第34話 ガイウス、資格停止
王立魔導技術協会から届いた最終審査報告書は、速報よりもずっと分厚かった。
エレナは翌朝、研究院の技師長室でそれを開き、最初の数頁を読んだところで小さく息を吐いた。
机の向こうでは補佐官が別件の書類を整理し、窓際では北部から届けられた魔力濃度の観測表が新しい束になっている。今日も本来なら、そちらを先に確認する予定だった。
けれど、この報告だけは人任せにしたくなかった。
『王立魔導技術協会・登録技術帰属及び上級技師資格審査 最終報告』
対象者。
ガイウス。
調査対象となった登録品は十二件。
関連記録。
旧工房帳簿。
王宮納入時の審査資料。
弟子や取引先の証言。
そして、エレナ自身が以前提出した説明書。
それらを照合した結果が、淡々と書かれている。
「……全部取り消し、ではないんですね」
エレナが呟くと、近くにいたリナが手を止めた。
「違うんですか?」
「はい」
むしろ、それでよかった。
十二件のうち、三件は登録内容に重大な問題なし。
二件は記載が不十分だったものの、ガイウス自身の技術的関与が大きい。
残る七件について、発明者・設計者・工程責任者の表示が不正確だったと認定されている。
そのうち四件では、主要魔導核設計者としてエレナの名前が追加される。
二件は王立魔導院所属技師との共同設計へ訂正。
一件は複数の工房員を含めた共同登録へ変更。
「かなり細かく分けたんですね」
リナが言う。
「そのほうが正しいです」
エレナは頁をめくった。
ガイウスが何もしていなかったわけではない。
商品の企画。
顧客から要求を聞き取ること。
売価を決めること。
工房を維持し、人を雇い、期限までに納品すること。
それらは確かにガイウスの仕事だった。
だから、それまで奪う必要はない。
必要なのは、上に一人の名前を残すことではなく、それぞれの仕事をそれぞれの人へ返すことだった。
「処分は?」
「ここです」
エレナは該当頁を見る。
上級魔導技師資格。
一年間の停止。
対象期間中は、上級資格を必要とする王宮・軍・公共設備の主任設計者にはなれない。
ただし、工房営業そのものは禁止されない。
一般民生品の製作や修理も可能。
既登録品については訂正。
過去の利益のうち、技術使用料として扱われた一部を再計算し、関係者へ精算する。
そして資格停止期間終了後、再審査を受けることができる。
「思ったより……」
リナが言いかける。
「軽いですか?」
「逆です。全部剥奪されるのかと思っていました」
「私も、最初はそうなる可能性があると思っていました」
だが報告書の結論は違う。
意図的な虚偽と断定されたもの。
当時の工房慣行による曖昧な登録。
婚約者同士という関係の中で、エレナ自身も異議を申し立てていなかった案件。
それぞれを分けて判断している。
甘いとは思わなかった。
むしろ厳密だった。
『対象者ガイウスは、実質的共同設計者の存在を認識しながら、複数の審査において自己単独の技術成果と受け取られうる説明を行った』
その部分には明確な責任がある。
一方。
『対象者が全技術を自己単独で創出したと積極的に虚偽申告した証拠は、一部案件を除き十分ではない』
だから、全部を詐欺として処理しない。
さらに。
『対象者本人は調査後半より訂正に協力し、技術工程ごとの寄与内容を再申告している』
帝国から帰ったあとに提出した、あの訂正申請だ。
「協力したことも考慮されたんでしょうか」
「処分をなくすほどではないけれど、情状としては見られたみたいです」
「なるほど……」
リナは少し複雑そうだった。
「もっと派手に落ちるのかなって思っていました」
エレナは思わず笑った。
「何ですか、その期待」
「だって、主任をあんなふうに扱った人ですよ」
「それはそうですけど」
「悔しくないんです?」
真正面から聞かれて、エレナは少し考えた。
以前だったら。
ガイウスの名声が落ちたと聞けば、胸の奥が熱くなったかもしれない。
自分を捨てたことを後悔してほしい。
自分の価値を思い知ってほしい。
戻ってこいと泣きついてほしい。
そんな気持ちは、確かにあった。
実際に戻ってこいと言われたときは、想像していたほど気持ちよくなかった。
むしろ疲れた。
「悔しかったです」
エレナは正直に答えた。
「昔は」
「今は?」
「記録が直ることのほうが大事です」
自分の名前。
弟子たちの名前。
王立魔導院の技師たちの名前。
誰が何をしたか。
それが残る。
その事実のほうが、ガイウスを罰することよりも、ずっと大きかった。
「ガイウス様が全部を失っても、私の仕事が正しい名前で残らなければ、意味がないですから」
「主任らしいですね」
「便利に使わないでください、その言葉」
「でも本当にそう思ったので」
エレナは報告書の最後へ進んだ。
そこには、技術協会側の反省も記されていた。
工房主名義に偏りすぎた旧来の登録方式。
補助技師の工程確認不足。
婚約者や家族従業者の労働を、正式な技術貢献として扱う制度の弱さ。
今後は主要工程ごとの担当者記録を義務づける。
大規模登録については、主任以外の技術者からも直接確認する。
まるで。
自分が帝国で始めた失敗記録制度とは別の方向から、王国でも少しずつ仕組みが変わり始めている。
「……これなら」
エレナは小さく言った。
「次の私みたいな人は、少し減るかもしれません」
リナの表情が柔らかくなる。
「そうですね」
しばらくして。
補佐官が別の封筒を差し出した。
「こちらも同封されていました」
「誰からです?」
「テオ氏です」
また。
今度の手紙は前より短かった。
『エレナさんへ。
協会の結果が出ました。
先生の資格は一年止まります。
本人は荒れませんでした。
報告書を最後まで読んでから、「そうか」とだけ言って、午後の修理仕事へ戻りました。
前ならたぶん、協会が悪いとか、誰かのせいだとか言ったと思います。
今は、再審査を受けるつもりみたいです。
資格が止まっている間に、基礎課程の講習も受けると言っています。
俺は少し驚いています。』
エレナの口元が僅かに緩んだ。
『それから。
工房の看板から「王宮御用達・上級魔導技師工房」の文字を自分で外しました。
すごく嫌そうな顔をしていました。
でも外しました。
今はただ「ガイウス魔導具工房」だけです。』
そこを読んで、エレナは少し笑った。
「どうしたんです?」
リナが聞く。
「看板を直したそうです」
「派手な肩書き、外したんですか」
「はい」
「似合わなさそうな顔してそうですね」
「それはちょっと想像できます」
ガイウスは見栄っ張りだった。
名声も好きだった。
王宮御用達という言葉も誇りにしていた。
そこを自分で外すのは、たぶん簡単ではない。
だからといって。
急に聖人になったわけでもないだろう。
テオの手紙にも続きがある。
『ただ、相変わらず短気です。
昨日も調整に失敗して工具を机へ置く音が大きすぎて、俺が「工具に当たらないでください」と言ったら睨まれました。
でも工具は投げませんでした。
少しずつです。』
エレナは今度こそ声を出して笑った。
「何です?」
「変わっていないところもあるみたいです」
「そのほうが人間らしいですね」
「私もそう思います」
そう。
人は一度反省したからといって、別人にはならない。
短気な人はすぐ穏やかにならない。
見栄っ張りな人が、次の日から何も気にしなくなるわけでもない。
それでも。
少しずつ違う選択はできる。
それなら十分なのかもしれない。
手紙の最後には、もう一つ報告があった。
『セシリア様との婚約は正式に解消されたそうです。
喧嘩別れではないと聞いています。
セシリア様は男爵家の商会で、しばらく実務を学ぶらしいです。
先生は何も言いませんでした。
でも、その日はいつもより長く工房に残っていました。』
エレナはそこで手を止めた。
セシリアからの手紙で、そうなる可能性は知っていた。
それでも。
正式に終わったと聞けば、胸のどこかがわずかに締まる。
あの夜。
ガイウスはセシリアを選んだ。
セシリアはガイウスに選ばれた。
自分は捨てられた。
そう思っていた。
でも結局。
誰もあの夜の形のままではいられなかった。
「主任」
リナの声が少し慎重になる。
「大丈夫ですか?」
「はい」
「寂しいです?」
「少しだけ」
もう隠さなかった。
「でも、前みたいな痛さではありません」
エレナは手紙を畳む。
「二人とも、自分で選んだんだと思います」
「そうですか」
「それなら、私が何か言うことではないです」
返事を書くか迷った。
結局。
テオには短く返すことにした。
『報告ありがとう。
協会の結果は、私のところにも届きました。
工房のことは、これから皆さんで決めてください。
技術的な質問なら、これまでどおり正式な範囲で答えます。
ただし、自分たちで測って、考えてから送ってください。
そのほうが身につきます。』
ガイウス本人への言葉は書かなかった。
励ましも。
非難も。
今の彼に必要なのは、自分からの言葉ではない気がした。
午後。
王国側の調査結果を帝国の記録へ反映するため、オルディスと短い打ち合わせをした。
「過去登録の共同技術者として、あなたの名が正式に追記されます」
「はい」
「帝国側の経歴記録にも追加しますか?」
エレナは少し考えた。
「事実として必要なら」
「誇示したくはない?」
「そんなに」
「なぜ?」
「今の仕事があるので」
オルディスが僅かに笑う。
「昔の名誉より?」
「昔の名誉も大事です」
エレナは否定しなかった。
「でも、それを取り戻すことだけが目標になったら、ずっと過去を見続けることになります」
「なるほど」
「記録が直った。それで十分です」
過去は大切だ。
消してはいけない。
でも。
そこへ住み続ける必要もない。
「王国側から、損害精算の手続きについて確認が来ています」
「私の分も?」
「はい。旧登録品の技術使用料の一部があなたへ支払われる見込みです」
エレナの動きが止まった。
「どのくらいです?」
「まだ確定ではありませんが」
提示された概算を見て。
エレナはしばらく黙った。
「……多くないですか?」
「数年分ですから」
「こんなに?」
「あなたが受け取るべきだった分です」
どこかで聞いた言葉だった。
帝国へ来たばかりの頃。
高すぎる給料を見て混乱した自分へ。
似たことを何度も言われた。
「寄付したほうが」
「全部?」
「一部」
「残りは?」
エレナは考える。
「……普通に受け取ります」
オルディスの眉が少し上がった。
「成長しましたね」
「またですか」
「以前なら全部断りそうでした」
「私もそう思います」
「何に使う予定です?」
「まだ決めていません」
そこで。
少しだけ悪戯心が浮かんだ。
「高精度測定器を個人で買うとか」
オルディスが黙る。
「冗談です」
「本当に?」
「たぶん」
「陛下が聞いたら、また恋愛贈答品にされますよ」
「その話、どこまで広がっているんですか?」
「研究院内ではかなり」
「消したい記録があります」
「失敗記録制度を作った本人が何を言っているんです」
返す言葉がなかった。
夕方。
クロムウェルが研究院へ来た。
北部の魔力異常に関する緊急報告を受けるためだった。
仕事の話を終えたあと。
エレナが王国側の最終審査結果について話すと、クロムウェルは静かに聞いていた。
「一年か」
「はい」
「妥当だと思う?」
「私が決めることではありませんけど」
「君の感想として」
エレナは少し考えた。
「妥当だと思います」
「全部失わせたいとは?」
「思いません」
即答できた。
「もう?」
「はい」
クロムウェルがその言葉を待つ。
エレナは自分の中を確かめる。
怒り。
悔しさ。
悲しみ。
昔の恋。
全部消えたわけではない。
思い出せば、まだ胸の奥が少しざらつくことはある。
それでも。
「もう、あの人がどうなろうと私には関係ありません」
言ったあと。
自分で少し驚いた。
冷たい言葉に聞こえる。
けれど。
「……違いますね」
エレナはすぐに言い直した。
「不幸になってほしいという意味ではないです」
「分かっている」
「困っていたら、技術者として助けられることなら助けるかもしれません。でも」
言葉を探す。
「幸せになったか。不幸になったか。誰と結婚したか。工房を立て直したか。それで私の人生が決まることは、もうないです」
クロムウェルはゆっくり頷いた。
「それなら、十分では?」
「はい」
エレナも笑った。
「十分です」
少し前なら。
ガイウスが自分を後悔しているか確かめたかった。
今は。
確かめなくていい。
「セシリア様との婚約も解消されたそうです」
「そうか」
「驚かないんですね」
「以前、君からその方向だと聞いた」
「そうでした」
「気になる?」
「少しだけ。でも、それも私の問題ではありません」
「ならいい」
クロムウェルは立ち上がりかけた。
そこで。
エレナが呼ぶ。
「クロムウェル様」
「何だ」
「今日、精算金の話も来ました」
「過去分の?」
「はい」
「受け取る?」
「受け取ります」
クロムウェルが少し笑った。
「それは良い」
「陛下まで成長扱いですか」
「以前の君なら断っただろう」
「皆さん同じことを言います」
「事実だからな」
「それで」
エレナは少し迷ってから続けた。
「一部、何か自分のために使ってみようと思います」
「研究以外に?」
「……」
「沈黙したな」
「努力します」
「何を買う」
「まだ決めていません」
「測定器以外で」
「先に禁止しないでください」
「予想できた」
エレナは笑った。
ガイウスの資格停止。
セシリアとの婚約解消。
過去技術の訂正。
損害精算。
少し前の自分なら、一つ一つに心を大きく揺らされただろう。
今は。
揺れないわけではない。
ただ、戻る場所がある。
研究室。
仲間。
仕事。
そして。
こうして隣で、自分の返事を急かさず待っている人。
過去の誰かが失うことで、自分の価値を証明しなくてもいい。
そのことを、ようやく本当の意味で信じられるようになっていた。
翌朝。
エレナは王国の最終審査報告書を正式保管箱へ入れた。
表紙に記録番号をつける。
そして棚へ収める。
何度も開く必要は、もうない。
「主任」
若い測定技師が研究室へ飛び込んできた。
「北部の観測結果、追加分が来ました」
エレナはすぐ振り返る。
「どうでした?」
「北部だけではありません」
青年は息を整えながら、大きな地図を机へ広げた。
「昨夜、西北部の二つの観測所でも同じ周期の魔力低下が出ました」
エレナの表情が変わる。
地図には、赤い印が増えていた。
一点ではない。
線のように。
北側から、少しずつ。
「時間は?」
「ほぼ同じです。ただ、東から西へ少しずつずれています」
「ずれ?」
「はい。まるで何かが移動しているみたいに」
エレナは地図へ顔を近づけた。
過去を整理する話は、ここで終わりだった。
その代わり。
これから向き合うものが、地図の上で少しずつ形を持ち始めている。
「全観測所の時刻を並べてください」
エレナは言った。
「距離と時間差も」
「分かりました」
「それと、北部との連絡にどれくらい時間がかかっています?」
「緊急伝令でも半日以上です」
遅い。
畑が凍ったときも。
魔力が落ちたときも。
報告が届くころには、現地の状況が変わっている。
エレナは地図を見たまま、静かに呟いた。
「もっと早く、遠くへ情報を送れないと……」
その一言が。
次の発明の始まりになった。




