」


「では異常とは限らない?」


「はい」


 そこも。


 大事だった。


 怖いから。


 異常だと決めつけない。


「過去記録を調べます」


 エレナは続ける。


「古い鉱山記録。魔石産出量。気象記録。魔導具の原因不明停止。百年前でも二百年前でも」


「そこまで?」


 ミレイアが聞く。


「今まで大気魔力を細かく測る技術がなかったなら」


 エレナは答える。


「別の形で残っているかもしれません」


 寒害。


 鉱山停止。


 泉の枯渇。


 結界不調。


 何か。


「それと」


 エレナは地図へ新しい線を書かない。


 もう。


 移動線ではない。


「観測国を増やしたいです」


 外務担当へ。


「隣国だけではなく、大陸の東・南・中央」


「簡単ではありません」


「分かっています」


「国によっては観測技術自体が弱い」


「簡易基準器を貸し出します」


「機密は?」


「環境測定専用にします」


「費用」


「……そこは相談します」


 少しだけ現実が戻ってきた。


 ミレイアが笑う。


「世界規模の異常を見て、最初に予算で詰まるのね」


「大事です」


「ええ、ものすごく」


 深夜。


 魔力濃度は。


 ゆっくり平常値へ戻った。


 完全ではない。


 地点によっては数パーセント低い。


 それでも。


 街灯の明るさは戻る。


 揚水器も。


 保温装置も。


 治療設備も。


 大きな事故報告は。


 今のところない。


 通信網も。


 主系統の一部を除けば。


 最低限の警報を最後まで維持した。


「終わった……?」


 リナが尋ねる。


「今夜の低下は」


 エレナが答える。


「たぶん」


「じゃあ寝ます?」


「記録を」


「主任」


「まとめだけ」


「誰が?」


 エレナは。


 周囲を見る。


 ノア。


 マティアス。


 グレゴール。


 各責任者。


 全員。


 もう自分の担当をまとめ始めている。


「……私が全部やらなくても」


「そういう組織にしたんでしょう?」


「はい」


「なら帰りましょう」


「でも」


「でも?」


 エレナは少しだけ。


 地図を見る。


「最終整理だけ」


「一時間」


「二時間」


「一時間半」


「……最近、この交渉多くないです?」


「必要だからです」


 結局。


 一時間半。


 その間に。


 宮殿からクロムウェルが来た。


「まだいたか」


「陛下こそ」


「国家警戒会議が終わった」


「被害は?」


「現時点で重大事故なし」


 エレナの肩から。


 少し力が抜ける。


「よかった」


「ああ」


 クロムウェルは地図を見る。


「どう見える」


 エレナは。


 もう一度。


 今日の観測結果を説明した。


 三国。


 地下。


 大気。


 ほぼ同時低下。


 ほぼ同時回復。


 周期的な変動。


「つまり」


 クロムウェルが言う。


「国境は関係ない」


「たぶん」


「国家単位で解決できない?」


「可能性が高いです」


「なら」


 クロムウェルは静かに言った。


「国際会議が必要になるな」


 エレナは頷く。


「技術者だけじゃなく」


「各国政府も」


「はい」


「嫌そうだな」


「技術者だけのほうが話が早いので」


「国家をまたぐなら諦めろ」


「分かっています」


 クロムウェルが少し笑った。


「それで」


「はい?」


「怖いか」


 前にも。


 聞かれた。


 エレナは。


 今度も正直に答えた。


「かなり」


「そうか」


「原因も分からない。止め方も分からない。しかも範囲が広がっています」


「うん」


「でも」


 地図を見る。


 三国の印。


 その間を。


 通信線が繋ぐ。


 国際観測規格が繋ぐ。


 技師たちが。


 情報を渡し合っている。


「前よりは」


「前より?」


「一人で考えなくていいので」


 クロムウェルの表情が少し柔らかくなる。


「それは良い」


「はい」


 窓の外。


 帝都の灯りは。


 もう普段の明るさへ戻っていた。


 道を歩く人たちは。


 今夜。


 世界の魔力が揺れたことを。


 まだほとんど知らない。


 それでいい。


 不必要に怖がらせる必要はない。


 でも。


 知っている人間は。


 準備しなければならない。


 翌朝。


 三国の統合観測報告書には。


 エレナの提案で。


 結論ではなく。


 こう記された。


『複数国家において、同一時間帯に類似する大気・地下魔力低下を観測した。


 単一地域からの移動現象のみでは説明困難。


 大陸規模の魔力循環変動である可能性を含め、継続調査を要する。


 現時点で原因は不明。』


 最後の一文を。


 エレナは自分で確認した。


 原因不明。


 恥ずかしいことではない。


 分からないものを。


 分かったふりをしない。


 そこから始める。


 ただ。


 報告書を閉じた直後。


 外務部から。


 新しい書簡が届いた。


 カルディア王国。


 エルグラン王国。


 さらに。


 これまで観測協力へ入っていなかった二つの国からも。


 同じ夜。


 原因不明の魔導設備出力低下があったという照会。


 エレナは。


 地図へ。


 新しい印を二つ置いた。


 帝国の外。


 三国の外。


 さらに遠く。


「……世界中、ですか」


 リナが小さく言う。


 エレナは。


 すぐには答えなかった。


 大陸全体なのか。


 もっと広いのか。


 まだ分からない。


 でも。


 少なくとも。


 もう「帝国北部の冷害」と呼べる問題ではなかった。


 世界の魔力は。


 確かに。


 同じ夜に揺れていた。

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