第33話 セシリア様から届いた、意外な手紙
北部から帝都へ戻って三日目の朝、エレナの机には二種類のものが積まれていた。
一つは、大気中の魔力濃度低下に関する観測資料。
もう一つは、北部農業試験地から届いた保温結界の改良報告だった。
帝国北部と北東部で確認された魔力低下は、今のところ断続的で、帝都や南部には同じ規模の異常は見つかっていない。ただし北東部では、最初の観測より少し南側の地点でも小さな揺らぎが記録され始めている。
偶然と片づけるには広がりが気になる。
けれど、大陸規模の異常と断定するには資料が足りない。
「自然魔力への依存率一覧、水道設備の分だけ先にまとまりました」
若い測定技師が厚い資料を持ってきた。
「ありがとうございます。医療設備と合わせて、今日中に優先順位だけ決めましょう」
「全部読むんですか?」
「全部は読みません」
青年が少し驚く。
「主任、本当に変わりましたね」
「それ、最近よく言われるんですけれど」
「前なら絶対、自分で最初から最後まで読んでました」
「その結果、倒れたので学習しました」
「説得力があります」
「嬉しくない説得力ですね」
エレナは苦笑しながら資料を受け取った。
北部で結界装置が不安定になった原因ははっきりしている。
周囲の自然魔力を補助的に取り込む設計だったからだ。
普段なら、魔石の消費を減らせる優秀な仕組み。
だが外部魔力そのものが低下した環境では、それが弱点になる。
今後は、重要設備について「自然魔力がなくても一定時間動けるか」という別の基準が必要になるだろう。
考えることは多い。
技師長の仕事も多い。
それでも、今朝のエレナは機嫌が悪くなかった。
北部から戻った翌日は半日休んだ。
クロムウェルも約束どおり午後の政務を減らしたと聞いている。
泥だらけになった服は洗浄へ回し、片方脱げた靴も手入れを頼んだ。
ちなみにクロムウェルの靴は「皇室備品なので交換する」と侍従に言われたらしいが、本人が「使えるなら直せ」と命じたそうだ。
それを聞いたとき、エレナは少しだけ笑ってしまった。
自分の影響だとは思わない。
思わないことにしている。
「主任」
リナが研究室の入口から呼んだ。
「はい?」
「お手紙です」
「技術関係ですか?」
「たぶん違います」
「どうして?」
「香りがします」
エレナの手が止まった。
「香り?」
「はい。研究院宛ての正式文書に花の香りをつける人は、あまりいないと思います」
確かに。
受け取ってみる。
淡い乳白色の封筒。
厚みのある上質な紙。
封蝋には見覚えのない花を模した印。
差出人を見る。
そして。
エレナは数秒、動けなくなった。
「……セシリア様?」
リナの顔が変わった。
「え?」
「セシリア・ローデン様です」
「あの?」
「たぶん、そのセシリア様です」
ガイウスが婚約破棄の席で新たな婚約相手として紹介した、あの華やかな男爵令嬢。
最後にまともに言葉を交わしたのは、あの夜だった。
『ガイウス様には、もっと隣に立つのにふさわしい方が必要だと思いますわ』
そんな趣旨のことを、柔らかく笑いながら言われた。
悪意がなかったとは言えない。
でも今思えば、彼女もまたガイウスが世間でどう見られているかを信じていたのだろう。
有名な若き天才職人。
王宮御用達。
次々と新しい魔導具を生み出す男。
その隣に立つのは、自分のような地味な女ではなく、社交界でも映える女性のほうがふさわしい。
セシリアは本気でそう思っていたように見えた。
「開けます?」
リナが聞く。
「私宛てですから」
「嫌なら後でも」
「大丈夫です」
エレナは封を切った。
中には便箋が四枚。
思ったより長い。
最初の一行から、少し意外だった。
『エレナ様へ。
突然のお手紙を差し上げる無礼をお許しください。
この手紙を読むこと自体がご不快でしたら、どうか途中で捨ててください。お返事も必要ありません。』
エレナは少し目を瞬いた。
以前のセシリアなら、「読んで当然」という書き方をしそうだった。
少なくとも、あの頃の印象では。
続きを読む。
『私は、あなたに謝らなければならないことがあります。
婚約破棄の席で、私はあなたを見下していました。
地味で、人前へ出ることも少なく、ガイウス様の仕事を支えるだけの女性だと思っていました。
そして、そんなあなたより、自分のほうがガイウス様の隣にふさわしいと本気で考えていました。』
リナは少し離れた場所で作業を始めている。
覗かない。
聞かない。
そうしてくれていることがありがたかった。
『言い訳になりますが、私はガイウス様が世間で言われていた通りの方だと信じていました。
若くして工房を大きくし、王宮へ製品を納め、新しい魔導具を次々生み出す天才。
私は、そんな方に選ばれた自分が誇らしかったのだと思います。
今になって考えると、ガイウス様自身だけではなく、“天才職人の婚約者になる自分”という立場にも恋をしていました。』
エレナの指が止まる。
正直だった。
自分で認めるには、かなり苦いことだと思う。
『ですから、あなたの技術が認められ、過去の登録内容が調べ直され、ガイウス様が一人ですべてを作っていたわけではないと知ったとき、私はひどく混乱しました。
最初に考えたのは、“騙された”ということでした。
けれど、本当に騙されたのかと考えると、そう言い切れませんでした。
私は、詳しく聞こうともしなかったからです。
ガイウス様が何を作り、あなたが何を作っているのか。
工房へ何度も行ったのに、私は華やかな完成品と、ガイウス様の評判しか見ていませんでした。』
あの日々を思い出す。
セシリアは何度か工房へ来ていた。
新作を見るため。
ガイウスと食事へ行くため。
飾り用の魔石を調整してほしいと言われたこともある。
エレナが三日かけて調整した石を、セシリアはガイウスから贈られた品として喜んでいた。
彼女は知らなかった。
あるいは、知ろうとしなかった。
その違いは大きいようで、結果だけ見ればあまり変わらなかった。
『だから、私もあなたを見なかった一人です。
そのことを謝ります。
ごめんなさい。』
エレナはそこで、一度手紙を机へ置いた。
「主任?」
リナがこちらを向く。
「大丈夫です」
「無理に読み切らなくても」
「いえ」
エレナは首を横に振る。
「少し驚いただけです」
「謝罪?」
「はい」
「本当に?」
「かなり正直な内容です」
リナは少し考え、それから言った。
「昔の敵からちゃんと謝られると、意外と困りません?」
エレナは思わず笑った。
「分かります?」
「私なら、何て返すか困ります」
「私もです」
憎んでいれば簡単なのかもしれない。
許さない。
それで終われる。
でもエレナは、セシリアを心の底から憎んだことはない。
傷つけられた。
腹も立った。
見下されたことも忘れてはいない。
ただ、今はもう遠い。
ガイウスと同じだ。
昔の自分を傷つけた人だからといって、その人が永遠に同じ人間でいてほしいわけではない。
続きを読む。
『それから、もう一つお知らせがあります。
私は、ガイウス様との婚約を解消する方向で父と話をしています。』
エレナの目が止まった。
「……婚約解消?」
「え?」
今度はリナも反応した。
「本当に?」
「そう書いてあります」
エレナは続きを追う。
『これは、ガイウス様の名声が落ちたから捨てる、という意味ではないつもりです。
けれど、まったく関係ないと言えば嘘になります。
私は、彼が天才と呼ばれていることも、王宮から評価されていることも、好きだったのだと思います。
その部分が崩れたとき、自分の気持ちまで揺れました。
そんな自分を、私はひどく嫌だと思いました。』
エレナは少し胸がざわついた。
セシリアは、自分の嫌な部分まで書いている。
『ガイウス様も今、以前とは違います。
工房で自分から魔導核を作っているそうです。
失敗して、怒って、それでもまた作っています。
私が会いに行ったとき、以前のように自信に満ちた方ではありませんでした。
正直に言えば、それを見て私は戸惑いました。
私は苦しいときの彼を支えたいのか。
それとも、輝いている彼の隣にいたかっただけなのか。
すぐに答えが出ませんでした。』
その悩みは、エレナにも少し分かる気がした。
人を好きになる理由は、きれいなものだけではない。
頼もしさ。
評判。
容姿。
立場。
安心。
尊敬。
憧れ。
全部が混ざる。
その一部がなくなったとき、同じように好きでいられるか。
簡単な問いではない。
『そして、ガイウス様に言われました。
“俺が天才じゃなかったら、お前は俺を好きじゃなかったのか”と。
私はすぐに答えられませんでした。
その瞬間、私たちはお互いに似ていたのかもしれないと思いました。
私は“天才職人の婚約者になれる人”として自分を見ていました。
ガイウス様は、“華やかで自分の隣に立たせやすい婚約者”として私を見ていたのではないか。
もちろん、本当のところは彼にしか分かりません。
私自身も、彼をまったく好きではなかったとは思いません。
楽しかった時間もあります。
だからこそ、このまま結婚してしまうのが怖くなりました。』
エレナはゆっくり息を吐いた。
婚約破棄の夜。
セシリアは勝った側だった。
少なくとも、エレナにはそう見えた。
ガイウスに選ばれ。
自分は捨てられ。
相手は華やかで、自信があって、何も失っていないように見えた。
でも。
人の人生は、あの一場面だけで止まらない。
『だから婚約を一度白紙に戻したいと考えています。
嫌いになったからではありません。
彼が名誉を取り戻したら結婚する、という条件付きにしたいわけでもありません。
一度、肩書きも評判も婚約者という立場も外して、自分がどうしたいのかを考えたいのです。
父には、非常に呆れられました。
当然だと思います。
自分から望んだ婚約なのですから。』
エレナの口元が少し緩んだ。
セシリアの父親の顔は知らない。
でも、娘から急にそんな話をされたら頭を抱えるだろう。
『あなたにこんなことを書くのは、迷惑かもしれません。
ですが、私はあなたに一つだけ伝えたかったのです。
あのとき私は、自分が選ばれた側だから勝ったと思っていました。
今は、誰かに選ばれることと、自分で幸せを選ぶことは別なのだと少しだけ分かりました。
そのことを、あなたを見て知りました。』
そこで、エレナの手が止まった。
自分を見て。
そう書かれている。
『もちろん、だから感謝してくださいと言いたいわけではありません。
むしろ、あなたを傷つけた側の私がこんなことを書くのは身勝手でしょう。
ただ、あなたが帝国で自分の仕事を選び、自分の名前で働き、ガイウス様のもとへ戻らなかったと聞いて、私は初めて考えました。
私は何を選びたいのだろう、と。』
最後の一枚。
『お返事は本当に不要です。
許してほしいとも言いません。
あなたが私を嫌いなままでも、それは当然だと思います。
ただ、私はあのときの自分が間違っていたと、今は思っています。
それだけ伝えたかったのです。
どうか、お元気で。
セシリア・ローデン』
エレナは最後まで読み終え、便箋を丁寧に重ねた。
しばらく何も言わなかった。
「読み終わりました?」
リナが尋ねる。
「はい」
「どうでした?」
「……困りました」
「やっぱり」
「悪い意味ではなく」
エレナは手紙を見る。
「ちゃんと考えて書いてくださったんだと思います」
「許します?」
直球だった。
エレナは少し考える。
「許すって、何でしょう」
「難しく返ってきた」
「だって」
自分でもうまく説明できない。
「あのとき傷ついたことは、なくならないです」
「うん」
「セシリア様が謝ったからって、私があの夜に戻って平気になるわけでもないです」
「そうですね」
「でも、今のセシリア様を昔と同じ人だとも思いたくないです」
それが一番近かった。
「許す、許さないというより」
エレナはゆっくり言葉を探す。
「もう、あの夜だけでセシリア様を決めなくていいのかなって」
リナが少し笑った。
「主任らしいです」
「またそれですか」
「だって、物も人も一回壊れたところだけ見て捨てないでしょう」
「人と魔導具を同じにしないでください」
「でも似ていますよ」
「似ていません」
「少しは」
エレナは反論しようとして、やめた。
似ている部分は、確かにあるのかもしれない。
ただし。
人は修理するものではない。
本人が変わりたいと思わなければ、外から直せない。
セシリアは自分で考え始めている。
なら、そのこと自体は尊重したかった。
「返事、書きます?」
リナが聞く。
エレナは手紙を見た。
『お返事は不要です』
そう書いてある。
だから本当に書かなくてもいい。
でも。
「短くなら」
「書くんですね」
「はい」
便箋を出す。
ただし、すぐには筆が進まなかった。
何を書けばいいのだろう。
『許します』
違う気がする。
上から目線だ。
『気にしていません』
それも嘘だ。
当時は気にした。
傷ついた。
忘れたわけではない。
しばらく考えてから、エレナは書き始めた。
『セシリア様へ。
お手紙をありがとうございました。
最後まで拝読しました。』
そこまで書いて、少し間を置く。
『あの夜に言われたことを、私は忘れていません。
当時はとても傷つきました。
ですから、何も気にしていないとは書けません。』
正直に。
それが一番いい。
『ですが、今のお手紙を読んで、セシリア様が当時のことを考え直してくださったことは伝わりました。
謝ってくださったことも、ありがとうございます。』
次。
婚約解消について。
そこへどこまで口を出すべきか迷う。
結局。
『ガイウス様とのことについて、私から申し上げることはありません。
お二人のことですから、お二人で決めるべきだと思います。』
そこで一度筆を止める。
自分とガイウスのことへ、誰かが勝手に答えを決めるのが嫌だった。
なら。
セシリアにも同じことをしたくない。
『ただ、一つだけ。
誰かに選ばれることと、自分で選ぶことは別だというお言葉には、私も同意します。
セシリア様が、肩書きや周囲の期待ではなく、ご自分で納得できる道を選べることを願っています。』
最後に。
少し迷った。
でも書く。
『私は、セシリア様を今も嫌いなのかと考えてみました。
たぶん、もう違います。
すぐに親しい友人になれるとは思いませんし、過去を忘れることもできません。
でも、これからのセシリア様まで嫌いでいなければならない理由もないと思っています。
どうか、お元気で。
エレナ・ヴァリエ』
読み返す。
少し硬い。
でも、自分らしい。
「できました?」
「はい」
「見せてとは言いません」
「学習しましたね」
「個人的な手紙なので」
エレナは封筒へ入れた。
「届けてもらいます」
「王国まで?」
「技術協会経由で転送をお願いすれば」
「元婚約者の婚約相手と文通する国家魔導技師長」
「変な言い方しないでください」
「だいぶ複雑ですよね」
「自分でもそう思います」
二人で少し笑った。
それから仕事へ戻った。
魔力濃度観測。
北部の保温装置。
治癒魔法保存器の改良。
国際教育計画。
セシリアの手紙を読んだからといって、世界が止まるわけではない。
ただ。
心のどこかに引っかかっていた小さな棘が、一つ抜けたような気はした。
昼過ぎ。
技師長室へ移動したところで、クロムウェルが訪ねてきた。
「忙しいか?」
「少し」
「なら後にする」
「いえ、十分くらいなら」
「十分か」
「短いです?」
「最近、君の時間を取ると研究室から睨まれる」
「誰に?」
「主にリナ」
エレナは笑った。
「何のお話ですか?」
「北部の追加観測だ」
すぐ仕事の話へ入る。
北東部山間地で、昨夜も小規模な魔力低下。
ただし冷害は出ていない。
魔力低下の大きさと気温低下が単純比例しているわけではないらしい。
「やっぱり、原因と結果が逆かもしれません」
エレナは地図へ印をつける。
「魔力が減ったから冷えたんじゃなくて、何か別の現象が両方に影響している」
「可能性は?」
「あります。でもまだ分かりません」
「次は何を調べる」
「時間差です」
「時間差?」
「魔力が下がってから気温が落ちるまで、場所ごとに何分違うか。それから風向きと地形」
クロムウェルが頷く。
「気象部門へ回そう」
「お願いします」
そこで仕事の話が一段落した。
クロムウェルは帰るかと思った。
でも、椅子から立たない。
「どうしました?」
「君のほうが何かあった顔をしている」
エレナは驚いた。
「分かります?」
「少し」
「最近、皆さんに分かりやすいと言われます」
「以前よりな」
「……セシリア様から手紙が来ました」
クロムウェルの表情が僅かに変わった。
「何と?」
「謝罪です」
「そうか」
「それと、ガイウス様との婚約を解消する方向で話しているそうです」
クロムウェルはすぐ評価しなかった。
「君はどう思った」
やっぱり。
まず自分に聞く。
「驚きました」
「それだけ?」
「少し、寂しいような気もします」
「寂しい?」
「変ですよね」
「いや」
クロムウェルは続きを待った。
「私のせいではないって分かっています」
「当然だ」
「でも、あの婚約破棄から始まったことが、全部別の形へ変わっていくんだなって」
ガイウス。
セシリア。
自分。
三人とも。
もうあの夜の場所には戻れない。
「昔は」
エレナは机の端へ指を置いた。
「ガイウス様とセシリア様が結婚して、幸せになったら嫌だと思っていました」
口にすると、少し恥ずかしい。
「当然では?」
「陛下、それでいいんですか」
「婚約を破棄された直後に、相手の幸せを心から祝えというほうが無理がある」
「そうですけど」
「人間だろう」
簡単に言われて、エレナは少し救われた。
「でも今は、二人がどうなるかを見届けたいとも思わないんです」
「それも自然だ」
「なのに婚約解消って聞くと、少しだけ胸が痛む」
「過去が完全に終わる感じがするからか?」
エレナは考えた。
「たぶん」
長年、自分が結婚するはずだった人。
その人が別の女性を選び。
その婚約まで終わる。
なら、あの頃信じていた未来は、本当にどこにも残らない。
でも。
「戻したいとは思いません」
「それでいい」
「はい」
エレナは少し笑った。
「セシリア様、私を見て『自分で選ぶことを考えた』って書いていました」
クロムウェルが少し意外そうにする。
「君を?」
「はい」
「影響を与えたな」
「そんなつもりなかったです」
「影響は、本人が狙って与えるものだけではない」
それもそうかもしれない。
「返事を書きました」
「何と?」
「それは秘密です」
「私にも?」
「個人的なお手紙ですから」
クロムウェルが少しだけ笑う。
「分かった」
「聞かないんですね」
「君が秘密だと言ったからな」
その答えが、やっぱり好きだと思う。
聞きたいと思っても、踏み込まない。
エレナはそのことを、以前よりずっと強く意識するようになっていた。
「クロムウェル様」
自然に名前が出た。
クロムウェルの目が僅かに動く。
エレナ自身も気づいた。
もう「陛下」ではなかった。
二人きりだから。
でも、以前よりずっと自然だった。
「何だ」
「私、前より少し分かってきた気がします」
「何を?」
「誰かを好きになること」
言ってから、急に恥ずかしくなった。
でも、もう取り消さない。
「昔は、その人に必要とされることと、好きでいてもらうことを、かなり混ぜていました」
クロムウェルは黙って聞く。
「仕事をすれば喜んでもらえる。役に立てば置いてもらえる。だから頑張る。それを、愛されていることだと思っていた部分があった気がします」
「今は?」
「一緒にいて、何も作っていない時間が嬉しいです」
焼き菓子の店。
泥だらけになった畑。
馬車の中。
研究とは関係のない会話。
「それって」
エレナは少し笑う。
「たぶん、かなり違いますよね」
「ああ」
クロムウェルの声が柔らかくなる。
「かなり」
「だから」
続けようとして。
エレナは止まった。
まだ。
あと少し。
あと少しだけ、自分の中で確かめたい。
クロムウェルも急かさなかった。
「続きは、言えるときでいい」
それを言われると、余計に好きになる。
困る。
「そういうところです」
「何が?」
「……何でもありません」
「今のは気になるな」
「秘密です」
「またか」
「はい」
エレナは笑った。
その日の夕方。
セシリアへの返書は、王国へ向かう公用便へ預けられた。
届くまで何日かかかる。
返事が返ってくるかは分からない。
返ってこなくてもいい。
エレナはもう、昔の敵と戦い続ける必要を感じていなかった。
セシリアはセシリアの人生を選ぶ。
ガイウスはガイウスの仕事へ向き合う。
自分は。
自分の道を進む。
それぞれが別の方向へ歩き出したのだ。
ただ、夜になって技師長室を出る直前。
補佐官が新しい書類を持って入ってきた。
「技師長殿、王立魔導技術協会から速報です」
エレナが足を止める。
「またですか?」
「はい。過去登録の最終審査が終了したそうです」
差し出された文書の表紙には、ガイウスの名があった。
そして、その下。
『上級魔導技師資格の一定期間停止』
エレナは静かに文書を受け取った。
どうやら。
過去を正しい形へ戻す作業は、ついに最後の段階へ入ったらしい。




