第31話 畑が凍りました
帝国北部から最初の報告が届いたのは、朝の研究会議が始まってすぐだった。
それは魔導具の故障報告でも、新しい技術協力の申請でもない。
『北部三郡において、夜間の急激な気温低下により農作物へ広範な凍結被害。春植え麦、豆類、果樹の一部に深刻な損傷を確認』
読み上げた補佐官の声を聞きながら、エレナは一度だけ窓の外を見た。
帝都は晴れている。
朝の空気にはまだ冷たさが残っているものの、畑が凍るような季節ではない。
「霜ですか?」
エレナが尋ねる。
「通常の遅霜より規模が大きいそうです。農業技術部では、局地的な異常低温と見ています」
「被害は?」
「現時点では確定していません。ただ、三郡すべて合わせると、春作の一割以上に影響する可能性があると」
会議室の空気が変わった。
一割。
数字だけなら、研究設備の誤差とは比べものにならない。
食料価格。
保存食。
軍の備蓄。
都市への供給。
農家の生活。
一つの地域の畑が凍れば、それで終わる話ではない。
「技師長殿」
農業技術部から派遣されていた責任者が資料を差し出した。
五十代ほどの男性で、名はマティアス。
土壌改良と灌漑設備の専門家だった。
「北部州庁から、魔導具で畑を保温できないかという相談が来ています」
「畑全体を?」
「はい」
エレナは資料を受け取り、被害範囲の地図を見る。
広い。
「……無理ですね」
即答すると、マティアスが目を瞬いた。
「ずいぶん早いですね」
「この面積を直接暖めるなら、魔力消費が大きすぎます」
「やはり?」
「家庭用の部屋を暖めるのとは違います。屋外ですから、暖めたそばから熱が逃げます」
エレナは机に置かれた紙を引き寄せた。
簡単な計算を書き始める。
「畑一枚でもこれだけ広い。夜通し地表温度を数度上げるだけで、魔石がいくつ必要になるか……」
「概算で?」
「今すぐ正確には出せません。でも、農作物より燃料代のほうが高くなる可能性があります」
農業技術部の若い技師が苦笑した。
「それでは意味がありませんね」
「はい」
そこで会議が終わるわけではない。
以前のエレナなら、最初に思いついた方法が駄目なら、自分の設計をもっと効率化できないかと考えただろう。
今は少し違う。
「そもそも」
エレナは地図を見ながら言った。
「暖める必要があるんでしょうか」
マティアスが眉を寄せる。
「どういう意味です?」
「畑を暖かくするのが目的ではないですよね」
「凍らせないことです」
「なら、熱を足す以外の方法があるかもしれません」
室内が静かになる。
エレナは農業の専門家ではない。
だから思いつきを正解のように言うつもりはなかった。
「夜に畑が凍るとき、地面の熱はどう逃げるんです?」
マティアスが答える。
「主に放射冷却です。風が弱く、空が晴れている夜ほど地表の熱が逃げやすい」
「地中には熱が残っていますか?」
「表面よりは」
「なら」
エレナは紙へ線を引く。
「外から大量の熱を入れるより、地面から逃げる熱を減らしたほうが少ない魔力で済むかもしれません」
「結界で?」
「まだ分かりません」
そこは慎重に言う。
「普通の防御結界では大きすぎます。でも、地表から一定高さだけ、熱の移動を遅くするような薄い魔力膜を作れれば」
マティアスが紙を覗き込む。
「畑全体を覆う?」
「完全に閉じるのではなく、地表付近だけです」
「作物の呼吸や湿気は?」
「そこが問題です」
「風も止まりすぎると病害が出ます」
「それも」
答えが増えるほど、エレナは少し楽しくなった。
知らない分野だ。
自分だけでは分からない。
だから聞く。
「蓄熱材は使えませんか?」
若い農業技師が口を挟んだ。
「昼間に熱を溜めて、夜に少しずつ放出するような」
エレナが顔を上げる。
「どんな材料があります?」
「農業用では石材や水桶を置く程度ですが、魔導材料としてなら別のものがあるかもしれません」
「それなら、結界だけに魔力を使わずに済みますね」
話が動き始める。
薄い保温結界。
蓄熱材。
地表温度の監視。
最低限の魔力で、凍結する直前だけ作動させる。
温度を上げるのではなく、下がりすぎないようにする。
「主任」
隣にいたリナが小声で言う。
「顔が楽しそうです」
「困っている人がいる話ですよ」
「分かっています。でも、知らない問題を考えるときの顔です」
「そんな顔あります?」
「あります」
エレナは否定しかけて、やめた。
たぶん本当にそうなのだろう。
その日の午後。
農業技術部と合同で、小規模な試験が始まった。
研究院の裏手には、実験用に小さな土壌区画がある。
普段は土壌改良剤や灌漑用魔導具の試験に使われている場所だ。
そこへ四つの区画を作った。
一つ目。
何もしない。
二つ目。
簡易加熱具を置く。
三つ目。
薄い保温結界だけ。
四つ目。
保温結界と蓄熱材の組み合わせ。
「蓄熱材、これですか?」
エレナは黒っぽい石板を持ち上げた。
「火成岩を加工したものです」
マティアスが答える。
「昼間の熱を比較的長く保ちます。ただ、普通に置くだけでは夜明けまで足りません」
「魔力で熱を溜めるのではなく、昼の熱を使うんですね」
「そうです」
「好きです、こういうの」
「何が?」
「魔力を使わなくていいところです」
マティアスが笑った。
「魔導技師が言う台詞とは思えませんな」
「必要ないなら使わないほうがいいです」
エレナは本気だった。
何でも魔導具で解決すればいいわけではない。
むしろ魔力を使わずに済む部分を探したほうが、結果として良い設計になる。
「保温結界の厚みは?」
若い技師が尋ねる。
「まず二十センチ程度で試します」
「低すぎません?」
「高くすると面積が増えて消費魔力も増えます。まずは地表だけ」
「葉は?」
「凍結しやすい作物なら、もう少し高くする必要があるかもしれません」
試験用の小麦苗を並べる。
気温を人工的に下げる冷却装置も設置した。
完全に自然条件と同じではない。
でも、傾向は見られる。
最初の試験。
外気温を徐々に下げる。
無対策区画の地表温度は、すぐに下がった。
加熱具を置いた区画は、予想通り温度を維持する。
ただし魔力消費が激しい。
「この規模でこれですか」
エレナが測定値を見る。
「実際の畑へ広げたら、とても使えません」
「裕福な温室くらいなら別ですが」
「今回の目的ではないですね」
保温結界だけの区画。
思ったより効果がない。
最初の一時間は差がある。
しかし、やがて内部も冷えていく。
「熱を閉じ込めても、元の熱が足りません」
マティアスが言う。
「はい」
エレナは記録する。
失敗。
でも予想できた失敗ではある。
最後。
蓄熱材と保温結界。
こちらは、他より地表温度の低下が遅かった。
「差が出ました」
若い技師が声を上げる。
「まだ凍結温度より上です」
「魔力消費は?」
「加熱具の五分の一以下」
エレナの目が少し明るくなる。
「もっと下げられそうです」
「どうやって?」
「結界を常時張らない」
皆がエレナを見る。
「温度が一定以下になったときだけ作動させます」
「自動制御?」
「はい。地表温度を測る簡単な感知石と連動させます」
「複雑になりませんか?」
「そこは簡単にします」
エレナは紙へ簡単な回路を書く。
「精密測定はいりません。『凍結しそうかどうか』だけ分かればいい。三段階くらいで十分です」
「気温ではなく地表温度?」
「そのほうがいいですよね?」
マティアスへ確認する。
「はい。作物へ直接影響するのは地表と葉面温度です」
「では、そこを基準に」
試作が進む。
夕方までに、最初の小型制御器ができた。
ただ。
問題はそれだけではなかった。
「北部から追加報告です」
補佐官が研究区画へ駆け込んできた。
「また?」
エレナが顔を上げる。
「昨夜に続いて、今夜も急激な低温が予測されています。それと……」
補佐官が言葉を濁す。
「何です?」
「気象観測所が、少し奇妙な数値を出しています」
エレナの手が止まった。
「気温ですか?」
「魔力流です」
周囲の空気が変わる。
「魔力流?」
「北部一帯で、夜間だけ大気中の魔力濃度が通常より大きく下がっているそうです」
マティアスが眉を寄せる。
「それが冷え込みと関係すると?」
「まだ分かりません」
「観測誤差では?」
「複数の観測所で同じ傾向です」
エレナは手袋を外した。
「資料を見せてください」
渡された紙には、時刻ごとの気温と魔力濃度が並んでいる。
確かに。
魔力濃度が落ち始めたあと。
少し遅れて気温が急に下がっている。
「……偶然かもしれません」
エレナはすぐ断定しなかった。
「でも、時間が揃いすぎていますね」
「魔力が減ると気温が下がるなんて聞いたことがあります?」
若い技師が尋ねる。
「私はありません」
マティアスも首を横に振る。
「気象部門へ回します」
エレナは言った。
「それと研究院の魔力環境部門にも」
「技師長案件にしますか?」
補佐官が尋ねる。
エレナは少し迷った。
一地域の冷害。
農業用の保温装置。
それだけなら、農業技術部と研究院で扱える。
でも。
大気中の魔力流が関係しているなら話が違う。
「まだ国家案件とは決めません」
「では?」
「観測だけ広げます」
エレナは地図を広げる。
「北部だけでなく、中部と帝都近郊の魔力濃度も同じ時刻に測ってください」
「比較するんですね」
「はい。異常が北部だけなのか、それとも他でも小さく出ているのか」
補佐官が頷く。
「分かりました」
エレナはもう一度、数値を見る。
少し嫌な感じがした。
まだ理由は分からない。
ただ。
魔導具の故障なら、原因は機械の中にあることが多い。
材料。
回路。
加工。
でも今回は。
壊れているのが、道具ではないかもしれない。
その日の夜。
研究院の一室で、エレナはクロムウェルへ状況を説明していた。
「畑を直接暖める案は?」
「現実的ではありません」
「代案は?」
「地表の熱を逃がしにくくする薄い結界と、蓄熱材を組み合わせます。凍結直前だけ自動で作動させれば、かなり魔力消費を抑えられると思います」
「量産できそうか」
「まだ試験段階です。ただ、構造自体は複雑にしないつもりです」
「費用は?」
「そこが重要です。高級農園だけ助かっても意味がないので」
クロムウェルが頷く。
「農業部門と兵站にも試算させる」
「お願いします」
エレナは次の資料を出した。
「それより、気になるのはこちらです」
クロムウェルが紙を見る。
「大気魔力の低下?」
「はい。冷え込みの直前に落ちています」
「関係は?」
「分かりません」
「分からないか」
「今は」
以前なら、皇帝へ報告するなら何か答えを持っていなければと焦っただろう。
今は違う。
「ただ、複数観測所で同じなので、無視したくありません」
「何が必要だ」
「広域観測です」
「規模は?」
「帝国全土」
クロムウェルの眉が少し動いた。
「大きく出たな」
「私もそう思います」
「理由は?」
「北部だけ見ていても、異常かどうか判断できないからです」
エレナは地図を示す。
「もし帝都でも同じ時刻に小さな変動が出ていれば、地域の問題ではない可能性があります」
「逆に北部だけなら?」
「局地現象として絞れます」
「必要な観測所は?」
「既存の魔力観測塔を使えます。ただ、農業目的ではないので記録間隔が粗い場所があります」
「どのくらい細かく?」
「最低でも一時間ごと。できれば三十分」
クロムウェルが秘書官へ目を向ける。
「手配を」
「承知しました」
決まるのが早い。
エレナは少し驚いた。
「そんなにすぐ?」
「必要なのだろう」
「はい」
「なら測ればいい」
単純だ。
だから助かる。
「ただし」
クロムウェルがエレナを見る。
「君は北部へ行くつもりか?」
エレナの目が僅かに泳いだ。
「……まだ何も言っていません」
「顔に書いてある」
「そんなに分かりやすいですか?」
「最近は」
エレナは少し困った。
「現地を見たいです」
「理由」
「畑の状態も、試験装置の設置条件も、資料だけでは分からないので」
「いつ」
「試作がもう少しまとまったら」
「一人では行くな」
「行きません」
「食事を抜くな」
「抜きません」
「現地で徹夜するな」
「まだ行くとも決まっていませんよね?」
「先に言っておく」
「過保護です」
「知っている」
最近は認めるのが早い。
「それから」
クロムウェルが続ける。
「私も行く可能性がある」
エレナが瞬く。
「陛下も?」
「食料問題なら、技術だけの話ではない」
「でも、皇帝が畑へ?」
「何か問題が?」
「泥だらけになりますよ」
「それは困るな」
「やめます?」
「いや」
クロムウェルは少し笑った。
「靴を替える」
エレナもつられて笑った。
「本当に来るんですね」
「必要ならな」
会議を終え、エレナは研究院へ戻る廊下を歩いた。
窓の外はもう暗い。
帝都の街灯が規則正しく並び、いつもと変わらない夜を照らしている。
けれど。
北では畑が凍っている。
しかも、その前に大気中の魔力が下がっている。
単なる寒波かもしれない。
観測の偶然かもしれない。
それなら、そのほうがいい。
エレナはそう思った。
翌朝。
最初の全土観測結果が届いた。
帝都近郊。
異常なし。
南部。
異常なし。
西部。
ほぼ平常。
北部。
明確な低下。
そして。
北東部の山間観測所でも。
北部ほどではないものの、同じ時刻に小さな落ち込みが記録されていた。
エレナは二つの観測表を並べた。
「……広がっていますね」
補佐官が低い声で言う。
「まだ広がっているとは決められません」
「でも」
「はい」
エレナは認めた。
「調べる必要があります」
畑を凍らせたものが、ただの寒さではない可能性。
その時点ではまだ、誰もその意味を知らなかった。
ただエレナは、魔導具の中ではなく世界そのものへ目を向ける必要が出てきたことだけを、静かに感じ始めていた。




