第36話 国境の向こうでも、魔力が消えています
カルディア王国から届いた観測表を見た瞬間、エレナが最初に疑ったのは、世界の異変ではなかった。
「測定器が違います」
研究院の会議卓へ二枚の記録を並べ、エレナはそう言った。
片方はアルヴァレス帝国北部の観測塔。
もう片方は、カルディア王国北東部にある魔力環境観測所。
どちらも、大気中の魔力濃度が短時間に低下し、その後ゆっくり回復した記録だった。
曲線の形まで不気味なほど似ている。
だからこそ。
エレナはすぐに同じ現象だとは言わなかった。
「そこですか?」
若い測定技師が、少し意外そうに聞く。
「はい」
「でも、ここ」
青年が二枚のグラフを指す。
「落ち方も、戻り方もかなり似ていますよ」
「似ています。でも、カルディア側の測定器がどういう基準で作られているか分かりません」
エレナはカルディア側の記録を指先で軽く押さえた。
「帝国の観測塔では、平常時平均を百として相対値にしています。向こうも同じ表記ですが、平常時平均を取った期間も、基準魔石の種類も、補正方法も書いてありません」
「じゃあ、数字をそのまま比べられない?」
「比べないほうが安全です」
横でオルディスが頷く。
「同じ『十パーセント低下』でも、そもそもの測定基準が違えば意味が変わる」
「はい」
エレナは答える。
「測定器の癖まで違ったら、似ているように見えているだけかもしれません」
それは、昔から何度も見てきたことだった。
同じ青晶石。
同じ規格。
同じ出力。
書類にはそう書いてあるのに、実際に測れば違う。
魔導具は、名前より中身を見る。
それは国が違っても同じだ。
「カルディアへ照会します」
エレナは言った。
「測定器の構造、基準魔石、校正方法、記録間隔。出せる範囲で全部」
外務担当官が少し困った顔をする。
「全部、と言われると相手も警戒しますよ」
「軍事機密ですか?」
「機器そのものは民生用でしょうが、国の環境観測網です。どこまで見せるかは向こうが判断します」
「あ」
エレナは止まった。
「そうでした」
最近、技術として正しければ資料を出せばいい、では済まない場面が増えている。
外交。
機密。
相手国の面子。
技術だけ見ていると忘れそうになる。
「では」
少し考える。
「全部ではなく、比較に必要な項目だけお願いします」
「具体的には?」
「基準値の取り方、測定感度、誤差範囲、校正用の標準魔石の性質。それと記録間隔」
「内部回路図は?」
「なくて大丈夫です」
外務官が少し安心した顔をする。
「その程度なら、技術協力計画の範囲内で求められるでしょう」
第30話で始まった国際魔導技術教育・認定共同計画。
まだ本格稼働前とはいえ、帝国とカルディアの技術部門にはすでに連絡窓口ができている。
エレナは当時、まさかそれがこんなに早く別の意味を持つとは思っていなかった。
「それから」
エレナは続ける。
「こちらの基準器を一つ送れませんか?」
「観測器そのものを?」
「小型の比較校正器です」
若い測定技師が意図を理解した。
「ああ。同じ石を両国で測れば」
「測定器の違いが分かります」
「なるほど」
エレナはすぐ紙へ簡単な仕様を書く。
「帝国とカルディアで、同じ標準魔石を測る。結果がずれれば補正できます」
「その魔石自体が輸送中に変質したら?」
オルディスが聞く。
「予備を三つ用意します」
「全部同じ鉱脈?」
「はい。できれば隣接部位から切り出して、こちらで先に特性を揃えます」
「輸送前後も測る?」
「もちろんです」
リナが端で小さく笑う。
「主任、こういう話になると急に安心した顔になりますね」
「どういう意味です?」
「測れば分かることだからです」
確かに。
国際情勢より、魔石のほうがまだ素直だった。
その日の午後には、カルディア側から最初の返答が来た。
新設した魔導通信網ではまだ国境を越えられない。
そのため、公用の速達便を使っての連絡だ。
時間はかかる。
それでも、以前よりは窓口が整理されているぶん早かった。
『比較に必要な観測規格情報の共有に同意する。ただし、軍用観測施設に関する位置情報・詳細回路は除外する』
当然の条件だった。
翌日には、カルディア側の測定担当技師と帝国側の共同会議が開かれることになった。
直接会うわけではない。
両国国境近くの中継拠点まで双方の技術官が移動し、そこから資料を照合する。
エレナ自身が行く案も出たが、オルディスと補佐官に止められた。
「技師長が毎回現地へ出る必要はありません」
「でも」
「今回は測定規格の比較です。あなたの設計思想は資料にできます」
「……はい」
「少し不満そうですね」
「そんなことは」
「顔に出ています」
最近、本当に顔に出るらしい。
仕方なく、エレナは帝都から指示することになった。
その代わり。
「では、遠隔で意見交換できるようにします」
「通信網を使うんですか?」
若い測定技師が目を輝かせる。
「まだ文章は無理です」
エレナは釘を刺した。
「符号だけでは複雑な議論はできません」
「ですよね」
「でも、資料を事前に送り、決めた確認項目だけなら短い信号でやり取りできます」
たとえば。
一――一致。
二――不一致。
三――再測定。
四――誤差範囲内。
複雑な説明は紙。
即時確認だけ通信。
「馬と通信の併用ですね」
「はい」
新技術は、最初から全部を置き換えなくてもいい。
使えるところから使う。
それも最近、エレナが意識していることだった。
三日後。
最初の比較結果が届いた。
帝国基準器で測った標準魔石。
カルディア側でも測定。
結果。
ずれはあった。
「四・三パーセント」
若い測定技師が言う。
「大きいですか?」
リナが聞く。
「環境観測で長期比較するには無視できません」
エレナが答える。
原因はすぐには分からない。
カルディア側の基準魔石が帝国より少し高感度。
測定器の補正方式も違う。
記録間隔は帝国が三十分、カルディアは一時間。
「なら、最初の観測表はそのまま比較できませんね」
「はい」
「じゃあ、似て見えただけ?」
リナが聞く。
エレナは首を横に振った。
「それもまだ分かりません」
補正する。
帝国式へ完全に合わせる必要はない。
カルディア式を消す必要もない。
ただ、お互いに変換できるようにする。
「カルディア側の数値を補正して、時間軸も三十分単位へ組み直します」
「一時間ごとの記録しかない部分は?」
「推定しません」
エレナは即答した。
「分からないところは分からないまま残します」
「主任らしい」
「またですか」
「だって、空白を埋めたがる人は多いですよ」
「推定値を実測値みたいに扱うほうが怖いです」
実際。
空白のままにしておいたことが、後で重要になることもある。
存在しない精度を作ってはいけない。
再測定。
再校正。
そして。
カルディア側へ渡した帝国基準器を使って、新たな観測を三日間実施した。
帝国側も同時刻に北部・北東部・西北部の観測網を動かす。
結果が揃った朝。
エレナは会議室の中央に置かれた大きな地図を見ながら、しばらく声を出さなかった。
「……主任?」
若い測定技師が呼ぶ。
「はい」
「同じに見えます」
「私もそう見えます」
今度は。
測定規格を合わせている。
同じ基準魔石。
同じ時間間隔。
補正方法も共有。
その上で。
カルディア王国北東部の観測所でも、帝国北部とほぼ同じ形の魔力低下が記録された。
低下開始。
緩やかな下降。
一定時間の底。
その後の回復。
「持続時間、ほぼ同じですね」
「誤差二十分以内」
「最低値も」
「場所によって違いますが、平常比十五から二十一パーセント低下」
エレナは腕を組んだ。
「同じ現象の可能性が高いです」
会議室の空気が重くなる。
「断定は?」
外務官が聞く。
「まだしません」
「まだ?」
「同じ原因で起きているかまでは分からないので」
同じ症状。
同じ形。
だからといって、原因まで同じとは限らない。
「でも」
エレナは地図へ視線を戻す。
「少なくとも、帝国北部だけの局地現象ではありません」
そこは言える。
カルディア王国。
帝国とは山脈も河川も違う。
気候も違う。
しかも今回の観測地点は、帝国北部の異常域からかなり離れている。
「今まで」
若い測定技師が地図上の赤い点を指す。
「東から西へ移動していると思ってましたよね」
「その可能性を見ていました」
「でも、カルディアのこれ」
指が南西へ移る。
「移動で説明するには飛びすぎてません?」
「はい」
帝国北部の異常が、そのまま南西へ走ったのなら。
途中の複数地域でも連続した変化が出るはずだ。
だが今のところ、そうではない。
「別々の場所で起きている?」
リナが聞く。
「その可能性が出ました」
「同時に?」
「完全な同時ではありません。ただ、少なくとも一つの塊が順番に移動しているだけでは説明しにくいです」
オルディスが静かに言う。
「大陸規模で、複数地点に同じ異常が出ている」
誰もすぐ返事をしなかった。
言葉にすると。
急に大きくなる。
エレナは地図を見たまま、考える。
大気魔力はどこから来るのか。
どこへ流れるのか。
帝国の研究でも、完全には分かっていない。
地下の魔力脈。
大気中の循環。
地形。
季節。
魔石鉱脈。
さまざまなものが関係するとされている。
でも。
大陸全体で繋がっているなら。
「魔力の流れを、川みたいに考えたら駄目でしょうか」
エレナが呟く。
「川?」
リナが聞く。
「一本ではなくて」
エレナは地図の上へ指を滑らせる。
「地下にも大気にも流れがあって。どこか一か所が細くなれば、別の場所でも水位が変わるみたいに」
「魔力循環網?」
若い測定技師が言う。
「仮説です」
エレナはすぐ付け加えた。
「まだ何の証拠もありません」
「でも、調べる方向にはなる」
オルディスが言う。
「はい」
まずは。
地図上へ観測点を増やす。
国境を越えて。
カルディアだけでなく。
可能なら他国も。
「問題は」
外務官が口を開く。
「他国へどこまでデータ共有を求めるかです」
「気象と環境魔力だけなら」
「それでも国家基盤の情報です」
「……ですよね」
また。
技術だけでは進まない。
クロムウェルとの会議は、その日の夕方に開かれた。
今回は外務部局。
研究院。
軍。
農業。
水道行政。
各部門の責任者も参加した。
エレナが観測結果を説明し終えると、最初に口を開いたのはバルクだった。
「確認する」
「はい」
「これが悪化した場合、何が止まる」
実務的な質問だった。
エレナは用意していた一覧を見る。
「自然魔力への依存が高い設備から影響します。北部では農業用保温結界が不安定になりました」
「他は」
「一部の都市給水用揚水器。街灯。倉庫の保冷装置。補助暖房。医療設備でも、低価格型は自然魔力を補助源に使っているものがあります」
「軍は?」
ハロルドが答える。
「主要装備は独立魔石式が多い。ただ、基地設備は別だ。結界、照明、補給倉庫は影響を受ける」
バルクの顔が険しくなる。
「食料保管が止まるのはまずい」
「はい」
エレナが頷く。
「なので、重要設備の独立駆動時間を調べています」
「全部を魔石式に変える?」
「それは無理です」
即答する。
「費用も魔石供給も足りません」
「なら優先順位だな」
「はい」
医療。
水。
食料。
通信。
そこから。
クロムウェルは一通り聞いたあと、エレナを見る。
「カルディアとの共有は?」
「最低限の環境観測データなら、続けたいです」
「理由」
「こちらだけ見ていても、大陸規模か判断できません」
「軍事利用の危険は?」
エレナが少し黙る。
そこは自分だけで答える分野ではない。
「あります」
外務官が代わりに答えた。
「観測所の位置や稼働時間が分かれば、国土インフラの推定材料になります」
「なら」
クロムウェルが言う。
「位置を粗くする」
エレナが顔を上げる。
「粗く?」
「正確な観測塔の位置ではなく、地域単位で共有する。時刻も必要な範囲だけ。軍事施設と重なる地点は除外」
外務官が頷く。
「可能です」
「それなら技術的には?」
クロムウェルがエレナへ聞く。
「比較できます」
「ではその形でカルディアへ提案しろ」
「はい」
決まり方が早い。
けれど。
一方的ではない。
技術。
外交。
軍事。
それぞれの線引きをした上で進む。
エレナは最近、この人が皇帝であることを、こういう瞬間に強く感じる。
人を怖がらせる肩書きではなく。
違う分野を一つの方向へ動かす役割として。
「それと」
クロムウェルが続ける。
「他国へも照会する」
「どこまで?」
「友好国から」
「エルグランも?」
外務官が少しだけ身構えた。
エルグラン王国。
以前、ラザールがエレナを強引に引き抜こうとした国。
あの一件があるので、研究院内では微妙な空気になる名前だった。
「私個人の件と、国家間の観測は別です」
エレナが言う。
クロムウェルが少し笑う。
「私もそう考えていた」
「では照会を?」
「ああ」
「技術情報は?」
「必要最低限だ」
「はい」
「君は何か不満そうだな」
「いえ」
「もっと全部出したい?」
図星だった。
「……比較するなら多いほうがいいので」
「研究者としては?」
「はい」
「国家としては?」
エレナは少し考えた。
「出せる範囲で十分です」
「成長した」
「最近それを言われすぎです」
会議室の端で、オルディスが小さく笑った。
数日後。
カルディアとの暫定共有協定が成立した。
正確な観測所位置は非公開。
軍事施設周辺の値は除外。
共有するのは大気魔力濃度、異常開始時刻、最低値、回復までの時間、周辺気象の概略。
それでも十分だった。
そして。
国境を越えた最初の共同監視が始まった夜。
帝国北東部。
カルディア北部。
ほぼ同じ時間帯に。
二つの地点で魔力濃度が落ちた。
完全な同時ではない。
だが。
今度は測定規格が同じ。
誤差も把握している。
「またです」
若い測定技師が言った。
夜の研究院。
臨時観測室には、まだ数人が残っている。
「帝国側、平常比マイナス十三パーセント」
「カルディアは?」
「マイナス十二・五」
「開始差は?」
「十九分」
エレナは記録を取る。
「距離を考えると、単一の現象が地表を移動したと考えるには速すぎます」
「空を?」
「分かりません」
「地下?」
「それも」
分からない。
でも。
分からない範囲が少しずつ狭くなっている。
「主任」
リナが窓の外を見る。
「これ、本当に大きな話になってきましたね」
「はい」
「怖いです?」
エレナは少し考えた。
「怖いです」
素直に言った。
以前なら。
国家魔導技師長なのだから、そんなことを言ってはいけないと思ったかもしれない。
「でも」
エレナは観測表を見る。
「怖いから、ちゃんと測りたいです」
何が起きているか分からないままなのが一番怖い。
なら。
一つずつ。
知っていけばいい。
そのとき。
観測室の扉が開いた。
補佐官が、まだ封も切っていない外務文書を持って入ってくる。
「技師長殿」
「どうしました?」
「エルグラン王国から返答が来ました」
室内が静かになる。
「早いですね」
「向こうも、こちらからの照会を待っていたようです」
エレナが眉を寄せる。
「待っていた?」
「はい」
補佐官が封を切る。
最初の頁を読み。
表情が変わった。
「何て?」
エレナが尋ねる。
「大気観測そのものは、帝国ほど細かく行っていないそうです」
「では」
「ただ」
補佐官は続ける。
「魔石鉱山の魔力井戸で、原因不明の出力低下が複数確認されています」
エレナの手が止まった。
「いつから?」
「帝国で最初の冷害が起きた頃と、ほぼ同時期です」
若い測定技師が息を呑む。
「井戸って、地下ですよね」
「はい」
エレナはゆっくり地図を見る。
帝国。
カルディア。
そしてエルグラン。
大気だけではない。
地下の魔力源にも。
似た異常が出ている可能性。
「観測記録を送ってもらえますか」
「すでに一部同封されています」
紙が渡される。
エレナはすぐに読む。
採掘用魔力井戸。
通常出力から十六パーセント低下。
数時間後に回復。
別地点。
十九パーセント低下。
回復。
「……似ています」
声が少し低くなる。
「大気じゃなくても?」
リナが聞く。
「はい」
エレナは地図へ、新しい印をつけた。
北。
南西。
西。
もう、一つの地域だけの話ではない。
「大陸の魔力が」
若い技師が言いかける。
エレナはすぐ止めなかった。
ただ。
自分からはまだ断定しない。
「可能性として」
エレナは静かに言った。
「大気と地下を含む、もっと大きな魔力循環そのものを調べる必要があります」
その言葉に。
誰も笑わなかった。
窓の外では、いつもの帝都の灯りが静かに並んでいる。
今はまだ。
街は明るい。
水も出る。
治療院も動く。
人々の暮らしは、ほとんど変わっていない。
だからこそ。
エレナは思った。
壊れてから調べるのでは遅い。
目に見えないところで何かが変わり始めているなら。
まだ普通に見える今のうちに。
見つけなければならない。
国境の向こうでも。
魔力は、確かに消え始めていた。




