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第32話 皇帝陛下と畑で泥だらけになりました

 北部へ向かう馬車の窓から見える景色は、帝都を離れて二日目の朝から少しずつ変わっていった。


 丘の斜面にはまだ緑が残っている。


 けれど、ところどころ茶色く変色した畑が混じっていた。


 遠目には土が露出しているようにも見えるが、近づけば違う。葉先から白く枯れ込み、茎まで弱っている作物が一面に広がっている。


 季節外れの凍結被害。


 資料の上で「被害面積」として見ていた数字が、窓の外では地平近くまで続いていた。


「……思っていたより広いですね」


 エレナが呟く。


 向かいに座るマティアスも窓の外を見たまま頷いた。


「報告を受けたあとにも被害が増えました。最初の夜だけではありませんから」


「三夜続いたんですよね」


「はい。四夜目は少し持ち直しましたが、北東部では別の地区が冷え込みました」


 エレナの膝には、各地の観測表が束になっている。


 気温。


 地表温度。


 大気中の魔力濃度。


 風向き。


 湿度。


 雲量。


 まだ因果関係は分からない。


 ただ、北部と北東部では、急激な冷え込みの数時間前に大気中の魔力濃度が落ちる傾向が繰り返し記録されていた。


 それが原因なのか。


 別の何かが両方を引き起こしているのか。


 そこはまだ誰にも分からない。


「主任」


 隣に座っていたリナが、エレナの膝の資料を軽く指で叩いた。


「また読んでますよ」


「移動中なので」


「馬車の中で細かい数字を読むと酔います」


「私は大丈夫です」


「前にも似たことを言って倒れましたよね」


「それは過労であって、馬車酔いではありません」


「分類を細かくすれば許されると思わないでください」


 前の座席にいたカミラが、窓の外を見たまま小さく笑った。


「今回は私もリナさん側です」


「カミラさんまで」


「現地へ着く前に具合を悪くされたら、私が陛下へ説明することになりますので」


 その名前が出る。


 エレナは何となく姿勢を直した。


「陛下は別の馬車ですよね」


「はい。州政府の担当官とご一緒です」


「本当に来るとは思いませんでした」


「ご本人が行くとおっしゃったので」


「食料政策上の視察だとは分かっていますけど」


 そこまで言って、エレナは窓へ目を戻した。


 クロムウェルが来た理由は、もちろん自分ではない。


 北部の冷害が長引けば、食料価格だけでなく税収、備蓄、物流、軍の補給まで影響する。皇帝自身が被害地域を視察する理由は十分にある。


 分かっている。


 分かっているのに。


 同行すると聞いたとき、少し嬉しかった。


 そのことは、誰にも言っていない。


「顔が少し嬉しそうですね」


 リナが言った。


「何がです?」


「何でもありません」


「今の言い方、絶対何かありますよね」


「現地に着いたら分かります」


「何が?」


「陛下が本当に泥だらけになるかどうか」


 そちらだった。


 エレナは少し安心し、少しだけ残念に思った。


「靴は替えるとおっしゃっていました」


「皇帝陛下用の農作業靴ってあるんですかね」


「普通の丈夫な靴でいいでしょう」


「普通って難しいですよ。陛下ですから」


 確かに。


 その答えは、昼前に分かった。


 北部セレナ郡の農業試験地へ到着したクロムウェルは、驚くほど普通の革靴を履いていた。


 ただし新品だった。


「新品ですよね」


 エレナは開口一番そう言った。


 馬車から降りたクロムウェルが、自分の足元を見る。


「問題があるか?」


「いえ。ただ、今日一日でかなり汚れると思います」


「そのために用意した」


「やっぱり専用じゃないですか」


「泥の中へ入ると分かっているのに、宮廷用の靴で来るほど愚かではない」


「そこは安心しました」


「君は私を何だと思っている」


「以前、研究設備を恋愛の贈り物にしようとした方です」


 隣にいた州政府の官僚が、聞いてはいけないものを聞いた顔をした。


 クロムウェルが一瞬黙る。


「その話をここでする必要があるか?」


「ありませんでした」


「なら忘れろ」


「難しいです」


 後ろでリナが咳払いに見せかけて笑いを隠した。


 視察先は、被害農家の畑を一部借りて作られた実地試験区画だった。


 研究院での試験とは比べものにならないほど広い。


 薄型保温結界を畑の一部へ張り、昼間に熱を蓄える石材を畝の間へ配置する。


 夜間、地表温度が一定以下へ下がったときだけ結界を起動。


 魔力消費を抑えながら、凍結温度を下回る時間を減らす。


 理屈としては単純だった。


 問題は、実際の畑が研究室ほど素直ではないことだった。


「こちらです」


 マティアスが先導する。


 昨夜の雨で土が柔らかくなっていた。


 畝の間には浅い水たまりもある。


 エレナは裾を持ち上げながら歩く。


 一歩。


 二歩。


 三歩目で靴が深く沈んだ。


「……抜けません」


 エレナが真顔で言う。


 リナが振り返る。


「いきなりですか?」


「思ったより柔らかいです」


「動かないでください」


 カミラが近づこうとする。


 その前に、後ろからクロムウェルが手を差し出した。


「掴まれ」


 エレナはその手と顔を交互に見る。


「陛下も沈みません?」


「君より体重があるから可能性は高い」


「それ、助けになっています?」


「片足は固い場所にある」


「では」


 素直に手を取った。


 引かれる。


 靴が湿った音を立てて抜けた。


 その反動でエレナの身体が前へ傾く。


 クロムウェルが肩を支えた。


「危ない」


「すみません」


「靴は?」


 振り返る。


 泥の中に。


 靴だけが残っていた。


 しばらく誰も喋らなかった。


「……取れました」


 エレナが言う。


「見れば分かる」


 クロムウェルも真顔だった。


 リナが限界だった。


「主任、片足だけ靴下です」


「笑わないでください」


「すみません。でも、あまりにも早くて」


 カミラが泥の中へ手を入れようとする。


「私が取ります」


「待て」


 クロムウェルが止めた。


 近くにあった細い作業棒を借り、泥の中の靴へ差し込む。


 持ち上げる。


 泥水を大量に含んだ靴が現れた。


「ありがとうございます」


「これはもう履けないな」


「洗えば」


「今は、という意味だ」


 試験地の農家が慌てて予備の長靴を持ってきた。


「技師長様、こんなのでよければ」


「助かります」


 かなり大きい。


 でも泥の中を歩くには十分だった。


「靴、帝都へ戻ったら洗います」


 エレナが言う。


「新しいものを用意すればいい」


「もったいないです」


「泥水へ完全に沈んだぞ」


「革は手入れすれば」


 クロムウェルが何とも言えない顔をする。


「君は物を捨てないな」


「直せるなら使います」


「知っている」


 そう答えたクロムウェルの声が、少しだけ柔らかかった。


 視察は、笑い話だけでは終わらなかった。


 実験区画の一部では、昨夜の低温を耐えた苗が確かに残っている。


 無対策区画では葉先が白く変色しているのに対し、蓄熱材と保温結界を併用した区画では被害が明らかに少ない。


「効果はあります」


 マティアスが記録表を示した。


「無対策区画では地表温度が零下二度近くまで落ちました。こちらは最低でも零度付近で踏みとどまっています」


「魔力消費は?」


「直接加熱の六分の一弱」


「研究院より少し良いですね」


「昼間の日射が強かったから、蓄熱材が働いたのでしょう」


 エレナはしゃがみ込んで、畝の間へ置かれた石板へ触れた。


 まだ少し温かい。


「配置、変えました?」


「分かります?」


「研究院ではもう少し間隔が広かったです」


 若い現地技師が答える。


「農家の方から、畝の中央より根元に近いほうがいいと言われまして」


 エレナが顔を上げる。


「どなたが?」


 少し離れて立っていた年配の農夫が、気まずそうに手を上げた。


「俺です」


「どうしてそう思ったんですか?」


「畑やってりゃ、朝どこから霜が残るかくらい見るからな」


「詳しく聞かせてください」


 農夫は一瞬戸惑った。


 相手は国家魔導技師長。


 隣には皇帝までいる。


 緊張して当然だった。


「そんな大したことじゃ」


「大したことかどうか、私では分からないので」


 エレナはその場で土の上へしゃがんだまま続けた。


「教えてください」


 農夫はクロムウェルをちらりと見た。


 皇帝が頷く。


「普段どおり話せ」


「……じゃあ」


 農夫も畝の近くへ屈んだ。


「夜冷えると、まず谷側の低い畑がやられる。畝でも真ん中より、風が抜けない側の葉が白くなりやすい。朝日が当たるのが遅い場所もな」


「風がないほうが?」


「寒い夜はな。風が強けりゃ別だけど、静かな夜ほど冷えることがある」


 マティアスが頷く。


「放射冷却ですね」


「俺は難しい名前は知らん」


「いえ、それで十分です」


 エレナは記録を取る。


「この石板、農作業の邪魔になります?」


「今の置き方なら、収穫のときは邪魔だな」


「やっぱり」


「畝の端へまとめられりゃいい。でも、それで効かなくなるなら困る」


「埋めるのは?」


「浅くなら。深いと耕すとき当たる」


 研究室では出なかった意見だった。


 装置として正しくても。


 農具が通らない。


 収穫できない。


 耕せない。


 それでは使えない。


「ありがとうございます」


「いや」


 農夫は少し居心地悪そうに帽子を触った。


「本当にこんなことでいいのか?」


「こういうことが一番必要です」


 エレナが答える。


「作る側には、実際の畑の邪魔になる場所が分からないので」


 そのやり取りを見ていたクロムウェルが、州政府の担当官へ尋ねた。


「農家からの使用報告は、誰が集めている」


「郡の農業官が」


「技術者へ届くまで何日かかる?」


「通常なら……三日から五日ほど」


「遅いな」


 担当官が緊張する。


「申し訳ありません」


「謝罪を求めているのではない」


 クロムウェルは地図を受け取った。


「試験中だけでも、農業官を通さず現地技師へ直接伝えられる窓口を作れ。技術判断が必要な内容だけ上へ上げればいい」


「承知しました」


 エレナはその会話を横で聞いていた。


 クロムウェルは魔導回路へ口を出さない。


 代わりに。


 情報が届くまでの時間。


 人員。


 予算。


 食料。


 そこを動かす。


 自分とは違う仕事だ。


 でも同じ問題へ向かっている。


 そう感じることが、最近少し嬉しい。


「何だ」


 見ていたことに気づかれた。


「いえ」


「何かある顔だ」


「陛下は技師ではないんだなと思って」


「今さらか?」


「褒めています」


「分かりにくい」


「私もそう思います」


 クロムウェルが小さく笑った。


 午後からは、周辺農家を回った。


 すでに作物を失った畑。


 被害が半分程度で済んだ畑。


 谷沿い。


 丘の上。


 風の抜ける土地。


 水はけの悪い土地。


 同じ低温でも被害の出方が違う。


「ここは比較的残っていますね」


 エレナが葉を確認する。


 農家の女性が答えた。


「丘の上だからかねえ。下の畑はひどいもんさ」


「水分量も違いそうです」


 マティアスが土を握る。


「こちらは乾き気味ですね」


「湿っていると凍りやすい?」


 エレナが尋ねる。


「場合によります。ただ、今回の被害分布を見ると、単純な水分だけでは説明できません」


「やっぱり複数条件ですね」


 調べれば調べるほど、簡単ではなくなる。


 そのこと自体は嫌ではない。


 ただ、時間がない。


 次の冷え込みは今夜にも来る可能性がある。


 夕方前。


 試験区画へ戻ったところで、空の色が変わった。


 雲が薄くなり始めている。


 風も弱い。


 マティアスが空を見上げる。


「嫌な条件ですね」


「放射冷却が強くなりそうですか」


「はい」


 さらに観測担当が走ってくる。


「北側観測塔からです。大気魔力濃度、下がり始めました」


 エレナたちの表情が変わった。


「どのくらい?」


「平常値から七パーセント低下。まだ下降しています」


「気温は?」


「今は平年並みです」


 また。


 魔力が先。


 気温が後。


「今夜来ますね」


 マティアスが低く言う。


「可能性が高いです」


 エレナはすぐに試験区画へ向かった。


「全区画、温度感知石を確認します。保温結界は予定より少し早く待機状態へ」


「主任」


 リナが追う。


「食事は?」


「あとで」


「駄目です」


「今は」


「今だからです」


 エレナが止まった。


 リナの後ろから、クロムウェルの声がする。


「先に食べろ」


「陛下まで」


「夜まで作業するつもりだろう」


「その可能性は」


「なら今食べる」


「でも」


「十五分で何か変わるか?」


 エレナは試験区画を見る。


 感知石の確認は他の技師でもできる。


 待機状態への移行も手順化されている。


 自分がいなければ進まない作業ではない。


「……変わりません」


「なら食べろ」


「はい」


 昔なら抵抗した。


 今は、負けたというより納得できる。


 簡素な野外食だった。


 硬めのパン。


 豆と燻製肉の煮込み。


 温かい茶。


 農業試験地の仮設小屋で、技師や州職員と一緒に食べる。


 クロムウェルも同じものを食べていた。


「本当に同じなんですね」


 エレナが言う。


「何が」


「陛下のお食事です」


「ここで私だけ別の料理を運ばせるほうが面倒だ」


「合理的ですね」


「君に言われたくない」


「私は恋愛以外では合理的でいいと思っています」


「まだ根に持っているのか」


「測定器は長く残りますから」


「便利に使っているくせに」


「ものすごく便利です」


「ならいい」


 近くの技師たちが、会話を聞かないふりをしている。


 エレナは途中で気づいて少し恥ずかしくなった。


「皆さん、聞いていますよ」


「聞かれて困ることは言っていない」


「私は少し困ります」


「では声を落とす」


 本当に少し小さくなった。


 そういうところなのだ。


 強引そうに見えて、こちらが嫌だと言えば調整する。


 エレナは煮込みを一口食べながら、妙に嬉しくなった。


 夜。


 気温が急速に下がり始めた。


 予測どおりだった。


「地表二・八度」


「第一感知石、警戒域です」


「大気魔力、平常比マイナス十一パーセント」


 現地観測所から次々報告が入る。


 保温結界が自動で起動した。


 畑の上に、目にはほとんど見えない薄い魔力膜が広がる。


 淡い光が畝沿いを走り、すぐ消えた。


「魔力消費は?」


「予測範囲です」


「蓄熱材の温度?」


「まだ十分あります」


 順調。


 最初の一時間は。


 問題が起きたのは、夜半前だった。


「第三試験区、出力低下!」


 技師の声が飛ぶ。


 エレナが駆け寄る。


「どこです?」


「北端です。結界が途切れています」


 確かに。


 魔力膜の一部が不安定に揺らいでいる。


「供給核は?」


「正常です!」


「感知石?」


「反応しています」


「回路?」


 制御箱を開く。


 魔力供給は来ている。


 刻印も焼けていない。


 それなのに、結界出力だけが落ちる。


「主任」


 若い現地技師が測定器を持ってきた。


「周囲魔力がさらに下がっています」


「どのくらい?」


「平常比マイナス十八」


 エレナの手が止まった。


「装置側じゃない……?」


 保温結界は、魔石からすべての魔力を賄う設計ではない。


 周囲の自然魔力を少量取り込み、魔石を補助源として使う。


 だから低消費で済んでいた。


 だが。


 外から取り込むはずの魔力そのものが減っている。


「補助取り込みを切ります」


「魔石だけで?」


「はい。消費は増えますけど、このまま途切れるよりいい」


「どのくらい保ちます?」


「今の容量なら……三時間前後」


「夜明けまで足りません」


「予備魔石を追加します」


「でも全区画分は」


 ない。


 実験段階だから。


 広域運用を前提にした量は持ち込んでいない。


 エレナは畑を見る。


 ここだけ守っても。


 今夜冷え込むのは周辺全部だ。


「主任!」


 別方向から声。


「西側区画も出力が落ちています!」


 原因は同じ。


 大気魔力の低下。


「どうします?」


 エレナは唇を噛んだ。


 予定にない。


 研究院でも試していない。


 でも、今ここで考えるしかない。


「蓄熱材を寄せます」


「寄せる?」


「全部の畑を均等に守ろうとしない」


 マティアスが意図を理解する。


「被害を限定するんですね」


「はい」


 エレナは地図を広げた。


「生育の良い区画と種苗用の区画を優先します。収穫量だけじゃなく、次の作付けに必要な種を残したい」


 農家たちが顔を見合わせる。


 一人が尋ねた。


「じゃあ、向こうの畑は捨てるのか」


 痛い質問だった。


 エレナはすぐ答えられなかった。


「……全部は守れません」


 正直に言う。


「今ある魔石と装置では」


 農夫の顔が歪む。


 当然だ。


 向こうの畑も、この人の一年だ。


「ただ」


 エレナは続けた。


「全部を薄く守って全部凍らせるより、残せるところを確実に残したいです」


 農夫はしばらく黙った。


 やがて帽子を強く握る。


「種は残したほうがいい」


「ありがとうございます」


「礼はいらん。来年まで作れなくなったら、もっと困る」


 その声が苦しかった。


 エレナは胸の奥に重いものを抱えながら、指示を出した。


「蓄熱材を種苗区画へ集めます。結界範囲を三分の二へ縮小。魔石は予備を優先投入」


「了解!」


「人手が足りません!」


 そのとき。


「私も運ぶ」


 クロムウェルが言った。


 全員が止まった。


「陛下?」


 エレナまで聞き返す。


「石板を移動するのだろう」


「そうですけど」


「持てない重さではない」


「でも陛下です」


「今それが何の役に立つ」


 正論だった。


「護衛」


 クロムウェルが呼ぶ。


「安全確保に必要な人数を残し、残りは作業を手伝え。ただし指示は技師から受けろ」


「承知しました」


 近衛たちまで畑へ入る。


 州職員も。


 農家も。


 技師も。


 全員で蓄熱石板を運び始めた。


 エレナも一枚持ち上げる。


「主任、それ重いです」


 リナが言う。


「持てます」


「無理しない」


「二人で持ちます」


「それなら」


 二人で端を持つ。


 泥の中を進む。


 足元が滑る。


 暗い。


 風は弱いのに、空気だけがどんどん冷えていく。


「エレナ!」


 突然、クロムウェルの声がした。


 次の瞬間。


 足が横へ滑った。


「わっ」


 石板を放す。


 身体が傾く。


 今度は支えられる前に。


 エレナは泥の中へ膝から落ちた。


 盛大に。


 しばらく動けなかった。


「……」


「主任」


 リナが声を震わせている。


「笑っていいですよ」


「いいんですか?」


「もう自分でも面白いので」


 リナが吹き出した。


 エレナの服の裾から膝まで、完全に泥色になっている。


 クロムウェルが急いで近づいてきた。


「怪我は?」


「ありません」


「手は?」


「ついただけです」


 泥まみれの手を見せる。


 クロムウェルが確認しようと屈んだ、その瞬間。


 彼の足元も滑った。


「陛下」


 エレナが言うより早く。


 クロムウェルは片膝を泥へついた。


 時間が止まった。


 近衛も。


 農家も。


 技師も。


 誰も笑わない。


 笑えない。


 皇帝が泥に膝をついている。


「……陛下」


 エレナが恐る恐る呼ぶ。


「何だ」


「大丈夫ですか?」


「怪我はない」


「靴だけでは済みませんでしたね」


 クロムウェルが自分の泥だらけの膝を見る。


 そして。


 エレナを見る。


 エレナの顔には泥が一筋ついている。


 たぶん。


 自分も相当ひどい。


 どちらからともなく。


 二人で笑った。


 最初は小さく。


 でも、止まらなかった。


「本当に泥だらけになりましたね」


「君が言った通りだ」


「予言したつもりはありません」


「靴を替えるだけでは足りなかった」


「次は服も農作業用ですね」


「次があるのか」


「冷害が続けば」


「それは困る」


「はい」


 笑いながら。


 でも。


 すぐ作業へ戻った。


 夜は待ってくれない。


 結界範囲を縮小。


 蓄熱材を集中。


 予備魔石を接続。


 数時間後。


 地表温度はぎりぎり零度を上回った。


 守れなかった区画では、白い霜が葉へつき始めている。


 それを見るのはつらかった。


 でも。


 種苗用区画。


 生育の良い主力区画。


 そこは残った。


 夜明け。


 東の空が白み始める。


「最低温度、〇・四度」


 観測員が報告する。


「主力区画、凍結回避です」


 歓声は起こらなかった。


 皆、疲れ切っていた。


 ただ。


 農夫の一人が、畝のそばへしゃがみ込む。


 葉へ触れる。


「生きてる」


 その一言だけで十分だった。


 エレナは息を吐いた。


 身体中が冷えている。


 服は泥だらけ。


 髪まで少し汚れている。


「主任」


 リナが疲れた声で言う。


「徹夜しましたね」


 エレナが固まる。


「……しましたね」


「陛下との約束」


「緊急対応だったので」


「言い訳します?」


「少し」


 後ろからクロムウェルが来る。


 彼も同じくらいひどい姿だった。


 皇帝には見えない。


「今回は私も徹夜した」


「では、お互い様ですね」


「そういうことにしておく」


「珍しい」


「ただし今日の午後は休め」


「陛下もですよ」


「分かっている」


「善処ではなく?」


「今日は約束する」


 エレナは少し笑った。


「なら私も」


 二人の足元には泥。


 後ろには辛うじて凍結を免れた畑。


 その先には、白く霜に覆われた区画もある。


 成功した。


 でも全部は守れなかった。


 装置にも欠点が見つかった。


 自然魔力へ依存する設計は、今回の異常環境では危険。


 次は魔石単独でも一定時間動けるようにする必要がある。


 そして。


 何より。


 大気中の魔力濃度低下が、装置の性能へ直接影響した。


「陛下」


「何だ」


「今回の件」


 エレナは霜のついた畑を見る。


「冷害対策だけでは終わらないと思います」


「ああ」


 クロムウェルも分かっていた。


「自然魔力が減っただけで、周辺の魔導具まで不安定になるなら」


「農業だけでは済まないな」


「はい」


 街灯。


 給水設備。


 暖房。


 医療器具。


 交通設備。


 帝国中の魔導具の多くが、多少なりとも周辺魔力を利用している。


 今回のような低下がもっと大きくなれば。


 もっと広がれば。


「帝都へ戻ったら、自然魔力依存率の高い設備を洗い出します」


 エレナが言う。


「優先順位を決めろ」


「まず医療と水道。それから通信……まだ本格的なものはありませんけど、伝令設備。次に食料保管」


「軍用設備も調べさせる」


「お願いします」


 話がもう次の仕事へ向かっている。


 リナが呆れた声を出した。


「お二人とも」


「何です?」


「まず着替えてください」


 エレナとクロムウェルが互いを見る。


 泥。


 泥。


 どちらもひどい。


「そうだな」


「そうですね」


 農家の仮設休憩所で、さすがにクロムウェルと同じ場所で着替えるわけにはいかず、エレナは女性職員用の小部屋を借りた。


 予備の服へ着替え、泥のついた髪を布で拭く。


 鏡代わりの磨いた金属板を見ると、頬にもまだ少し泥が残っていた。


「取れてませんよ」


 リナが濡れ布で拭いてくれる。


「ありがとうございます」


「国家魔導技師長になってから、泥へ転ぶとは思いませんでした」


「私もです」


「しかも皇帝陛下まで」


「あれは私のせいではありません」


「でも主任を助けに来て滑ったんですよね」


 エレナの手が止まる。


「……そうでしたね」


「嬉しそう」


「泥へ転んだことが?」


「違います」


 分かっている。


 分かっているから、エレナは反論しなかった。


「少しだけ」


 認める。


 リナが目を見開く。


「主任が認めた」


「最近は、嬉しいことを嬉しいと言う練習中なので」


「かなり進んでますね」


「そうかもしれません」


 着替え終えて外へ出ると、クロムウェルも服を替えていた。


 さすがに皇帝らしい姿へ戻っている。


 ただし、髪に小さな泥跡が残っていた。


「陛下」


「何だ」


「髪」


「髪?」


 エレナは自分の頭の同じあたりを指す。


「そこに泥が残っています」


 クロムウェルが手で触る。


 違う場所だった。


「もう少し右です」


「ここか?」


「左です」


「どちらだ」


 見ていられなくなった。


 エレナは一歩近づく。


「少し失礼します」


 布を借り。


 クロムウェルの髪へ手を伸ばす。


 泥を拭く。


 触れてから。


 距離が近いことに気づいた。


 クロムウェルも動かない。


 エレナの指先が止まる。


「……取れました」


「そうか」


「はい」


 すぐ離れようとした。


 その前に。


「エレナ」


「はい」


「君もまだついている」


「え?」


 頬。


 今度はクロムウェルが指先で示す。


「どこです?」


「ここだ」


 手袋を外した指が、頬の少し横へ触れた。


 ほんの一瞬。


 泥を拭う。


 それだけ。


 なのに。


 エレナの顔が急に熱くなる。


「取れた」


「……ありがとうございます」


「どうした」


「何でもありません」


「顔が赤い」


「朝日です」


「まだ弱いが」


「では、寝不足です」


「便利な言い訳だな」


「今はそれで納得してください」


「分かった」


 追及しない。


 そこがまた困る。


 エレナは少し離れて、畑のほうを見るふりをした。


 胸が落ち着くまで。


 自分がこの人を好きになり始めていることは、もう分かっている。


 たぶん。


 かなり前から。


 ただ。


 まだ言葉にするには勇気がいる。


 それでも、以前よりは近い。


 自分から会いたいと思う。


 一緒に歩きたいと思う。


 泥だらけになった姿を見て笑える。


 触れられれば嬉しい。


 そんな小さなことが、積み重なっている。


「エレナ」


「はい」


「次に畑へ来るときは、最初から長靴を履け」


 甘いことを考えていたのに。


 言われたのはそれだった。


 エレナは振り返る。


「陛下もです」


「私は転ぶまで脱げなかった」


「転びましたけど」


「君を助けに行ったからだ」


「私のせいにします?」


「事実だ」


「では次は、私が陛下を助けます」


「転ばないようにする」


「そこは助けさせてください」


「なぜだ」


「お互い様にしたいので」


 クロムウェルが少し笑った。


「分かった。必要なら頼む」


 朝日が畑を照らし始める。


 霜の残る場所。


 守れた場所。


 失われたもの。


 残ったもの。


 その全部が、昨日よりはっきり見えた。


 エレナは足元の土を見た。


 泥に汚れる仕事。


 数字どおりにいかない現場。


 農家の知恵。


 技師の工夫。


 皇帝が運んだ石板。


 そのどれもが、研究室の机だけでは得られなかった。


 そして今回、もう一つ分かった。


 この異常は。


 ただ畑を守れば終わる問題ではない。


 自然魔力が揺らぎ始めている。


 それが何を意味するのか。


 まだ誰も知らない。


 けれどエレナは、泥の残る畑の向こうを見ながら思った。


 もし世界の仕組みそのものに異常が起きているのなら。


 今まで作ってきた一つ一つの魔導具ではなく。


 もっと大きなものへ向き合う時が、近づいているのかもしれない。

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