第40話 治癒瓶を、誰でも使える救命具へ
治癒瓶の十四号を前にして、エレナは三分ほど黙り込んでいた。
研究机の中央には、掌より少し大きな円筒形の魔導具が置かれている。
最初の試作品と比べれば、随分変わった。
銀色の安全留めを外し、蓋を半回転させ、残量表示を確認し、出力を調整しながら使用する――そんな七つもの手順はもうない。
現在の十四号なら。
一、状態表示を確認。
二、安全栓を解除。
三、患部へ押し当てて起動。
それだけで使える。
それでも。
「まだ多いです」
エレナが言うと、向かいに座っていたアメリアが眉を上げた。
「三つよ?」
「はい」
「前は七つだったでしょう」
「だからこそ、あと一つ減らせそうだと思って」
アメリアは呆れたように笑った。
「あなた、性能を上げるときより操作を減らすときのほうが執念深くなってない?」
「人に使うものなので」
「そうね。そこは止めないけれど」
中央治療院の小会議室には、エレナとアメリアのほか、治癒魔導師二人、看護補助員三人、研究院からリナと若い測定技師が参加していた。
今日の目的は、治癒瓶の次段階臨床試験に向けた最終設計確認。
限定臨床試験では、治癒魔導師の監督下で軽傷や術後補助に使ってきた。
そして一度だけ。
急患の少年へ、専門治療が間に合うまでの橋渡しとして使用した。
その経験から。
治癒瓶の役割は、だいぶはっきりしてきた。
「治す道具ではなく、時間をつなぐ道具」
アメリアが以前そう表現した。
エレナも、今はその考えに賛成している。
大けがを一瞬で治す夢の魔導具。
そんなものではない。
重傷者を完全に回復させることもできない。
だが。
治癒魔導師が来るまで。
医師が処置を終えるまで。
数分。
十分。
あと少しだけ患者の状態を保てれば。
救える命がある。
「次段階試験では」
アメリアが資料を読む。
「治癒魔導師が常時横にいない環境も含めたい」
「はい」
「ただし医療従事者または認定救護員が使用。完全な一般市民への開放ではない」
「そこは維持します」
エレナは頷いた。
誰でも使える。
だからといって。
誰にでも無制限に渡せばいいわけではない。
「まず地方治療所。それから街道救護所。鉱山や大規模工房の救護班」
アメリアが指を折る。
「治癒魔導師が常駐していないところを優先ね」
「はい」
「そのために操作をもっと減らしたい?」
「そうです」
エレナは十四号を手に取った。
「今は、安全栓を外してから起動します」
「誤作動防止でしょう?」
「でも急いでいると、安全栓を外し忘れる人がいます」
看護補助員の一人が気まずそうに手を上げた。
「……私です」
アメリアが振り返る。
「あなた?」
「訓練で二回」
「二回も?」
「焦ると、表示を見て、患部を確認して、そのまま押し当てちゃうんです」
「起動しない?」
「しません」
「それは困るわね」
「本人はもっと焦ります」
補助員が苦笑する。
「動かない、壊れた、どうしようって」
エレナはその言葉を聞きながら、十四号の安全栓へ指を置いた。
安全のために追加した部品が。
緊急時には、逆に操作を妨げる。
魔導具ではよくある。
機能を足せば安全になるとは限らない。
「押し当てる動作と、安全解除を一つにできないでしょうか」
エレナが呟く。
「どういうこと?」
リナが聞く。
「患部へ押し当てたときに、接触板が一定以上沈んだら内部で安全回路を解除するんです」
「つまり」
アメリアが治癒瓶を持つ。
「置いただけでは動かない。でも、きちんと患部へ当てて押すと起動できる?」
「はい」
「勝手に放出しない?」
「普通に鞄へ入れた程度では動かないよう、押圧と接触魔力の両方を条件にします」
若い測定技師が身を乗り出す。
「二条件?」
「はい。圧力だけなら荷物で押される可能性があります。人体接触だけでも、持っただけで反応するかもしれない」
「じゃあ、一定圧力かつ人体魔力反応?」
「そうです」
「回路、少し複雑になりますよ」
「内部は複雑でも、使う人が簡単ならいいです」
それは。
最近のエレナが、特に意識していることだった。
使う側へ複雑さを押しつけない。
難しいことは。
できる限り作る側が引き受ける。
「試しましょう」
アメリアが言った。
「ただし、一週間で作って明日から配るとかは駄目よ」
「言っていません」
「顔が言ってるの」
「そんな顔あります?」
「あるわよ」
リナまで頷く。
「あります」
「……分かりました。段階を踏みます」
「よろしい」
十四号を元にした十五号は、三日後に完成した。
見た目は、むしろ前より簡素になった。
上部の安全栓がない。
蓋も回さない。
側面には残量と使用可否を示す大きな表示窓。
緑――使用可能。
黄――残量少。
赤――使用不可。
色だけに頼らず、窓の模様も変わる。
緑は丸。
黄は三角。
赤は大きな横線。
暗所でも手で触れば区別できるよう、外周の凹凸まで変えている。
「触って分かる必要あります?」
リナが尋ねた。
「夜道の事故なら暗いです」
「ああ」
「火事や崩落なら煙もあります」
「なるほど」
「それと」
エレナは底面を見せた。
「出力切替は三段階に固定します」
弱。
中。
強。
以前のように、蓋をどれだけ回したかで出力を調整する方式はやめた。
「細かく調整できなくなりますよ」
若い測定技師が言う。
「救護員に細かい調整を求めないほうがいいです」
「でも患者によって最適値は違う」
「だから専門治療では従来型を残します」
エレナは資料を二つに分けた。
「治癒瓶を一種類で全部やろうとしたのが間違いだったと思います」
アメリアが興味深そうに見る。
「分けるの?」
「はい」
一つ。
高性能医療型。
治癒魔導師や医師が使う。
細かな出力調整。
長時間保存。
高純度素材。
高価。
もう一つ。
普及救護型。
出力は弱・中・強の三段階固定。
保存期間はやや短い。
高価な魔石を使わない。
誰でも一定の訓練で扱える。
「全部を最高性能にする必要、ないですよね」
エレナが言う。
以前なら。
性能を下げることに抵抗があったかもしれない。
より長く。
より強く。
より精密に。
それが良いものだと思っていた。
でも。
十倍高い治癒瓶が一つしか置けない治療所より。
少し性能が低くても。
五つ置けるほうが。
助かる人は多いかもしれない。
「普及型の目標価格は?」
アメリアが聞く。
「今の試作型の三分の一以下」
部屋が少し静かになった。
「かなり下げるわね」
「材料を変えます」
「性能は?」
「保存時間を削ります」
「どのくらい?」
「現行の安全保証四十八時間から、普及型は二十四時間」
「短くない?」
「補充体制を作れれば」
エレナは答える。
「治療院や地域拠点で、定期的に治癒魔法を充填します」
治癒瓶そのものへすべてを詰め込まない。
供給制度まで含めて考える。
「でも地方だと、治癒魔導師が来る頻度が少ない地域もあるわ」
アメリアが現実的な問題を出す。
「そこは保存期間を四十八時間にした中間型を」
「また種類増えるわよ」
「……増えますね」
「在庫管理が大変になる」
「では二種類にします」
「早いわね」
「良くない案なら残す必要ないので」
アメリアは少し笑った。
「そのへん、前より柔らかくなったわね」
「皆さんに言われます」
「言われるだけの理由があるのよ」
十五号の操作訓練には、あえて医療魔導具に慣れていない人も参加した。
地方治療院勤務予定の若い看護補助員。
街道救護所の職員。
鉱山救護班の男性。
帝都消防組織の救急担当。
最初に。
説明をせず渡す。
「使ってみてください」
エレナが言うと、鉱山救護員が困った顔をした。
「説明なしで?」
「まず見たまま、どう使うと思うか知りたいんです」
「壊しても?」
「壊れたら、それも記録します」
「豪快だな」
「壊れないようには作っています」
「そこは自信あるんだな」
男は治癒瓶を手に取った。
表示窓を見る。
緑。
底面。
弱・中・強。
「これ、出力だろ?」
「たぶん、と考えて進めてください」
「この丸い面を患部へ?」
「そう思います?」
「形的には」
模擬患者人形へ当てる。
押す。
淡い緑の光。
起動した。
「……これだけ?」
男が驚く。
「はい」
「蓋とかないのか」
「ありません」
「いいな」
たったそれだけの感想だった。
でも。
エレナは嬉しかった。
「何がいいです?」
「俺ら、事故現場だと手袋してるからな」
男は厚手の作業手袋を見せる。
「細かい留め具は嫌なんだ」
「あ」
「冬なんて指動かねえし」
そこまで考えていなかった。
「厚手手袋での操作試験、追加します」
「今?」
アメリアが呆れる。
「大事です」
「分かってるけど、増えるわねえ」
「でも必要なので」
「はいはい」
次の消防救急担当者は。
十五号を逆向きに持った。
「そっちですか」
エレナが思わず声を出す。
「駄目?」
「いえ、今のまま続けてください」
「どう見てもこっちが握る側だと思ったんだけど」
握りやすさを優先しすぎて。
患部接触面が分かりにくくなっていた。
「形、直します」
「また?」
リナが笑う。
「必要です」
「分かってます」
さらに。
街道救護員は。
表示を見ずに使った。
「残量見ないんですか?」
「事故なら見ないかも」
「でも赤なら使えません」
「なら使えないときは押しても動かないようにすれば?」
エレナの手が止まる。
「……それです」
「え?」
「赤状態なら、起動そのものを物理的に止めます」
「今まで違ったの?」
「反応はするけど出力しない状態でした」
「それだと壊れたと思うぞ」
「ですよね」
また一つ。
直す場所。
試験は。
成功を確認するためにやるのではない。
失敗を見つけるためにやる。
そのことを。
今のエレナは、以前よりずっと自然に受け入れられる。
一週間後。
改良された十五号改。
外形を変えた。
接触面を明確に広く。
握り側には深い滑り止め。
使用不可状態では物理ロック。
使用後は表示窓が灰色へ変わり、再充填が必要だと一目で分かる。
さらに。
内部へ簡単な使用履歴記録核を追加した。
「これは何のためです?」
地方治療所の職員が聞く。
「いつ使ったか、どの出力で、何分作動したかを記録します」
「患者名まで?」
「それは記録しません」
「どうして?」
「魔導具を紛失したときに、患者情報まで漏れるのは嫌なので」
エレナは答えた。
「医療記録とは別にします」
アメリアが頷く。
「良い判断ね」
「治療院側では患者記録と照合できます」
「現場では簡単に?」
「治療所へ戻って読み取るだけです」
使用履歴があれば。
事故後に。
何が効いたのか。
どの出力で副作用が出たのか。
分析できる。
そして。
失敗も残せる。
「主任」
リナが小声で言う。
「結局、失敗記録制度に戻りますね」
「大事なので」
「知ってます」
次段階臨床試験の申請は。
中央治療院。
研究院。
医療行政部。
三者合同で提出された。
対象地域。
帝都近郊の地方治療所三か所。
主要街道救護所二か所。
鉱山救護班一か所。
期間三か月。
使用者は、二時間の基礎訓練と実技試験を受けた者のみ。
対象は。
重傷者への完全治療ではなく。
出血・組織損傷・骨折周辺損傷などの悪化抑制。
専門治療までの補助。
使用後は必ず医師または治癒魔導師へ引き継ぐ。
「つまり」
審査担当官が資料を読みながら言った。
「これは“治療器具”というより“救命補助具”として扱いたい?」
「はい」
エレナが答える。
「名前も変えます?」
「治癒瓶は通称として残ると思います」
「正式名称は?」
「携帯型治癒魔法保存装置・救護仕様」
担当官が少し顔をしかめる。
「相変わらず硬い」
「正式名称なので」
「技師長殿、その言葉好きですね」
「便利なので」
アメリアが横で笑った。
「この子、最近は正式名称と通称を分けることを覚えたのよ」
「通信方式で懲りたので」
「エレナ式?」
「言わないでください」
審査室に少し笑いが起きた。
ただ。
審査そのものは厳しかった。
「誤使用時の最大危険は?」
「強出力を必要のない軽傷へ使った場合の組織過活性です」
「対策」
「普及型の最大出力を、医療型より低く制限します」
「それでは重傷者に不足する場合は?」
「不足する前提です」
担当官が目を上げる。
「不足する?」
「はい」
エレナははっきり言った。
「この装置だけで治そうとしないためです」
アメリアも続ける。
「現場救護で一番怖いのは、『これがあるから専門治療はいらない』と判断されることです」
「なるほど」
「治癒瓶は時間をつなぐものです」
アメリアの声が少しだけ低くなる。
「助かった患者が一人いたからといって、万能だと勘違いしたくありません」
あの少年。
エレナも思い出す。
治癒瓶だけでは助からなかった。
外科処置。
圧迫。
治癒魔導師。
全部があって。
助かった。
「だから」
エレナが続ける。
「強すぎる装置にはしません」
「性能を意図的に制限する?」
「はい」
「技術者として抵抗は?」
問われて。
エレナは少し考えた。
「あります」
正直に答えた。
「本当は、もっと高い性能を出せます」
「でしょうね」
「でも」
十五号改を見る。
「できること全部を入れるのが、良い道具とは限らないと分かってきたので」
審査担当官はしばらくエレナを見た。
それから。
書類へ署名した。
「三か月の次段階試験を承認します」
エレナの表情が明るくなる。
「ありがとうございます」
「ただし、一か月ごとに安全審査」
「はい」
「重篤な副作用一件でも即時停止」
「分かっています」
「それから」
「はい?」
「国家魔導技師長本人が、全部の現場へ視察に行こうとしないように」
エレナが固まった。
アメリアが吹き出す。
「そこまで条件に入れる?」
「必要そうなので」
「私、そんなに信用ありません?」
「技術ではあります」
「では何が」
「働き方です」
反論できなかった。
三週間後。
最初の正式配備日。
エレナは帝都から馬車で一時間ほどの地方治療所を訪れていた。
全部の現場には行かない。
一か所だけ。
そこは約六千人の住民を受け持つ小さな治療所だった。
医師一人。
看護補助員四人。
治癒魔導師は常駐していない。
三日に一度、近隣都市から巡回してくる。
「今までは?」
エレナが尋ねる。
治療所長の女性医師が答えた。
「重傷なら馬車で都市へ送ります」
「何時間?」
「順調なら二時間半。雨の日は三時間以上」
三時間。
長い。
「治癒魔導師がいる日に当たれば?」
「幸運ね」
医師は乾いた笑いを浮かべた。
「いない日なら、私たちは止血して、固定して、祈るだけ」
エレナは何も言えなかった。
医師はすぐ付け加える。
「もちろん、医学的にできることは全部するわ。でも、魔法でしか止められない損傷もある」
「はい」
「だから期待している」
治癒瓶を見る。
「でも期待しすぎないようにもしてる」
「そのほうがいいです」
「開発者が言うのね」
「開発者だからです」
配備数は。
五本。
高価な医療型では。
同じ予算で一本しか置けなかった。
「五本なら」
医師が棚へ並べる。
「同時に事故が起きても少し余裕がある」
「再充填は?」
「二日に一回、地域巡回の治癒魔導師がまとめて」
「二十四時間保存では不足しません?」
「予備日を見て充填計画組むわ。使わなかった分も廃棄じゃなく再充填できるでしょう?」
「はい」
「なら十分」
エレナは少し驚いた。
研究室では。
二十四時間しか保たない。
性能が低い。
そう見えた。
現場では。
二十四時間保てば十分。
必要な仕組みがあれば。
「技術者って」
医師が言った。
「長く保てることをすごく大事にするわよね」
「耳が痛いです」
「でも私たちは」
治癒瓶を一つ持つ。
「明日も同じ場所にいるの。毎日充填できるなら、一週間保つ必要はない」
「はい」
「その代わり、安くして」
「そこ、はっきり言いますね」
「お金ないもの」
二人で笑った。
笑える。
でも。
本当に大事なことだった。
高性能で。
高価で。
買えない。
それでは意味がない。
配備から九日目。
最初の実使用報告が届いた。
街道救護所。
荷馬車の横転事故。
男性一名。
胸部打撲。
肋骨骨折疑い。
肺損傷の可能性。
呼吸状態悪化。
救護員が普及型治癒瓶を中出力で使用。
十二分間。
その後。
都市治療院へ搬送。
専門治療。
生存。
後遺症見込み小。
「効果は?」
エレナがアメリアへ尋ねる。
「治癒瓶だけで治ったわけじゃない」
アメリアは最初にそこを確認する。
「肋骨も肺も、最終的には治癒魔導師が処置した。でも搬送中の悪化は明らかに抑えられた」
「副作用?」
「なし」
「操作ミス?」
「なし」
「使用履歴は?」
「取れてる」
記録。
接触。
中出力。
十一分四十八秒。
残量四十一パーセント。
正常停止。
「……動きましたね」
エレナが小さく言う。
「ええ」
「訓練だけ受けた救護員が」
「あなたもその人を知っている?」
「いいえ」
「それでも使えた」
「はい」
アメリアが笑う。
「それが今回の目的でしょう?」
「はい」
それが。
一番嬉しかった。
自分がいなくても。
治癒魔導師がいなくても。
誰かが。
教えられた通りに。
使える。
ただ。
翌週。
二件目の報告。
今度は失敗だった。
「起動しなかった?」
エレナが聞く。
「正確には」
アメリアが記録を読む。
「救護員が厚い冬用手袋のまま押し当てて、人体魔力接触判定が取れなかった」
エレナは額へ手を当てた。
「試験しましたよね?」
「鉱山用手袋では」
「素材が違う?」
「冬用は内側に断魔繊維が入ってた」
「ああ……」
寒冷地用の高級手袋。
魔力を通しにくい素材。
だから。
安全回路が「人体接触なし」と判断した。
「患者は?」
「別の処置で無事。ただし治癒瓶は使えなかった」
「失敗ですね」
「そうね」
以前なら。
落ち込んだ。
自分を責めた。
今も悔しい。
でも。
「全配備先へ通知します」
エレナはすぐ言った。
「冬用断魔手袋では、接触板部分だけ外す必要あり」
「その場しのぎね」
「はい。恒久対策は」
考える。
「人体魔力判定を直接接触だけにしない」
「できる?」
「近接でも弱い反応は取れます」
「誤作動増えない?」
「そこを調整します」
アメリアがエレナを見る。
「全部回収する?」
「今すぐはしません」
「前のあなたなら回収して徹夜で直してたわね」
「言わないでください」
「だって本当でしょう?」
「……はい」
エレナは苦笑した。
「でも、今の十五号改でも通常手袋なら使えます。冬用断魔手袋だけ対策して、改良型ができたら順次交換します」
「良い判断」
「ありがとうございます」
「珍しく慌てない」
「慌てています」
「見えないわよ」
「中ではかなり」
アメリアが少し笑った。
「それならいいの」
救命具は。
完成しない。
人が使う限り。
新しい使い方。
新しい失敗。
新しい条件。
全部出てくる。
だから。
改良し続ける。
それでいい。
次段階試験開始から一か月。
中間報告会。
使用件数。
二十八件。
うち。
軽度使用十二。
中度使用十。
重傷者への橋渡し六。
重大な副作用。
ゼロ。
操作不能。
二件。
一件は断魔手袋。
一件は表示窓へ泥がつき、残量確認不能。
改善対応。
進行中。
「命を救った件数は?」
行政担当官が聞く。
アメリアが少し考える。
「その聞き方は難しいです」
「なぜ?」
「治癒瓶がなければ死亡した、と断定できる症例は少ないので」
「でも効果は?」
「悪化抑制は確認されています」
「では成果として」
「“二十八人救命”とは書かないでください」
エレナが口を挟んだ。
担当官が驚く。
「広報上は分かりやすいですが」
「正確ではありません」
「しかし」
「六件で、専門治療まで状態維持に寄与した可能性が高い。それで十分だと思います」
エレナは言った。
派手にしなくていい。
本当にやったことだけ。
それを残したい。
「では」
担当官が書き直す。
「“専門治療への橋渡しとして有効性を確認”」
「はい」
「硬い」
アメリアが呟く。
「正式文書ですから」
「またそれ」
少し笑いが起きた。
そして。
その会議の最後。
医療行政部から。
新しい提案が出た。
「三か月の試験終了を待たず」
担当官が資料を開く。
「安全性確認済み地域について、救急標準装備候補として配備準備を始めたい」
エレナが顔を上げる。
「標準装備?」
「はい」
「治療院だけではなく?」
「街道救護所、鉱山、大規模工房、消防救助班」
「まだ試験中ですよ」
「だから“準備”です」
「正式採用ではない?」
「製造体制と訓練制度の整備だけ先に」
合理的だった。
試験終了してから生産準備を始めれば。
さらに数か月遅れる。
「ただし」
担当官は続ける。
「名称をどうするか」
「携帯型治癒魔法保存装置・救護仕様」
「長いです」
「正式名称なので」
「現場名称です」
「あ」
「“治癒瓶”でいいでしょう?」
エレナが少し困る。
「通称としては」
「では正式標準装備名を」
担当官が紙へ書く。
『救護用治癒瓶』
「……それでいいです」
少し負けた気がする。
アメリアが笑う。
「ようやく人間に読める名前になったわね」
「私の名前も読めます」
「読めるけど長いの」
会議後。
研究院へ戻る馬車の中。
エレナは窓の外を眺めていた。
街道。
荷馬車。
小さな治療所。
鉱山へ向かう労働者。
ああいう場所へ。
治癒瓶が置かれる。
自分の研究室ではなく。
棚に。
救護箱に。
馬車に。
誰かが。
必要なときに。
使う。
「嬉しそうですね」
向かいのリナが言った。
「はい」
今日は隠さなかった。
「かなり」
「高性能化したときより?」
「たぶん」
「意外」
「私もです」
長時間保存。
高効率。
性能数字が伸びると。
昔はそれだけで嬉しかった。
今も嬉しい。
でも。
誰かが使える形になる。
そのほうが。
もっと大きい。
「リナさん」
「はい」
「最初、私」
「うん」
「治癒魔法を瓶に保存できたらすごいと思っただけなんです」
「十分すごいですよ」
「でも今は」
少し考える。
「保存できることより、届くことのほうが大事な気がします」
「届く?」
「治癒魔導師がいない場所に」
「ああ」
「必要な人のところへ」
技術は。
作っただけでは。
届かない。
価格。
操作。
制度。
補充。
訓練。
運搬。
全部必要。
「通信も似ていますね」
リナが言う。
「何が?」
「信号を作ることより、必要な人に届く仕組みが大事だったでしょう?」
エレナは少し驚く。
「本当ですね」
「主任、最近そういう発明ばかり」
「どういう?」
「“すごい物”より、“ちゃんと届く物”」
その言葉が。
妙に心へ残った。
研究院へ着くと。
クロムウェルがいた。
「今日は会議でしたね」
「ああ。結果は?」
「救急標準装備候補になりました」
「治癒瓶が?」
「はい」
「それは良い」
エレナは少し笑う。
「思ったより淡白ですね」
「君がもっと喜ぶと思っていた」
「喜んでいます」
「ならよかった」
「ただ」
「何だ」
「昔なら、もっと“私がすごいものを作った”って気持ちだったと思います」
「今は?」
「私がいなくても使えるものになったのが嬉しいです」
クロムウェルは少しだけ目を細める。
「通信と同じだな」
「リナさんにも言われました」
「先を越された」
「何を競っているんです?」
「君の成長に最初に気づく役」
「そんな役ありません」
「作ろうか」
「国家予算で?」
「そこまで言うとは、かなり学習したな」
エレナが笑う。
「陛下のせいです」
「なら責任を取る」
「何の責任ですか」
「今考えている」
「考えてから言ってください」
二人で笑った。
クロムウェルは少しだけ真面目な顔へ戻る。
「標準装備になれば、製造量が増える」
「はい」
「君の研究室だけでは無理だな」
「最初から外部工房へ委託するつもりです」
「品質管理は?」
「認定制度を作ります」
「また制度か」
「作って終わりにしたくないので」
「良いと思う」
以前なら。
全部を自分の手元で作りたかった。
品質が怖いから。
失敗が怖いから。
他人へ任せるのが怖いから。
今は。
違う。
「私がいなくても作れるようにします」
エレナが言う。
「そのほうが遠くまで届くので」
「君自身は?」
「え?」
「君がいなくても回るものが増えている」
「はい」
「寂しくない?」
不意に聞かれて。
エレナは答えに詰まった。
少しだけ。
ある。
自分だけができる。
自分がいないと困る。
それを価値だと思っていた昔の癖。
「……少しは」
正直に言う。
「でも」
クロムウェルを見る。
「私がいなくても回ることと、私がいらないことは違うって、最近分かってきたので」
クロムウェルは何も言わなかった。
ただ。
その表情が。
少し嬉しそうに見えた。
「それに」
エレナは続ける。
「技術が遠くへ行けば、私は次のものを作れます」
「なるほど」
「忙しくなりますけど」
「そこは増やすな」
「増えます」
「断言するな」
また笑う。
翌週。
帝都近郊の三つの地方治療所へ。
追加の治癒瓶が配備された。
箱には。
大きく。
『救護用治癒瓶』
その下に。
『専門治療までの応急補助用』
『使用後は必ず医療機関へ』
と書かれている。
発明者の名前は。
箱の裏側。
製造記録欄に。
共同開発者全員とともに。
小さく。
でも確かに残っていた。
エレナ・ヴァリエ。
アメリア。
中央治療院医療班。
国立魔導研究院精密魔導核研究室。
試験協力者。
現場救護員。
誰か一人の名前ではない。
それでいい。
むしろ。
それがいい。
数日後。
遠い地方救護所から。
短い通信が届いた。
新設された多重符号式魔導通信網を使ったものだった。
『治癒瓶使用』
『患者安定』
『搬送中』
その三つだけ。
名前も。
顔も。
何が起きたか詳しくも分からない。
けれど。
エレナはしばらくその符号記録を見つめた。
自分の作った二つの技術が。
遠い場所で。
別々の人の手によって使われている。
命をつなぐ治癒瓶。
知らせをつなぐ通信網。
どちらも。
もう。
エレナ一人の手の中にはなかった。
そして。
それが。
何よりも嬉しかった。




