第38話 私の名前を外してください
第三中継所で受信された、登録されていない十二回の信号。
それが「誰かからの通信」ではないと分かったのは、翌朝になってからだった。
「反射です」
ノアが寝不足の顔で測定紙を机へ広げた。
精密魔導核研究室の隣に仮設された通信班作業室には、夜通し調べたらしい受信器が三台並んでいる。どれも外装を外され、青晶石と細い導線がむき出しになっていた。
「反射?」
エレナは紙を受け取る。
「はい。第三中継所が送信した確認符号の一部が、周囲の魔力変動で位相をずらされて戻ってきたみたいです。二つの周波数が違う速度で遅れたせいで、こちらの登録表にはない組み合わせになっていました」
「では、外から誰かが送ったわけではない?」
「少なくとも今回の十二回は」
ノアは慎重に答えた。
「送信器を完全停止したあとには出ていません。それと、試験用の信号を意図的に出したら、ほぼ同じ間隔で弱い反射波が返りました」
エレナは記録を追った。
確かに。
偶然にしては整いすぎていた理由も説明できる。
元の信号が人工的に一定だったからだ。
「よかったです」
リナが胸を撫で下ろす。
「昨日、私はもう何か知らない国から秘密通信でも来たのかと思いました」
「私も少し考えました」
エレナが正直に言うと、ノアが苦笑した。
「主任までですか」
「可能性を消せなかったので」
「でも結局、自分たちの信号だったと」
「はい。ただし」
エレナは受信波形を指す。
「こっちのほうが気になります」
「反射が起きたこと?」
「です」
普通なら、長距離通信の途中でこれほど整った反射は起こりにくい。
大気中の魔力密度が急激に変化したことで、信号の伝わり方そのものが変わった可能性がある。
「魔力異常が、通信へ干渉する証拠が一つ増えました」
「嬉しくない成果ですね」
「かなり」
エレナは記録票へ書き込んだ。
『未登録信号――外部発信の証拠なし。既存送信波の異常反射と推定。大気魔力急変との相関を継続観測』
これで終わりではない。
けれど、正体不明の誰かが通信してきたわけではなさそうだと分かっただけでも、今は十分だった。
「それより」
ノアが机の隅に置かれた新聞を指した。
「主任。今日はこちらのほうが厄介じゃないですか」
「新聞?」
「見てません?」
「まだです」
「じゃあ、覚悟してから読んでください」
「どうしてです?」
嫌な予感がした。
エレナは新聞を手に取る。
一面ではない。
けれど、社会面のかなり大きな記事だった。
見出しを読んだ瞬間。
エレナは固まった。
『国家魔導技師長エレナ・ヴァリエ、またも歴史を変える――“エレナ式遠隔通信”北部冷害を救う』
「……何ですか、これ」
「だから覚悟をって」
その下には、先日の早期警報によって北部の農業被害が軽減されたことが書かれている。
通信による警告。
保温結界の事前起動。
水道設備の独立魔石への切り替え。
治療所の備え。
内容そのものは大きく間違っていない。
問題は。
「エレナ式?」
「はい」
「誰が決めたんです?」
「記者じゃないですか?」
「正式名称ではありません」
「でも分かりやすいから」
リナが別の新聞も持ってきた。
「こっちもです」
『若き国家魔導技師長が作った“距離を消す魔導具”』
さらに。
『治癒瓶に続くエレナ・ヴァリエの新発明』
エレナの眉間に皺が寄る。
「治癒瓶も私一人で作ったものではありません」
「記事なので」
「記事でもです」
リナが少し笑いそうになって、すぐ真顔へ戻した。
「かなり嫌そうですね」
「嫌です」
珍しく即答した。
「主任の名前が売れるのは、良いことでは?」
ノアが聞く。
「良くありません」
「どうして?」
「だって」
エレナは新聞を机へ置いた。
「最初に『意味だけ送ればいい』と言ったのはノアさんです」
「いや、あれは雑談みたいな」
「二重周波数識別方式を提案したのも」
「それはそうですけど」
「中継運用を作ったのは通信班です。第五―六番区間の予備切り替えを判断したのも私ではありません」
「でも全体を形にしたのは主任ですよ」
「だからといって全部が私の発明になるわけではありません」
少し強い声になった。
自分でも分かった。
ノアが驚いた顔をする。
エレナは一度息を整えた。
「すみません。怒っているわけではなくて」
「分かります」
ノアは新聞を見た。
「でも、主任の名前のほうが広まりやすいですよ」
「それと、誰が作ったかは別です」
言い切る。
その言葉を口にした瞬間。
昔の工房が頭へ浮かんだ。
ガイウスの名前。
その下に消えた自分の仕事。
商品は売れた。
工房の名も広がった。
だから。
『誰の名前で出ても同じだろう』
そう扱われた。
婚約するのだから。
同じ工房なのだから。
表へ出るのは一人でいい。
技術が売れれば、それでいい。
エレナはそれが、どれほど人を消すか知っている。
だから。
今度は逆の立場になったからといって。
同じことをするわけにはいかなかった。
「正式名称は?」
リナが聞く。
「まだ仮称です」
「そのままでは、皆ずっとエレナ式って呼びますよ」
「それは困ります」
「じゃあ早く決めないと」
エレナは考えた。
遠隔通信。
魔力振動。
二重周波数。
符号。
複数の信号を組み合わせて意味を送る。
「多重符号式魔導通信方式」
ノアが顔をしかめる。
「硬いですね」
「駄目ですか?」
「ものすごく役所っぽいです」
「正式名称なので」
「新聞は絶対エレナ式って書きますよ」
「それでも正式記録が正しければいいです」
そこは譲らなかった。
午前中。
エレナは国家技術局へ出向いた。
通信魔導網の正式登録資料が作成中だと聞いたからだ。
担当官は、エレナが自分から来たことに少し驚いた。
「技師長殿。ちょうど登録名称についてご相談しようと思っていたところです」
「名前を変えてください」
「はい?」
「私の名前を外してください」
担当官が完全に止まった。
「……どこから?」
「技術名です」
「まだ正式決定ではありませんが、『ヴァリエ式遠隔魔導通信』という案を」
「外してください」
即答した。
「しかし」
「お願いします」
エレナは準備してきた紙を差し出す。
「正式名称は『多重符号式魔導通信方式』を提案します」
担当官は紙とエレナを見比べた。
「技師長殿のお名前があったほうが、普及には有利です」
「どうしてです?」
「知名度がありますから」
「それは技術内容とは関係ありません」
「民間導入では、分かりやすい名称も重要ですよ」
「商品名なら、運用する会社が別につければいいと思います」
「ですが国家技術としては、誰が開発したかを象徴する名称があると」
「一人ではありません」
担当官が黙る。
エレナは開発者一覧を出した。
「初期構想整理、私。魔力共鳴基礎回路の調整、研究室共同。『音ではなく意味を送る』という着想、ノア・ベルク。二重周波数識別方式、ノア・ベルク。中継回路の安定化、通信班。北部実証運用は現地中継担当を含む共同です」
「細かいですね」
「細かく書かないと、また消えます」
その一言で。
担当官の顔つきが少し変わった。
エレナの過去を知っているのだろう。
帝国ではもう、彼女がどうしてここまで「名前」にこだわるのか、それなりに知られている。
「……ご自分がされて嫌だったことを?」
「はい」
エレナは静かに答えた。
「今度は私がする側になりたくありません」
担当官は椅子へ深く座り直した。
「ただ、一つ現実的な問題があります」
「何でしょう」
「開発者を全員、技術名へ入れることはできません」
「入れなくていいです」
「では」
「技術名と、開発記録を分けます」
名前をつけるなら、技術そのものを表す。
誰が作ったかは別に、正式記録へ残す。
「それなら百人で作っても困りません」
担当官が少し笑った。
「技師長殿は、ときどき極端に現実的ですね」
「褒めています?」
「今回は」
「今回は?」
「普段は理想を現実へ押し込んでくるので、こちらが大変です」
「すみません」
「謝るところではありません」
担当官は開発者一覧をもう一度見た。
「この形式で正式登録を作り直します。ただ、新聞や民間が俗称として『エレナ式』と呼ぶことまでは止められませんよ」
「それは仕方ありません」
「怒らない?」
「正式記録が正しければ」
少し考える。
「できれば訂正は出しますけど」
「やはり出すんですね」
「はい」
研究院へ戻ると。
ノアが待っていた。
「主任」
「どうしました?」
「技術局から確認が来ました」
「早いですね」
「俺の名前、共同開発者に入ってました」
「入れました」
「……本当に?」
「どうして驚くんです?」
「いや」
ノアは少し困ったように頭を掻いた。
「だって、俺は元々ただの測定担当ですよ」
「今も測定担当でしょう」
「そうですけど」
「その測定担当が考えたんです」
「でも」
「ノアさん」
エレナは作業台の前へ座る。
「私も昔、似たことを思っていました」
ノアが黙る。
「私は工房主じゃないから。表で客と話すのはガイウス様だから。私は細かい部品を作っているだけだから」
そんなふうに。
自分でも自分の仕事を小さく扱っていた。
「でも、誰がどの役職かと、誰が何を考えたかは別です」
「主任」
「思いつきだけなら、確かに発明とは言えないかもしれません。でもあなたは試しました。失敗して、変えて、実際に通信を通した」
そこまでした。
なら。
「名前が残るのは当然です」
ノアはしばらく何も言わなかった。
「……正直に言うと」
「はい」
「嬉しいです」
「ならよかったです」
「でも同時に、怖いです」
「何が?」
「俺の名前が、国家技術の記録に残ること」
エレナはその感覚を知っている。
初めて自分の名前が魔導灯へ刻まれた日。
嬉しかった。
でも。
責任も怖かった。
「失敗したら?」
ノアが言う。
「通信網に問題が出たら、『ノア・ベルクが作った方式は駄目だった』って残るんですよね」
「残ります」
エレナはごまかさなかった。
「そこ否定してくれないんですね」
「だって事実ですから」
「厳しい」
「でも成功も残ります」
「……はい」
「名前があるということは、褒められるときだけ前へ出ることではないと思います」
責任。
失敗。
修正。
それも含めて。
自分の仕事になる。
「ただし」
エレナは続ける。
「一人で背負うという意味でもありません」
「え?」
「二重周波数方式に問題があっても、国家通信網全体の責任がノアさん一人にあるわけではありません。採用審査した人。試験した人。設置した人。運用した人。それぞれが、自分のところを持つ」
「分けるんですね」
「はい」
「責任まで」
「功績だけ分けて、責任だけ一人に集めるのはおかしいでしょう?」
ノアが少し笑った。
「主任、本当にそこ徹底してますね」
「かなり大事なので」
「分かりました」
彼はもう一度、自分の名前が入った仮登録票を見る。
「じゃあ、残してください」
「最初から消すつもりはありません」
「一応、本人の同意も必要かと」
「……それはそうですね」
少し反省する。
「次から先に聞きます」
「はい」
午後。
研究院へ技術新聞の記者が来た。
先ほどの記事を書いた人物とは別だったが、通信魔導網の取材をしたいらしい。
エレナは最初断ろうと思った。
忙しい。
観測異常も続いている。
通信線の改良も必要。
けれど。
今伝えておいたほうがいいことがある。
「十五分だけなら」
会議室に通す。
記者は三十代ほどの女性だった。
名乗ったあと、すぐ質問へ入った。
「まず、北部の冷害を大幅に抑えた“エレナ式遠隔通信”についてですが」
「その名前、正式名称ではありません」
開始十秒で訂正した。
記者が瞬く。
「では、何と?」
「多重符号式魔導通信方式です」
「……少し長いですね」
「はい」
「読者にはエレナ式のほうが」
「記事内で俗称として書くことまでは止めません」
「では」
「ただし、私一人の発明とは書かないでください」
記者の筆が止まる。
「国家魔導技師長殿が中心では?」
「中心にはいました」
「なら」
「中心にいる人だけで技術はできません」
エレナは用意していた開発記録の公開版を渡した。
機密部分を除いたもの。
「この人たちの名前も載せてください」
「全部?」
「紙面に入る範囲で」
「多いですね」
「技術ですから」
記者が少し笑う。
「変わった方ですね」
「最近よく似たことを言われます」
「普通なら、自分の名が技術名につくのは名誉でしょう?」
「名誉だとは思います」
「では、なぜ嫌なんです?」
質問は率直だった。
エレナも率直に答える。
「私の仕事が、昔、別の人の名前で出ていたからです」
記者の表情が変わる。
「王国時代の?」
「はい」
詳細まで語るつもりはない。
もう終わったことだ。
「当時は、名前なんて誰でもいいと言われることがありました。商品が売れて、工房が評価されれば同じだと」
「でも違った?」
「違いました」
エレナは自分の手を見る。
「仕事をした人の名前が消えると、その人がどんなことを考えたのかも、失敗したのかも、改善したのかも、全部一緒に消えていきます」
技術史から。
記録から。
評価から。
「だから今度は、私の名前が大きいからという理由で、他の人を消したくありません」
記者はしばらく何も書かなかった。
やがて。
「それ、そのまま記事にしても?」
「意味が変わらなければ」
「分かりました」
取材の最後。
記者が尋ねた。
「では、国家魔導技師長殿にとって、この通信技術で最も誇らしいことは何です?」
エレナは考えた。
三十キロを五秒。
早期警報。
農作物を守ったこと。
どれも嬉しい。
でも。
「私がいなくても、もう動いていることです」
記者が目を上げた。
「それが?」
「はい」
北部の通信員が送る。
中継担当がつなぐ。
帝都の通信班が読む。
農業部が動く。
治療院が備える。
自分が寝ていても。
別の仕事をしていても。
技術は動く。
「一人の天才がいないと止まる仕組みより、そのほうがずっと強いと思います」
記者の筆が、今度は速く動いた。
翌朝。
新しい技術新聞が研究院へ届いた。
リナが開く。
「主任、見ます?」
「怖いんですけど」
「昨日自分で取材受けたんでしょう」
「どう書かれるかは別です」
渡された新聞を見る。
見出しは。
『“エレナ式”ではない――国家魔導技師長が消した、自分自身の名前』
「……消してはいません」
エレナがすぐ言う。
「見出しなので」
「またですか」
その下。
『多重符号式魔導通信方式――共同開発者たちの名を正式記録へ』
本文には。
ノア。
通信班。
現地中継担当。
研究院。
それぞれの役割が紹介されていた。
「これは」
エレナは少し安心した。
「いいですね」
「主任よりノアさんの写真のほうが大きいですよ」
「写真まで?」
見る。
通信器を持って困ったように立っているノア。
本人は知らなかったのだろう。
明らかに撮影慣れしていない。
「……怒りそうですね」
「もう来ますよ」
ちょうど。
廊下から足音がした。
「主任!」
ノアが新聞を持って入ってくる。
「何ですかこれ!」
「私も今見ました」
「写真まで!」
「いい写真だと思います」
「嘘でしょう!」
研究室に笑いが広がった。
「俺、もっとちゃんとした服にすれば」
「技師らしくていいですよ」
「髪もぼさぼさです!」
「普段どおりですね」
「主任まで!」
怒っているようで。
でも。
耳が少し赤い。
「記事」
エレナが聞く。
「嫌でした?」
ノアは黙った。
しばらく新聞を見る。
自分の名前。
自分の方式。
共同開発者。
そこに。
確かに書いてある。
「……嫌じゃないです」
「ならよかった」
「恥ずかしいですけど」
「慣れます」
「主任も?」
「全然慣れていません」
「説得力ないですよ」
二人で笑った。
その日の午後。
技術局から正式な登録通知が届いた。
『多重符号式魔導通信方式』
代表統括。
エレナ・ヴァリエ。
基礎符号着想・二重周波数識別方式。
ノア・ベルク。
中継制御設計。
通信班共同。
実証運用。
北部観測通信網担当者一同。
名前が並んでいる。
一人ではない。
誰かの下に消えていない。
エレナはその紙を、しばらく眺めた。
昔。
自分の名前が魔導具へ刻まれた日。
嬉しくて。
怖くて。
何度もその文字を指でなぞった。
今は。
自分の名前の横に。
他の人の名前があることが嬉しかった。
そのことに。
少しだけ胸が熱くなる。
「主任」
リナが尋ねる。
「満足です?」
「はい」
「エレナ式って呼ばれるのは?」
「諦めます」
「新聞はもう止まらないでしょうね」
「正式名称だけは使ってください」
「長いから嫌です」
「リナさんまで?」
「通信方式でいいです」
「……それなら」
少し妥協した。
夕方。
研究院を出る準備をしていると、クロムウェルが訪ねてきた。
手には。
例の新聞。
「読みました?」
「読んだ」
「笑いに来ました?」
「なぜ」
「見出しが大げさなので」
「私は良いと思った」
エレナが少し意外に思う。
「陛下は、名前が広まったほうがいいと思いません?」
「君の名声が上がること自体は悪くない」
「でも?」
「他人の仕事まで君の功績にすれば、その名声は君が最も嫌う種類のものになる」
分かっている。
やっぱり。
この人は分かっている。
「はい」
「だから正しい判断だと思う」
「ありがとうございます」
クロムウェルは登録通知を見る。
「ただ」
「何でしょう」
「自分の名前まで消していないな?」
エレナが瞬く。
「消していません」
「ならいい」
「どうして?」
「君は他人の功績を守ろうとして、自分の分まで譲る癖がある」
痛い。
「今回はちゃんと代表統括に入っています」
「確認した」
「信用してください」
「している。だから確認した」
「少し違う気がします」
クロムウェルが笑う。
「エレナ」
「はい」
「誰かの名前を残すことと、君の名前を小さくすることは同じではない」
その言葉に。
エレナはしばらく答えられなかった。
昔。
自分を消された。
だから。
今度は誰かを消したくない。
でも。
そのために自分まで消える必要はない。
「……はい」
エレナは頷いた。
「覚えておきます」
「ならいい」
クロムウェルはそう言ってから、少しだけ表情を柔らかくした。
「私は、君の名前が残ることも嬉しい」
不意打ちだった。
「それは」
「技術者としても」
「はい」
「個人的にも」
エレナの顔が熱くなる。
「……そういう言い方はずるいです」
「何が」
「仕事の話から急に変えるところです」
「最近、恋愛点を稼ぐ方向は少し学んだ」
「その制度は廃止しました」
「そうだったな」
二人で笑った。
名前。
肩書き。
功績。
昔はそれを奪われたことが苦しかった。
今は。
自分の名前を守りながら。
他の人の名前も守れる。
その立場にいる。
エレナは正式登録通知を保管箱へ入れた。
そこには。
自分だけではない名前が並んでいた。
それが。
今日いちばん誇らしい成果だった。




