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第43話 私がいなくても回る国にしたい

 国家魔導技師長制度の改正案が正式に施行された翌朝、エレナの机から最初に消えたのは、通信班の決裁書だった。


「……ありませんね」


 何となく机の右端を見たまま呟くと、書類を運んできたリナが肩をすくめた。


「昨日から通信関係の通常承認はノアさんのところです」


「知っています」


「じゃあ、何を探しているんです?」


「探してはいません」


「今、完全に探していましたよ」


 エレナは返事をせず、別の書類を手に取った。


 治癒瓶の地方配備計画。


 それも、今後の日常運用は医療技術部が主体になる。


 農業用保温装置は農業技術部。


 軌道輸送計画は交通設備局。


 国際観測規格には専任の共同事務局が設けられる。


 前日まで机に積み上がっていたはずの書類が、少しずつ別の人の机へ移っている。


 これは、自分で望んだことだった。


 大型案件へ一人で関与しすぎない。


 専門分野ごとに責任者を置く。


 国家魔導技師長がいなくても、通常業務は回るようにする。


 制度改正の議論で、自分からそう提案した。


 だから、正しい。


 正しいのに。


「……少ないですね」


 また口から出た。


「書類が?」


「はい」


「いいことでは?」


「いいことです」


「嬉しそうじゃないですけど」


「嬉しいです」


「顔が寂しそうです」


 最近、周囲の人間は遠慮なく表情を読む。


 エレナは少し困った。


「両方なんです」


「嬉しくて寂しい?」


「たぶん」


 リナは納得したように頷いた。


「なら普通ですよ」


「普通ですか?」


「育てた仕事が自分の手を離れるんですから。嬉しいだけのほうが珍しいんじゃないですか」


 そう言われると。


 少し楽になった。


「でも」


 リナは机の上を見渡す。


「空いたぶん、新しい仕事を三倍持ってくるのは禁止ですよ」


「まだ何も言っていません」


「言う前に言っています」


「信用がないですね」


「過去の実績です」


 反論できない。


 エレナは苦笑しながら、残った書類へ目を落とした。


 その日の午前中。


 制度改正に合わせた最初の組織会議が開かれた。


 目的は。


 国家魔導技師長の下に。


 分野別の副責任者を置くこと。


 研究。


 医療。


 軍事。


 農業。


 公共設備。


 通信。


 交通。


 国際技術連携。


 八分野。


「副技師長を八人ですか?」


 オルディスが尋ねる。


「役職名はまだ仮です」


 エレナは答えた。


「全部を『副技師長』にすると、権限が分かりにくくなるかもしれません」


「では?」


「分野責任者のほうがいいと思っています」


「理由は」


「私の代理ではなく、その分野の責任者だからです」


 そこは重要だった。


 自分の下に八人を置く。


 ではない。


 それぞれの専門分野に。


 自分より詳しい人が責任を持つ。


「国家魔導技師長は、その人たちを上から指示する役ではなく」


 エレナは資料をめくる。


「分野をまたぐ問題だけ調整する役にしたいです」


 ミレイアが腕を組む。


「たとえば?」


「治癒瓶の量産に必要な魔石が、軍用通信器の生産と競合した場合。医療と軍だけでは決められないので、横断調整する」


「なるほど」


「でも、治癒瓶の操作手順を私が決める必要はないです」


 アメリアのような医療現場の人間が決めるべきだ。


「農業保温装置の配置も同じです」


「マティアスたちが主導?」


「はい」


「交通は?」


「ユルゲンさん」


「通信は?」


 そこで。


 エレナは隣の席を見る。


 ノアが目を逸らした。


「ノアさん」


「……まだ正式返事してません」


「考える時間はもう十分では?」


「そう言うと思いました」


「嫌なら断っていいです」


「それを言われると断りにくいんですよ」


「どうして?」


「本当に断っていいって顔で言うからです」


 エレナは首を傾げた。


「断っていいので」


「分かってます」


 ノアは頭を掻く。


「でも、やります」


「本当ですか?」


「はい」


「無理してません?」


「そこ、今度は疑うんですか」


「本人の意思が大事なので」


「分かりました。やりたいです」


 少し照れたように言う。


「通信網、もっと良くしたいので」


 それなら。


 エレナは素直に嬉しかった。


「では、お願いします」


「ただし」


「はい?」


「技師長みたいに全部抱えません」


 室内に笑いが広がった。


「良い判断です」


「本人が言います?」


「かなり大事です」


 会議は。


 思っていたより順調に進んだ。


 人選そのものは、ほとんど各分野から候補が出ている。


 医療。


 アメリア。


 農業。


 マティアス。


 通信。


 ノア。


 交通。


 ユルゲン。


 軍事はハロルド。


 公共設備はグレゴール。


 研究分野はミレイアとオルディスが調整。


 国際技術連携は外務と研究院から共同責任者を選ぶ。


「私の知っている人ばかりですね」


 エレナが言う。


 ミレイアがすぐ答える。


「あなたがここ数か月、帝国中の技術案件へ首を突っ込んだからよ」


「首を突っ込んだという言い方は」


「事実でしょう」


「もう少し」


「関わった?」


「はい。それでお願いします」


 ただ。


 順調すぎることが。


 少し怖かった。


 自分が席を外しても。


 話は進む。


 自分が答えなくても。


 誰かが答える。


 以前なら。


 それが理想だったはず。


 なのに。


 胸の奥で。


 小さな声がする。


 それなら。


 自分は何のためにいるのだろう。


 会議後。


 その感情を誤魔化すように。


 エレナは精密魔導核研究室へ戻った。


 久しぶりに。


 自分の研究台へ。


「何をするんです?」


 リナが聞く。


「少しだけ実験を」


「少しだけ?」


「本当に少しです」


「信用度七割」


「前より高いですね」


「成長を加味しました」


 机の上に。


 以前から止まっていた家庭用低消費灯の改良案を出す。


 大きな国家事業ではない。


 軍でも。


 医療でも。


 農業でもない。


 ただの灯り。


 昔。


 帝国へ来て最初に。


 自分が自由に作っていいと言われたとき。


 選んだもの。


 そこへ戻ると。


 少しだけ息がしやすくなった。


「ここ、まだ一割削れそうなんです」


 エレナが言う。


「今でも十分低消費ですよ」


「だからこそ」


「その言い方、危険です」


「でも」


「今日は二時間まで」


「三時間」


「二時間半」


「……交渉成立です」


 思わず笑った。


 研究は。


 やっぱり好きだ。


 役職と関係なく。


 誰かに必要とされるからでもなく。


 ただ。


 考えることが好き。


 作ることが好き。


 それを。


 忘れていたわけではない。


 でも。


 忙しさの中で。


 少し遠くなっていた。


 二日後。


 最初の分野責任者会議が開かれた。


 今回は。


 エレナが意図的に議題を一つ任せた。


 北部通信中継所で起きている信号減衰。


 これまでは。


 自分が中心で議論していた問題。


 今日は。


 ノアが前へ立つ。


「原因候補は三つあります」


 壁の図面を指す。


「一つは中継距離。二つ目は周囲の大気魔力急変。三つ目は送受信核の個体差」


 エレナは。


 何も言わず聞く。


「最初の対策として、中継所を一つ追加する案があります。ただし」


 ノアは続ける。


「それだけで解決すると決めつけないほうがいいです」


 その言い方が。


 少し。


 自分に似ていた。


「追加中継所を設けたうえで、旧区間と新経路を同時測定します。改善するなら距離影響が大きい。しないなら環境側を疑う」


 ハロルドが尋ねる。


「軍用線にも同じ問題は出る?」


「可能性があります」


「なら、軍側でも同条件試験をやる」


「助かります」


 グレゴールが別の疑問を出す。


「中継所を増やすほど保守箇所も増えるが」


「そこが問題です」


「故障率は?」


「まだ長期データがありません」


「では増やしすぎるのも危ないな」


「はい」


 議論が進む。


 エレナは。


 本当に。


 口を出さなくてよかった。


 ノアが答えられない質問には。


 通信班の別の技師が答える。


 軍側。


 公共設備側。


 それぞれが。


 自分の立場から意見を出す。


「……主任」


 隣のリナが小声で呼ぶ。


「はい?」


「さっきから口開けたり閉じたりしてますよ」


「言いたいことが」


「あります?」


「三つほど」


「必要?」


 エレナは考えた。


 一つ目。


 もうノアが言った。


 二つ目。


 グレゴールが指摘した。


 三つ目。


 まだ出ていない。


「一つだけ」


 手を上げる。


 ノアがこちらを見る。


「どうぞ」


「送受信核の個体差を調べるなら、製造番号ごとに配置場所を固定しないほうがいいです」


「入れ替える?」


「はい。同じ装置が場所を変えても減衰するなら装置側。場所だけで起きるなら環境側」


 ノアの目が少し明るくなる。


「それ、入れます」


「以上です」


「本当に一つ?」


 リナが小声で聞く。


「我慢しました」


「えらい」


「子ども扱いしないでください」


 でも。


 少し嬉しい。


 会議後。


 ノアが近づいてきた。


「主任」


「はい」


「今日、あまり喋りませんでしたね」


「失礼ですね」


「いや、悪い意味じゃなくて」


「私も分かっています」


「どうでした?」


「何が?」


「人に任せて」


 エレナは少し迷う。


「寂しかったです」


 ノアが笑う。


「正直ですね」


「でも」


 続ける。


「安心しました」


「それならよかった」


「それと」


「はい?」


「少し悔しかったです」


「何が?」


「私が考えていたことを、先に言われたので」


 ノアが今度は声を出して笑った。


「そこですか」


「大事です」


「じゃあ次はもっと先に言います」


「競争ですか?」


「技術者ですから」


「望むところです」


 笑いながら。


 本気でもあった。


 それでいい。


 自分より。


 速く考える人がいる。


 自分より。


 詳しい人がいる。


 それは。


 自分の価値が減ることではない。


 むしろ。


 楽しい。


 その週。


 治癒瓶の運用移管会議にも出席した。


 今度は。


 アメリアが議長。


 エレナは。


 技術助言者。


「製造監査は月一回」


 アメリアが言う。


「救護所からの失敗報告は、医療技術部で一次分類。そのうち回路や魔石に関係するものだけ研究院へ」


「全部送ってもらっても」


 エレナが言いかける。


 アメリアがすぐ見る。


「全部読める?」


「……読めません」


「でしょう?」


「でも気になります」


「我慢なさい」


「はい」


「それと」


 アメリアは資料をめくる。


「次回からこの会議、あなた毎回来なくていいから」


 エレナの動きが止まる。


「来なくていい?」


「何かあるとき呼ぶ」


「でも」


「製造も運用も、もう医療側で回せる」


「安全性の」


「月次監査は出てもらう」


「改良案は」


「必要なら送る」


「……分かりました」


 頭では。


 正しい。


 でも。


 やっぱり少し寂しい。


 その顔が。


 アメリアには分かったらしい。


「エレナ」


「はい」


「寂しい?」


 最近、この質問をされすぎる。


「少し」


「私たちは嬉しいわよ」


「何がです?」


「あなたがいなくても使えるところまで来たこと」


 アメリアは治癒瓶を手に取った。


「最初は、あなたがいないと調整も修理もできなかった」


「はい」


「今は地方の工房でも認定を取れば直せる」


「はい」


「救護員も使える」


「はい」


「それって」


 少し笑う。


「成功でしょう?」


 胸に。


 すとんと落ちた。


「……はい」


「なら、少しくらい寂しがってもいい。でも戻ってきて全部自分でやるのは禁止」


「そこまで考えてません」


「顔が少し考えてた」


「皆さん、私の顔を読みすぎです」


 アメリアが笑った。


 数日後。


 農業技術部から。


 北部保温装置の改良報告が届いた。


 エレナは。


 封を開ける。


 最初の頁。


『現地技師提案により、蓄熱材配置を変更』


 二頁目。


『マティアス主任判断により、温度感知器を二点式へ』


 三頁目。


『魔力低下時の手動切替手順を簡略化』


 全部。


 良くなっている。


 自分が行っていないのに。


 現場は。


 勝手に。


 前へ進んでいる。


「……すごい」


 思わず呟く。


「何がです?」


 リナが覗く。


「この改良」


「主任の案?」


「違います」


 そのことを言うとき。


 以前なら。


 少し複雑だったかもしれない。


 今は。


「すごくいいです」


 素直に言えた。


「私だったら、蓄熱材を増やす方向で考えたかもしれません」


「でも現地は?」


「配置を変えて、同じ量で効率を上げています」


「安くなった?」


「かなり」


「じゃあ採用ですね」


「はい」


 エレナは。


 正式評価欄へ書いた。


『現地改良案を標準仕様へ反映することを推奨』


 そして。


 提案者名を確認する。


 現地農業技師。


 農家代表。


 マティアス。


 その名前が残るよう。


 欄を広げて。


 翌朝。


 国家魔導技師長室の掲示板に。


 新しい組織図が貼られた。


 中央に。


 エレナ。


 その下ではなく。


 横へ。


 八つの分野責任者。


 線で。


 横に繋がっている。


「こうしたんですか?」


 リナが聞く。


「はい」


「普通なら上下ですよね」


「上に見えるので」


「実際、技師長では?」


「最終調整はします。でも専門判断は同列です」


「なるほど」


 エレナは。


 組織図をしばらく見る。


 少しずつ。


 自分の仕事が変わっていく。


 作る。


 直す。


 自分でやる。


 そこから。


 人を繋ぐ。


 仕組みを残す。


 別の誰かができるようにする。


 たぶん。


 国家魔導技師長という役職は。


 最初に思っていたものと。


 だいぶ違う。


「主任」


 リナが呼ぶ。


「はい」


「今日の午後、何も予定入ってません」


 エレナは予定表を見る。


 本当だ。


「珍しいですね」


「休みます?」


 反射的に。


「研究を」


 言いかけて。


 止まる。


「……半日休みにします」


 リナが目を見開いた。


「本当に?」


「はい」


「熱あります?」


「ありません」


「医者呼びます?」


「必要ありません」


 笑いながら。


 エレナは机を片づけた。


 でも。


 研究院を出て。


 門の前へ来たところで。


 足が止まった。


 半日。


 自由。


 仕事がない。


 以前なら。


 何をしていた?


 思いつかない。


「どうしました?」


 カミラが護衛として少し後ろから尋ねる。


「行く場所がなくて」


「……なるほど」


 カミラが珍しく困った顔をする。


「家へ戻られますか?」


「それでもいいんですが」


 せっかく。


 空いた。


 そして。


 ふと。


 思い出す。


 焼き菓子店。


 前に。


 クロムウェルと行った場所。


 次は。


 自分が店を選ぶと言った。


 まだ果たしていない。


「カミラさん」


「はい」


「宮殿へ寄ってもいいですか?」


「公務ですか?」


「……私用です」


 言うと。


 少し恥ずかしかった。


 宮殿へ着き。


 面会を頼む。


 クロムウェルは午後の政務が一段落したところだった。


「どうした」


 部屋へ入ったエレナを見る。


「何か技術問題か?」


「違います」


「では?」


「私」


 少し迷い。


 でも。


 言う。


「今日、半日休みなんです」


 クロムウェルの表情が変わる。


「本当に?」


「皆さん同じ反応しますね」


「珍しいからだ」


「それで」


 エレナは。


 少しだけ息を整える。


「もし、お時間があれば」


「ある」


 早い。


「まだ何も言ってません」


「続けろ」


「前に」


 少し笑う。


「次は私が店を選ぶって言ったので」


 クロムウェルも。


 すぐ意味を理解した。


「覚えていたか」


「はい」


「私もだ」


「では」


「行こう」


 あまりに。


 簡単に決まる。


「政務は?」


「次は夕方だ」


「本当に大丈夫ですか?」


「君が半日休む日よりは作れる」


「どういう比較です?」


「希少度だ」


 エレナは笑った。


 結局。


 二人は。


 帝都の職人街にある小さな茶店へ行った。


 前の店より。


 少し静か。


 木の家具。


 窓際。


 焼いた果物と香草茶。


 エレナが選んだ。


「ここにした理由は?」


 クロムウェルが尋ねる。


「研究院の職人さんが美味しいと言っていたので」


「技術情報ではないのだな」


「私も少しずつ、仕事以外の情報を集めています」


「進歩だ」


「褒めています?」


「かなり」


 しばらく。


 本当に。


 仕事の話をしなかった。


 天気。


 店の焼き菓子。


 クロムウェルが幼い頃、甘いものを隠れて食べていた話。


「陛下にもそんな時期があったんですね」


「今でもある」


「隠れて?」


「公務中に出されると、食べる暇がないから先に確保する」


「それは隠れて食べるとは違います」


「そうか」


 どうでもいい話。


 でも。


 楽しい。


 エレナは。


 ふと。


 昼間の組織図を思い出した。


「クロムウェル様」


「何だ」


「今日」


「うん」


「私がいなくても、皆さん普通に仕事していました」


「それは良いことだな」


「はい」


「でも?」


 すぐ分かる。


「少し寂しかったです」


「そうか」


「通信も。治癒瓶も。農業も。どんどん私の手を離れていって」


 クロムウェルは。


 否定しない。


「本当は嬉しいんです」


「分かっている」


「でも」


 カップの縁を指でなぞる。


「必要とされなくなるような気がして」


 言葉にすると。


 少し子どもっぽく聞こえる。


 でも。


 本音だ。


「昔」


 エレナは続けた。


「役に立たないと言われるのが怖かったから」


 役に立てば。


 置いてもらえる。


 働けば。


 必要としてもらえる。


 それが。


 ずっと染みついていた。


「だから」


 少し笑う。


「私がいなくても回るようにしたいって自分で言っておいて、回り始めたら寂しがっています」


「矛盾しているな」


「はい」


「でも変ではない」


 クロムウェルは静かに言った。


「自分の仕事を手放すのは、失うことでもある」


「失う?」


「役割を」


 エレナは。


 その言葉を考える。


「役割が減れば、空いた場所ができる」


「はい」


「そこが怖い?」


「少し」


「なら」


 クロムウェルは。


 焼き菓子を一つ取る。


「空いた場所を、全部仕事で埋めなければいい」


 エレナは目を瞬く。


「今みたいに?」


「今みたいに」


 店。


 茶。


 どうでもいい会話。


「君がいなくても回る国を作る」


「はい」


「その結果」


 クロムウェルは少しだけ笑う。


「君が私と茶を飲む時間が増えるなら、私はかなり賛成だ」


 エレナの顔が熱くなる。


「そこへ持っていきます?」


「個人的には重要だ」


「国家制度の話ですよ」


「公私を分けている」


「今は私事?」


「そうだ」


 エレナは。


 少し笑った。


「ずるいです」


「よく言われる」


「私しか言ってないと思います」


「なら君によく言われる」


 それから。


 少しだけ。


 真面目な声で。


「エレナ」


「はい」


「君がいなくても回る仕組みを作ることと」


 クロムウェルは言った。


「君にいてほしいと思うことは、別だ」


 エレナの胸の奥が。


 ゆっくり温かくなる。


「国が君一人に依存しないことは正しい」


「はい」


「でも、だからといって」


 クロムウェルは。


 真っ直ぐこちらを見る。


「私は君がいなくても同じだとは思わない」


 仕事の能力。


 役職。


 発明。


 そこではなく。


「……はい」


 エレナは。


 その返事しかできなかった。


 でも。


 十分だった。


 翌朝。


 研究院へ戻ると。


 机の上に。


 また新しい書類が積まれていた。


「昨日より増えてません?」


 エレナが言う。


 リナが答える。


「横断調整だけでも結構ありますから」


「休んだぶん?」


「半分」


「残り半分は?」


「新しい国際観測案件です」


 エレナの顔が少し明るくなる。


「見ます」


「その前に」


 リナが一枚の紙を渡した。


「昨日の分野責任者会議の議事録です」


 読む。


 通信班。


 ノアが決めた。


 治癒瓶。


 アメリアが決めた。


 農業。


 マティアス。


 交通。


 ユルゲン。


 自分がいない間。


 全部。


 進んでいる。


 エレナは。


 少しだけ。


 胸の奥に寂しさを感じた。


 でも。


 今度は。


 それを悪いものだとは思わなかった。


 寂しいくらい。


 大事にしていた仕事だったということだ。


 そして。


 大事な仕事だからこそ。


 自分一人に縛りつけない。


「リナさん」


「はい」


「私」


 組織図を見る。


「やっぱり、私がいなくても回る国にしたいです」


 リナが笑う。


「昨日もそう言ってませんでした?」


「昨日より、ちゃんとそう思います」


「何かあった?」


「少し」


「聞いていい?」


「秘密です」


「クロムウェル様関係?」


「どうしてすぐ分かるんです?」


「顔」


「……もう隠すの諦めます」


 エレナは笑った。


 自分がいなくても。


 技術は残る。


 制度も。


 人も育つ。


 国は回る。


 それでいい。


 そのうえで。


 役職でも。


 能力でも。


 仕事でもないところで。


 いてほしいと言ってくれる人がいる。


 なら。


 少しずつ。


 信じてもいいのかもしれない。


 自分の価値は。


 誰かが困る量ではなく。


 自分が何を選び。


 誰と生きたいと思うか。


 そんなところにも。


 ちゃんとあるのだと。

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